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2023年4月30日 (日)

世界召命祈願日ミサ@東京カテドラル

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復活節第四主日の今日を、教会は世界召命祈願日と定めています。1964年に教皇パウロ6世によって定められました。

カトリック中央協議会のホームページには、次のように解説されています。

「神は、すべての人が誠実に自分の生涯を過ごすように招いています。ある人は社会の中で会社員、医師、看護師、教員、工場で働く人として、また夫、妻、父、母としてよい家庭を築くように、そして、ある人は神と人とに仕える司祭、修道者となるように招かれています。神の招きはこのように人それぞれ異なりますが、自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことが大切です。近年、司祭や修道者の減少、高齢化が進んでいます。とくに「召命祈願の日」には、司祭、修道者への招き(召命)に1人でも多くの人がこたえることができるように祈りましょう」

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東京教区では、召命のために祈り献金し神学生や修道志願者を支える活動をしている一粒会があります(「いちりゅうかい」と読みます)。一粒会の会員は、東京教区に所属するすべての信徒・司祭・修道者です。ですから、皆さんも一粒会の大切な会員です。お祈りをお願いします。

ご存じのように、教区司祭の養成に限って言えば、その養成期間は最低でも7年とされています。時間がかかるとともに、共同生活を神学院で過ごしますから、その費用もかかります。上石神井にある東京カトリック神学院は、東京教会管区と大阪教会管区が合同で運営する神学院ですが、その養成費用・運営費用は、信徒数に応じて按分されます(なお神学生の学費はひとりあたり同額で、それぞれの教区の負担です)。信徒数が一番多い東京教区の負担は小さいものではありません。皆様の支援をお願い申し上げます。

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また現時点では、司祭志願者は受洗3年後以降で、23歳以上とされておりますが、近年は30代後半や40代の志願者も増加しています。神の呼びかけはいつあるかわかりませんし、それに応えることも容易ではありませんが、同時に、司祭養成にはラテン語やギリシア語の習得も含まれるため、よく知られているようにそういった言葉の習得は年齢とともに難しさが増していきます。ですので多くの人が神の呼びかけに気がつき、躊躇することなくその道を歩み始めることができるように、お祈りでの支えをどうかお願いいたします。

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以下、本日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた召命祈願ミサの、説教原稿です。

世界召命祈願日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月30日

現代の教会は、果たして召命の危機に直面しているのでしょうか。そもそも教会内でよく言われる「召命の危機」とはいったどういう意味なのでしょうか。

この言葉を使う人によって、その意味するところは多少異なるのだろうと思います。一般的には「召命の危機」という言葉によって、司祭や修道者の道を志す人が少なくなっている現実を指しているのだろうと思います。しかし同時にこの言葉は、すでにその道を歩み始めた司祭・修道者が霊的な歩みの中で直面する、いわば霊的な危機をも指している言葉です。

司祭・修道者の霊的な召命の危機については、教皇様もシノドスの歩みを進める中で、霊的識別を解き明かす中で触れておられます。2022年10月5日の一般謁見で、次のように述べておられます。

「霊的な疑いや召命の危機の根底には、宗教的な生活と、わたしたち人間、認識、感情の側面の間の対話が十分ではないということが少なくありません」

その上で教皇様は、「真の識別(そして祈りにおける真の成長)の最大の障害は、神という実体のない本質ではなく、わたしたち自身が自らのことを十分に知り得ていない、あるいは、ありのままの自分自身を知りたいとさえ思わないという事実であると、わたしは確信に至りました。わたしたちほぼ全員が、他者の前だけでなく、鏡を見るときでも仮面の下に隠れています」というイエズス会会員であるトマス・ヘンリー・グリーン師の言葉を引用され、常に、そして繰り返し自らのあり方を振り返り、客観的に見つめ直すことで、自分自身を知ろうとすることが識別のために重要であると強調されています。

私たちが生きている現代社会は、超越者に対する畏敬の念を失いつつある世界です。大災害に襲われ、目に見えない小さなウイルスに翻弄されているにもかかわらず、それでも人間の知恵と知識で世界をコントロールできるという確信から解放されない世界です。具体的ないのちの危機に直面しているにもかかわらず、それでもなお互いの利己的思惑のために暴力を持って対立し、いのちを奪い合い、悲しみと絶望を生み出している世界です。

そのような社会の現実の中で、宗教的価値観は単なる理想として夢物語のように片付けられ、私たち宗教者は立ちはだかる現実の前で「仕方がない」と諦めに近い感情に支配されます。そのようなときに、私たちは仮面の下に隠れ、ありのままの自分に目を塞いでしまう。仮の姿を生きているときに、神が示される進むべき道は見えなくなってくるのではないでしょうか。「仕方がない」に流されるとき、私たちは召命の危機の道に足を踏み入れてしまいます。

その意味で、いまの世界は、召命を生きるには挑戦的な現実に満ちあふれています。キリスト者としての信仰生活そのものが常に挑戦にさらされ、道を模索して試行錯誤の繰り返しに生きるものですから、司祭・修道者としての召命を生きる道は、なお一層の挑戦にさらされ続けています。その中で、現実に妥協し諦めの中で仮面をつけて隠れるのではなく、自分をしっかりと見つめ、常に神の導きを識別し続けるものでありたいと思います。

これは司祭養成に限定された文書ですが、2016年に教皇庁聖職者省が出された司祭養成基本綱要である「司祭召命のたまもの」には、こう記されています。

「司祭養成は、一連のキリストの弟子としての歩みである。それは、洗礼と時に始まり、他のキリスト教入信の諸秘跡によって強化されて、神学校入学時にはその者の生活の中心として意識され、さらに生涯を通して継続されるものである」

司祭に限らず修道者にあっても、また固有の召命を生きるすべてのキリスト者にとって、召命を生きることは、常に完成を目指しながら継続される生涯を通じた養成の道であります。

ところで、一般に広く言われる「召命の危機」はどうでしょう。神学生が少ない、修道志願者が少ない。統計上の数字を見て、その少なさに不安に駆られる。当然だと思います。社会に存在する組織としては、後継者がいないことには大きな不安を覚えてしまいます。確かにその意味では「召命の危機」がそこにはあり、その原因が様々に取り沙汰されます。

しかしながら、人数が足りないという意味での召命の危機なるものは、存在していません。確かに数としての司祭修道者志願者が減少していて、組織としての教会は困難に直面していますが、それと召命の話は別問題であります。

