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2023年2月25日 (土)

週刊大司教第115回:四旬節第一主日A

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四旬節が始まりました。第一主日には、多くの小教区で、今年の復活祭に洗礼を受ける準備をされている方の、洗礼志願式が行われたことだと思います。まだ次の日曜以降に行われる小教区もあるでしょう。四旬節は、一人ひとりの回心のときであると共に、教会共同体として、洗礼の準備をしている方々と歩みをともにするときでもあります。「歩みをともにする」というと、実際に何かをしなければとお考えになるやも知れません。確かに直接に関わる方も、カテキスタだったり、代父母となる方だったり、司祭だったりと、いろいろ通られることでしょうが、そうではない多くの方も、祈りを持って歩みをともにすることができます。志願者は、四旬節を通じて、教会共同体の祈りに支えられながら、洗礼への道を歩み続けます。

ちょうど今週末は、アジアの大陸別シノドスが、バンコクで開催されています。前後に移動日を加えますが、会議自体は2月24日から26日までの日程です。ここから10月のローマでの会議へとつながっていきます。これについては別途、現地からお知らせします。参加者のためにお祈りください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第115回目、四旬節第一主日のメッセージ原稿です。

四旬節第一主日A
週刊大司教第115回
2023年2月26日

四旬節は、わたしたちが信仰の原点を見つめ直し、いつくしみに満ちあふれた御父の懐にあらためて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。

創世記に記されているように、自由意志を与えられた人間は、自らの選択によって罪を犯し、パウロが記すように、「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するように」なりました。しかし、一人の人、すなわちイエスの「従順によって多くの人が正しい者とされ」、神からの恵みと賜物に豊かに満たされるようになりました。四旬節は、このあふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによって永遠の命へと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにするときです。

そのために教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すよう呼びかけています。また四旬節の献金は、教会共同体の愛の業の目に見える記しでもあります。この四十日の間、互いに支え合う心をもって、愛の業の内に歩み続けましょう。

福音は主イエスが、その公生活を始めるにあたり40日の試練を受けられたと記しています。

この試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けたと、福音に記されています。

まず空腹を覚えた時に、石をパンにせよとの誘惑。それは人間の本能的な欲望や安楽・安定ににとどまることへの内向きな願望です。次にすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑。それは権力や繁栄という現世的で利己的で排他的な欲望です。そして神に挑戦せよとの誘惑。それは自分こそがこの世界の支配者であるという謙遜さを欠いた思い上がりの欲望です。

考えてみれば、その中味に大小の違いはあっても、わたしたちの人生はこういった欲望に支配されることの連続です。

悪魔からの誘惑とは、神から離れる方向へと人をいざなう、さまざまな負の力のことです。そしてその誘惑は、実は、外からやってくるものではなく、結局のところ、わたしたち一人ひとりの心の中から生み出されています。他者へと目を向けず、徹底的に利己的かつ自己中心的になることへの誘惑です。

この困難な時期、教会共同体において、御聖体や御言葉の絆でつながっている兄弟姉妹に思いを馳せ、その絆の中で一致へと招かれていることをあらためて思い起こしましょう。

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2023年2月22日 (水)

四旬節のはじめにあたり

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本日は灰の水曜日となり、関口のカテドラルでは朝のミサに加えて夜7時からのミサを大司教司式のミサとしてささげます。なおこの夜7時の灰の水曜日のミサは、関口教会のYoutubeチャンネルから、ご覧いただくこともできます。また同チャンネルでは、過去の関口教会ミサ映像も見ていただくことができます

四旬節のはじめにあたって、メッセージをビデオで公開しております。以下、メッセージ本文です。

2023年 四旬節の始まりにあたって

四旬節が始まりました。毎日の時間はあっという間に過ぎ去り、様々なことに翻弄される生活の中で、教会は典礼の暦を用意して、立ち止まり、神とともに時間を過ごすことを勧めています。

生活の現実の中で様々な決断を繰り返し行動する中で、神に向かってまっすぐ歩みを進めるはずの道からそれ、あらぬ方向を向いてしまっている私たちの心の軌道修正の時が四旬節です。

毎年、四旬節は灰の水曜日で始まります。灰を頭に受け、人間という存在が神の前でいかに小さなものなのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心に刻みたいと思います。

司祭は、「回心して福音を信じなさい」、または「あなたはちりでありちりに帰っていくのです」と唱えます。前者は、四旬節の持っている意味、つまりあらためて自分たちの信仰の原点を見つめ直し、神に向かってまっすぐに進めるように軌道修正をするということを明示しています。後者は、神の前で人間がいかに権勢を誇ろうとも、小さなむなしい存在であることを自覚して謙遜に生きるようにと諭す言葉です。

世界は今、人間の傲慢さにあふれかえっています。すべてを決定するのは人間だと思い込んでいます。しかしそれは幻想です。私たちは賜物である命を与えられたものとして、神の前に謙遜になり、神の導きを識別しながら歩み続けなくてはなりません。神の前での謙遜さは、同じ命を与えられた隣人の存在を尊重し、互いに支え合いながら歩むことを私たちに求めます。世界を今支配する暴力による敵対の誘惑を乗り越え、ともに助け合いながら道を歩みたいと思います。互いのいのちの尊厳を尊重しないところに、神の正義はありません。

四旬節はまた、信仰の原点に立ち返る時として、洗礼を志願する人たちも歩みをともにし、復活祭に洗礼を受ける準備をするように勧められています。このことから四旬節第一主日には、その年の復活祭に洗礼を受けるために準備をしてきた方々の洗礼志願式が、多くの小教区で行われます。四旬節は、自らの信仰を見つめ直すとともに、洗礼への準備をする方々を心に留めて祈りをささげましょう。

