« 2023年2月 | トップページ | 2023年4月 »

2023年3月25日 (土)

週刊大司教第119回:四旬節第五主日A

334557289_199924155994901_21806034556209

四旬節も終盤となりました。

今年は3月26日が四旬節第5主日で、年度が明けて4月に入ると最初の日曜日4月2日が受難の主日となり、聖週間です。そして復活の主日は4月9日となります。

例年通り、受難の主日午前10時、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日午後7時は、関口教会で大司教司式ミサです。またそれに併せて、次の二回の土曜日、すなわち4月1日と4月8日は、週刊大司教の配信をお休みにします。

週刊大司教の次回、120回目は4月15日の配信です。また関口教会の聖週間のミサは、すべてYoutubeの関口教会のチャンネルから配信されます。

また聖木曜日の午前10時半には聖香油ミサが東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。入堂制限は基本的にはありませんが、定員以上の収容はできませんので、状況によっては入堂をご遠慮いただく場合もあり得ることを、事前にご承知おきください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第119回、四旬節第五主日のメッセージ原稿です。

四旬節第五主日A
週刊大司教第119回
2023年3月26日

ヨハネ福音はラザロの死と復活の話を記しています。主こそがいのちの与え主であり、復活であり、永遠のいのちであることを、信仰においてわたしたちに再確認させる福音の奇跡物語です。この数年のように、パンデミックによっていのちの危機に直面してきましたが、わたしたちもマルタやマリアのように、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と叫びたい気持ちです。

パンデミックは、わたしたちに、すべてのいのちを守るためには、自分の身を守ることだけではなく、同時に他者のいのちにも心を配る思いやりが必要なのだということを思い起こさせています。すなわち、すべてのいのちを守るための行動は、社会の中での連帯と思いやりを必要としています。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

本日の福音で、イエスは愛する友人であるラザロの死という苦しみと悲しみを通じて、初めて神の栄光を目に見える形で表します。

そのイエスご自身が、自ら受難の道へと足を進められ、十字架上でいのちをささげられます。しかしその自己犠牲こそは、永遠のいのちへの復活という栄光を生み出す苦しみでありました。

この数年間、闇の中を彷徨ってきたわたしたちは、「いのちを守るための行動」をすることの必要性を痛感し、自分の身を守ることだけではなく、社会の中での連帯と思いやりの重要性に気がつかさせられました。こういった気づきは、残念ながら、危機的状況が去ってしまうと、あっという間に忘れ去られてしまいます。

今回の事態で、病気に苦しむ人、病気との闘いに苦しむ人、経済の悪化で苦しむ人、雇用を失う人。様々な状況で、いのちの危機に直面する人たちが社会には存在することでしょう。わたしたちにはいま、思いやりと共に「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜くことが求められています。

 

| |

2023年3月22日 (水)

司祭叙階式@東京カテドラル

2023_03_21_023

3月は卒業シーズンですから、各地の教育機関では卒業式が行われています。司祭を養成する学校である神学校も、この時期、神学生が巣立っていきます。厳密な意味では違うのですが(司祭の養成そのものは生涯養成で卒業がないので)、その卒業式にあたるのは司祭叙階式ですが、昨日3月21日には、全国各地で叙階式が行われました。

2023_03_21_027

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、久しぶりに多くの方に参加していただき、また内陣に司祭団もあげて、司祭叙階式を執り行い、六名の新しい司祭が誕生しました。

2023_03_21_197

この六名の新しい司祭とは、東京教区のフランシスコ・アシジ 熊坂 直樹(くまさか なおき)師、フランシスコ・アシジ 冨田 聡(とみた さとし)師、コンベンツアル聖フランシスコ修道会の大天使ミカエル 外山 祈(とやま あきら)師、テモテ・マリア 中野里 晃祐(なかのり こうすけ)師、聖パウロ修道会のレオ 大西 德明(おおにし とくあき)師、そしてレデンプトール会のフランシスコ・アシジ 下瀬 智久(しもせ としひさ)師の六名です。みなさんおめでとうございます。

神様からの呼びかけに応え、御父から司祭職を授けられました。この道を生涯歩み続けることができるように、共に祈りを続けたいと思います。

2023_03_21_036

なおこの日のミサには、先日叙階されたイエズス会の森・渡辺の二人の助祭も参加してくださいました。

2023_03_21_049

それぞれの修道会での喜びであり、個別にお祝いも考えられたかと思いますが、こうして教区の中心にあるカテドラルで一緒に叙階されることで、司祭誕生の喜びを修道会に留めることなく、教区全体の喜びをして祈りの時を共有できたかと思います。ご一緒にと言う教区からのお誘いに快く応じてくださった修道会の皆様に感謝します。昨日誕生したこの六名の司祭をはじめ、この時期に各地で誕生している新しい司祭たちの、これからの協会での活躍に期待しながら、司祭の召命のために祈り続けます。