なぜならば、召命は就職活動や求職活動ではなく、そもそも人間が生み出すものではないからです。努力をして召命の数を増やすなどというのは、召命の本質を考えるのであれば、なんとおこがましい不遜な言葉でしょうか。まるで召命を人間が生み出すことができるとでも言っているようなものです。わたしたちは召命を生み出すことはできません。それはわたしたちがいのちをコントロールできないのと同じです。いのちが神からのたまものであるように、召命は、たまものです。ですから先ほどの司祭養成の基本綱要も、そのタイトルを「司祭召命のたまもの」としています。

召命は、神からの呼びかけです。あの日、ガリラヤ湖の湖畔で、イエスご自身が声をかけられたように、徹頭徹尾、神からの一方的な呼びかけです。私たちにできるのは、それに応えるかどうか、応えて具体的に生きるのかどうかの決断であります。そして決断をしたものが、その召命を生き抜くことができるように助けることであります。主イエスは、常に呼びかけておられます。私たちに必要なのは、その呼びかけに耳を傾け、前向きに応える勇気を、多くの人が持つことができるよう、祈りをもって励ますことであります。ですから祈りましょう。召命が増えるようにではなくて、主からの呼びかけに応える勇気を持つ人が増えるように祈りましょう。

教皇様は、2023年2月15日の一般謁見で、召命についてこう語られています。

「福音宣教は、主との出会いから生まれ、すべてのキリスト教的活動、特に福音宣教は、ここから始まります。学校で学んだことからではありません。違います。主との出会いから始まるのです。・・・主とともに過ごさないなら、主ではなく自分自身をあかしすることになり、まったくの無駄に終わってしまいます」

イエスと出会いましょう。わたしたちは教会共同体の中で、イエスと出会います。ミサにともに集う中で、そこにおられる主と出会います。告げられる御言葉に現存される主と出会います。捧げられる御聖体のうちに現存される主と出会います。困難に直面する人、忘れられた人、助けを必要とする人との関わりの中で、小さな人々の一人一人のうちにおられる主と、出会います。

主との出会いから召命への道が開かれます。その召命への道は、司祭であり修道者であり、また信徒としての召命を生きる道です。イエスと出会いましょう。その呼びかけの声に耳を澄ませましょう。そしてその呼びかけに応えることができるように、勇気を願いましょう。

 

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復活節第三主日堅信式ミサ@成城教会

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一週間経過してしまいましたが、先週、4月23日午後に、成城教会で行われた堅信式ミサの、説教の録音を起こした原稿ができましたので、掲載します。

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この日のミサでは、53名の方が堅信の秘跡を受けられました。53名は東京でも、一つの教会の堅信の数としては多い方です。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

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以下、説教の録音からの起こした原稿です。

カトリック成城教会堅信式@復活節第3主日
2023年4月23日

今日、堅信を受けるために準備をしてこられた方々に、こころからお慶びを申し上げます。神様がこの秘跡を通じて、皆様に聖霊をしっかりと送ってくださり、これからのキリスト者としての人生を護り導いてくださるように祈りを捧げたいと思います。

先日帰天された教皇ベネディクト16世は、教皇になられる前、ラッツィンガー枢機卿として、カトリック教会の教理省というところの長官を長年務めておられました。教理省というのは、カトリック教会の教えを司っている役所です。ラッツィンガー枢機卿が教理省の長官だった頃には、やはり彼はドイツ人ですし、教会の正しい教えを守ることに厳しい指摘をされる、とても厳しい枢機卿だと言われていました。

実際には、教皇になられてからローマで何度かお会いしましたが、とっても優しいおじいちゃんで、耳にしていた厳しい番人、教会の教えの番人というイメージはまったくありませんでした。

そのラッツィンガー枢機卿様が教皇ベネディクト16世になられたとき、最初に「デウス・カリタス・エスト」という本を書かれました。「神は愛」です。教皇になって、いったいどんな本を最初に書くのだろう、どんな教えの本を書くんだろうと、彼のことだから何か厳しい教えを書くのじゃないかと固唾をのんで見守っていましたら、最初に書いた本は、「神は愛」でありました。神の愛についての考察です。

その冒頭に、「人をキリスト者にするのは、決して、倫理的な選択や高邁な思想」ではないと書いてあります。
教皇ベネディクト16世は、人生をかけて神学を学んだ人です。第二バチカン公会議のときには、司教さんたちが集まっている中で、新進気鋭の若手の神学者として、30代半ばだったと思いますけれども、神学の顧問として呼ばれ、教会の教えというのはこうゆうことなのだと、はっきりとさせるための中心人物だったんです。しかも大学で神学を教える先生だったその人が、人をキリスト者にするのは、高邁な思想だとかの知識の積み重ねではないというんです。

では、いったい何が人をキリスト者にするのでしょう。教皇ベネディクト16世は、「それはある人との出会いだ」と。ある人との出会い、それこそが、人をキリスト者にするのだと書いています。ある人との出会いとは何のことか。それは当然、イエス・キリストとの出会いです。イエス様との出会い、その出会いこそが人をキリスト者にするのだと。

彼は決して、知識の積み重ねは必要ないと言っているのではないです。ここは非常に重要なところで、高邁な思想や知識の積み重ねは要らないと言っているのではありません。そうではなくて、その積み重ねの上で、イエスとの出会いが必要なんだということを述べておられるんです。

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先ほど朗読された、イエスの復活についての、一番美しい物語である『エマオの弟子』。イエスが殺されて、十字架につけられて殺されて、葬られて、いなくなってしまって、さあどうしようと不安に駆られている弟子たちのうちの二人が、エルサレムを離れ逃げて行ったんでしょうね、安心安全を求めて。エルサレムからエマオに向かって歩いて行った。

その間に彼らは、その二人は何をしていたか。これまで積み重ねてきた知識について語り合っているんです。聖書に書かれていることとか、学んできた様々な知識を二人で論じ合っているんですそこにイエスが現れます。そしてイエスと出会ってゆくんです。つまり、知識は彼らをキリスト者にしなかったのです。

そこでイエスが二人に、聖書に書かれているのはこうゆうことなのだと改めて教え、そしてさらに一緒に食卓に着いてパンを割く。そのとき、あっ、あの最後の晩餐の出来事と同じだと。このイエスと出会ったときに初めて二人は目が開かれて、キリスト者になったんです。本当の意味でのキリスト者に、変えられていった。知識に基づいて信仰の道に入り、イエスと直接出会って、キリスト者へと変えられていったのです。
そして二人は、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と、言いますよね。

