新年明けましておめでとうございます。
皆様、新年明けましておめでとうございます。
この一年が、祝福に満ちた豊かで希望ある年になりますように、お祈りいたします。
3年間にわたるこの感染症による危機が過ぎ去り、戦争が終結し、賜物であるいのちの尊厳が守られる世界となるように、心から祈ります。
以下、東京教区ニュース新年1月号に掲載した年頭のご挨拶の文章を、こちらにも再掲します。
「希望の光を暗闇に掲げて」
東京教区のみなさん、主の降誕と新年のおよろこびを申し上げます。
主の受肉の神秘を祝う降誕祭は、生命の尊さをわたしたちに教えています。全能の神は小さな幼子の生命として、わたしたちのうちにおいでになりました。両親からの保護を必要とするその小さな生命は、しかし、暗闇に輝く希望の光でありました。暗闇が深ければ深いほど、小さな光であっても輝きを放つことができます。神からわたしたちに与えられた生命は、希望の光として暗闇に輝く光です。
残念なことに、世界はその生命を最優先とすることなく、暴力が支配する様相を呈しています。生命への攻撃は、わたしたちをさらに暗闇へと引きずり込み、希望を奪います。希望を奪われたわたしたちは、さらなる不安に駆られ、そのために利己的な守りの姿勢を強め、暴力に抗うために暴力を肯定する誘惑に駆られています。
この三年におよぶ感染症の状況は、よい方向に向かっているとは言え、わたしたちを取り巻く暗闇を深めました。その暗闇がもたらす不安は、わたしたちの姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデター後の不安定な状況や、ウクライナにおけるロシアの侵攻がもたらす戦争状態によって、さらに深められています。暗闇は世界から希望を奪っています。だからこそ、わたしたちキリスト者は、主ご自身が幼子としてもたらしてくださった生命の希望の光を、暗闇の中で高く掲げる存在でありたいと思います。
教皇様は新年の世界平和の日にあたりメッセージを発表されていますが、そのテーマも、コロナ禍のあとの世界を見据え、ともに連帯しながら新しい平和への道を見いだす歩みを続けることを呼びかけておられます。いまほど、連帯のうちに支え合い、互いに耳を傾けあう姿勢が、教会だけでなく世界にとって必要なときはありません。
この三年間、教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっている皆様に、心から感謝申し上げます。いろいろなお考えがあることは十分承知していますが、多くの人が集まる教会であるからこそ、自分の生命を守るためだけでなく、互いの生命を危険にさらさない隣人愛の行動を選択し続けたいと思います。
一年の初めにあたり、是非とも司祭・修道者の召命についてお考えいただきたいと思います。まだ最終確定ではありませんが、今年の春には二名の神学生が、東京教区司祭として叙階されるべく準備を進めています。この二人のあとには、現時点では神学課程に一名、哲学課程に一名の二人しか、東京教区神学生はおりません。常々皆様にも申しあげていることですが、一人の方が司祭を志したとして、実際に叙階されるまでには、最低でも七年という時間が養成のために必要です。司祭養成は、それほど慎重に行われるものですし、そもそも「召命」と言われるとおりで、神様からの呼びかけであって、人間が生み出すものではありません。実際には呼びかけられている方は大勢おられるのだと思います。ですから究極的に言えば、無理をして神学生を増やすのではなく、神様からの呼びかけを待てばよいのですが、同時に、自分が呼ばれていることに気がつかない人も大勢おられます。識別するためには皆様の祈りが必要です。呼ばれている人が、自分の召命に気がつくように、どうかお祈りください。これは一人司祭ばかりではなく、修道者への召命も同じです。お祈りと、励ましをお願いいたします。
すでに日本の他の教区では普通のことになっていますが、今後は東京教区においても、すべての小教区に必ず司祭がいるという状況を続けていくことは、困難になります。すでに数名の教区司祭には、主任司祭の兼任をお願いしているところですが、今後は引退される司祭も増加することが必然であり、同時に新しい司祭の誕生は限定的ですので、何らかの対応が必要です。司祭の兼任は様々な側面から、司祭自身にとっても、また教会共同体にとっても負担となります。その意味で、現在検討を続けている宣教協力体の見直しを含め、どういった形で既存の教会共同体が協力していくことができるのか、具体的な検討を続けていきたいと考えています。
将来にわたる経済的な負担などを考慮して、教会共同体が自ら他の共同体との合併などを求められる場合は別ですが、基本的には現在の小教区を変更することは考えていません。
2022年の待降節から典礼式文の翻訳が変更となりました。すでに新しい翻訳でのミサに参加されておられると思います。
第二バチカン公会議の教会憲章には、こう記されています。
「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(11)」わたしたちにとってミサは、キリストの贖いのわざとしての犠牲とそれに続く復活を、秘跡の形で再現するものとして、キリストがいまここに現存し、また現存し続けると言う意味でも、最も重要な位置を占めています。
新しい翻訳には賛否両論あろうかと思いますが、異なる言葉への翻訳における様々な困難を乗り越え、普遍教会全体の一致を具体的にあかしするための、大きな一歩であると思います。わたしたちを霊的な絆で結びつけるために最も大切なこの聖体祭儀について、今回の改訂が、学びを深める契機となることを期待しています。
いまわたしたちの国では宗教の存在が問われています。自戒の念を込めて自らの有り様を振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。
そもそも人は、良心に反して行動することを強いられてはなりませんし、共通善の範囲内において、良心に従って行動することを妨げられてはなりません。(カテキズム要約373参照)。
宗教は、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教を生きる者が、いのちを奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、いのちの希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。
わたしたちはどうでしょう。わたしたち教会はすべての人の善に資するために、この社会の現実のただ中で、いのちを生かす希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。対立や排除や暴力の象徴ではなく、一致と連帯と支え合いをあかしする共同体でありたいと思います。
教会のシノドスの歩みは続いています。今年のはじめには各大陸別のシノドスが開催され、アジアシノドスも2月末にタイで開催されます。その後、今年の10月と、来年2024年10月の二会期に渡ってローマでの会議が開かれ、その結果を受けて教会は2025年の聖年を迎えます。聖霊が教会をどこへと導こうとしているのか、共同体の識別の道はこれからも続けられます。東京教区にあっても、今後も小グループによる分かち合いを通じた聖霊の導きへの識別を深め、互いに耳を傾けあい支え合うことが当たり前である教会共同体へと変貌していきたいと思います。
2023年12月4日には、江戸の殉教の400周年を迎えます。高輪教会においては例年通り、江戸の殉教を顕彰する行事が行われますが、それに向けて、教区内でも殉教について学ぶ機運が生まれることを期待しています。
新しい年の初めにあたり、皆様の上に、全能の御父の豊かな祝福がありますように、お祈りいたします。
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