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2023年1月22日 (日)

年間第三主日@関口教会

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ケルンデーにあたる本日、関口教会の10時のミサに、ドイツ語共同体の担当司祭であるミルコ神父様や、ミャンマー共同体の方を迎えて、ケルンデーのミサを捧げました。

もちろん今日はそのほかにも、神のことばの主日であり、さらにはキリスト教一致祈祷週間中の主日でもあります。ミサの最後には、御公現の頃に子どもたちが博士の扮装をし各家庭を訪問してイエスの祝福を祈る、その祝福の源である三博士の聖遺物をもっての祝福が、ミルコ神父様の素晴らしい歌と共にいただきました。

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以下、本日の関口教会でのミサの説教原稿です(上の写真はケルンの大聖堂・2018年12月。説教原稿の中、下の写真は、ケルン大聖堂の三博士の聖遺物を治めた箱です)。

年間第3主日A配信ミサ(神のことばの主日)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年1月22日

今年の年間第三主日である1月22日は、教皇フランシスコによって定められた「神のことばの主日」です。教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。

第二バチカン公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。

先日帰天された教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」の冒頭に、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです」と記し、それはまずもって典礼における神の言葉との出会いを通じて始まることを強調されました。なぜなら神の言葉は単に情報を伝える記号ではなく、人格を持った神が何かを成し遂げるために実在するものだからです。

御聖体の秘跡の内に現存される主との出会いはミサの中心をなす神秘ですが、同時にミサの中で朗読される聖書にも、言葉の内に現存される神との出会い、主イエスとの出会いという神秘のために重要な意味があります。わたしたちは、ミサにおいて、あがないの秘跡である御聖体を大切にするように、朗読される神の言葉も大切にしなければなりません。

そう考えると、ミサの時の聖書朗読の奉仕も、単に役目を果たしているだけでなく、現存される神の言葉を語る者としての役割の重要性が理解されると思います。主の呼びかけに応えて、それぞれの役割を果たしていただければと思います。

教皇フランシスコは「アペルイット・イリス」に、「聖書なしには、イエスの宣教の出来事、そしてこの世界におけるイエスの教会の宣教の出来事は理解できません」と記し、さらに、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘し、わたしたちが聖書を通じて神の言葉に触れることの信仰における重要性を改めて強調されています。わたしたちは聖書を通じて神の言葉に触れ、その神の言葉を通じて現存される主と出会い、その言葉を通じていのちを生かされ、あらためて自らはその言葉を告げるものとなります。

同時に教皇様は、この時期に神の言葉の主日を定めることには,キリスト教一致というエキュメニカルな意味があることも指摘して、「聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示す」と記しています。

神のみ言葉との出会いにあらためて心を向けるこの主日は、1月18日からパウロの回心の記念日である1月25日までと定められているキリスト教一致祈祷週間と重なっています。

今年のキリスト教一致祈祷週間は、そのテーマを「善を行い、正義を追い求めなさい」というイザヤ書のことばかが採用され、一人ひとりのいのちの尊厳が守られる社会の確立のために、神の正義と平和を確立する道をともに見いだすことを呼びかけています。

第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、「主キリストが設立した教会は単一・唯一のものである」と宣言します。しかし現状はそうではないことを指摘しながら、同教令は、「このような分裂は真に明らかにキリストの意思に反し、また世にとってはつまずきであり、すべての造られたものに福音を宣べ伝えるというもっとも聖なる大義にとっては妨げとなっている(1)」と厳しく指摘しています。その上で、真摯な対話を通じて互いの心の回心にいたり、祈りの内に一致し、信仰の宣言の上でも社会での愛の証しにおいても協力する道を模索するように呼びかけています。

マタイによる福音は、イエスの公生活の始まりを描写しています。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」と伝えるイエスの活動は、それを支え、ともに歩む弟子たちを召し出すことから始まりました。ガリラヤ湖畔でイエスは漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけます。さらにはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられます。二人ずつ四人を召し出すこの物語は、イエスの福音宣教の業が、常に共同体の業として遂行されることを象徴しています。

いまもなおイエスは「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と多くの人に声をかけ続けておられます。ただ、司祭になることだけが、この呼びかけに応える道ではありません。教会には先ほどの御言葉の朗読者や聖歌隊や侍者やカテキスタなど、信徒の方にも果たしていただける福音宣教の業が多くあります。またそれぞれの人生の歩みの中で出会う人たちに、直接ではなくとも、ご自分の言葉と行いを通じて,福音的な生き方を証しする道は多くあります。キリストの福音にしたがって生きようとすることは、ひとり自分自身の聖化のためだけではなく、福音を証しするためであることを心にとめておきたいと思います。わたしたちは、御聖体を通じて現存する主と出会い、また御言葉を通じて語りかける主と出会います。ガリラヤ湖畔においてそうであったように。共におられ語りかけられる主は、私たち共同体に、「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と今日も呼びかけられます。その呼びかけは、私たち一人一人に、行動を求めています。

その具体的な行動の一つとして、東京教区では本日、ケルンデーを祝っています。

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東京教区にとって、ケルン教区との繋がりには歴史的な意味があり、また物質的な援助の関係にとどまらず、互いの霊的な成長のためにも重要な姉妹関係をなっています。その姉妹関係は,互いの教会に、具体的に主の言葉を生きるようにと行動を促しています。

1954年、ケルン大司教区のフリングス枢機卿様は、戦後の霊的な復興を念頭に教区内の信徒に大きな犠牲をささげることを求め、その精神の具体的な行動として東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助を始められました。

自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする福音に基づく行動は、多くの人の心を動かし、東京にあっても白柳枢機卿様の時代、1979年の友好25周年を契機として、ケルンと東京の両教区によるミャンマーの教会支援へと発展していきました。それ以来、わたしたちは毎年の「ケルン・デー」に、いただいたいつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身をささげることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげています。

わたしたちも、余裕があるからではなくて、苦しいからこそ、積極的に他者と連帯し支えるものであり続けたいと思います。またその行動を通じて、私たちと共におられる神の言葉を具体的にあかしするものであり続けたいと思います。

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