ウクライナの地を戦争という暴力が支配して一年となります。姉妹教会であるミャンマーの状況の不安定なままです。いのちが守られるように、平和を祈りましょう。四旬節にあたり、自分が信じている福音に従って生きるとはどういうことなのか、イエスの呼びかけに従って生きるとはどういうことなのか、祈りと黙想のうちに考えるときにしたいと思います。

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2023年2月21日 (火)

2023年堅信式ミサ@清瀬教会

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2月19日の日曜日、清瀬教会で、9名の方の堅信式ミサを行いました。堅信を受けられたみなさん、おめでとうございます。

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堅信式ミサは、関係者だけで、午後2時からささげられましたが、その前に午前10時から、清瀬教会の司牧訪問のミサも捧げました。前回の訪問が2018年でしたので、その間にコロナ禍が挟まれて、5年ぶりとなりました。午前中のミサは、聖堂一杯のみなさんにお集まりいただきました。歓迎していただき、ありがとうございます。

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清瀬教会を担当するのは、お隣の秋津教会の主任司祭でもある野口神父様です。清瀬教会の前任の主任司祭であった西川師が倒れられ入院されて以来、野口神父様に兼任をお願いしています。またこの日の堅信ミサには、かつてこの教会で司牧実習をしていたコンベンツアル会の外山助祭と、いつもは秋津教会で司牧実習をしている東京教区の今井神学生も参加されました。

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以下、当日の堅信式ミサの説教録音を文字おこししたものです。

2023年2月19日 清瀬教会堅信式 年間第7主日

堅信を今日受けられる方々、堅信の秘跡の意味は、準備の間に勉強されたことと思います。それは、聖霊の照らし、聖霊の恵みを受けることによって、成熟した信仰者としての道を歩みはじめる、信仰生活における成人式のようなものだと思います。

使徒言行録に書いてある初代教会のとき、五旬祭の日に聖霊が弟子たちと聖母マリアに降り、そこで弟子たちが、いろんな国の言葉でイエスキリストの福音を語り始めました。あれが最初の聖霊降臨の出来事で、そこから教会は福音を宣教する道を歩みはじめています。
ですから、堅信の秘跡によって聖霊を受けることの一番大きな目的は、その日から聖霊の照らしを受けて、弟子たちがそうであったように、福音を多くの人たちに告げ知らせていくということです。

その五旬祭のあの日、聖霊降臨が起こったときの出来事をよくみてみましょう。
聖霊降臨が起こるまで、弟子たちは恐れていました。先生であるイエスが殺されてしまい、自分たちは暗闇に放り出されたようになってしまった。どうしたらいいかわからない。そんな思いを抱えて集まり、隠れていたんですね。
その隠れていた弱々しい弟子たちが、聖霊を受けることによって大きく変えられたのです。

その日からいろんな国の言葉で、…もちろんいろんな言葉で話せるようになったら嬉しいですが…、それよりももっと大事なことは、すべての人にわかる言葉で福音を述べ伝えはじめたということです。つまり、隠れていた弱々しい人が、聖霊を受けることによって福音を述べ伝える者となった。それが成熟した信仰者として生きていく、信仰の成人式です。

昔は、堅信の秘跡はキリストの兵士になることと言いました。堅信を受けることによって、キリストのために世の中で戦ってゆく兵士になるんだと。当たらずとも遠からずだと思います。わたしたちの目的は、兵士となって力で戦うのではなくて、福音を述べ伝える戦いの兵士になっていくということです。わたしたちは、堅信を受けることによってキリストの兵士となっていくのです。

ですから、今日、堅信を受けられるお一人おひとりは、やはり同じように、神様のために福音を述べ伝える者となっていかなければならないわけですね。

ところが、ここからがものすごく大きな問題なのです。
いままで何千人、何万人という人が堅信を受けてきました。私自身、司教になってから何人の人に堅信を授けてきたかも覚えていません。それくらい沢山の人が堅信を受け、成熟した信徒として、キリストの兵士として歩みはじめているはずなのですが、あまり成果が上がっていないんですよ。

これだけ沢山の人が堅信を受けたんですから、日本中そこら中に、キリストの福音を耳にしてキリストの福音に従おうと決意する人たちが、沢山現れてきてもおかしくないですよね。ところがいまだに日本でカトリック信者は、本当にほんの少しですよね。人口の1%以下。40万人いればいい方だと思いますけれども、その状態から変わらないわけです。一体何が足りないんだろう。せっかく堅信を受けたのに、何が足りないんでしょう。

一番大きいのは、自覚が足りないんです。洗礼を受けて堅信を受けることによって、自分がキリストの福音を述べ伝える者となったんだという自覚が、足りないのだと思います。

もう一つは、聖霊に対する信頼です。聖霊に対する信頼が足りないのだろうと、わたしは思っています。

教会は、あの第二バチカン公会議もそうですけれども、最初にできたときから常に、聖霊によって導かれています。
様々なことが教会の歴史の中では起こってきましたが、いままで連綿として信仰が伝わってきた一番大きな理由、それは、わたしたちが聖霊によって導かれているからです。ですから、わたしたちがその聖霊の働きを、どこまで信じて、どこまで信頼しているのかが大切なのです。

聖霊を受けたからといって、聖霊が、その日からわたしたちをスーパーマンに変えてくれるわけではない。急に変身して、勇気あるすごい人になることはないです。

聖霊は本当に神様の息吹なのです。後ろからフーッと吹いてくる息でしかないんですよ。そして、それが力を発揮するのは、わたしたちがその息吹の方向に従って前に向かって進もうとするときです。そのとき、後ろから来る風が力を発揮するんです。わたしが斜め横に向かって進むとき、真っ直ぐ吹いている風はあまり効きません。横を向いて全然違う方向に行こうとすれば、風は全く力を発揮することができないんです。