なぜ燃えたのか。つまり、燃料はそこにあったんです。つまり知識があったんです。様々な思想があったんです。体験があったんです。それに火を点けたのは、イエスとの出会いです。実際にイエスと出会ったことによって、積み重ねてきた燃料に火が点いたんです。だからあのとき、心は燃えていたんです。

ですから、わたしたちの信仰には二つのことが絶対に不可欠です。

一つは、知識の積み重ねです。教会の様々な教え、カテキズムですね。そうしたことをしっかり学んでいく。それは必要なのですが、でもそれに留まらないのです。それだけではわたしたちはキリスト者になりません。それに火を点けないといけない。では火は、誰が点けてくれるのか。それは、イエスとの出会いです。これが二つ目です。

では、イエスとどうやって出会うのか、どこでイエスと出会うのか。
第二バチカン公会議は、イエスはここに現存しているのだと。このミサに集まるときに、ここにおられるんだということを強調します。
二つの現存があるのです。

一つは、この朗読台から聖書が朗読される、その神のみことばの中に、主は現存される。ここで語られるのは、昔、書かれた古文書を読み上げているだけではないのです。いまここに、ことばで語られることによって、声に出して語られることによって、そこに主は現存されている、と教えています。

そしてもう一つ、ご聖体の秘跡。聖体のいけにえが捧げられているときに、そのご聖体のうちに主は必ずそこに現存される。それは主ご自身が「わたしのからだ」「わたしの血」だと約束されたからに他ありません。

この二つ現存、朗読されるみことばにおける現存と捧げられるご聖体における現存。わたしたちが聖堂に集まっているとき、主はここにおられるのです。そしてもう一つあります。

それは、主ご自身が、「二人、三人がわたしの名によって集まるところに、わたしはそこにいる」とおっしゃったことです。わたしたちがこうして一緒になって集まっているとき、そこに主ご自身がおられるんだと信じている。

ですから、教会にとって共同体はとても大切なんです。共同体として集まることは、とても大切なことなのです。信仰は、自分の部屋の中でひとりで保ってゆくことは、もしかしたらできるかもしれない。迫害の時代に、確かに人は信仰を自分ひとりで持っていました。

でもあの迫害の時代に隠れキリシタンとして、潜伏キリシタンとして信仰を守ってきた多くの人たちは、自分たちはいつかあのパパ様に出会うことができる、信仰の絆で結ばれている。その誰かに結ばれているんだという思い、自分は孤立していないという思いが、ずっと彼らを支えてきたわけです。

それは今も同じです。自分の部屋にいようが聖堂に集まろうが、どこにいようとも、わたしたちは洗礼によって一つの絆で結び合わされている。共同体は、ただ単にこの聖堂に集まってくる人たちだけではなく、すべての洗礼を受けた兄弟姉妹が、わたしたちの兄弟姉妹として共同体に繋がれている。この思いを常に抱いているということは、とても大切なことだと思います。

今日、堅信の秘跡を受けられることによって、洗礼、ご聖体、そして堅信という3つの秘跡をいただくことになります。これが、キリスト教の入信の秘跡の完成です。わたしたちがキリスト者になっていくのは、水による洗礼、ご聖体、そして聖霊による堅信、この3つが必要です。この3つがあることによってわたしたちは、完成したキリスト者になっていくのです。

今日、堅信の秘跡を受けて完成するみなさんは、成熟した大人のキリスト者としてこれから信仰を歩んでゆくわけですけれども、社会の中で大人には権利と責任があるように、教会にも権利と責任があります。

特にどんな責任がわたしにあるんだろうかということを、是非とも今日は考えて頂きたいと思います。
一つだけ責任について申し上げます。それは、主イエスご自身がご復活のあと弟子に現れて、天に上げられるときに命じられていった、「全世界に行って福音を述べ伝えなさい」です。福音を述べ伝えるという、あの福音宣教命令は、いの一番の務め、責任であります。
だからといって、道端に立って太鼓を叩いてキリストの教えを説けというのではなく、毎日の生活の中で、わたしたちの語ることば、わたしたちの行う行い、ことばと行いを通じて、イエスキリストの福音を証ししていくということです。その務めが一人ひとりに与えられているということを、どうぞ心にしっかりと刻んで頂きたいと思います。

そんなことはわたしにはできない、わたしにはそんな力はない、と思うでしょう。

誰にもそんな力はないんです。そんな力がないからこそ、堅信の秘跡を受けるんです。聖霊の助力をいただくんです。聖霊は、そうしたわたしのことばと行いを、福音を証ししたいという思いを、後ろから後押ししてくれます。それが、聖霊の力です。

聖霊は皆さんを一生懸命これから助けてゆこうとしています。後ろから前に向かって吹いて支えてくださいます。それを信頼し、日々の生活の中でイエスキリストの福音を証しする務めを果たしていくと、今日、心に決めていただきたいと思います。

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2023年4月29日 (土)

週刊大司教第122回:復活節第四主日A

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復活節第四主日です。善き牧者の日曜日です。

また教会はこの日を、世界召命祈願日と定めています。東京教区では、教区の一粒会が、この日にカテドラルで召命祈願ミサを捧げていますが、この3年はパンデミックの影響で開催できていませんでした。

メッセージでも触れていますが今年は、4月30日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、従来通り捧げることができることになりました。司祭・修道者の召命のために祈るとともに、同時にキリスト者としてのすべての人への神の呼びかけに、ひとり一人が勇気を持って応えることができるように、ミサに参加される方も、参加されない方も、お祈りをお願いいたします。

教皇様の今年のメッセージは、発表が大きくずれ込んだため、中央協議会事務局で現在翻訳中です。翻訳ができ、こちらに今年のメッセージが掲載されています

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第122回、復活節第四主日のメッセージ原稿です。

復活節第四主日A
週刊大司教第122回
2023年4月30日

教会は復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りをお願いする日としています。今年は2019年以来四年ぶりに、東京教区の一粒会が主催して、神学生や志願者と一緒に、召命祈願ミサがささげられます。

