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2023年1月28日 (土)

週刊大司教第111回:年間第四主日

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1月の最後の日曜日、姉妹教区であるケルンでは、「東京デー」が祝われています。通常、日曜日が4回の1月であれば東京におけるケルンデーとケルンにおける東京デーは同じ日に重なるのですが、今年は5回の日曜があるためずれてしまいました。

今年のケルンにおける東京デーには、東京とケルンで支援するミャンマーから、マンダレー教区のマルコ大司教様が招待されており、東京からは担当のレオ神父様(築地教会)が、ケルンへ出掛けております。明日の日曜に、ケルンの方々が東京のために祈ってくださっていることを、どうか心に留めてくださいますように。

なお1月の最終日曜日は、世界こども助け合いの日となっています。こちらのリンクから、担当の教皇庁宣教事業担当者である門間直輝神父様のメッセージをご覧ください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第111回、年間第四主日のメッセージ原稿です。

年間第4主日A
週刊大司教第111回
2023年1月29日

マタイによる福音は、山上の説教の冒頭部分に記されたいわゆる「真福八端」を伝えています。イエスが指摘する幸福の八つの状態、すなわち「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「あわれみ深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」の八つのタイプの幸福は、そうだと納得できるものもあれば、社会の常識から言えば決してそうとも言えない状態もあります。

それと同時に、よく考えてみるとこの八つの真の幸福を体現されているのは、主イエスご自身であることに気がつかさせられます。つまりここに掲げられているのは、イエスが示す生き方に倣いわたしたちも生きることが、神の定めらた幸福の道なのであり、それは人間の常識が考える幸福とは異なっていることを、このイエスのことばが教えています。

「心の貧しさ」ということばは、特に日本語では否定的な意味にも取られがちなので困惑するのですが、聖書のこの箇所が伝えたいのは、霊的な貧しさであると同時に、物質的な執着からも解放されている、私利私欲にとらわれていない状態を示しています。イエスの生きた姿に学ぶならば、人類の救いのための贖いのいけにえとしてご自分をささげられた主ご自身は、まさしく他者のために仕える者となったという意味で、徹底的に「心の貧しさ」を生きた模範です。わたしたちそれぞれは、どのような生き方をしているでしょうか。常に道からそれるわたしたちに、主は御ことばを通じて、すべてを神に委ねる生き方をするように、繰り返し招いてくださいます。

1月の最後の日曜日は「世界こども助け合いの日」と定められています。この日は、子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。まさしくイエスご自身の生きる姿勢に子どもたちが与り、「心の貧しい人」として生きる道を身につけることを目指している日です。そこで、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげることの大切さを学ぶ日なのです。

現在、日本の教会のこの活動の担当責任者は教皇庁宣教事業の日本における責任者、東京教区の門間神父様です。この日の献金は、全世界からローマの福音宣教省に集められ、世界各地の子どもたちのための活動を支援しています。献金も大切ですが、一番大切なのは、私利私欲に生きるのではなく、他者を支えることに真の幸福の道が隠されていることを、子どもたちに伝えることであろうと思います。

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2023年1月22日 (日)

年間第三主日@関口教会

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ケルンデーにあたる本日、関口教会の10時のミサに、ドイツ語共同体の担当司祭であるミルコ神父様や、ミャンマー共同体の方を迎えて、ケルンデーのミサを捧げました。

もちろん今日はそのほかにも、神のことばの主日であり、さらにはキリスト教一致祈祷週間中の主日でもあります。ミサの最後には、御公現の頃に子どもたちが博士の扮装をし各家庭を訪問してイエスの祝福を祈る、その祝福の源である三博士の聖遺物をもっての祝福が、ミルコ神父様の素晴らしい歌と共にいただきました。

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以下、本日の関口教会でのミサの説教原稿です(上の写真はケルンの大聖堂・2018年12月。説教原稿の中、下の写真は、ケルン大聖堂の三博士の聖遺物を治めた箱です)。

年間第3主日A配信ミサ(神のことばの主日)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年1月22日

今年の年間第三主日である1月22日は、教皇フランシスコによって定められた「神のことばの主日」です。教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。

第二バチカン公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。

先日帰天された教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」の冒頭に、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです」と記し、それはまずもって典礼における神の言葉との出会いを通じて始まることを強調されました。なぜなら神の言葉は単に情報を伝える記号ではなく、人格を持った神が何かを成し遂げるために実在するものだからです。

御聖体の秘跡の内に現存される主との出会いはミサの中心をなす神秘ですが、同時にミサの中で朗読される聖書にも、言葉の内に現存される神との出会い、主イエスとの出会いという神秘のために重要な意味があります。わたしたちは、ミサにおいて、あがないの秘跡である御聖体を大切にするように、朗読される神の言葉も大切にしなければなりません。

そう考えると、ミサの時の聖書朗読の奉仕も、単に役目を果たしているだけでなく、現存される神の言葉を語る者としての役割の重要性が理解されると思います。主の呼びかけに応えて、それぞれの役割を果たしていただければと思います。

教皇フランシスコは「アペルイット・イリス」に、「聖書なしには、イエスの宣教の出来事、そしてこの世界におけるイエスの教会の宣教の出来事は理解できません」と記し、さらに、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘し、わたしたちが聖書を通じて神の言葉に触れることの信仰における重要性を改めて強調されています。わたしたちは聖書を通じて神の言葉に触れ、その神の言葉を通じて現存される主と出会い、その言葉を通じていのちを生かされ、あらためて自らはその言葉を告げるものとなります。