聖霊の恵みは、確かにお恵みとして、わたしたち一人ひとりに与えられます。7つの賜物があると聞きましたよね、堅信の勉強をしたときに。
つまり、聖霊の7つの賜物は、後ろから真っ直ぐ、フーッと神様の息として吹きかけられている。それが本当に効果を発揮するためには、わたしたちが真っ直ぐその息吹と同じ方向に向かって、歩いて行くことが必要なのです。

聖霊の息吹がフーッと吹いている、その方向と同じ方向に向かってわたしたちが歩いているというのは、とても大切な条件なのですよ。
「風がどこから吹いてくるのか、人は誰も知らない」という典礼聖歌の歌がありますけれども、まさしく神の息吹ですから、目に見えないですよね。風が一体どこからどこへ向かって吹いているのか、パッと見ただけじゃわかんないわけですよね。
同じように聖霊も、一体どこからどこに向かって吹いているんだろうということがわからなければ、わたしたちはその風と同じ方向に向かって進んで行くことはできないわけですよ。ですから、わたしたちにとって大切なのは、風はどこからどこに向かって吹いているのかということを、知ろうとすることです。

では、それはどうやって知ることができるのでしょう。
教会に来ていれば、シノドスという言葉を耳にしたことがあるかもしれない。もしもまだならば、今日から是非、シノドスというのは何だろうと考え、学んで頂ければと思います。東京教区や教区ニュースでも、YouTubeのチャンネルで短いビデオをいろいろ作っていますので、是非ともご覧ください。

シノドスというのは、共に歩む、という意味です。教会はシノドスの教会なんだと、教会のあり方はシノドスなんだということを教皇様がおっしゃって、それでいま「教会が、共に歩む教会になりましょう」ということを呼びかけています。

なぜならば、そうすることではじめてわたしたちは、聖霊がどっちに向かって吹いているのかを知ることができるからです。自分一人ではわからないけれども、みんなで一緒になって、集まって、互いが感じていること、互いが思っていることを話し合い、分かち合って、相手の言うことによく耳を傾け、自分の語りたいことを語り、そして、一緒に祈って、一緒に助け合って、道を進んで行くときにはじめて、どちらの方向に神様は息を吹いているのかがわかるんです。その方向を見誤っていると、聖霊は働かないのですよ。ですから、みんなで一緒になって正しい方向を見極めてゆくことは、とても大切なことです。

その見極めの取り組みの一つが、さっきもお話した、1965年まで開かれていた第二バチカン公会議です。
その公会議には、当時のすべての司教さんたちが世界中からバチカンに集まり、一緒になって何年間も会議をしたのです。
その中で、一緒に祈り、一緒に分かち合い、耳を傾け合い、そして互いに手を取り合って、助け合って進んでいきましょう、という作業を重ねていきました。それによって、一体いまの教会に対して、神様はどちらの方向へ風を吹いておられるのかを、見極めようとしたんです。それを、教会がよく使う言葉で「識別する」と言います。

神の意志を識別する。識別という言葉をよく使いますけれども、それは聖霊がどちらに向かって吹いているのか知ろうとする作業のことです。
ですから第二バチカン公会議はまさしく、その識別の作業でしたし、いまもなお、それが続けられているはず、なんですよね。ところがわたしたちは、そうしたことを時間が経つにつれて忘れてしまうわけです。

そこで教皇様はあらためて、シノドス的な教会、つまり、みんなで一緒になって支え合い、みんなで一緒に祈り合い、みんなで一緒に道を見つけてゆく、識別をする教会であることが当たり前の教会の姿にしましょうと呼びかけられた。聖霊がどちらに吹いているのかを、常に知ることができる教会にと。そして、そちらに向かって歩いていけば、おのずと聖霊の力が教会に働いてくれるわけです。
ですから、みんなで一緒になって識別をするというのは、とても大切なことだと思います。

こうして、何人もの人たちが一緒に堅信を受けますね。
今日堅信を受ける皆さんも、自分一人だけが今日から成熟した信徒となるということではなくて、一緒になって、神様の息吹が吹いている方向を見極めてゆく、助け合ってゆく仲間ができたんだということを、是非とも忘れないでいて頂きたいと思います。そしてそれは、今日堅信を受ける方たちだけでなくて、この教会共同体と言われているこの教会に集まって来るすべての人にとっても同じです。

一緒になって、神様の息吹の吹いている方向性を見極め、そちらに向かって足を踏み出すことで、教会は常に、聖霊によって満たされ、聖霊に導かれ、聖霊に後押しされる豊かな教会になってゆくと思います。

聖霊の力を受けて、皆さんお一人おひとりが、今日から成熟した信仰者、キリストの兵士として、聖霊に信頼しながら、福音を述べ伝えてゆく者となることを、心から期待してお祈りしています。

 

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2023年2月18日 (土)

週刊大司教第114回:年間第七主日

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2月13日から16日まで、定例の司教総会が、東京江東区の潮見にあるカトリック中央協議会で行われました。司教協議会(日本での法人の組織名がカトリック中央協議会で、教会での組織的な位置づけは日本カトリック司教協議会)の会計年度が1月から12月ですので、毎年この時期には法人としての決算報告を総会で承認することになります。司教団の会議では、宗教法人としての議題と、部分教会の司教団としての議題の両方が取り扱われます。