あらためてみなさまには、司祭や修道者への召命のために、またその道を歩んでいる神学生や志願者のために、お祈りくださるよう、お願いいたします。

また、召命を語ることは、ひとり司祭や修道者への召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者、特に信徒に固有の召命を語ることでもあります。

第二バチカン公会議の教会憲章には、こう記されています。

「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人がいま必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人がいま必要です。召命は、特別な人の特別な役割のことだけを語っているのではなく、すべてのキリスト者に与えられている使命について、責任を持つようにと求めるものです。

ヨハネ福音はよい牧者であるイエスの姿を記します。羊はよい牧者の声を聞き分け、従うことで、救いへとつながる羊の門へと導かれます。よい牧者であるキリストの声を聞き分け、よい牧者が示す道を見いだし、それをすべての人に届けるためには、一人ひとりのキリスト者の働きが必要です。暗闇に彷徨う多くの人に、永遠のいのちへとつながる道を示すのは、わたしたち教会の務めです。

互いへの信頼が失われ個人主義の深まる社会にあって、パン種のように、「神に従って秩序づけながら神の国を探し求める」召命に生きる人の存在が、これまで以上に必要です。たとえ一人の働きは小さくとも、まさしく小さなパン種がパンを大きく膨らませるように、その働きは福音宣教に大きな実りを生み出します。

牧者であるキリストの声が、社会に大きく響き渡るように、すべての人に届くように、努めましょう。世の終わりまでともにいてくださる主に信頼しながら、その声がすべての人の心に響き渡るように、わたしたち一人ひとりに与えられている召命を見つめ直してみましょう。

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2023年4月22日 (土)

週刊大司教第121回:復活節第三主日A

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復活節第三主日です。

先週の日曜日、復活節第二主日には、東京の六本木にあるフランシスカン・チャペルセンターで、堅信式ミサを捧げました。チャペルセンターはフランシスコ会の日本管区本部の隣にあり、司牧はフランシスコ会が担当しています。

東京教区内には、いくつかの言語別の属人小教区があります。そのうちのフランス語共同体とドイツ語共同体には、それぞれフランスの司教団とドイツの司教団が司祭を派遣してきますし、関口にあるもう一つの小教区である韓人教会は、ソウル教区が司祭を派遣してきます。それに対してチャペルセンターは独立した教会の建物がある東京教区の小教区ですが、基本的に英語を使用する教会なので、主任司祭は司牧を委任されているフランシスコ会が手配をし、現在はシンガポールから派遣されてきたフランシスコ会員のクリフォード・アウグスティン神父様です。

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復活節第二主日には、この教会の所属する様々な国籍の子供たちが、20数名、堅信を受けられました。おめでとうございます。写真は、フランシスカン・チャペルセンターのFaceBookからお借りしました。

明日、復活節第三主日は、都内の成城教会で、午後から堅信式ミサの予定です。

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吉祥寺教会の司牧を担当し、また私自身の所属する神言修道会では、6年に一度の総会の前に、ローマ本部の顧問が各国の共同体を訪問することになっています。これを総視察と呼んでいます。現在ローマ総本部から二名が日本に来られ総視察中ですが、そのうちの一人、総本部顧問のGuy Mazola Midoブラザーが、昨日訪問してくださいました。ブラザーGuyは、コンゴ民主共和国出身です。神言修道会のアフリカのミッションでは、ガーナとともに長年にわたって活動を続けている歴史のある管区出身です。これからの神言修道会の東京における活動について、意見を交換させていただきました。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第121回、復活節第三主日のメッセージ原稿です。

復活節第三主日A
週刊大司教第121回
2023年4月23日

主が復活された日の夕方、力強く導いていたリーダーを突然に失い、弟子たちは混乱していました。その中で、二人の弟子が、その混乱の現実に背を向け、安心を求めてエルサレムを旅立ち、エマオへ向かっていました。

悲劇的な出来事の引き起こす混乱に心が翻弄され、不安にとりつかれているときに必要なのは、落ち着いた振り返りです。イエスが何を教えきたのか。何をあかししてきたのか。そしていま眼前で起こっている出来事を通じて、神は何を語りかけているのか。落ち着いて見つめ直し、より良い道を探し求めなくてはなりません。しかしこの日、弟子たちには、その心の余裕がありません。

二人の弟子とともに道を行かれるイエスは、起こっている出来事の意味に自ら気がつくようにと、二人に辛抱強く耳を傾け、ともに歩きながら、その気づきを待ち続けます。

使徒的勧告「キリストは生きている」で教皇フランシスコは、イエスに対する信仰とは、イエスと出会って真の友情を深めることだとして、こう指摘されます。

「イエスとの友情は揺るぎないものです。黙っておられるように見えたとしても、この方は決してわたしたちを放ってはおかれません。わたしたちが必要とするときにはご自分と出会えるようにしてくださり、どこへ行こうともそばにいてくださいます」(154)

あの夕方、エマオへの道で、二人の弟子と共に歩み、辛抱強く耳を傾けたように、主は今日もわたしたちと歩みを共にされ、辛抱強くわたしたちの叫びに耳を傾け、時のしるしをどのように読み解くのか、わたしたちが気づくように導きながら、いつも待っておられます。

わたしたちを友情の固いきずなのうちに結びあわされた主は、「黙っておられるように見えたとしても」、必ずや共にいてくださる、ともに歩まれる。わたしたちはそう信じています。

この3年間の様々な活動の制約が徐々に撤廃されているいま、単に過去のあのときに戻るのではなく、この体験から何を学ぶことができるのか、何を神は語りかけているのか、振り返ってみることが大切です。なぜなら教会は、時の流れの中で立ち止まらず、時の流れに逆らって過去に戻るのでもなく、聖霊に導かれて常に前進を続ける神の民だからに他なりません。

わたしたちは弟子とともに歩む主の姿に倣い、互いに耳を傾け合う対話と、共に道を歩む辛抱強さを持つものでありたいと思います。神からいのちを賜物として与えられた兄弟姉妹として、友情のきずなで結び合わされ、連帯のうちに支え合いたいと思います。教会共同体こそは、社会の現実の中で、神との一致と全人類の親密な一致の「しるしであり道具である」という自覚を、新たにしたいと思います。

 

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2023年4月15日 (土)