なお、熊坂新司祭は北町教会・豊島教会の助任司祭として、また冨田新司祭は松戸・市川教会の助任司祭として、それぞれ、復活祭後から派遣いたします。


2023_03_21_073

以下、叙階式ミサの最中、呼び出しと養成担当者からの適格性の確認の対話後におこなった、説教の原稿です。

東京教区、レデンプトール会、パウロ会、コンベンツアル会
司祭叙階式ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年3月21日

この三年間、感染症による危機的な状況の中で、わたしたちは、世界中のすべての人たちと一緒になって、どこに光があるのか分からないまま、暗闇の中を彷徨い続けてきました。

いのちは神の似姿として創造された尊厳ある存在であり、すべてのいのちは例外なく神からの賜物として与えられたと信じるわたしたちには、この現実の中でとりわけいのちの意味について深く考え、責任を持っていのちの尊厳を語り、そのために行動する務めがあります。

東日本を襲った巨大地震と津波の発生から、数日前に12年となりましたが、あのときわたしたちは、自然の驚異的な力の前に、人間の知恵や知識のはかなさを痛感し、いのちの創造主の前で謙遜に生きなければならないことを、実感させられました。12年におよぶ復興の時にあっては、互いに支え合い、連帯のうちに歩むことこそが、いのちを生きる希望を生み出すことを学んだはずでした。しかし残念ながら、わたしたちは時の流れとともに教訓を忘れ去ってしまいます。忘れ去ったところに襲いかかったのが、この感染症でありました。

わたしたちはこの一連の時の流れの中で、わたしたちを巻き込む様々な出来事のただ中に身を置きながら、どこに向かって歩むようにと導かれているのかを考えてみる必要があります。

2023_03_21_159

感染症によってもたらされた危機は、わたしたちを疑心暗鬼の闇に引きずり込みました。先行きが分からない中で、人は自分の身を守ることに躍起になり、心は利己的になりました。利己的になった心は余裕を失い、社会全体は寛容さを失いました。寛容さを失った社会は、暴力的、攻撃的になり、異質な存在を排除して心の安定を求めるようになりました。深まる排他的感情の行き着く先は、いのちへの暴力であり、さらには戦争の勃発です。

この感染症の危機の中で、皆で光を求め、ともに歩まなくてはならないときであるにもかかわらず、ミャンマーではクーデターが起き、一年前にはウクライナで戦争まで始まり、いまだ終結の気配さえ見せていません。

ちょうどこの困難な時期に教皇様は、シノドスの道をともに歩むようにと呼びかけておられます。そのテーマは、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。わたしたちは今その道程を、全世界の教会とともに歩んでいます。各国が報告書を作成し、提出したらそれで終わりではないのです。わたしたちには、教会のあり方そのものを見つめ直し、新たに生まれ変わることが求められています。道程は、まだまだ続いていきます。

2023_03_21_274

わたしたちはひとりで生きていくことは出来ません。孤独のうちに孤立していのちをつなぐことはできません。神からの賜物である私たちのいのちは、互いに助けるものとなるために与えられています。互いに支え合って、ともに道を歩むことで、わたしたちはいのちを生きる希望を見いだします。

人間関係が希薄になり、正義の名の下に暴力が横行し、排除や排斥の力が強まる陰で孤独や孤立によるいのちへの絶望が深まる今だからこそ、いのちの尊厳を守り抜き、そのために互いに連帯し、支え合いながら、道を歩むことが不可欠です。いのちの与え主である神に向かってまっすぐと歩みを進めるために、聖霊の導きをともに見出さなくてはなりません。そのためにも、互いのうちに働かれる聖霊の声に耳を傾け、共に祈る中で、神の導きを見出していかなくてはなりません。教会共同体がともに歩むことは、いのちを生きる希望を生み出す源です。

交わりによって深められたわたしたちの信仰は、わたしたち一人ひとりを共同体のうちにあってふさわしい役割を果たすようにと招きます。交わりは参加を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを十全に果たしていくとき、神の民は福音をあかしする宣教する共同体となっていきます。果たして今、わたしたちの教会共同体は、何をあかししているでしょうか。