同時に教皇様は、この時期に神の言葉の主日を定めることには,キリスト教一致というエキュメニカルな意味があることも指摘して、「聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示す」と記しています。

神のみ言葉との出会いにあらためて心を向けるこの主日は、1月18日からパウロの回心の記念日である1月25日までと定められているキリスト教一致祈祷週間と重なっています。

今年のキリスト教一致祈祷週間は、そのテーマを「善を行い、正義を追い求めなさい」というイザヤ書のことばかが採用され、一人ひとりのいのちの尊厳が守られる社会の確立のために、神の正義と平和を確立する道をともに見いだすことを呼びかけています。

第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、「主キリストが設立した教会は単一・唯一のものである」と宣言します。しかし現状はそうではないことを指摘しながら、同教令は、「このような分裂は真に明らかにキリストの意思に反し、また世にとってはつまずきであり、すべての造られたものに福音を宣べ伝えるというもっとも聖なる大義にとっては妨げとなっている(1)」と厳しく指摘しています。その上で、真摯な対話を通じて互いの心の回心にいたり、祈りの内に一致し、信仰の宣言の上でも社会での愛の証しにおいても協力する道を模索するように呼びかけています。

マタイによる福音は、イエスの公生活の始まりを描写しています。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」と伝えるイエスの活動は、それを支え、ともに歩む弟子たちを召し出すことから始まりました。ガリラヤ湖畔でイエスは漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけます。さらにはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられます。二人ずつ四人を召し出すこの物語は、イエスの福音宣教の業が、常に共同体の業として遂行されることを象徴しています。

いまもなおイエスは「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と多くの人に声をかけ続けておられます。ただ、司祭になることだけが、この呼びかけに応える道ではありません。教会には先ほどの御言葉の朗読者や聖歌隊や侍者やカテキスタなど、信徒の方にも果たしていただける福音宣教の業が多くあります。またそれぞれの人生の歩みの中で出会う人たちに、直接ではなくとも、ご自分の言葉と行いを通じて,福音的な生き方を証しする道は多くあります。キリストの福音にしたがって生きようとすることは、ひとり自分自身の聖化のためだけではなく、福音を証しするためであることを心にとめておきたいと思います。わたしたちは、御聖体を通じて現存する主と出会い、また御言葉を通じて語りかける主と出会います。ガリラヤ湖畔においてそうであったように。共におられ語りかけられる主は、私たち共同体に、「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と今日も呼びかけられます。その呼びかけは、私たち一人一人に、行動を求めています。

その具体的な行動の一つとして、東京教区では本日、ケルンデーを祝っています。

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東京教区にとって、ケルン教区との繋がりには歴史的な意味があり、また物質的な援助の関係にとどまらず、互いの霊的な成長のためにも重要な姉妹関係をなっています。その姉妹関係は,互いの教会に、具体的に主の言葉を生きるようにと行動を促しています。

1954年、ケルン大司教区のフリングス枢機卿様は、戦後の霊的な復興を念頭に教区内の信徒に大きな犠牲をささげることを求め、その精神の具体的な行動として東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助を始められました。

自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする福音に基づく行動は、多くの人の心を動かし、東京にあっても白柳枢機卿様の時代、1979年の友好25周年を契機として、ケルンと東京の両教区によるミャンマーの教会支援へと発展していきました。それ以来、わたしたちは毎年の「ケルン・デー」に、いただいたいつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身をささげることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげています。

わたしたちも、余裕があるからではなくて、苦しいからこそ、積極的に他者と連帯し支えるものであり続けたいと思います。またその行動を通じて、私たちと共におられる神の言葉を具体的にあかしするものであり続けたいと思います。

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2023年1月21日 (土)

週刊大司教第110回:年間第三主日A

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年間第三主日です。メッセージでも触れていますが、神のことばの主日であり、また東京教区にとってはケルンデーでもあります。さらに1月18日から25日までは、キリスト教一致祈祷週間にもなっています。

それぞれ背景には様々な歴史の積み重ねがある特別な日です。心に留めていただければと思います。特にケルンデーにあたっては、ケルン教区のこれまでの支援に感謝し、ケルンにおける司祭・修道者の召命のために祈りをささげることにしております。どうか主日のミサの中で、ケルン教区の皆さんのためにお祈りください。さらには、この姉妹関係を通じて、今度はミャンマーの教会への支援に繋がりました。ケルンデーには、同時にミャンマーの教会のためにもお祈りください。

またキリスト教一致祈祷週間の東京における合同の祈祷集会は、今年も感染症対策のためオンライン配信となりました。わたしは説教を担当させていただいております。こちらは、このリンクで合同祈祷会の模様をご覧いただけます。

以下、本日午後6時配信の、週間大司教第110回のメッセージ原稿です。

年間第3主日A(神のことばの主日)
週刊大司教第110回
2023年1月22日

今年の年間第三主日である1月22日は、教皇フランシスコによって定められた「神のことばの主日」です。加えて教会は、1月18日から,パウロの回心の記念日である1月25日まで、キリスト教諸教派とともに,キリスト教一致祈祷週間と定めています。

今年のキリスト教一致祈祷週間は、そのテーマを「善を行い、正義を追い求めなさい」というイザヤ書のことばかが採用され、一人ひとりのいのちの尊厳が守られる社会の確立のために、神の正義と平和を確立する道をともに見いだすことを呼びかけています。