週刊大司教第120回:復活節第二主日

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復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、神のいつくしみの主日と定められています。聖ファウスティナに告げられた主イエスのお望みメッセージに基づいて、大聖年であった2000年から、復活の主日の次の日曜日(復活節第2主日)が「神のいつくしみの主日」と定められ、この主日に神のいつくしみに対する特別の信心を行うよう、教皇様は望まれました。2005年に帰天されたとき、最後に準備されていたのは、この神のいつくしみの主日のメッセージでした。こちらでご一読ください

なお東京カテドラルの地下聖堂には、聖ファウスティナに出現された主イエスの姿の絵が安置されています。教皇庁大使館を通じて聖ファウスティナと聖ヨハネパウロ二世の聖遺物とともに、東京教区に贈られたものです。こちらにそれについて触れたいつくしみの特別聖年の際の、岡田大司教様の説教があります。(上の写真は、ウクライナの平和のための祈祷会の時のものです)

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今週は、12日の水曜日に、東京カトリック神学院において、哲学・神学課程を始める前に少なくとも一年間を過ごす予科のために、独立した建物ができあがり、司教様たちも東京と大阪の教会管区から8名の司教も参加して、竣工祝福式が行われました。新しい予科棟は、ぱっと見ると新潟の司教館とそっくりです。デザインと施工が新潟の司教館と同じだからです。施工は木造建築では定評のある新潟の新発田建設でした。

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また土曜日15日の午後2時からは、ドミニコ会において司祭叙階式が行われ、ドミニコ会会員の佐藤了師が司祭に叙階されました。おめでとうございます。今年は東京では司祭叙階の多い年になりました。叙階式は渋谷教会で行われました。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第120回目のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第120回
2023年4月16日

「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と福音に記されています。わたしたちはこの3年間、同じように、恐れの中で閉じこもっていました。

その日、弟子たちに向けて語りかけられたように、主ご自身がいまもまた、「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださっていると、信じています。神の平和、すなわち神の支配の中にわたしたちは生かされていることを心に留めたいと思います。

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められました。聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに身をゆだね、互いに分かちあう大切さを黙想する日であります。

よく知られていますが、2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の神のいつくしみの主日のためにメッセージを用意されていました。そこには、こう記されています。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

神のいつくしみは、教皇ヨハネパウロ二世にとって重要なテーマの一つでした。1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」には、「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では『あわれみ・いつくしみ』と呼ばれています。・・・いつくしみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(いつくしみ深い神3/7)と記されています。

神のいつくしみ・あわれみを目に見える形とするのは、愛の具体的な実践です。

同時に教皇は、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、いつくしみをもつように命じられている」としるします(いつくしみ深い神14)。神のいつくしみは一方通行ではありません。それをいただいたわたしたちは、互いに神のいつくしみ・あわれみ、すなわち愛を分かち合うものでなくてはなりません。

東京ドームでの教皇フランシスコの言葉を思い起こします。

「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

神のいつくしみを、あわれみを、愛を、具体的に生きる教会でありましょう。

 

 

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2023年4月 9日 (日)

2023年復活の主日@東京カテドラル

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主イエスの御復活、おめでとうございます。

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聖週間中は肌寒く雨が降ったり風が吹いたりの、ちょっと荒れ気味の天気が続いた東京でしたが、復活の主日の今日は、朝からきれいに晴れ渡りました。

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東京カテドラル10時のミサには、座席の後ろで立ってミサに与る人も出るほど、大勢の方に参加していただきました。入堂の制限をほとんどしなくなりましたので、久しぶりに大勢の方が参加する復活祭でした。たまたま東京におられたのでしょうが、海外から団体で来られていた方も30名以上おられました。

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またミサ後には、これも2019年の復活祭以来、本当に久しぶりに、ケルンホールで復活の祝いの茶話会(食事会はまだ実現していません)が行われ、昨晩受洗した方々だけでなく、2020年、2021年、2022年の受洗者や転入者の方々も紹介され、お祝いのひとときとなりました。

以下、本日のミサの説教原稿です。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月9日

みなさん、主の復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方、堅信を受けられた方、おめでとうございます。

十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。

あらためて、感染症によるパンデミックの暗闇が始まった初期、3年前の9月に、教皇様が謁見で語られた言葉を思い起こしたいと思います。

「この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません」

この3年間、教会は互いに支え合い連帯することの大切さを、繰り返し強調してきました。いままさに全世界の教会が、進むべき道を模索して歩み続けているシノドスの道程のように、教会は、信仰を共同体の中で、互いに支え合って生きるのだと繰り返してきました。とりわけ、感染症がもたらした暗闇は、物理的に集まることを難しくしてしまいましたが、その中にあって、教会は、ともに歩むことと、単に一緒にいることは異なっているのだと言うことをはっきりと自覚させられました。神の民はどこにいても、常に歩みをともにする共同体です。それぞれがどこにいたとしても、洗礼の絆で結ばれた兄弟姉妹は、連帯のうちに神に向かって歩みを進めます。わたしたちは、ともに歩む神の民であります。

主イエスが受難の道を歩まれた晩に、恐れから三度にわたってイエスを知らないと口にしてしまったペトロは、先ほど朗読された使徒言行録では、全くの別人となっていました。ペトロはイエスについて、「聖霊と力によってこの方を油注がれた者とされました」と語っていますが、ペトロ自身が、主の復活の体験によって力づけられ聖霊を受けたことによって、力強い宣教者に変えられました。ペトロは盛んに、自分は「証人」であると強調します。すなわち彼自身が証しをする出来事そのものが、彼を変えた。だからこそ、ペトロはその出来事を語らざるを得ない。そうする力は、その体験から生み出されてくる力です。

ペトロは、その体験が個人的体験なのではなく、共同体としての体験であることを、たとえば「ご一緒の食事をしたわたしたち」というように語り、「わたしたち」が証人であると強調します。復活の体験は個人の体験ではなく、共同体の体験です。力強く変えられるのはわたしひとりではなく、互いに歩む兄弟姉妹と共にであります。信仰は、共に体験し、共に学び、共に深め、共に歩む道であります。

わたしたちは、創世記の2章18節にあるように、互いに助け合う者となるためにいのちを与えられています。ですから、連帯の内に互いに支え合うことは、わたしたちの優しい性格の賜物なのではなく、賜物として与えられたいのちを生きる者にとっての務めです。