さて皆さん、この兄弟たちは間もなく司祭団に加えられます。・・・
(以下、叙階式定式文に続く)

ビデオでは、2:48:00から、叙階をうけた新司祭のインタビューをご覧いただけます。当日のライブ配信そのままの録画ですので、いろいろと周囲ががたがたしていますが、ご覧いただければと思います。またインタビュー前には、記念撮影の状況もご覧いただけます。

| |

2023年3月18日 (土)

週刊大司教第118回:四旬節第四主日A

2023_03_11

四旬節も第四主日となりました。

学校などの年度末の季節でもありますから、叙階式が各地で行われています。東京においては、先週の土曜日がイエズス会でお二人の助祭が誕生し(下の写真)、次の火曜日3月21日には、東京教区が二名、コンベンツアル会が二名、レデンプトール会が一名、パウロ会が一名と、六名の司祭が東京カテドラル聖マリア大聖堂で誕生する予定です。叙階式の模様は、いつものようにカトリック関口教会のyoutubeチャンネルから配信されますので、お祈りください。

2023sjd01

また、わたしの出身母体でもある神言修道会も、本日土曜日に名古屋で司祭と助祭の叙階式が行われ、二名の司祭と三名の助祭が誕生しました。助祭のうちの一人、ファビオ神学生は、関口教会で一年間司牧実習をされたことがありました。また司祭叙階を受けた傍島神父様は、神学生時代にガーナで海外研修をされました。後に続く神学生が誕生するように、皆様のお祈りをお願いいたします。

Img_20230318_154439726

本日、土曜日の午後には、東京教区の宣教司牧評議会の定例会がケルンホールで開催され、各宣教協力体からの代表が参加されました。今回は特に安房・上総宣教協力体から千葉県の教会に焦点を当て、また京葉宣教協力体から葛西教会の滞日外国人とのかかわりに焦点を当てて、お話をしていただき、それに基づいて、小グループでの分かち合いを行いました。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第118回、四旬節第四主日のメッセージ原稿です。

四旬節第四主日A
週刊大司教第118回
2023年3月19日

ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復するという奇跡を行った話を記しています。

この物語には、「見える」と言うことについて二つの側面が記されています。それは、実際に目で見ることと心の目で見ることの違いです。

それを象徴しているのは、今日の福音の終わりに記されている、目が見えるようになった人とイエスとの会話です。視力を回復した人には当然イエスの姿が見えていますが、それでもなおその人は、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」とイエスに問いかけます。目の前に神の子は立っているにもかかわらず、見えても見えないのです。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。

心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。

見えているのに見えない状態とはどのようなことなのか。福音はその少し前に、ファリサイ派の人たちと視力を回復した人とのやりとりを記しています。奇跡的出来事が起こったからこそ、この人を呼び出したにもかかわらず、ファリサイ派の人たちは、自分たちが作り出した枠を通してしか物事を見ることができていません。その枠からはみ出すものは、存在しないのです。ですから逆に、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、いまの言葉で言えば逆ギレしたかのように裁きます。わたしたちは、自分の価値観に基づいた枠を作り出し、それを通じてのみ現実を知ろうとします。

同様なことがサムエル記に記されています。ダビデの選びです。預言者サムエルに、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と神は語りかけます。

今年の四旬節メッセージでシノドスの歩みに触れた教皇様は、こう記されています。

「四旬節のためのもう一つの道しるべです。それは、現実と、そこにある日々の労苦、厳しさ、矛盾と向き合うことを恐れて、日常と懸け離れた催しや、うっとりするような体験から成る宗教心に逃げ込んではならない、ということです」

人間の思いが生み出した枠を通じてのみ現実を見つめることも、また、宗教に逃げ込むことにつながります。わたしたちは、心に語りかける主の声に耳を傾け、枠を捨てて主ご自身をまっすぐに見つめるように招かれる主に信頼し、主とともに歩んでいきたいと思います。

 

| |

2023年3月16日 (木)

四旬節第三主日ミサ@東京カテドラル聖マリア大聖堂

23lent3e

四旬節第三主日は、関口教会の四旬節黙想会でした。

10時のミサを司式させていただいたあと、引き続いてケルンホールを会場に、一時間、黙想会の講話をいたしました。多くの方に参加いただき感謝します。状況が改善してきているので、こうして大勢の方に集まっていただく行事が回復しているのは喜ばしい限りです。