第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、「主キリストが設立した教会は単一・唯一のものである」と宣言します。しかし現状はそうではないことを指摘しながら、同教令は、「このような分裂は真に明らかにキリストの意思に反し、また世にとってはつまずきであり、すべての造られたものに福音を宣べ伝えるというもっとも聖なる大義にとっては妨げとなている(1)」と厳しく指摘しています。その上で、真摯な対話を通じて互いの心の回心にいたり、祈りの内に一致し、信仰の宣言の上でも社会での愛の証しにおいても協力する道を模索するように呼びかけています。

マタイによる福音は、イエスの公生活の始まりを描写しています。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」と伝えるイエスの活動は、それを支え、ともに歩む弟子たちを召し出すことから始まりました。ガリラヤ湖畔でイエスは漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけます。さらにはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられます。二人ずつ四人を召し出すこの物語は、イエスの福音宣教の業が、常に共同体の業として遂行されることを象徴しています。いまもなおイエスは「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」を多くの人に声をかけ続けておられます。ただ、司祭になることだけが、この呼びかけに応える道ではありません。教会にはカテキスタなど、信徒の方にも果たしていただける福音宣教の業が多くあります。

第二バチカン公会議の啓示憲章には、こう記されています。

「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)。

そう考えると、ミサの時の聖書朗読の奉仕も、単に役目を果たしているだけでなく、現存される神のことばを語る者としての重要性が理解されると思います。主の呼びかけに応えて、それぞれの役割を果たしていきましょう。

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2023年1月14日 (土)

週刊大司教第109回:年間第二主日A

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降誕祭も終わり、次は灰の水曜日から始まる四旬節までのつかの間、「年間」と呼ばれる時期が始まります。主の洗礼直後の週が年間第一週ですので、今年は1月15日が年間第二主日となります。

司祭の養成は神学院に入る前から始まり、神学院での予科の時間を過ごして、哲学を学び、神学を学び、その上で助祭に叙階され、司祭へと至ります。しかし司祭になってそれで養成が終わりではなく、実はここから人生の終わりまで、司祭としての生涯を通じた養成は継続します。この考えそれ自体はまだ新しいもので、数年前から、各国の司教団は、司祭の生涯養成についての計画を練ってきました。日本の司教団でも、司祭叙階後五年目の教区司祭を対象に、養成コースをはじめる事になり、今年、ちょうど現在ですが、初めての叙階五年前後の全国の教区司祭向けの養成コースを行っています。その模様はまた別途報告しますが、司祭のためにお祈りくださるようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第109回、年間第二主日メッセージ原稿です。

年間第2主日A
週刊大司教第109回
2023年1月15日

つい数日前に主の降誕を喜び祝っていたかと思うのですが、典礼の暦は先に歩みを進め、先日の月曜日は主の洗礼の祝日でした。そこで朗読されたマタイの福音は、イエスが洗礼者ヨハネから水の洗礼を受けた様を描写するものでありました。

「罪のゆるしを得させるために悔い改めの」水による洗礼を受けることは、そもそも罪の汚れのない神であるイエスには必要のないことですが、「その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾」であり(カテキズム536)、罪人である人類に加わることで、水を通じてわたしたちをその贖いの技に与る道を開かれました。水による洗礼はイエスの公生活の始まりを告げています。

今日朗読されるのは同じ出来事について触れているヨハネ福音です。そこにおいて洗礼者ヨハネは、自分が水の洗礼を授けた方が誰であるのかを宣言しています。

まず第一にイエスは、「世の罪を取り除く神の小羊」であり、そして「神の子」であると洗礼者ヨハネは証言します。それによってヨハネはイエスの誕生の理由が、罪にまみれた人類の救いのためであることを明確にします。

さらに加えて洗礼者ヨハネは、自分の立場を今一度明確にします。つまりイエスは、「私よりも先におられた」方であり、自らが水の洗礼を授ける理由は、「この方がイスラエルに現れるため」であったのです。しかも洗礼者ヨハネがイエスを神の子と証しをした理由は、自分がそう思ったからではなく、自らの派遣の使命を識別し確実に認識していたからだとも証言しています。

いまわたしたち教会に必要なのは、現代社会にある洗礼者ヨハネであることです。わたしたちは自分の思いを伝えているのではありません。自分が褒め称えられるために行動するのではありません。すべては洗礼を通じてイエスの神性に与ったわたしたちに与えられている福音を告げしらせるという使命を果たすためであり、洗礼者ヨハネと同じく、わたしたちの言葉と行いを通じてイエスが現代社会に表されるようになるためです。わたしたちは、社会のなかにあって、自らの言葉と行いが一体何を証ししているのか、今一度振り返ってみたいと思います。

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2023年1月11日 (水)

名誉教皇ベネディクト十六世追悼ミサ

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12月31日に95歳で帰天された名誉教皇ベネディクト十六世の追悼ミサが、司教協議会と教皇庁大使館の共催で、1月10日午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われました。外交関連の日程なども配慮して1月10日となりましたが、連休明けの平日の日中と言うこともあり、また感染症対策も考慮したため、多くの方に自由に参加いただくことはできませんでした。追悼ミサには教皇大使をはじめ、日本の司教団からは10名の司教が参加し、東京教区の二名の助祭が奉仕しました。

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オンラインでの配信も行われましたが、この記事の最後にリンクしますので、またご覧いただき、名誉教皇ベネディクト十六世を偲び、永遠の安息をお祈りいただければ幸いです。