今回は、先に行われた若年教区司祭の研修会の報告などいくつかの報告事項と、決算以外にも、現在見直し作業が進められている日本語の典礼式文についての議題や、今後の司教協議会の委員会構成の見直しなどが取り上げられました。特に委員会構成では、広報出版情報提供関連の一元化や、青少年とのかかわり、また福音宣教に関連する組織の充実が必要との認識で一致しました。議案以外にも一日を費やして、宗教活動に関連する法律の改定やカルト問題について学びを深め、同時に間もなく開催されるアジアの大陸別シノドスの準備として、学びと共に具体的な分かち合いも行われました。

なお中央協議会から、今回の司教総会を短く紹介するビデオが配信されています。こちらのリンクからYoutubeでご覧いただけます。

いつものお願いなのですが、どうかわたしたち司教が、与えられた牧者としての務めをふさわしく果たすことができるように、皆様のお祈りをお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第114回、年間第七主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第114回
2023年2月19日

マタイ福音は山上の垂訓からの続きの部分で、敵に対する愛について述べるイエスの説教を記しています。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をもむけなさい」ということばは、よく知られていると同時に、あまりにも現実離れした考え方であると感じられる言葉でもあります。

しかしそれは、「隣人を愛し、敵を憎め」という掟と同様、「目には目を、歯には歯を」という人間の常識から当たり前の掟を否定することばであり、その理由は、「正しい者にも正しくない者にも」太陽を昇らせ雨を降らせてくださる天の父、いのちの与え主である「天の父の子」になるためだとイエスは語ります。

教皇フランシスコはこの箇所を、「キリスト教的な「変革」をもっともよく表す箇所の一つ」と指摘し、「真の正義への道をわたしたちに示」すことばであると述べています(2017年2月19日一般謁見)。

教皇様は、「イエスは悪を辛抱するのではなく、それに対して行動するよう弟子たちに求めています。しかし悪に悪で返すのではなく、よい行いによって返すのです。これは、悪の連鎖を打ち破る唯一の方法です。この悪の連鎖が打ち破られると、ものごとは本当に変わり始めます」と述べて、わたしたちが善の欠如である悪の状態を改善するために、善を持ってその空白を満たす以外に道はないと積極的な行動を呼びかけます。

同時に教皇は、単に暴力を我慢することが求められているのではなく、正義を追求することを辞めてはならないとして、こう述べています。

「イエスは「正義」と「報復」をはっきり区別するよう、わたしたちに教えています。正義と報復を見分けるのです。報復が正しいことは決してありません。わたしたちは正義を求めることができます。正義を行うことは、わたしたちの責務です」

わたしたちはしばしば、神に成り代わっているかのように他者を裁き、排除し、時に悪の行為を返してしまいます。裁いたり罰を与えようとするわたしたちは、いったい何者なのでしょうか。神の正義を追求し、それが確立されることをめざす者は、悪によって生じた空白を善なる行いを持って満たすものでありたいと思います。

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2023年2月11日 (土)

世界病者の日ミサ@東京カテドラル

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2月11日はルルドの聖母の記念日であり、世界病者の日と定められています。

毎年この日の午後には、教区の福祉委員会の主催でミサが捧げられてきましたが、現在は福祉委員会は他の社会活動系の委員会とともに、カリタス東京にまとめられましたので、今年はカリタス東京の主催で、午後から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサが捧げられました。

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このミサには、教区内で活動している団体など50近い団体、組織、活動グループが参加しました。今後、時間がかかるとは思いますが、教区内の社会系の活動のネットワークを、カリタス東京を核として発展させることができればと思います。それについては、下記のビデオの最後、わたしのあいさつのことろで詳しく語っています。(ビデオの59分あたりからです)

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本日の世界病者の日にあたっての、教皇様のメッセージは、こちらの中央協議会のHPからご覧ください

またカリタス東京のホームページはこちらのリンクです。

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以下、本日のカテドラルでのミサの説教の原稿です。

世界病者の日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年2月11日

いまや心と身体に癒やしをもたらす聖地として有名となったフランスのルルドにおいて、聖母マリアが少女ベルナデッタに出現されたのが、1858年2月11日のことでした。聖母に促されてベルナデッタは洞窟の地面を掘り、湧き出た泉の水によってもたらされた病気の奇跡的治癒は、その後いまに至るまで七十以上が、公式な委員会によって奇跡と認定されています。それ以外にも個人的に何らかの形で癒やしを得た人は、数え切れないほど存在しています。

ちょうど30年前、1993年に、教皇聖ヨハネパウロ二世は、聖母マリアを通じたこれらの奇跡的な治癒を思い起こさせるルルドの聖母の記念日を、世界病者の日と定められました。この日の制定にあたって教皇聖ヨハネパウロ二世は、二つの点を心に留めるように呼びかけています。

第一に、善きサマリア人の業を現代社会において具体的に生きることは、福音宣教の重要な部分であると神の民全体が理解し、社会全体が病者と苦しむ人へ心を向けるよう努めること。

第二には、理不尽とも思えるこの世における人間の苦しみを、キリストの苦しみと一致させることで、わたしたちがキリストの贖いの業における栄光に与ることができるのだと心に留め、キリスト者としての霊的な成長を目指すこと。この二点です。

教皇聖ヨハネパウロ二世は1984年2月11日に教皇書簡「サルヴィフィチ・ドローリス」を発表され、人間の苦しみのキリスト教的意味を考察されました。この考察を通じて教皇は、人類の救いのための力は苦しみから生み出されることを、キリストの生涯が、あかししていると指摘します。イエスの十字架での受難と死こそが復活の栄光を生み出す力でありました。同様に、この世界における人類の苦しみは、いのちを生きる希望を生み出す源であります。