23lent3d

なおこの日は、四旬節第二金曜日の、性虐待被害者のための祈りと償いの日の教皇様の意向をもってミサを捧げました。さらに3月11日の翌日でしたので、12年前の災害に思いを馳せ、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、また復興の光が東北の地にともされ続けるようにと祈りました。

23lent3c

残念ながら黙想会の講話は原稿なしですし、録音もしていませんので、講話の内容を公開できません。以下は当日10時のミサの説教の原稿です。

四旬節第三主日A(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年3月12日

四旬節は、回心の時です。回心の内に、信仰の原点を見つめ直す時です。

回心は、わたしたちが、一体どこを向いて信仰の道を歩んでいるのか、見つめ直す作業です。どこを向いて何を見て歩んでいるのかを、見つめ直す作業です。回心は単に、悪い行いを反省して良い人になろうと努力することに尽きるのではありません。まさしく、回心、回す心という漢字が象徴するように、心を回して真正面から神に向き合うこと、それが回心です。真正面から向き合ったときはじめて、わたしたちは神の存在を、神の愛を、神の憐れみを、神のいつくしみを、受けた恵みを、わたしたち自身が映し出す鏡となることができます。そのためにも、神がいる方向を正しく見極めることは不可欠です。完全ではないわたしたちは、残念ながら、真正面から神に向かっていないことが多いのです。ですから神が与える恵みをしっかりと映し出すものとなっていません。それどころか、時として背を向けてしまって、神を全く映し出すことなく、自分ばかりを見せようとする。 

さらには、わたしたちは独りよがりな存在ですから、自分の思いによって勝手に神のいる方向を定めて、そちらに向かっているからと、あたかも回心したと思い込みがちであります。その方向性の正しさは、一体誰が保証してくれるのでしょうか。

保証するのは、教会共同体です。わたしたちはこの教会共同体にあって、皆で共に祈り、互いの中に働かれる聖霊の声に耳を傾け、神に向かってまっすぐ歩む道を見出します。そして教会共同体にあって互いに支え合い、連帯する中で、その方向に向かって一緒になって歩み始めるのです。四旬節の回心は、個人の回心に留まらず、教会共同体としての回心を求めます。

回心を語るとき、わたしたちは、自分自身と、信仰における決まり事との関係だけを見つめがちであります。しかしわたしたちにはそれに加えて、互いの存在、具体的な兄弟姉妹の存在そのものに目を向ける必要があります。出会いの中に主はおられます。兄弟姉妹の中に、主はおられます。わたしたちは何を見ているでしょう。どこに目を向けているでしょう。

教会は、正しい人だけのものではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。わたしたちは、ご自分が創造されたすべてのいのちを、永遠のいのちにおける救いへと招こうとされている御父のいつくしみが、具体的にその業を全うすることができるようにと、すべての人を招き入れる教会である必要があります。まず招き入れ、その共同体の中で共に祈り、共に耳を傾けあい、聖霊の声に導かれながら、ともに回心の道を歩みます。すべての人が、回心へと招かれています。罪における弱さの内にあるわたしたちは、神に向かってまっすぐに進むことができずにいます。だからこそ、神に背を向けたままでいることのないようにと、教会は常に回心を呼びかけています。

23lent3f

ヨハネによる福音は、シカルというサマリアの町で、イエスがサマリアの女に喉の渇きをいやすための水を求める話が朗読されました。終始、会話の中で喉の渇きをいやす水について話すサマリアの女に対して、イエスは、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語り続けます。

出エジプト記も、荒れ野の苦しみの中で、イスラエルの民が喉の渇きをいやす水を求め続け、モーセたち指導者に対する不穏な状況が生じてくる様を記しています。

サマリアの女には、現実の世界の喉の渇きに固執するがあまり、目の前に存在する永遠の救いの神が全く見えていません。イスラエルの民も、現実の喉の渇きに固執するがあまり、その先に存在し導かれる神の存在が全く見えていません。

イエスはサマリアの女に対して、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われ、本当に大切なもの、すなわち永遠のいのちへと目を向けるように促します。水の定義について語るのではなく、目の前に存在する永遠のいのちの源である御自分に目を向けるようにと、促します。

わたしたちは、どこへと目を向けているでしょうか。神に向かってまっすぐと歩むために、見つめなくてはならないのは、永遠のいのちの源である主ご自身です。そして主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言葉を残されています。主は、わたしたちの兄弟姉妹として、常にわたしたちと共におられます。