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ミサ後の午後からは、ご自由に献花し祈っていただく場を設け、多くの方にお祈りをいただきました。感謝申しあげます。

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以下、当日ミサを司教協議会会長として司式させていただきましたので、その説教の原稿です。

名誉教皇ベネディクト十六世追悼ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年1月10日

「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」
ヨハネの第一の手紙の一節で始まる回勅「神は愛」は、名誉教皇ベネディクト十六世の最初の回勅でありました。

「神は愛:Deus Caritas Est」というタイトルが示すように、神の愛、カリタスは、教皇ベネディクト十六世のペトロの後継者としての役割の中で、大きな位置を占めていたとあらためて思い起こしています。

教皇就任以前に、長らく教理省長官として活躍されたため、その印象が強く残り、頑固で厳しい保守的な人物だとか頭脳明晰な神学者というイメージが先行しましたが、実際には、慈愛に満ちたベネディクト十六世は「愛(カリタス)」を語る教皇でありました。

ベネディクト16世は、教会における愛(カリタス)の業を重要視され、それが単に人間の優しさに基づくのではなく、信仰者にとって不可欠な行動であり、教会を形作る重要な要素の一つであることを明確にされました。

回勅「神は愛」には明確にこう記されています。
「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げしらせること、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです(25)」

当時、国際カリタスの理事会に関わっていたわたしにとっては、ベネディクト16世が、この分野に大きな関心を寄せられ発言されたことから、力強い励ましをいただきました。わたしはベネディクト16世は後代の歴史家から、「愛(カリタス)の教皇」と呼ばれるのではないかと期待しています。

2011年3月11日の東日本大震災の折りには被災された方々へ心を寄せ、その年の5月初めに被災地にサラ枢機卿をご自分の特使として派遣され、また被災者のために寄付をされたことも鮮明に記憶に残っています。またその年、4月に、メディアの企画で、世界の子どもたちの質問に答えたことがありましたが、教皇ベネディクト16世は、日本の少女からの質問も受けられました。

「なんで子どもも、こんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」と問いかける少女に対して、教皇は、「他の人たちが快適に暮らしている一方で、なぜ皆さんがこんなにたくさん苦しまなくてはならないのか? 私たちはこれに対する答えを持ちません」と、正直に応えられました。

その上で、「でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。・・・神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。・・・今、大切なことは、『神様はわたしを愛しておられる』と知ることです」と、苦しみのなかにあっても神の愛に身を委ねることが希望を生み出すのだと強調されました。

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新しい福音宣教を掲げ、2010年に新福音化推進評議会を設置されたベネディクト十六世は、世俗化が激しく進み、多くの人の宗教離れが進むヨーロッパでの再宣教だけではなく、教会の本質的な三つの務めである、福音宣教、典礼、愛の奉仕をそれぞれに重要視し、整えていくことを念頭に置かれながらペトロの後継者として教会を導かれたのだと思います。

回勅「神は愛」の冒頭にこう記されています。
「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです」

深い思索の内に生きる神学者である教皇ベネディクト十六世は、信仰が具体的に生きられることの重要性を強調された方でありました。

2007年に司教として初めてアドリミナでローマに出かけたとき、教皇ベネディクト十六世から、個人謁見の場で、「あなたの教区の希望は何ですか」と尋ねられ、答えに窮したことがあります。しかし教皇は、福音宣教とは他者との出会いと交わりの中で希望を見出すことだと強調された方でありました。

回勅「希望による救い(Spe Salvi)」の2項の最後には、次のように記されております。
「キリスト教は単なる『よい知らせ』ではありません。すなわち、単にこれまで知られていなかった内容を伝えることではありません。現代の用語でいえば、キリスト教のメッセージは『情報伝達的』なだけでなく、『行為遂行的』なものでした。すなわち、福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。すなわち未来の扉が開かれます。希望を持つ人は、生き方が変わります。新しいいのちのたまものを与えられるからです」

さらに同じ回勅に、「人間は単なる経済条件の生産物ではありません。有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできないのです(21)」との指摘があります。

その上で、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と記されています。

先ほども触れましたが2007年12月、アドリミナ訪問でローマを訪れていた日本の司教団に教皇ベネディクト十六世はこう話しておられました。

「世界は、福音がもたらす希望の知らせを渇望しています。皆様の国のようなきわめて発展した国々においても、経済的な成功や技術の進歩だけでは人間の心を満たすことができないことに多くの人が気づいています。神を知らない人には「究極的な意味で希望がありません。すなわち、人生全体を支える偉大な希望がありません」(教皇ベネディクト十六世回勅『キリスト教的希望について(Spe salvi)』27)。人生には職業上の成功や利益を超えたものがあることを、人々に思い起こさせてください。家庭や社会の中で愛のわざを行うことを通じて、人々は「キリストの内に神との出会い」へと導かれます」

教会の三つの本質的な務めを明確に意識しながら、多くの人に愛と希望を生み出そうとされた教皇ベネディクト十六世のことばは、文書として、著作として多く残され、いまもその著作を愛読される方は少なくありません。残されたことばにあらためて耳を傾けながら、その永遠の安息を祈り、わたしたち自身も福音に耳を傾け、福音を生き、福音を告げるものでありましょう。

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2023年1月 7日 (土)

週刊大司教第108回:主の公現の主日

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降誕節も終わりに近づきました。降誕節を締めくくるのは、主の公現の主日です。

