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2023年3月16日 (木)

四旬節第三主日ミサ@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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四旬節第三主日は、関口教会の四旬節黙想会でした。

10時のミサを司式させていただいたあと、引き続いてケルンホールを会場に、一時間、黙想会の講話をいたしました。多くの方に参加いただき感謝します。状況が改善してきているので、こうして大勢の方に集まっていただく行事が回復しているのは喜ばしい限りです。

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なおこの日は、四旬節第二金曜日の、性虐待被害者のための祈りと償いの日の教皇様の意向をもってミサを捧げました。さらに3月11日の翌日でしたので、12年前の災害に思いを馳せ、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、また復興の光が東北の地にともされ続けるようにと祈りました。

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残念ながら黙想会の講話は原稿なしですし、録音もしていませんので、講話の内容を公開できません。以下は当日10時のミサの説教の原稿です。

四旬節第三主日A(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年3月12日

四旬節は、回心の時です。回心の内に、信仰の原点を見つめ直す時です。

回心は、わたしたちが、一体どこを向いて信仰の道を歩んでいるのか、見つめ直す作業です。どこを向いて何を見て歩んでいるのかを、見つめ直す作業です。回心は単に、悪い行いを反省して良い人になろうと努力することに尽きるのではありません。まさしく、回心、回す心という漢字が象徴するように、心を回して真正面から神に向き合うこと、それが回心です。真正面から向き合ったときはじめて、わたしたちは神の存在を、神の愛を、神の憐れみを、神のいつくしみを、受けた恵みを、わたしたち自身が映し出す鏡となることができます。そのためにも、神がいる方向を正しく見極めることは不可欠です。完全ではないわたしたちは、残念ながら、真正面から神に向かっていないことが多いのです。ですから神が与える恵みをしっかりと映し出すものとなっていません。それどころか、時として背を向けてしまって、神を全く映し出すことなく、自分ばかりを見せようとする。 

さらには、わたしたちは独りよがりな存在ですから、自分の思いによって勝手に神のいる方向を定めて、そちらに向かっているからと、あたかも回心したと思い込みがちであります。その方向性の正しさは、一体誰が保証してくれるのでしょうか。

保証するのは、教会共同体です。わたしたちはこの教会共同体にあって、皆で共に祈り、互いの中に働かれる聖霊の声に耳を傾け、神に向かってまっすぐ歩む道を見出します。そして教会共同体にあって互いに支え合い、連帯する中で、その方向に向かって一緒になって歩み始めるのです。四旬節の回心は、個人の回心に留まらず、教会共同体としての回心を求めます。

回心を語るとき、わたしたちは、自分自身と、信仰における決まり事との関係だけを見つめがちであります。しかしわたしたちにはそれに加えて、互いの存在、具体的な兄弟姉妹の存在そのものに目を向ける必要があります。出会いの中に主はおられます。兄弟姉妹の中に、主はおられます。わたしたちは何を見ているでしょう。どこに目を向けているでしょう。

教会は、正しい人だけのものではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。わたしたちは、ご自分が創造されたすべてのいのちを、永遠のいのちにおける救いへと招こうとされている御父のいつくしみが、具体的にその業を全うすることができるようにと、すべての人を招き入れる教会である必要があります。まず招き入れ、その共同体の中で共に祈り、共に耳を傾けあい、聖霊の声に導かれながら、ともに回心の道を歩みます。すべての人が、回心へと招かれています。罪における弱さの内にあるわたしたちは、神に向かってまっすぐに進むことができずにいます。だからこそ、神に背を向けたままでいることのないようにと、教会は常に回心を呼びかけています。

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ヨハネによる福音は、シカルというサマリアの町で、イエスがサマリアの女に喉の渇きをいやすための水を求める話が朗読されました。終始、会話の中で喉の渇きをいやす水について話すサマリアの女に対して、イエスは、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語り続けます。

出エジプト記も、荒れ野の苦しみの中で、イスラエルの民が喉の渇きをいやす水を求め続け、モーセたち指導者に対する不穏な状況が生じてくる様を記しています。

サマリアの女には、現実の世界の喉の渇きに固執するがあまり、目の前に存在する永遠の救いの神が全く見えていません。イスラエルの民も、現実の喉の渇きに固執するがあまり、その先に存在し導かれる神の存在が全く見えていません。

イエスはサマリアの女に対して、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われ、本当に大切なもの、すなわち永遠のいのちへと目を向けるように促します。水の定義について語るのではなく、目の前に存在する永遠のいのちの源である御自分に目を向けるようにと、促します。

わたしたちは、どこへと目を向けているでしょうか。神に向かってまっすぐと歩むために、見つめなくてはならないのは、永遠のいのちの源である主ご自身です。そして主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言葉を残されています。主は、わたしたちの兄弟姉妹として、常にわたしたちと共におられます。

この言葉を心に留めるとき、わたしたちは人生の歩みの中で、数多くの機会に、主御自身と出会ってきましたし、これからも出会い続けるであろう事に気がつきます。わたしたちは、悲しみにある人に慰めを与えるものだったでしょうか。苦しむ人に手を差し伸べるものだったでしょうか。あえぎ歩む人とともに歩むものであったでしょうか。罪を悔いる人をゆるしへと招くものだったでしょうか。自分とは異なる存在を裁くことなく、ともに歩もうとするものだったでしょうか。永遠のいのちの水へと、招くものだったでしょうか。わたしたちの信仰は、出会いにおける信仰です。文字として記された教えに留まるのではなく、具体的な出会いの中で生きられる信仰です。

永遠のいのちに至る水を与えると語る主イエス。その主に従う教会は、「いのちの福音」を語り続けます。人間のいのちは、神から与えられた賜物であるが故に、その始まりから終わりまで例外なく守られ、神の似姿としての尊厳は尊重されなくてはならないと、教会は主張し続けます。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという考えは、いのちの創造主である神の前での思い上がりだと戒め、いのちに対する様々な暴力的攻撃に満ちあふれた現代社会の現実を、「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を告げしらせ、実現しなければならないと強調されました。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています」と記しています。

キリストに従うわたしたちの心には、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声が響き渡ります。わたしたちは、キリストの与えるいのちの水を、この世界の現実の中で分け与えるものでなくてはなりません。いのちの水を奪い去るものではなく、与えるものでなくてはなりません。

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先日3月10日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」でした。率先していのちを守り、人間の尊厳を守るはずの聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が、相次いで報告されています。被害を受けられた方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者の行為を、心から謝罪いたします。

教会全体として対応を進めていますが、いのちを守り、人間の尊厳を守るための務めに終わりはありません。聖職者をはじめ教会全体の意識改革などすべきことは多々あり、教会の取り組みもまだ十分ではありません。ふさわしい制度とするため、見直しと整備の努力を続けてまいります。

教会がいのちの水を生み出し分け与える存在となるように、教会が悲しみや絶望を生み出す源ではなく、いのちを生きる希望を生み出すものであるように、すべてを受け入れともに回心への道を歩むものであるように、主の声に耳を傾け、目の前におられる主に目を向け、これからもともに務めて参りましょう。

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