この言葉を心に留めるとき、わたしたちは人生の歩みの中で、数多くの機会に、主御自身と出会ってきましたし、これからも出会い続けるであろう事に気がつきます。わたしたちは、悲しみにある人に慰めを与えるものだったでしょうか。苦しむ人に手を差し伸べるものだったでしょうか。あえぎ歩む人とともに歩むものであったでしょうか。罪を悔いる人をゆるしへと招くものだったでしょうか。自分とは異なる存在を裁くことなく、ともに歩もうとするものだったでしょうか。永遠のいのちの水へと、招くものだったでしょうか。わたしたちの信仰は、出会いにおける信仰です。文字として記された教えに留まるのではなく、具体的な出会いの中で生きられる信仰です。

永遠のいのちに至る水を与えると語る主イエス。その主に従う教会は、「いのちの福音」を語り続けます。人間のいのちは、神から与えられた賜物であるが故に、その始まりから終わりまで例外なく守られ、神の似姿としての尊厳は尊重されなくてはならないと、教会は主張し続けます。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという考えは、いのちの創造主である神の前での思い上がりだと戒め、いのちに対する様々な暴力的攻撃に満ちあふれた現代社会の現実を、「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を告げしらせ、実現しなければならないと強調されました。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています」と記しています。

キリストに従うわたしたちの心には、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声が響き渡ります。わたしたちは、キリストの与えるいのちの水を、この世界の現実の中で分け与えるものでなくてはなりません。いのちの水を奪い去るものではなく、与えるものでなくてはなりません。

23lent3a

先日3月10日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」でした。率先していのちを守り、人間の尊厳を守るはずの聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が、相次いで報告されています。被害を受けられた方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者の行為を、心から謝罪いたします。

教会全体として対応を進めていますが、いのちを守り、人間の尊厳を守るための務めに終わりはありません。聖職者をはじめ教会全体の意識改革などすべきことは多々あり、教会の取り組みもまだ十分ではありません。ふさわしい制度とするため、見直しと整備の努力を続けてまいります。

教会がいのちの水を生み出し分け与える存在となるように、教会が悲しみや絶望を生み出す源ではなく、いのちを生きる希望を生み出すものであるように、すべてを受け入れともに回心への道を歩むものであるように、主の声に耳を傾け、目の前におられる主に目を向け、これからもともに務めて参りましょう。

| |

2023年3月11日 (土)

週刊大司教117回:四旬節第三主日A

2021_01_20_img_0319-2

東北の地を巨大な地震と津波が襲って、今日で12年となりました。あらためて亡くなられた方々の永遠の安息を祈ります。また東北の地の日々の歩みを、いのちを生み出し、すべてを創造された御父の愛といつくしみに満ちあふれた御心が、守り導いてくださるようにと、あらためて祈ります。

日本の教会全体としての復興への取り組みは、10年をもって一区切りをつけましたが、現在でも、東北の各地で、復興の歩みの中で築き上げられた結びつきが、全国に広がって絆のように固く結ばれ、ともに歩む道程は続いています。考えてみれば、いま世界全体で教会が取り組んでいるシノドスの歩みは、東北の地では12年前から具体的に実践されていたと言えるのかも知れません。その12年のあゆみを、ローマでのシノドスの会議に伝えることができればと思います。

なお本日午後2時から、聖イグナチオ麹町教会で、イエズス会の助祭叙階式が行われ、森晃太郎さんと渡辺徹郎さんのお二人のイエズス会士が、助祭に叙階されました。おめでとうございます。この機会に、さらに司祭・修道者の召命のために祈りましょう。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第117回、四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

四旬節第三主日A
週刊大司教第117回
2023年3月12日

ヨハネによる福音は、のどの渇きをいやす水について話すサマリアの女に対して、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語るイエスのことばを記します。

「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」

永遠のいのちに至る水を与えると語る主イエスに従う教会は、「いのちの福音」を語り続けます。人間のいのちは、神から与えられた賜物であるが故に、その始まりから終わりまで例外なく守られ、神の似姿としての尊厳は尊重されなくてはならないと、教会は主張し続けます。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという考えは、いのちの創造主である神の前での思い上がりだと戒めながら、社会の現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を告げしらせ実現しなければならないと強調されました。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています」と記しています。

キリストに従うわたしたちの心には、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声が響き渡ります。わたしたちは、キリストの与えるいのちの水を、この世界の現実の中で分け与えるものでなくてはなりません。

先日3月10日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」でした。率先していのちを守り、人間の尊厳を守るはずの聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が、相次いで報告されています。被害を受けられた方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者の行為を、心から謝罪いたします。