東方の三博士の来訪で有名ですが、博士は占星術の専門家だったようです。この三博士には名前があるといわれています。

この時期に見かけられた、「C.M.B.」という表記に見覚えがある方はいませんか。主の公現の主日と切っても切れない関係にある略語です。日本でも海外から来られた宣教師が働いていた地方では、必ず行われていたことだと思います。私も子供の頃、スイス人の宣教師が働いていた岩手県の教会でしたので目にしていましたし、ドイツ人が中心だった神言会の修道院でも行われていました。それぞれの家の玄関などの戸口の上に、白いチョークで、C.M.B.と記され、十字架とその年の年号が記されているのを見たことありませんか。

かつては主の公現の主日の頃に、家の祝別が行われていました。そしてこのC.M.B.とは、三人の博士の頭文字です。カスパー、メルキオール、バルタザール。

わたし個人としては、年の初めのこの頃、司祭を家に招いて家の祝福の祈りをしてもらうという習慣は、一年の始まりに悪いものではないように思います。もっとも家族全員が信徒でないと難しいかもしれません。家庭が教会の基礎となる共同体であるという考えからすれば、家庭ミサをお願いするとか、家を祝福してもらうとかいうことは、守るべき大事なことであるように思います。

以下、本日午後6時配信の、主の公現の主日、週刊大司教第108回目のメッセージ原稿です。

主の公現
週刊大司教第108回
2023年1月8日

新年、明けましておめでとうございます。

新しい年の初めにあたり、この一年、皆様の上に神の祝福が豊かにあるようお祈りいたします。

マタイ福音は、東の方からエルサレムに来た占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと記しています。自らの立場を脅かす存在が現実にいるのだと、占星術の学者が告げているからに他なりません。本来であれば、救い主の誕生の告知は喜びを持って迎えられる一大ニュースです。しかし現実に権力を行使して人々を支配しているヘロデは、その知らせを喜ぶことは出来なかった。自分をこの世の支配者とするものは、神の支配の実現を前にして、喜びではなく不安しか感じることができません。神の前では、自らの不遜さが暴かれてしまうからです。神の栄光の証しとしての光ではなく、自分勝手な光を輝かせていることが露呈するからです。

心のうちの不安は、ヘロデをいのちに対する暴力へと誘います。「わたしも行って拝もう」というヘロデの言葉に、真実はありません。その本意は、自らの権威を守るために神を抹殺することであり、その後の幼子殉教者の出来事へと続いていきます。

不安は利己的な心の姿勢を強め、時として他者のいのちに対する暴力へと発展します。そこにいのちを生きる希望は生まれません。新しい年となっても、ウクライナをはじめとして各地で起こっている不安定な状況は改善せず、多くの人が不安のうちに生きています。不安が生み出す疑心暗鬼は、さらに対立を深め、いのちに対する暴力は続いています。わたしたち人類は、一体何を守ろうとして神に抗っているのでしょうか。

占星術の学者たちがそうであったように、わたしたちの戻るべき場所はヘロデのところではありません。真の希望の光に触れたわたしたちは、人間の身勝手さの光を輝かせるのではなく、全く異なる道を選び、神の光を輝かせるものでなければなりません。

 

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2023年1月 5日 (木)

ベネディクト十六世追悼ミサ

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先日亡くなられた名誉教皇ベネディクト十六世の葬儀は、本日1月5日にバチカンで執り行われます。日本時間で夕方5時半頃ですが、Youtubeのバチカンニュースのサイトなどで、映像を見ることが可能です。

東京カテドラルには、祭壇前の馬小屋の隣に、葬儀にあわせてベネディクト十六世の遺影を飾りました。追悼ミサの日まで置かれていますので、ベネディクト十六世の永遠の安息をお祈りいただければと思います。

その追悼ミサですが、中央協議会と東京教区のそれぞれのホームページに、詳細が掲載されています。こちらのリンクから、東京教区のホームページをご覧ください。

追悼ミサは1月10日午前11時から東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられます。司教協議会と教皇庁大使館の共催で、司式はわたしが行い、教皇大使をはじめ、日本の司教団も共同司式します。なお追悼ミサの模様は、関口教会の主日ミサと同様に、カトリック関口教会のYoutubeチャンネルから、配信される予定です。

なお入場には制限がありますが、ミサ後には大聖堂を開放して、皆さんに献花をしていただく時間を設けます。1月10日12時45分から15時まで、ご自由に訪れ、祈りをささげ、献花していただくことができます。

ともに名誉教皇ベネディクト十六世の永遠の安息のために、お祈りいたしましょう。

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2023年1月 1日 (日)

2023年神の母聖マリア@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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2023年元旦の最初のミサは、神の母聖マリアの主日となり、同時に世界平和の日でもありますが、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会の主日10時のミサとしてささげさせていただきました。

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ミサ中には、新しい一年に神様の豊かな祝福と守りがあるように祈りましたし、また全日に帰天された名誉教皇ベネディクト十六世の永遠の安息のためにも祈りをささげました。

世界平和の日にあたり、教皇様はメッセージを発表されています。今年のメッセージのタイトルは、「だれも一人で救われることはない。COVID-19からの再起をもって、皆で平和への道を歩む」とされており、教皇様はコロナ後の世界を見据え、あらためて連帯のうちに支え合ってともに歩むことの大切さを強調されています。日本語翻訳は中央協議会のこちらのリンク先にあります。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