わたしたちは闇の中に取り残された不安の中で、この三年間を過ごしてきました。世界的な規模での「いのちの危機」に直面して来たことは確実です。

あらためて、亡くなられた方々の永遠の安息を祈るとともに、現時点で病床にある方々の一日も早い回復を祈ります。またいのちを守るために、日夜懸命に努力を続けている医療スタッフ、介護職にある方々、また未知の感染症の解明のために日夜研究を続けている専門家の方々。その懸命な働きに、心から感謝すると共に、皆さんの心と体の健康が守られるようにお祈りいたします。

このいのちの危機という大きな苦しみは、あらためて互いに助け合うことの重要性をわたしたちに思い起こさせました。助けを必要とする人への思いやりの大切さを感じさせました。人間は一人では生きてはいけない、誰かの助けによって生かされていることを肌で感じさせました。

それにもかかわらず、世界の現実はどうでしょうか。思いやりのある助け合いの世界は実現しているでしょうか。現実は全く反対です。

教皇フランシスコは、感染症が広がった当初から、助け合うことの大切さを述べてきました。

2020年9月2日の一般謁見では、「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」と呼びかけ、その上で、 「調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です」と、世界的な連帯が不可欠であることを強調されました。

しかしながら、この三年間、わたしたちの眼前には、調和も多様性も連帯も実現していません。目の前に展開しているのは、分裂であり、排除であり、暴虐です。

例えばミャンマーではクーデターが起こり、ウクライナではロシアの侵攻によって戦争が始まり、日本でも元首相の暗殺などという、暴力によって他者のいのちを奪い取るような、いのちに対する暴虐は続いています。

暴力による支配が続く中で、先行きの見えない不安は暗闇をさらに深く増し、わたしたちは疑心暗鬼に捕らわれます。一体これからどうなるのだろうという、先行きの不透明性は、心の不安を増し、いのちの危機の状況が続く中で疑心暗鬼はさらに深まり、他者への思いやりの心は薄れ、利己的な保身に走ってしまいます。社会は寛容さを失ってしまったかのようです。

そのような状況が続いていると、心の一部を占めてしまった不安が、暴力を止めるためには暴力を持って対抗することを認める思いを強くします。いのちを守るためには、多少の犠牲はやむを得ないという気持ちになってきます。しかし暴力の結末は死であります。

キリストの苦しみに与ることが、いのちを生きる希望を生み出す源となるのだと信じるわたしたちは、内向きになり自分を守る利己的な生き方ではなく、積極的に出向いていき、互いに支え合う思いやりに満ちあふれた社会を、いまだからこそ実現するように努めなくてはなりません。

教皇フランシスコは、今年の世界病者の日のメッセージのテーマを、善きサマリア人のたとえ話から、「この人を介抱してください」とされ、副題として、「シノドスの精神にかなう、いやしの実践としてのあわれみの心」を掲げておられます。シノドスの精神こそが、互いに連帯の内に助け合いながら道を歩むことですから、まさしく。この苦難に満ちあふれた現実の中で、いのちの希望を生み出す道であります。

メッセージで教皇様は、ともに歩むことの大切さを強調した上で、「本当に一緒に歩んでいるのか、それとも同じ道にはいても、それぞれ、自己の利益を優先し、ほかの人には『自分でどうにか切り抜けて』もらって、わが道を行っていないか」自分に問いかけることが大切だと指摘されます。

その上で教皇様は、様々なレベルでのケアの実践の必要性を説いて、こう述べています。
「わたしたちが今まさに経験している歴史的状況において、教会の使命は、まさしく、ケアの実践に表れます。わたしたちは皆、もろくて弱い存在です。立ち止まり、近づき、介抱し、起き上がらせる力のある、あわれみの心で注意を向けてもらうことを、皆が必要としています。ですから病者の置かれている状況は、無関心を打ち破る呼びかけであり、姉妹や兄弟などいないかのように突っ走る人々に、ペースを落とすよう訴えるのです」

世界病者の日は、私たちを包み込む神の癒やしの手に、いつくしみの神の手に、ともに包み込まれることを実感し、それを今度は自らが実践しようと心に誓う日です。主の癒やしといつくしみの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくともに歩む民でありましょう。キリストの苦しみに心をあわせ、十字架のもとに佇まれ苦しみを共にされた聖母と心をあわせて、この世界の苦しみのなかに、いのちを生きていく希望を見いだす日でもあります。共同体における連帯の絆を回復させる日でもあります。

神のいやしの奇跡の泉へとベルナデッタを導かれたルルドの聖母マリアが、同じようにわたしたちを、いのちを生きる希望の源であり、神のいつくしみそのものである御子イエスへと導いてくださいますように、聖母の取り次ぎを祈りましょう。

 

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週刊大司教第113回:年間第六主日

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2月11日は世界病者の日です。毎年、この日には、午前中にボーイスカウトなどカトリックのスカウト東京連盟のBP祭のミサが東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われ、午後には世界病者の日のミサが、同じくカテドラルで捧げられました。病者の日のミサの説教は、別途掲載します。

来週は月曜日から定例の司教総会が行われます。全国の司教が集まります。司教たちのためにお祈りをお願いいたします。

安次嶺神父様の葬儀ミサについても別途掲載します。また東京教区から公示されていますが、フィリピンで引退生活を営んでいた、東京教区の司祭ヨハネ満留功次神父様が、帰天されました。現地で火葬され葬儀ミサがすでに執り行われました。後日、ご遺骨は東京で引き取り、府中墓地に埋葬するのに合わせて追悼ミサを行います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第113回、年間第6主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第113回
2023年2月12日