しばしば引用していますが、2019年11月25日、東京で行われた東北被災者との集いでの教皇フランシスコの言葉を思い起こします。

「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。」

教会の愛に基づく様々な支援活動は、困難に直面するひとたちが、「展望と希望を回復」するために、自らは出会いの中で「友人や兄弟姉妹」の役割を果たすことです。「展望と希望」を、外から提供することはできません。連帯における支え合いこそが、いのちを生きる希望を生み出します。わたしたちが共同体として信仰を生きる理由は、教会共同体が社会にあっていのちを生きる希望を証しする存在となり、神による救いの道を指し示す、闇に輝く希望の光として存在するためであります。信仰は、自分の宗教的渇望を満たすためではなく、神から与えられたいのちがその尊厳を守られ与えられた使命を果たすためであり、その使命は共同体における連帯のうちに実現されます。

教皇ベネディクト16世は回勅「神は愛」に、 「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです」と記しています。

わたしたちは、生きている主イエスと出会いたいのです。復活された栄光の主と出会いたいのです。その主イエスは、教会共同体の中におられます。ミサに与るとき、朗読される聖書のことばに主は現存されます。御聖体の秘跡のうちに主は現存されます。そしてともに歩む兄弟姉妹の一人ひとりのうちに、主はおられます。「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25:40)」と、イエスのことばが福音には記されています。

第二バチカン公会議は、教会とは、神との交わりと全人類の一致を目に見える形で表す存在として、また世の光、地の塩として、いのちと希望をもたらすためにこの世界に派遣されている神の民であると強調しています。わたしたちは一緒になって旅を続ける一つの民であり、その中心には主ご自身が常におられます。主とともに歩む神の民は、人類の一致の見えるしるしとして、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。この教会の姿を具体的に生きようとしているのが、教皇フランシスコが共に歩むことを呼びかけているシノドスの道であります。

今回のシノドスは、参加すること、耳を傾けること、識別することの三つが重要だと言われています。そのために教皇様は、教会全体が参加して耳を傾けあい、祈り合い、識別するための長いプロセスを選択されました。それは決して、下からの決議を積み重ねて、民主主義の議会のように多数決で何かを決めていくようなプロセスを定める事を目的としているのではなく、識別するための姿勢、耳を傾けあう姿勢、互いに連帯の内に支え合う姿勢を、教会の当たり前の姿勢にすることを一番の目的としています。教会がその姿勢を身につけることができたのなら、それは聖霊の導きの識別へと自ずとつながります。ですから、準備された様々なステージが終わったからもう関係がないのではなくて、このシノドスの道で求められていることは、これからも続いて取り組まなくてはならないことです。

共同体における連帯はいのちを生きる希望を生み出します。共同体においてともに歩むことで、わたしたちは聖霊の導きを識別します。互いに支え合うことで、主ご自身と出会います。共に御言葉と御聖体に生かされることで、復活を体験したペトロのように大きく変えられていきます。

教会共同体が希望を生み出す存在であるように、互いに連帯のうちに、支え合いながら歩み続けましょう。
 

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2023年復活徹夜祭@東京カテドラル

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主の御復活、おめでとうございます。

本日午後7時からの、東京カテドラル聖マリア大聖堂での復活徹夜祭では、25名の方が洗礼を受けられました。おめでとうございます。また転会の方もあり、成人の受洗者と一緒に堅信を受けられました。心からお慶び申しあげます。

皆様の教会ではいかがでしたでしょうか。

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毎年多くの方が洗礼を受けられますが、いつまで経っても聖堂がパンクすることはありません。確かに健康や年齢のために教会に足を運ぶことができなくなる方もおられるでしょうし、帰天された方もおられたでしょう。しかし、いつの間にか足が遠のいてしまう方がおられるのも事実です。時に教会での様々なレベルでの人間関係がその要因だというお話しを伺って、残念に思うことがあります。信仰生活は独りで孤独のうちに歩むのではなく、共同体で歩むものです。一緒に支える信仰です。といっても、すべての人が同じように、例えば教会の活動に参加できるわけではないですし、グループ活動はちょっとと感じられる方もいるでしょう。共同体の絆は信仰における絆であって、具体的な活動によって生み出されるものではないと思うのですが、それではどうするのかと問われると、明確な答えを持っていません。同じ信仰によって結びあわされているのだという確信が、お互いの心に芽生えるような教会共同体のあり方を、模索していきたいと思います。

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以下、本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂における復活徹夜祭の説教原稿です。

聖土曜日復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月8日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

復活徹夜祭は、小さなロウソクの光で始まりました。暗闇に光り輝く小さな炎は、わたしたちの希望の光です。すべてを照らして輝く太陽のような巨大な光ではなく、小さなロウソクの炎です。キリストがもたらす新しいいのちへの希望は、その小さな炎にあります。暗闇が深ければ深いほど、たとえ小さな光であっても、その炎は不安をかき消す希望の力を秘めています。

希望は、キリストがもたらす新しいいのちへの希望です。暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しいいのちに招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることをあらためて思い起こします。

復活のロウソクにともされた小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられていきました。復活のロウソクにともされたたった一つの小さな炎は、ここに集う多くの人のロウソクに分け与えられ、一つ一つは小さいものの、全体としては、聖堂を照らす光となりました。

わたしたちは復活のいのちの希望の光を、兄弟姉妹と分かち合い、共にその光を掲げることで、皆で暗闇を照らす光となります。教会が呼びかける連帯の意味はそこにあります。

死に打ち勝って復活された主イエスは、新しいいのちへの希望を、わたしたちに与えています。わたしたちは孤独のうちに閉じこもることなく、連帯のきずなをすべての人へとつなげていき、死を打ち砕き、いのちの希望を与えられるキリストの光を、一緒になってこの社会の現実の中で高く掲げたいと思います。教会は、いのちを生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではなく、希望と喜びを掲げる存在です。

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今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にもあずかるのだと強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるため」に洗礼を受けるのだと指摘しています。洗礼を受けたわたしたちには、キリストとともに、新しいいのちの道を歩む務めがあります。

先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。

「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」

モーセに導かれて奴隷状態から逃れようとしたイスラエルの民は、エジプトのファラオの強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて叫ぶばかりでありました。そこで神は、モーセに、行動を促します。前進せよと求めます。しかもただ闇雲に前進するのではなく、神ご自身が先頭に立って切り開く道を、勇気を持って歩めと、命じておられます。

復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。

「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。」

イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。力強いリーダーが突然いなくなったのですから、呆然と立ちすくんでいたのかも知れません。