神の母聖マリア(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年1月1日

新年明けましておめでとうございます。

新しい年、2023年が始まりました。2020年の春に始まった現在の困難な状況は、すでに3年になろうとしています。様々な情報が錯綜する中で、この3年間、わたしたちははっきりとした道筋を見出すことができずに不安のうちに取り残され、まるで暗闇の中を手探りで歩いているかのような状況であります。

3年近い時間の経過が、専門家の知見を深め、またわたしたちにもどのように対処するべきかを学ばせてくれましたから、徐々にではありますが、先行きに光が見えるようになってきました。しかしまだ、自信を持って、以前のような普通の生活に戻ったとは言い難い状況が続いています。

この困難と不安な状況に加えて、暴力によるいのちへの攻撃も続き、さらに闇を深めています。東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデターとその後の混乱は続いており、平和と自由を求める人々、特にその先頭に立つ宗教者への暴力的攻撃も頻発し続けています。

またロシアによるウクライナ侵攻とその後の戦争状態は続いており、世界中からの平和への呼びかけにもかかわらず、終わりが見えない泥沼の戦いが続いています。さらには日本を含め世界各地で、自らの感情にとらわれ、いのちに対する暴力的な蛮行に走る事例も頻発しています。

神が賜物として与えてくださったいのちに対する暴力が止むことはなく、闇が深く増し加わるほどわたしたちは疑心暗鬼に捕らわれ、疑心暗鬼は不安を呼び覚まし、それがために暴力に対抗するためには暴力が必要だという声が普通に聞かれるようになってしまいました。

あらためて言うまでもなく、暴力の結末は死であり、いのちの創造主である神への挑戦です。あらためて1981年2月の広島における教皇ヨハネパウロ二世のことばに耳を傾けたいと思います。

「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です」

いのちの尊厳を繰り返し説かれた教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても一人ひとりに拘束力を持っています」と記します。わたしたちには、自らに与えられたいのちを大切にし、それを守ることに留まらず、同じ賜物を与えられているすべての人のいのちを「尊び、愛し、守り育てる」務めが与えられています。

一年の初めのこの日は、世界平和の日と定められています。

教皇様は、世界平和の日にあたりメッセージを発表されています。コロナ後の世界の歩むべき道を見据えながら、連帯のうちに支え合って歩み続けることの必要性を説いておられます。わたしたちは、この新しい一年を、あらためて連帯を深め、互いに耳を傾けあい、支えながら、聖霊の導く先を探し求めながら歩むときにしたいと思います。

主の御降誕から一週間、御言葉が人となられたその神秘を黙想し、神ご自身がそのあわれみといつくしみに基づいて自ら人となるという積極的な行動を取られたことに感謝を捧げる私たちは、主の降誕の出来事に思いを馳せながら、人となられた神の御言葉の母である聖母マリアを記念します。

神が自ら人となられた神秘、そして人間として私たちと共に生きられたという神秘、その不思議な業は人間であるマリアによって実現したという事実によって、神ご自身が創造された人間の持つ尊厳をあらためて私たちに示されました。

神ご自身が人間となり、母マリアから生まれたことをあらためて黙想するこの日、ひとりひとりに神から与えられた賜物である「いのち」の尊厳をあらためて黙想し、いただいたその恵みに感謝したいと思います。

ルカ福音は、「聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」と簡潔に述べることで、その夜、驚くべき出来事に遭遇し、そしてその意味を理解できずに翻弄され戸惑う人々の姿を伝えています。暗闇の中に輝く光を目の当たりにし、天使の声に導かれ誕生した幼子とそれを守る聖家族のもとに到達したのですから、その驚きと困惑は想像に難くありません。

しかしルカ福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とも記します。神のお告げを受けた聖母マリアは、その人生において常に、神の導きに思いを巡らせ、識別に努められた、観想を深めるおとめであります。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、聖母マリアを「福音宣教の母」と呼ばれています。神の御旨を受け入れる聖母マリアは、祈りかつ働き、即座に行動し、他者を助けるために出向いていく方であったとする教皇は、同時に、「マリアは、神の霊の足跡を、大きな出来事の中にも些細なことと見える出来事の中にも見いだせる方です。・・・正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と記しておられます。(288)

あふれるかえるほどの情報に振り回されながら現代社会に生きているわたしたちにとって、常に心を落ち着け、周囲に踊らされることなく、神の道を見極めようと祈り黙想する聖母の姿は、倣うべき模範であります。

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新しい年の初めにあたり、ともに祈りをささげたいと思います。

わたしたちがこの数年遭遇している世界的な困難の時を、連帯のうちにともに支え合いながら乗り越えていくことができるように、聖霊の導きを祈りましょう。シノドスの道をともに歩んでいる教会は、互いに耳を傾けあい、支え合い、祈り合いながら、聖霊の導く道を見いだすように招かれています。この状況の中で、聖霊に導かれる教会こそが、社会の中で連帯と交わりの証しになりたいと思います。

政治のリーダーたちを、また経済界のリーダーたちを、聖霊が賢明と叡智と剛毅の賜物をもって導いてくださるように祈りたいと思います。また感染症の状況の中で、この数年間、いのちを守るために日夜努力を続けている医療関係者の上に、護りがあるように祈り続けたいと思います。

