名誉教皇ベネディクト十六世追悼ミサ
12月31日に95歳で帰天された名誉教皇ベネディクト十六世の追悼ミサが、司教協議会と教皇庁大使館の共催で、1月10日午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われました。外交関連の日程なども配慮して1月10日となりましたが、連休明けの平日の日中と言うこともあり、また感染症対策も考慮したため、多くの方に自由に参加いただくことはできませんでした。追悼ミサには教皇大使をはじめ、日本の司教団からは10名の司教が参加し、東京教区の二名の助祭が奉仕しました。
オンラインでの配信も行われましたが、この記事の最後にリンクしますので、またご覧いただき、名誉教皇ベネディクト十六世を偲び、永遠の安息をお祈りいただければ幸いです。
ミサ後の午後からは、ご自由に献花し祈っていただく場を設け、多くの方にお祈りをいただきました。感謝申しあげます。
以下、当日ミサを司教協議会会長として司式させていただきましたので、その説教の原稿です。
名誉教皇ベネディクト十六世追悼ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年1月10日「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」
ヨハネの第一の手紙の一節で始まる回勅「神は愛」は、名誉教皇ベネディクト十六世の最初の回勅でありました。「神は愛:Deus Caritas Est」というタイトルが示すように、神の愛、カリタスは、教皇ベネディクト十六世のペトロの後継者としての役割の中で、大きな位置を占めていたとあらためて思い起こしています。
教皇就任以前に、長らく教理省長官として活躍されたため、その印象が強く残り、頑固で厳しい保守的な人物だとか頭脳明晰な神学者というイメージが先行しましたが、実際には、慈愛に満ちたベネディクト十六世は「愛(カリタス)」を語る教皇でありました。
ベネディクト16世は、教会における愛(カリタス)の業を重要視され、それが単に人間の優しさに基づくのではなく、信仰者にとって不可欠な行動であり、教会を形作る重要な要素の一つであることを明確にされました。
回勅「神は愛」には明確にこう記されています。
「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げしらせること、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです(25)」当時、国際カリタスの理事会に関わっていたわたしにとっては、ベネディクト16世が、この分野に大きな関心を寄せられ発言されたことから、力強い励ましをいただきました。わたしはベネディクト16世は後代の歴史家から、「愛(カリタス)の教皇」と呼ばれるのではないかと期待しています。
2011年3月11日の東日本大震災の折りには被災された方々へ心を寄せ、その年の5月初めに被災地にサラ枢機卿をご自分の特使として派遣され、また被災者のために寄付をされたことも鮮明に記憶に残っています。またその年、4月に、メディアの企画で、世界の子どもたちの質問に答えたことがありましたが、教皇ベネディクト16世は、日本の少女からの質問も受けられました。
「なんで子どもも、こんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」と問いかける少女に対して、教皇は、「他の人たちが快適に暮らしている一方で、なぜ皆さんがこんなにたくさん苦しまなくてはならないのか? 私たちはこれに対する答えを持ちません」と、正直に応えられました。
その上で、「でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。・・・神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。・・・今、大切なことは、『神様はわたしを愛しておられる』と知ることです」と、苦しみのなかにあっても神の愛に身を委ねることが希望を生み出すのだと強調されました。
新しい福音宣教を掲げ、2010年に新福音化推進評議会を設置されたベネディクト十六世は、世俗化が激しく進み、多くの人の宗教離れが進むヨーロッパでの再宣教だけではなく、教会の本質的な三つの務めである、福音宣教、典礼、愛の奉仕をそれぞれに重要視し、整えていくことを念頭に置かれながらペトロの後継者として教会を導かれたのだと思います。
回勅「神は愛」の冒頭にこう記されています。
「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです」深い思索の内に生きる神学者である教皇ベネディクト十六世は、信仰が具体的に生きられることの重要性を強調された方でありました。
2007年に司教として初めてアドリミナでローマに出かけたとき、教皇ベネディクト十六世から、個人謁見の場で、「あなたの教区の希望は何ですか」と尋ねられ、答えに窮したことがあります。しかし教皇は、福音宣教とは他者との出会いと交わりの中で希望を見出すことだと強調された方でありました。
回勅「希望による救い(Spe Salvi)」の2項の最後には、次のように記されております。
「キリスト教は単なる『よい知らせ』ではありません。すなわち、単にこれまで知られていなかった内容を伝えることではありません。現代の用語でいえば、キリスト教のメッセージは『情報伝達的』なだけでなく、『行為遂行的』なものでした。すなわち、福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。すなわち未来の扉が開かれます。希望を持つ人は、生き方が変わります。新しいいのちのたまものを与えられるからです」さらに同じ回勅に、「人間は単なる経済条件の生産物ではありません。有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできないのです(21)」との指摘があります。
その上で、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と記されています。
先ほども触れましたが2007年12月、アドリミナ訪問でローマを訪れていた日本の司教団に教皇ベネディクト十六世はこう話しておられました。
「世界は、福音がもたらす希望の知らせを渇望しています。皆様の国のようなきわめて発展した国々においても、経済的な成功や技術の進歩だけでは人間の心を満たすことができないことに多くの人が気づいています。神を知らない人には「究極的な意味で希望がありません。すなわち、人生全体を支える偉大な希望がありません」(教皇ベネディクト十六世回勅『キリスト教的希望について(Spe salvi)』27)。人生には職業上の成功や利益を超えたものがあることを、人々に思い起こさせてください。家庭や社会の中で愛のわざを行うことを通じて、人々は「キリストの内に神との出会い」へと導かれます」
教会の三つの本質的な務めを明確に意識しながら、多くの人に愛と希望を生み出そうとされた教皇ベネディクト十六世のことばは、文書として、著作として多く残され、いまもその著作を愛読される方は少なくありません。残されたことばにあらためて耳を傾けながら、その永遠の安息を祈り、わたしたち自身も福音に耳を傾け、福音を生き、福音を告げるものでありましょう。
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