恐れと不安にとらわれ、前に向かって歩むことを忘れた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへと旅立て」とイエスは告げます。立ち止まるのではなく、前進することを求めます。行動するようにと促します。ガリラヤは新しいいのちを生きる希望の原点です。最初にイエスが福音を告げ、弟子たちを呼び出したのはガリラヤでした。自らが教え諭した原点に立ち返り、そこから改めて旅路を歩み始めるようにと弟子たちに命じています。

主の死と復活にあずかるわたしたちに求められているのは、行動することです。前進することです。なにもせずに安住の地にとどまるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。

とはいえ、一人で旅路を歩むのは心細いものです。本当にそれが正しい道なのかどうか、分からないときもしばしばでしょう。ですからわたしたちは、ともにこの道を歩みます。教会は共同体であり、わたしたちは信仰の旅路を、共同体としてともに歩みます。一人孤独のうちに歩むのではなく、互いに助け合いながら、歩み続けます。

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ちょうどいま教会は、シノドスの道を歩んでいます。そのテーマは、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められています。シノドスは信仰の旅路の刷新を目指します。東京教区では、集まることが難しい中、定期的にビデオを作成し公開していますが、ご覧になったことはありますでしょうか。一つ一つは短いものですので、是非ご覧になって、何人かの方々とその内容についてご自分の思いを話し合い、分かち合う機会を持ってくださればと願っています。互いに信仰を深め、進むべき方向性の指針を再確認し、助け合い、支え合いながら、信仰の旅路をともに歩み続ける教会となることが目的です。

シノドスの歩みをともにすることで、洗礼と堅信によって与えられた信仰者としての責務を、共に助け合いながら連帯のうちに果たす道を見いだしましょう。その歩みの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきましょう。東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現のために、福音を告げしらせ、証しする道をともに歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

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2023年4月 7日 (金)

2023年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

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主の受難を黙想する聖金曜日です。この日は、通常のミサは行われません。各教会では、それぞれの慣習に従って、十字架の道行きをされたところも多かったのではと思いますが、今年の東京は、猛烈に風の吹く聖金曜日となりましたので、参加が難しい方もおられたかと思います。このブログの一番下に、東京教区で作成した十字架の道行きのビデオを貼り付けておきます。

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また、本来、主の受難の典礼は、午後3時頃に行われ、夜には悲しみの聖母の崇敬式(スタバート・マーテルが歌われます)が行われたりしましたが、現在では、週日の金曜と言うこともあり、夕方に主の受難の典礼が行われることになっています。東京カテドラルの主の受難の典礼も、午後7時から行われました。(なお、東京カテドラル聖マリア大聖堂の正面に向かって右手側には、聖ペトロ大聖堂に置かれているミケランジェロのピエタ像のレプリカが安置されています。サンピエトロにあるものと全く同じものです。また東京カテドラルの聖櫃は、他の大聖堂などと同じく、正面祭壇ではなく、脇祭壇や小聖堂に置かれることになっているため、むかって左側のマリア祭壇に置かれています。)

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以下、本日午後7時の主の受難の典礼における、説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月7日

わたしたちの信仰は、道を歩み続ける信仰です。時の流れの中で、どこかに立ち止まってしまうのではなく、常に歩みを続ける旅路です。時にはその歩みは遅くなったり、速くなったり、横にそれてみたり、後ろを振り返ってみたり、それでもなんとか前進を続ける旅路です。

その信仰生活の歩みの中でも、四旬節には特別な意味があります。今年は2月22日の灰の水曜日から、わたしたちは四旬節の旅路をともに歩んできました。

四旬節は私たちの信仰の原点を見つめ直すときです。私たちの信仰の原点には、主の十字架があります。その十字架を背負い、苦難のうちに死に向かって歩まれる主の受難の姿があります。主イエスの苦難の旅路こそは、わたしたちの信仰の旅路の原点であります。

すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべてのいのちを、ひとりたりとも見捨てることなく、永遠のいのちにおける救いへと招くために、わたしたちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。

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わたしたちは、主の苦しみの旅路に心をあわせ、ともに歩むようにと招かれています。主ご自身が悪との戦いの中で苦しみを受けられたように、わたしたちもこの世界の現実の中で神の正義の実現を阻む悪との戦いで苦しみ、主ご自身がその苦難と死を通じて新しい復活のいのちの栄光を示されたように、わたしたちも苦しみの後に主の復活の神秘に与って、永遠のいのちに与る者とされます。十字架とともに歩む旅路は、わたしたちの信仰の原点です。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主イエスの言葉を心に留めるとき、わたしたちは人生の歩みの中で、数多くの機会に、主御自身と出会って来たことに気がつきます。またこれからの旅路の中で繰り返し主と出会い続けることでしょう。主とともに歩む十字架の道は、また様々な現実の出会いを通じて、主ご自身と出会う旅路でもあります。ともに歩まれる主は、人生の様々な十字架を背負い、苦しい挑戦の中でいのちを生きている多くの方を通じて、わたしたちをご自身との出会いへと招いておられます。

わたしたちは、悲しみの中で希望を求める人に、慰めを与えるものだったでしょうか。苦しみの中で絶望にうちひしがれる人に手を差し伸べるものだったでしょうか。あえぎながら歩む人とともに歩むものであったでしょうか。神の前で罪を悔いる人に寄り添い、ゆるしへと招くものだったでしょうか。自分自身の常識とは異なる存在の人たちを裁くことなく、ともに歩もうとするものだったでしょうか。黙して語らず、ただただすべての人の罪を十字架として背負われ、あえぎながら歩みを進める主イエスのその傍らに立ちながら、他者の罪を裁こうとする自分の姿を想像するとき、自分の傲慢さに恥ずかしくなります。

主の背負う十字架に、さらなる重さを加えているのは、傍らで傲慢な生き方をするわたしたち自身です。わたしたちにできるのは、苦しみを受け、耐え忍び、黙しながら歩みを続けた神の旅路に心を合わせ、すべてを包み込むその愛とゆるしといつくしみに感謝し、苦しみの先にある復活の栄光を信じながら、主イエスとともにひたすら歩み続けることです。同じ思いを持つ信仰の仲間と共に、歩み続けることです。

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十字架を背負った苦難の道は、ゴルゴタで終わります。この世での旅路が終わり、復活を通じて新しいいのちの旅路が始まる転換点は、ゴルゴタです。そこには、わたしたちの母である聖母マリアがおられました。