マタイ福音は、イエスご自身の存在と律法や預言者、すなわち旧約聖書との関係を語ります。イエスは旧約の掟や預言と無関係ではなく、イエスがもたらす神の国は旧約に記されていることを完成すると、イエスご自身が述べておられます。

律法は、「殺すな」と定めています。しかしイエスはさらにその根本にまで立ち入り「腹を立てるものは誰でも裁きを受ける」と指摘します。すなわち、掟は様々な枠を定めることで、その枠とどのように折り合いをつけて生きるのかという、いわば処世術と表裏一体の関係を生み出すのですが、イエスはそもそも根本にある、わたしたちはどう生きるかという生きる姿勢を問いかけます。つまり掟は、どこまでならゆるされるかの枠組み基準ではなく、どう生きるかを生み出す基礎となるべきものです。掟をすべて守るから完全な者となるのではなく、問題はどのように生きるのかであることは、福音の他の箇所、例えば金持ちの善なる青年へのイエスのことばなどにも表されています。

2月11日は世界病者の日と定められています。

2月11日は1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、湧き出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出し、多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

ルルドという聖地は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっています。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、希望を失った人の心に希望を回復し、互いへの思いやりの心を思い起こさせる力があります。わたしたちすべての教会共同体が、その霊的な安らぎの雰囲気に倣い、それを生み出すものでありたいと思います。

教皇様は今年の世界病者の日のメッセージで、「働ける人だけに価値があるのではなく、生産性のある人だけが大切なのでもありません。病者は神の民の中心であり、神の民は、人類の預言である彼らとともに前進するのです。一人ひとりに尊い価値があり、だれも切り捨ててはならないという預言です」と述べています。

あらためて、イエスに従うわたしたちはどう生きるべき存在であるのか、自らのあり方を振り返ってみましょう。

 

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パウロ安次嶺晴美神父葬儀ミサ@東京カテドラル

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去る2月4日に帰天された東京教区司祭パウロ安次嶺晴美神父様の葬儀ミサは、2月8日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われました。

安次嶺神父様の略歴については、こちらをご覧ください

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安次嶺神父様は、東京教区が新潟教区を助けるために司祭を派遣してくださった、その第一号でした。新潟教会で3年間活躍してくださり、新潟にも友人がたくさんおいででした。新潟教区の司祭団は、2月7日、毎月の司祭静修にあわせて、新潟のカテドラルに集まった司祭で、安次嶺神父様のために祈りをささげてくださったと、成井司教様から連絡をいただきました。

様々な病気を抱えられ、人工透析のために週三回は病院に通わなくてはならなかった中で、最後の任地となった茂原教会で、できる限りで頑張っておられましたが、病状が深刻になり、信徒の方々の手助けがなくては生活もままならない状況の中で、ペトロの家に移動していただきました。昨年末頃にはペトロの家での介護も難しくなり、もっと手厚い介護をしていただける施設への移動を調整していましたが、その間に様態は急変し、入院先の病院で、2月4日に亡くなられました。

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神父様の永遠の安息のために、どうぞお祈りください。なお、後日、カトリック府中墓地にある教区司祭共同納骨墓へ納骨いたしますが、その日程は追ってお知らせいたします。

以下、2月8日の葬儀ミサの説教原稿です。

パウロ安次嶺晴実師葬儀ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年2月8日

わたしたちは信じています。イエスはキリストです。イエスはわたしたちの罪の贖いのためにご自身をいけにえとしてささげ、その受難と死にあずかる者が、主ご自身の復活の栄光にも与るようにと招いておられます。神は、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この世界における人生の旅路を歩んでいます。

イエスはキリストです。すべての人をその懐における安息と永遠のいのちに招かれる救い主です。わたしたちは、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉を信じています。イエスをキリストと信じるわたしたちには、すべての人がその救いに与ることができるように、神の愛といつくしみ、あわれみを、ひとりでも多くの人に伝え分け与える使命があります。

司祭は叙階式の時に、「福音をのべ伝え、カトリックの信仰を表すことによって、神のことばに奉仕する務めを誠実に」果たすことを約束します。また司祭は、「教会共同体の助けのもとに、貧しい人、苦しむ人、助けを必要とするすべての人に、主の名において、神のいつくしみを示しますか」と問われて、「はい、示します」と約束いたします。

1987年3月15日に司祭叙階を受けた安次嶺神父様も、その日同じように力強く約束したことだと思います。安次嶺神父様は1949年9月生まれですから、司祭に叙階されたときは37歳であったかと思います。それから35年間の司祭としての人生において、様々な困難に直面しながらも、安次嶺神父様は、すべての人がキリスト・イエスの約束された救いに与ることができるように、イエスの愛といつくしみを、ひとりでも多くの人に分け与えようと使命を果たされてきました。

この数年、ただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面しているのですが、賜物である人間のいのちを、まるでもて遊んでいるかのような方法で、暴力的に奪い取る理不尽な事件も続発しています。

特にこの3年間、様々ないのちの危機に直面する中で、教皇フランシスコは連帯の重要性をたびたび強調され、感染症が拡大していた初期の段階、2020年9月2日の一般謁見で、 「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」といのちを守るための連帯が必要だと強調されました。

2019年11月。教皇様はここ東京で、東北被災者に向かってこう言われました。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

暗闇に輝く希望の光は、互いに助け合う人との出会いから生まれ、連帯を通じて強められます。しかし残念ながら、実際の世界ではその連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、この歴史に残る困難の中で、暴力がいのちを危機にさらしています。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。わたしたちには互いに助け合うものとして、多くの人との出会いが必要です。その出会いの中での支え合いが必要です。