神から与えられた賜物であるいのちが、その始めから終わりまで例外なく、守られ育まれ、尊厳が保たれる世界が実現するように祈りましょう。

圧政による人権侵害によっていのちの危機に直面している人たちに、神の正義の支配がおよぶように祈りましょう。自らのいのちを守るために、危険を冒して旅立ち、国境を越えてきた難民の人たちが、安住の地を得ることができるように祈りましょう。力による対立ではなくて、互いの存在に思いを馳せ、謙遜に耳を傾け、愛をもって支え合う社会が実現するように祈り、また努めましょう。

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平和を実現する道を歩まれたイエスの旅路に、聖母マリアが信仰のうちに寄り添ったように、私たちも神が大切にされ愛を注がれる一人一人の方々の旅路に寄り添うことを心がけましょう。聖母マリアのうちに満ちあふれる母の愛が、私たちの心にも満ちあふれるように、神の母であり、教会の母である聖母マリアの取り次ぎを求めましょう。

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名誉教皇ベネディクト十六世帰天

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名誉教皇ベネディクト十六世が、12月31日に帰天されました。95歳でした。ベネディクト十六世の御父のもとでの永遠の安息のために、ともに祈りましょう。

バチカンでの葬儀ミサは、ベネディクト十六世の生前のご意向に従い、簡素な形で、1月5日に行われます。この模様は、バチカンユースなどを通じて、配信されるものと思います。

日本における追悼ミサも、司教協議会と教皇庁大使館の共催で行われます。現在日程を調整中ですが、1月の早い段階で、関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われる予定です。

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以下、今朝ほど東京教区のホームページに掲載した大司教談話です。司教協議会会長の談話は昨晩のうちに、中央協議会のホームページのこちらのリンクに掲載されています。

名誉教皇ベネディクト十六世の逝去にあたって

去る12月31日、名誉教皇ベネディクト16世が、95年にわたる人生を終え、帰天されました。長年にわたる教会への奉仕と導きに感謝しながら、御父の御許において永遠の安息があるように祈ります。

ベネディクト16世は、すでに第二バチカン公会議の時代に、新進気鋭の神学者として注目され、その後はミュンヘンの大司教を経て教皇庁の教理省長官に任命され、長きにわたって現代社会を旅する教会の神学的支柱として大きな影響を与えました。

教皇に就任された2005年、すでに78歳と高齢でしたので、限られた時間の制約の中で優先順位を明確にして普遍教会の司牧にあたられました。

世俗化が激しく進み教会離れが顕著な欧米のキリスト教国における信仰の見直しは、ベネディクト16世にとって最重要課題であったと思います。しかしそれをひとり欧米の課題にとどめることなく、普遍教会全体の課題として取り上げられ、「新福音宣教」を掲げてシノドスを開催し評議会を設立されました。2013年2月28日の退位は、歴史に残る決断でした。聖霊の導きに全幅の信頼を置く信仰者としての決断の模範を、明確にあかしされる行動でありました。

教皇就任以前に教理省長官として活躍された印象が強く残っていますが、わたしにとっては、「愛(カリタス)」を語る教皇でありました。それは、最初の回勅が「神は愛」であることに象徴されますが、ベネディクト16世は、教会における愛(カリタス)の業を重要視され、それが単に人間の優しさに基づくのではなく、信仰者にとって不可欠な行動であり、教会を形作る重要な要素の一つであることを明確にされました。当時、国際カリタスの理事会に関わっていたわたしにとっては、ベネディクト16世が、この分野に大きな関心を寄せられ発言されたことから、力強い励ましをいただきました。わたしはベネディクト16世は後代の歴史家から、「愛(カリタス)の教皇」と呼ばれるのではないかと期待しています。

2011年の東日本大震災の折りには被災された方々へ心を寄せ、被災地にサラ枢機卿をご自分の特使として派遣されました。その年の5月にローマでの国際カリタス総会の際に謁見があり、帰り際にわたしの席へ歩み寄ってくださり、被災者への慰めの言葉をいただいたことは忘れません。流布されるイメージとは異なり、優しさに満ちあふれた「愛(カリタス)」の教皇でありました。

名誉教皇ベネディクト16世の逝去にあたり、これまでの長年にわたる教会への貢献と牧者としての導きに感謝し、御父の懐にあって豊かな報いをうけられますように、永遠の安息を共にお祈りいたしましょう。

2023年1月1日
カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

 

 

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新年明けましておめでとうございます。

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皆様、新年明けましておめでとうございます。

この一年が、祝福に満ちた豊かで希望ある年になりますように、お祈りいたします。

3年間にわたるこの感染症による危機が過ぎ去り、戦争が終結し、賜物であるいのちの尊厳が守られる世界となるように、心から祈ります。

以下、東京教区ニュース新年1月号に掲載した年頭のご挨拶の文章を、こちらにも再掲します。

「希望の光を暗闇に掲げて」

東京教区のみなさん、主の降誕と新年のおよろこびを申し上げます。

主の受肉の神秘を祝う降誕祭は、生命の尊さをわたしたちに教えています。全能の神は小さな幼子の生命として、わたしたちのうちにおいでになりました。両親からの保護を必要とするその小さな生命は、しかし、暗闇に輝く希望の光でありました。暗闇が深ければ深いほど、小さな光であっても輝きを放つことができます。神からわたしたちに与えられた生命は、希望の光として暗闇に輝く光です。

残念なことに、世界はその生命を最優先とすることなく、暴力が支配する様相を呈しています。生命への攻撃は、わたしたちをさらに暗闇へと引きずり込み、希望を奪います。希望を奪われたわたしたちは、さらなる不安に駆られ、そのために利己的な守りの姿勢を強め、暴力に抗うために暴力を肯定する誘惑に駆られています。