教会全体として対応を進めていますが、いのちを守り、人間の尊厳を守るための務めに終わりはありません。聖職者をはじめ教会全体の意識改革などすべきことは多々あり、教会の取り組みもまだ十分ではありません。ふさわしい制度とするため、見直しと整備の努力を続けてまいります。

教会がいのちの水を生み出し分け与える存在となるように、これからもともに務めて参りましょう。

| |

2023年3月10日 (金)

四旬節第二金曜日は「性虐待被害者のための祈りと償いの日」です。

本日、四旬節第二金曜日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」です。また次の日曜日、教皇様の意向にあわせて、関口教会で10時の主日ミサを、わたしが司式します。

以下、二つの呼びかけ文を掲載します。すでに東京教区、ならびに中央協議会のホームページで、それぞれ公表されています。まず、今年の祈りと償いの日のためのに、2023年03月06日に発表した、東京教区の皆様へのわたしからの呼びかけ文です。

カトリック東京大司教区の皆様

2023年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって

四旬節第二金曜日は、教皇様の意向に従って、日本の教会における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定められています。今年は今週の金曜日、3月10日がこの日にあたります。東京教区では例年通り、この日に、または直後の四旬節第三主日に、教皇様の意向に合わせて祈りを捧げます。

コロナ禍の闇からやっと抜け出そうとしている今、世界はこの3年間で実質的にも精神的にも荒廃してしまったと感じます。神から与えられた賜物であるいのちを徹底的に守り、その尊厳を守り高める務めがわたしたちにはあります。世界各地でいのちに対する暴力はやむことなく、特にウクライナのような紛争地帯や長く内戦が続く地域では、今も多くのいのちが危機に直面しています。いのちの福音をのべ伝える教会は、社会の中で率先していのちの大切さを説き、目に見える形でいのちの尊厳を高めていかなくてはなりません。

それにもかかわらず、教会がその使命を果たすことなく、あまつさえ先頭に立つべき聖職者や霊的指導者が、その使命を放棄したかのように、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにした事例が、過去にさかのぼって、世界各地で多数報告されています。

教会はいのちを守るために発言し行動してきました。人間の尊厳を守り高めるために発言し行動してきました。その尊い行動の意味を失わせるような選択をした聖職者や霊的指導者の存在を、残念に思います。いのちの尊厳を説くのであれば、わたしたちは人間の尊厳を真っ先に大切にして守り高めるものでなくてはなりません。

性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙し、被害者の方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者の行為を、心から謝罪いたします。

東京教区でも日本の司教団が定めているガイドラインを遵守し、こうした行為の報告があった時にはそれぞれの直接の上長が責任を持って対応するように努めまた指導し、さらに聖職者をはじめ教区全体で啓発活動にも努めていきたいと思います。

あらためて、無関心や隠蔽も含め、わたしたち教会の罪を心から謝罪いたします。神のいつくしみの手による癒やしによって被害を受けられた方々が包まれますように、心から祈ります。同時に、わたしたち聖職者のためにもお祈りくださるようにお願いいたします。

カトリック東京大司教区
大司教 菊地功

つぎに、2023年2月17日に発表した、司教協議会会長としての、日本のカトリック信者の皆様にあてた、わたしの呼びかけ文です。

日本のカトリック信者の皆様

2023年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって

いのちに対する暴力が荒れ狂う世界にあって、神がいのちを、わたしたちに賜物として与えてくださったと信じるキリスト者には、いのちを守り、人間の尊厳を守る務めがあります。教会にとって「イエスをのべ伝えるとは、いのちをのべ伝えることにほか」ならないからです(ヨハネ・パウロ2世「いのちの福音」80)。

その教会にあって、率先していのちを守り、人間の尊厳を守るはずの聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が、近年相次いで報告されています。性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する聖職者や霊的指導者の行為によって深く傷つけられた方々が、長い時間の苦しみと葛藤を経て、ようやくその心の思いを吐露された結果であると思います。そのように長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者の行為を、心から謝罪いたします。

なかでも保護を必要とする未成年者に対する性虐待という、きわめて卑劣な行為を行った聖職者の存在や、司教をはじめとした教会の責任者が、聖職者の加害行為を隠蔽した事例が、過去にさかのぼって世界各地で報告されています。

教皇フランシスコは、この問題に教会全体が真摯に取り組み、その罪を認め、ゆるしを請い、また被害にあった方々の尊厳の回復のために尽くすよう求め、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるようにと指示されました。日本の教会では、四旬節・第二金曜日を、この祈りと償いの日と定めました。2023年にあっては、来る3月10日(金)がこの日にあたります。