安次嶺神父様が以前、東京教区ニュースのインタビューに答えられた記事を読んでみると、何か劇的なことがあったわけではないが、お母様を通じてプロテスタント教会に出会い、さらにカトリックに改宗し、そして様々な人との出会いがあって、それによって司祭へと導かれていった人生の歩みが記されていました。人との出会いが、司祭召命への道となったことが述べられていました。

忠実に小教区での司牧に携わってこられた安次嶺神父様の司祭としての働きに一つ特筆するところがあるとすれば、それは東京教区と新潟教区の協力関係の中で、東京から新潟へ派遣された一番最初の司祭であったことだと思います。わたしが前任であった佐藤司教様が新潟教区司教であった時代です。そこでの毎日の生活の中でも様々な人との出会いを通じて、安次嶺神父様は多くの方と強い人間関係を築き、その後もしばしば新潟の友人たちを訪問されていました。

最後の任地となった茂原教会では、特に外国籍の信徒の方々を共同体にどうつなげていくのかに心を配られていたようです。残念ながら、様々に抱えておられた病気のために、特に定期的に透析を受けなくてはならなかったこともあり、5年間茂原教会で働かれたあと、2019年10月にはペトロの家に来られ療養生活を始められました。73歳での帰天は早すぎると感じますが、特に人生の終盤では、様々な病気を抱える中でご自分の思い通りにならないもどかしさの中で、その苦しみを祈りの内にささげられる毎日であったと思います。

わたしたちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、地上で信仰を生きているわたしたちの教会が、天上の教会と結ばれていることも信じています。ですからわたしたちは生きている互いのために祈るように、亡くなった人たちのために祈り、また聖人たちの取り次ぎを求めて祈ります。そのすべての祈りは、一つの教会を形作っている兄弟姉妹のための、生きた祈りであります。

安次嶺神父様の永遠の安息を祈ると共に、わたしたちも人生における出会いを大切にし、その中で互いに助け合い連帯しながら、福音をあかしする道を共に歩んで参りましょう。

 

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2023年2月 7日 (火)

2023年日本26聖人殉教祭@本所教会

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2月5日は日本26聖人殉教者の記念日です。今年は主日と重なったため、特別にこの日を祝った教会などをのぞいて、もちろん主日のミサが優先されました。(なお現在、日本のこういった記念日が主日と重なった場合に、その年の記念日を移動することを司教協議会で検討中です)

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しかし、毎年、26聖人の殉教祭を祝っているところでは、この日曜日を許可を得て殉教者の記念日としたところもあったと思います。東京教区の本所教会もその一つです。長年にわたって、2月5日に一番近い主日を、殉教祭として祝ってきました。以前にも記しましたが、わたしも1972年頃から10年近くは、毎年、他の神言会の神学生たちと一緒に名古屋から、この殉教祭に参加していました。

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今年の本所教会での殉教祭には、聖堂入り口のところに、26聖人それぞれについての紹介のパネルも用意され、ミサも、ラテン語あり、グレゴリアンの天使ミサありと、かつての殉教祭を彷彿とさせるお祝いでした。寒い日でしたが、東京はお天気に恵まれ、本所教会の裏手にはスカイツリーもそびえ立ってきれいに見えていました。

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ミサ後には、本所教会で数年前に作成したという26聖人殉教祭の法被をまとって、教会のカリタスの業について、30分ほどお話をさせていただきました。参加してくださった皆さん、ありがうございました。

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以下、当日の説教の原稿です。

日本26聖人殉教者殉教祭ミサ
2023年2月5日
本所教会

イエス・キリストの十字架での受難と死にこそ復活の栄光があると信じるわたしたちは、自分の十字架を背負ってついてきなさいと命じられる主の言葉を心に刻みながら、現代社会にあっていのちを生き続けています。

特にこの三年間、新型コロナ感染症の状況の中で、わたしたちは、世界中のすべての人たちと一緒になっていのちの危機に直面し、どこへ進めば光が見えるのか分からないままに、暗闇の中を光を求めて彷徨い続けてきました。

いのちが危機に直面し続けるいまだからこそ、いのちは神の似姿として創造された尊厳ある存在であり、すべてのいのちは例外なく神からの賜物として与えられたと信じるわたしたちには、この世界の現実の中で特にいのちの意味について深く考え、責任を持って語り行動する義務があります。

いのちの尊厳を守りながら生きることは福音を生きることであると、教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」で強調されました。

教皇様は回勅に、「人間のいのちを守るようにという神のおきての深遠な要素は、すべての人に対して、またすべての人のいのちに対して、敬意と愛をしめすようにという要求して現れます」と記し、ローマ人への手紙を引用して、「愛は隣人に悪を行いません」と述べています。(41)

それにもかかわらず、わたしたちが直面するいのちの危機は深まり続けています。感染症によってもたらされた危機は、わたしたちを疑心暗鬼の闇に引きずり込みました。先行きが分からない中で、人は自分の身を守ることに躍起になり、心は利己的になりました。利己的になった心は余裕を失い、社会全体は寛容さを失いました。寛容さを失った社会は、暴力的、攻撃的になり、異質な存在を排除して心の安定を求めるようになりました。その結果は、深まる差別感情であり、異質な存在の排除であり、究極的には暴力を持って隣人のいのちを奪う戦争の勃発です。

この感染症の危機の中で、皆で光を求めなくてはならないときに、ミャンマーではクーデターが起き、すでに二年になるのに平和と安定への糸口は見えず、一年前にはウクライナで戦争まで始まりました。