この三年におよぶ感染症の状況は、よい方向に向かっているとは言え、わたしたちを取り巻く暗闇を深めました。その暗闇がもたらす不安は、わたしたちの姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデター後の不安定な状況や、ウクライナにおけるロシアの侵攻がもたらす戦争状態によって、さらに深められています。暗闇は世界から希望を奪っています。だからこそ、わたしたちキリスト者は、主ご自身が幼子としてもたらしてくださった生命の希望の光を、暗闇の中で高く掲げる存在でありたいと思います。

教皇様は新年の世界平和の日にあたりメッセージを発表されていますが、そのテーマも、コロナ禍のあとの世界を見据え、ともに連帯しながら新しい平和への道を見いだす歩みを続けることを呼びかけておられます。いまほど、連帯のうちに支え合い、互いに耳を傾けあう姿勢が、教会だけでなく世界にとって必要なときはありません。

この三年間、教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっている皆様に、心から感謝申し上げます。いろいろなお考えがあることは十分承知していますが、多くの人が集まる教会であるからこそ、自分の生命を守るためだけでなく、互いの生命を危険にさらさない隣人愛の行動を選択し続けたいと思います。

一年の初めにあたり、是非とも司祭・修道者の召命についてお考えいただきたいと思います。まだ最終確定ではありませんが、今年の春には二名の神学生が、東京教区司祭として叙階されるべく準備を進めています。この二人のあとには、現時点では神学課程に一名、哲学課程に一名の二人しか、東京教区神学生はおりません。常々皆様にも申しあげていることですが、一人の方が司祭を志したとして、実際に叙階されるまでには、最低でも七年という時間が養成のために必要です。司祭養成は、それほど慎重に行われるものですし、そもそも「召命」と言われるとおりで、神様からの呼びかけであって、人間が生み出すものではありません。実際には呼びかけられている方は大勢おられるのだと思います。ですから究極的に言えば、無理をして神学生を増やすのではなく、神様からの呼びかけを待てばよいのですが、同時に、自分が呼ばれていることに気がつかない人も大勢おられます。識別するためには皆様の祈りが必要です。呼ばれている人が、自分の召命に気がつくように、どうかお祈りください。これは一人司祭ばかりではなく、修道者への召命も同じです。お祈りと、励ましをお願いいたします。

すでに日本の他の教区では普通のことになっていますが、今後は東京教区においても、すべての小教区に必ず司祭がいるという状況を続けていくことは、困難になります。すでに数名の教区司祭には、主任司祭の兼任をお願いしているところですが、今後は引退される司祭も増加することが必然であり、同時に新しい司祭の誕生は限定的ですので、何らかの対応が必要です。司祭の兼任は様々な側面から、司祭自身にとっても、また教会共同体にとっても負担となります。その意味で、現在検討を続けている宣教協力体の見直しを含め、どういった形で既存の教会共同体が協力していくことができるのか、具体的な検討を続けていきたいと考えています。

将来にわたる経済的な負担などを考慮して、教会共同体が自ら他の共同体との合併などを求められる場合は別ですが、基本的には現在の小教区を変更することは考えていません。

2022年の待降節から典礼式文の翻訳が変更となりました。すでに新しい翻訳でのミサに参加されておられると思います。

第二バチカン公会議の教会憲章には、こう記されています。
「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(11)」

わたしたちにとってミサは、キリストの贖いのわざとしての犠牲とそれに続く復活を、秘跡の形で再現するものとして、キリストがいまここに現存し、また現存し続けると言う意味でも、最も重要な位置を占めています。

新しい翻訳には賛否両論あろうかと思いますが、異なる言葉への翻訳における様々な困難を乗り越え、普遍教会全体の一致を具体的にあかしするための、大きな一歩であると思います。わたしたちを霊的な絆で結びつけるために最も大切なこの聖体祭儀について、今回の改訂が、学びを深める契機となることを期待しています。

いまわたしたちの国では宗教の存在が問われています。自戒の念を込めて自らの有り様を振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、良心に反して行動することを強いられてはなりませんし、共通善の範囲内において、良心に従って行動することを妨げられてはなりません。(カテキズム要約373参照)。

宗教は、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教を生きる者が、いのちを奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、いのちの希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

わたしたちはどうでしょう。わたしたち教会はすべての人の善に資するために、この社会の現実のただ中で、いのちを生かす希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。対立や排除や暴力の象徴ではなく、一致と連帯と支え合いをあかしする共同体でありたいと思います。

教会のシノドスの歩みは続いています。今年のはじめには各大陸別のシノドスが開催され、アジアシノドスも2月末にタイで開催されます。その後、今年の10月と、来年2024年10月の二会期に渡ってローマでの会議が開かれ、その結果を受けて教会は2025年の聖年を迎えます。聖霊が教会をどこへと導こうとしているのか、共同体の識別の道はこれからも続けられます。東京教区にあっても、今後も小グループによる分かち合いを通じた聖霊の導きへの識別を深め、互いに耳を傾けあい支え合うことが当たり前である教会共同体へと変貌していきたいと思います。

2023年12月4日には、江戸の殉教の400周年を迎えます。高輪教会においては例年通り、江戸の殉教を顕彰する行事が行われますが、それに向けて、教区内でも殉教について学ぶ機運が生まれることを期待しています。

新しい年の初めにあたり、皆様の上に、全能の御父の豊かな祝福がありますように、お祈りいたします。

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