日本の司教団は、2002年以来、ガイドラインの制定や、「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」の設置など、対応にあたってきました。2021年2月の司教総会で、「未成年者と弱い立場におかれている成人の保護のためのガイドライン」を決議し、教会に求められているいのちを守るための行動に積極的に取り組む体制を整えてきました。昨年には、「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」が啓発活動にさらに取り組むよう、司教協議会会長直属の部門としてガイドライン運用促進部門を別途設置し、責任をもって対応する態勢を整えつつあります。もちろんいのちを守り、人間の尊厳を守るための務めに終わりはありません。聖職者をはじめ教会全体の意識改革などすべきことは多々あり、教会の取り組みもまだ十分ではありません。ふさわしい制度とするため、見直しと整備の努力を続けてまいります。

あらためて、無関心や隠蔽も含め、教会の罪を心から謝罪いたします。神のいつくしみの手による癒やしによって被害を受けられた方々が包まれますように、心から祈ります。同時に、わたしたち聖職者がふさわしく務めを果たすことができるように、お祈りくださいますようお願いいたします。

どうぞ、四旬節第二金曜日に、またはその近くの主日に、教皇様の意向に合わせ、司教団とともに、祈りをささげてくださいますようにお願いいたします。

2023年2月17日

日本カトリック司教協議会 会長
菊地 功

なお呼びかけ文でも触れている、日本の教会の「未成年者と弱い立場におかれている成人の保護のためのガイドライン」は、こちらにあります

 

| |

2023年3月 4日 (土)

週刊大司教第116回:四旬節第二主日A

2023_02_19_101

四旬節第二主日となりました。

毎年、四旬節には教皇様のメッセージが発表され、カリタスジャパンからの献金の呼びかけと一緒に、カレンダーなどとして送付されてきました。今年は、担当する総合人間開発省からのメッセージ発表がずれ込み、翻訳が間に合わずに、四旬節が始まってからの邦訳発表となりました。教皇様の今年の四旬節メッセージは、こちらから邦訳をご覧ください

四旬節第二週の金曜日は、教皇様の指示に従って、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定められています。これについては、後日別途触れたいと思います。なお司教協議会会長として発表したメッセージがあります。中央協議会のこちらのページからご覧ください。東京教区では、この金曜日、またはその直後の日曜日に、教皇様の意向にあわせてミサを捧げます。わたしも関口教会の主日ミサを司式します。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第116回、四旬節第二主日のメッセージ原稿です。

四旬節第二主日A
週刊大司教第116回
2023年3月5日

創世記は、アブラムに対して、新しい土地へ出向いていくようにとよびかける主の言葉、すなわち、「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」を記しています。

「生まれ故郷、父の家」とは、住み慣れた安心のできる場、いわば安住の地です。しかし「私が示す地」とは、いったいどこなのか、詳しいことは全くアブラムには知らされていません。一体この先どうなるのだろうかと、大きな不安があったことだと思います。しかしアブラムは、「主の言葉に従って旅だった」と記されています。主の呼びかけに信頼して、未知の旅路へと歩みだし決断は、神への信仰に基づいていました。

パウロはテモテへの手紙で、神がわたしたちを呼ばれているのは、「わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによる」のだと記しています。歩み始める旅路の主役はわたしたちではなく、主ご自身であるのだから、主の計画と恵みに身をゆだねよという呼びかけです。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、「出向いていきましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いていきましょう」と呼びかけます。わたしたちもアブラムのように、またパウロが述べるように、主の計画と恵みに身を委ねて旅立たなくてはなりません。

それではわたしたちが身を委ねるべき神の計画はどこにあるのか。その神の計画は、福音書にあるように、御父が「私の愛する子、私の心に適うもの、これに聞け」と言われた御子イエスの言葉と行いによって、わたしたちに明示されています。弟子たちの前での御変容を通じて、神はイエスこそ神の子であり、その言葉と行いに神の栄光があることを明示されました。

教会は今、シノドスの道を歩んでいます。先週末には、アジアの大陸別シノドスも開催されたところです。連帯の内にともに歩み続ける神の民は、主の計画と恵みに身を委ねるために、闇雲に歩き続けるのではなく、聖霊の導きを常に識別しなくてはなりません。そのためにも、共同体での祈りが必要です。互いの声に耳を傾け、共に祈り、ともに支え合う姿勢が大切です。わたしたちは神の民、その牧場の群れであります。牧者の声を聞き逃すことのないように、互いに助け合いましょう。

| |

2023年3月 3日 (金)