教皇フランシスコは、このパンデミックの状況の中で、幾たびも、連帯すること、支え合うことが、この困難から抜け出す唯一の道であると強調されてきましたが、実際にわたしたちの前で展開しているのは、連帯や支え合いではなく暴虐と排除です。

このようないのちの危機が深まっているときだからこそ、いのちを賜物として与えられているわたしたちは、そのいのちを守ることを、いのちの尊厳に敬意を払うことを、互いのいのちに愛のまなざしを向けることを、あらためて愚直に強調し続ける義務があります。

教会にあって、殉教を遂げた多くの聖なる先達は、自分の十字架を背負ってついてきなさいと呼びかけられたイエスに忠実に生きることによって、主ご自身の受難と死という贖いの業に与り、それを通じていのちの福音を身をもってあかしされた方々です。

聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。自ら十字架での死を遂げることで、逆説的に、いのちの尊厳をあかしされた方々です。イエスの福音にこそ、すべてを賭して生き抜く価値があることを、大勢の眼前であかしされた方々です。すべてを投げ打ってさえも守らなくてはならない価値が、いのちの福音にあることをあかしされた方々です。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、 「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」と苦しみの意味を記しています。

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。

26人の聖なる殉教者たちは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という、ガラテヤの教会にあてられたパウロの言葉を、その人生をもって生き抜き、証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という、マタイ福音書に記されたイエスの言葉を、その人生をもって生き抜き、証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、そのいのちを失うこと以上に価値のあることなのだという確信を、殉教において証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、混沌としたいのちの危機の中で生きるわたしたちに、福音を生き抜くとはどういう意味があるのか、その答えを示されました。

「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と約束された主は、わたしたちと歩みを共にしてくださいます。ともに歩みながら、わたしたちが与えられた賜物であるいのちを、神が望まれたように充分な意味を持って生きることを求められています。わたしたちは、ともに歩んでくださる主に励まされながら、賜物であるいのちを守ることを愚直に叫び続け、互いに連帯し支え合うことで、主とともにその愛に生き、いのちを生きる希望を生み出すものでありたいと思います。

 

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2023年2月 6日 (月)

訃報:パウロ安次嶺晴実師

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カトリック東京大司教区の教区司祭、パウロ安次嶺晴実(あじみね はるみ)神父が、2月4日(土)午後3時46分、閉塞性胆管炎のため豊島中央病院にて帰天されました。

安次嶺神父様は、新潟教区の要請を受けて東京教区が司祭を派遣してくださった第一号で、3年間、新潟で働いてくださったことがあります。その関係で、新潟にも安次嶺神父様をよく知っておられる方がおられることと思います。以前から糖尿病があり、人工透析も受けていましたが、最後の任地となった千葉県の茂原教会で、意識を失って倒れているところを信徒の方に助けられるようなことがあり、2019年秋に、東京教区のペトロの家に移っていただき、隠退生活を続けておられました。昨年末頃から体調が悪化し入院生活を続ける中で、設備の整った施設への入居を調整していましたが、転居というその日に体調が悪化し、そのまま入院を続ける中で、2月4日に帰天されました。

安次嶺神父様は1949年生まれで、まだ73歳でした。司祭叙階は1987年。新潟に出向されていたのは1990年4月から3年間でした。

安次嶺神父様が、2015年、東京教区ニュースにインタビューに答えた記事を、こちらでご覧いただけます

葬儀ミサは、2月8日水曜日、午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行います。どなたでも参加いただけるようにと考えておりますが、状況によっては入堂制限をさせていただく可能性もあります。

安次嶺神父様の永遠の安息をお祈りください。

 

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2023年2月 4日 (土)

週刊大司教第112回:年間第五主日A

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2月5日、年間第五主日の週刊大司教です。

2月5日は日本26聖殉教者の祝日でもあります。当日は、墨田区の本所教会で、殉教祭のミサを捧げることになっていますが、これについてはまた記載します。

なお来週2月11日の午後2時からは、世界病者の日のミサがカリタス東京の主催で、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。

ミャンマーでクーデターが発生してから、今月でもう2年です。軍事政権から民主化されたとか、平和が回復したという声は聞こえてきません。ボー枢機卿様はじめミャンマーの司教団は、対話による平和の確立を、繰り返し呼びかけておられますが、平和を叫ぶ宗教者への弾圧も続いています。ミャンマーのためにお祈りください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第112回、年間第5主日のメッセージ原稿です

年間第5主日A
週刊大司教第112回
2023年2月5日

マタイ福音は、「地の塩、世の光」としてよく知られているたとえ話を記しています。

食物に味をつけたり腐敗を防いだり、塩には様々な役割があり古代から貴重な存在とされていますが、塩が貴重な理由はその存在それ自体ではなくて果たす役割にある事が指摘されています。同様なことが光についても指摘され、光それ自体の存在が貴重なのではなく、その果たす役割によって存在の重要性が与えられていることをイエスは語ります。その上でイエスは、ご自分に従う弟子の心づもりに触れています。

「あなた方の立派な行いを見て」褒め称えられるべきは、その行いを実行する者ではなく、「あなた方の天の父をあがめる」ためだと述べるイエスは、弟子が与えられた務めを忠実に果たしているかどうかを問いかけています。果たしてわたしたちはどうでしょうか。わたしたちが果たすべき役割に忠実であることによって、わたしたちにいのちを与え、救いへと招いてくださる主ご自身がたたえられるような、そういう弟子でありたいと思います。

2月5日は日本二十六聖人殉教者の祝日でもあります。聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。殉教者こそは自分の栄誉のためではなく、自らの存在と自らの受難と死を通じて、主イエスを証しするための道具となる道を選んだ人たちです。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、 「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」と苦しみの意味を記しています。

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。

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