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2022年12月25日 (日)

2022年主の降誕(日中のミサ)

Christmas22kikuchi

皆様、主の御降誕、おめでとうございます。

今年はクリスマスが日曜になりましたので、大勢の方がミサに与られる可能性がありました。しかし同時に、感染症の状況が完全に落ち着いていない中、まだまだ多少の入堂制限をせざるを得ず、特に信徒ではない方には、クリスマスの機会にミサに与るという事ができなかった方も大勢おられたかと思います。来年こそは、安心してともに集うことができる状況になることを、心から祈りたいと思います。

以下、本日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主の降誕日中ミサの説教原稿です。

主の降誕日中のミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年12月25日

皆さん、主の降誕おめでとうございます。

誕生した幼子は、暗闇に響き渡る希望の声、神の言葉そのものでありました。ヨハネ福音は、神の言葉にどれほどの力があるのかを、「万物は言によってなった。言のうちに命があった」と記すことで明確に示しています。その上で、その命こそが暗闇に輝く光であることを明示します。

言葉は単なる音の羅列ではありません。どんなに科学技術が進んだとしても、機械が発する合成された音の羅列の「ありがとう」と、何か実際に手助けを受けて感謝の思いを込めて人間が発する「ありがとう」には、決定的な違いがあります。その違いを感じ取る能力を、わたしたちは持っているはずです。この二つの大きな違いは、音の羅列の背後に、心があるのか、ないのかの違いです。機械が生み出す「ありがとう」と言う音は、あくまでも音の羅列であり、その背後には、感謝の気持ちはありません。機械が感情を持っていないからです。しかし人間が心の底から発する「ありがとう」には、その人間の心から湧き上がる感謝が込められています。わたしたちはその違いを感じ取ることができます。

教皇ベネディクト16世は。使徒的勧告「主のことば」に、こう記しています。

「キリスト教は『神のことばの宗教』ですが、この神のことばは『書かれた、ものをいわないことばではなく、受肉した生きたみことば』です(7)」。

その上で教皇は、「教会とは、神のことばを聞き、のべ伝える共同体なのです。教会は、自分だけで生きることはできません。教会は福音によって生きています。また、教会は、自らが歩んでいく方向を、福音のうちに、つねに、そして新たに見出します(51)」と記しています。

わたしたちは、文字の羅列や音の羅列としての神のことばではなく、いま生きている、いまわたしたちと共にいる、神の思いが込められたことばと出会うことによって生かされます。そのことばを受け継いで、主の思いを込めて、そのことばを伝えていきます。むなしい音の羅列ではなく、神の思いを込めたことばを語るものでありたいと思います。

しかしながら現代社会は、特にインターネットが当たり前の存在となる中で、重さの全く伴わない、軽いことばが飛び交う時代となりました。時に匿名性の背後に隠れて、他者の真摯な思いを揶揄してみたり、批判してみたりする中で、炎上などと言うことが普通に言われるようになりました。

心のこもらない軽いことばは、しかし、時としてその字面だけで思いの外、強烈な負の力を発揮します。ネット上のやりとりから絶望に追いやられ、自ら、または他者のいのちへの暴力と発展することも珍しくなくなりました。

受肉されわたしたちと共に生きておられる神のことばは、神の愛といつくしみを具体化したことばです。自らが創造されたいのちを、区別することなく、無条件に愛しぬかれる神の愛のことばです。賜物であるいのちを生かすことばです。この現代社会にあって、この神のことばを受け、それを証ししようとするわたしたちは、自分が発することばに責任を持ちたいと思います。神の愛といつくしみを体現するものとして語りたいと思います。排除することばでなく受け入れることばを、いのちを生かすことばを、心の傷を癒やすことばを、絶望を希望に変えることばを、語るものでありたいと思います。

この3年間の新型コロナ感染症の状況が始まる以前から、世界はすでに非寛容さを深めていました。自らの存在を守るため、異質なものを排除しようとする傾向が強まっていました。教皇フランシスコが選出された後に、早い段階で訪れたのは、地中海に浮かぶイタリア領の島ランペデゥーザであったのはご記憶かと思います。そこで教皇は、アフリカから逃れたきた難民の方々と出会い、ミサを捧げられました。

あらためてそのときの教皇の説教のことばに耳を傾けたいと思います。

「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

教皇フランシスコは、自分の安心や繁栄ばかりを考える人間は、突けば消えてしまうシャボン玉の中で、むなしい繁栄におぼれているだけであり、その他者に対する無関心が、多くのいのちを奪っていると指摘し続けてきました。

パンデミックの中で、教皇は「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」こそが、この閉塞した状況を打ち破る唯一の道であると強調されてきました。

しかし残念なことに、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は実現していません。「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。わたしたち人間の限界です。調和を求めるがあまりに、みんなが同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。様々な人がいて当然だからと多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

暴力が支配する世界で、いま、わたしたちの眼前で展開しているのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐であります。教会は、いのちに対する暴力を否定します。教会は、いのちを排除するような行動を否定します。

受肉されわたしたちのうちに来られた神は、すべての人を照らす光です。すべての人の希望の光です。その救いの福音は、すべての人に告げしらされなくてはなりません。

神のこのすべてを包み込む愛といつくしみ、そのあわれみ深いまなざしを、一部の選ばれた人だけが独占することはゆるされません。

「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」の道をたどる教会は、すべてのいのちが等しく大切にされ、尊重され、生かされ、生きる希望と喜びを得ることができるように努めなくてはなりません。そのためにこそ、神は自ら人となり、わたしたちの間にあって、いまもその力ある言葉を響き渡らせているのです。わたしたちがその言葉の響きを押しとどめてはなりません。

「山々を行き巡り、良い知らせを伝えるもの」となりましょう。

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