アジアの大陸別シノドスが開催されました

2023asiasynod02

教会は2021年から2024年に向かって、シノドスの道を歩んでいるのはご存じの通りです。

全体としては、それぞれの教区での取り組みに始まって、大陸別の取り組み、そしてローマでの会議と続いていきますが、その行事とは別に、教会が交わりの共同体として「ともに歩む」ことを基本的な姿勢として身につけることを、この取り組みは求めています。

御聖体と御言葉の内に現存される主イエスに生かされる神の民は、互いに耳を傾け、支え合いながら、祈りをともにすることで、教会に対する聖霊の導きを識別し、この世界にあって主イエスの与えられた福音宣教の使命を果たしながら、御父に向かって正しい道を歩み続ける事ができる教会共同体であることを目指しています。

したがってシノドスの道は、ローマでの会議へ向けた一連の出来事と、それぞれの教会での取り組みの継続という、二つの道を同時にたどる歩みです。

2023asiasynod08-2

そのシノドスの道の、大陸別会議が、現在相次いで開催されており、アジアの会議も、先日2月23日から27日まで、タイのバンコク大司教区司牧センター「Baan Phu Waan」を会場に、80名近い参加者を得て開催されました。

2023asiasynod01

今回の会議は、各国からの回答書をもとにバチカンのシノドス事務局によって昨年10月末に作成された文書、「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」(イザヤ 54・2)に基づいて、アジアではこの1月15日までにFABC(アジア司教協議会連盟)に提出されたアジア各国の回答書をもとに分かち合いを行いました。24日と、25日の小グループでの分かち合いに基づいて「識別と文書作成チーム」によってアジアの回答書が作成され、26日には全体会議でその枠組みを承認。さらに会議が終わり参加者が帰国を始めた27日と28日にかけて、同チームが作業を続け、できあがったアジアの回答書は、本日日本時間の午後にオンラインで開催されるFABCの中央委員会(各国の司教協議会会長がメンバー)で採択されて、バチカンに送付される予定です。

バチカンのシノドス事務局は、これらに基づいて6月頃までに作業文書を作成し、それに基づいて10月の会議がローマで行われます。

様々な段階で作成されている文書の邦訳は、中央協議会のこちらをご覧ください

今回のアジアの大陸別シノドスは、正式名称を「Asian Continental Assembly on Sunodality(シノドス性についてのアジア大陸会議)」と言い、全体では、6名の枢機卿、5名の大司教、18名の司教、28名の司祭、5名の女性奉献生活者、18名の信徒が参加しました。またバチカンからは、事務局長のグレック枢機卿、会議のRelatorであるオロリッシュ枢機卿、事務局秘書のシスター・ナタリーも参加し、さらにバチカンの広報からかなり大がかりなチームが参加して、発信をしていました。


2023asiasynod07-2

参加者については、事前にバチカンの事務局から、各国の司教協議会会長に加えて、あと二名と指定があり、しかもそのカテゴリーにも指定があったため、FABC事務局でその指定にあったカテゴリーを各国に振り分けました。日本には、会長の司教の他に、若い教区司祭と女性信徒の指定があり、英語での会議参加などの条件を勘案して、高松教区の高山徹神父とJLMM事務局の辻明美さんに、代表として参加していただきました。

2023asiasynod05

また文書を作成するための「識別と文書作成チーム」は、中央・南・東南・東アジアからそれぞれ一人ずつ出すことになり、東アジアからは、これも英語で自由に文書作成の作業ができる人と言うことで人選に難儀しましたが、中央協議会で翻訳などのお手伝いもいただいているセルヴィ・エバンジェリー会員の西村桃子さんにお願いしました。このチームにはこれ以外に、司祭の神学者が2名、信徒の神学者が2名(男女一人ずつ)、そして事務局次長が加わりました。現場でチームの応援団として事務局長のわたしと会長のボ枢機卿で作業を見守りましたが、短時間に集中して文書を作成したチームには、感謝しかありません。

今後、参加してくださった方々からの振り返りも含めて、カトリック新聞などで発信がある予定ですが、それを通じて、さらにシノドスの道程を深めていくことができればと思います。ともに歩む道程には、常に主ご自身が共にいてくださることを心に留めたいと思います。

| |

« 2023年2月 | トップページ | 2023年4月 »