受難の朗読は、十字架の傍らに聖母マリアが佇まれ、御子の苦しみに心をあわせておられたことを、わたしたちに伝えています。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母マリアは、キリストと一致した生き方を貫き、十字架を背負いながら他者のために身をささげて黙して歩み続ける模範を、教会に示されています。

教皇パウロ六世は、「私は主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」という言葉を生涯にわたって生き抜いた聖母マリアは、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるようにとの教訓であり、模範で」あると指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)

主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母マリアと愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。聖母マリアは天使ガブリエルのお告げを通じて神から選ばれた人生を、謙遜のうちに歩みましたが、このゴルゴタでの転換点を通じて、いのちを生きる模範を示すために、永遠にその母であるようにと、新しい歩みを始めるように主ご自身から招かれました。聖母マリアは、わたしたちイエスに従おうとする者の先頭に立つ、いのちを生きる道の模範です。教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架を受け継ぎ、復活の栄光を目指して歩み続けます。

聖母マリアは、わたしたち一人ひとりの信仰者にとっての模範でもあります。「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に応えた聖母は、すべてを神にゆだねる謙遜さの模範を示されました。黙して語らず、他者の罪を背負って十字架の道を歩まれた主の謙遜さを、その苦しみに心をあわせて生き抜いた聖母マリアの謙遜さに倣い、わたしたちも神の計画に、勇気を持ってそして謙遜に、身をゆだねる恵みを願いたいと思います。

聖母マリアは、わたしたち一人ひとりの霊的な母でもあります。真の希望を生み出すために苦しみを耐え忍ばれたイエスに、身も心も併せて歩みをともにされた聖母に倣い、わたしたちも、主イエスの苦しみにあずかり、真の栄光と希望への道を切り開いていきたいと思います。

主の十字架に心をあわせ、主の旅路をともに歩むわたしたちは、絶望と恐れではなく、希望と喜びを生み出すものであり続けたいと思います。

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2023年4月 6日 (木)

2023年聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

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聖なる三日間は、主の晩餐のミサで始まります。このミサの終わりは聖体安置式で、いつものような派遣の祝福はありません。

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次に派遣の祝福があるのは、復活徹夜祭の終わりです。明日の聖金曜日、主の受難の典礼は、はじめのあいさつもなければ終わりの祝福もありません。ですから、この三日間の典礼は、連続しています。主の受難と死と復活の出来事に、心をあわせる典礼です。

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以下、本日聖木曜日午後7時から、関口教会と韓人教会の合同で行われた、主の晩餐のミサの説教原稿です。

聖木曜日主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月6日

わたしたちの信仰生活は、キリストに倣って生きるところに始まり、キリストの死と復活を通じて永遠のいのちへの道をたどる、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに歩み続ける道であります。

パンデミックに見舞われたこの3年間の暗闇が生み出したグローバルな不安体験が、国家のレベルでも個人のレベルでも利己主義を深め、寛容さを奪い去り、連帯の中で支え合うことよりも、様々な種類の暴力による対立がいのちに襲いかかる世界を生み出してしまいました。賜物であるいのちを守ることよりも、異質な存在を排除することによって、自分の周囲を安定させ、心の不安から解放されようとする世界となってしまいました。

最後の晩餐の席で主イエスは立ち上がり、弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音に記されています。弟子たちの足を洗い終えたイエスは、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗いあわなければならない」と言われたと記されています。弟子たちにとっては衝撃的な出来事であったと思いますが、衝撃的であったからこそ、こうして福音書に書き残された心に深く刻まれた出来事でありました。

足を洗うためには、身を深くかがめなくてはなりません。相手の前に頭を垂れて、低いところに身をかがめなくては、他者の足を洗うことはできません。身をかがめて足を洗っている間、自分自身は全くの無防備な状態になります。すべてを相手に委ねる姿勢です。

2019年4月、アフリカの南スーダンで続く内戦状態の平和的解決を求めて、教皇様は南スーダンで対立する政府と反政府の代表をバチカンに招待されました。その席上で、教皇様は突然、対立する二つの勢力のリーダーたちの面前で跪き、身を低くかがめ、両者の足に接吻をされました。この教皇様の姿は、弟子の足を洗う主ご自身の姿そのものでありました。暴力による対立ではなく、対話による解決を求めて、互いに信頼を深め、互いに無防備な状態になって、連帯のうちに支え合う道を見いだして欲しいという、教皇様の強い願いの表れでありました。互いに足を洗い合うものであって欲しいという、教皇様の願いの表れでありました。

いまの世界で求められているのは、対立することではなく、互いに身をかがめあい、相手に信頼して身を委ね、足を洗う姿勢ではないでしょうか。

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福音はそのあとに、「わたしがあなた方にしたように、あなた方もするようにと、模範を示したのである」という主イエスの言葉を記しています。主に従うことを決意したわたしたちの人生の歩みは、キリストに倣って生きるところに始まり、キリストの死と復活を通じて永遠のいのちへの道をたどり、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに歩み続ける道程です。

最後の晩餐で、聖体の秘跡が制定されたことを、パウロはコリントの教会への手紙に記しています。聖木曜日主の晩餐のミサは、御聖体の秘跡の大切さについて、改めて考えるときであります。

第二バチカン公会議の教会憲章には、次のように記されています。

「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(教会憲章11)。」

またヨハネパウロ二世は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえそれは教会が歴史を旅するうえで携えることのできる、最も貴重な宝だと言うことができます」と述べて(回勅『教会にいのちを与える聖体』)、御聖体の秘跡が、個人の信仰にとってもまた教会共同体全体にとっても、どれほど重要な意味を持っているのかを繰り返し指摘されます。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」で、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

わたしたちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡によって生み出される絆において、共同体でともに一致しています。

御聖体において現存する主における一致へと招かれているわたしたちは、パウロが述べるように、「このパンを食べこの杯を飲む度ごとに、主が来られるときまで、主の死を告げしらせる」務めがあります。わたしたちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の願いを同じように受け継ぎ、それをこの世界において告げしらせていかなくてはなりません。世界に向かって福音を宣教する務めを、わたしたち一人ひとりが受け継いでいくことが求められています。主の生きる姿勢に倣って、身をかがめ足を洗いあう姿勢であることが求められています。

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教皇フランシスコは、回勅「兄弟のみなさん」の中に、こう記しています。

「愛は最終的に、普遍的な交わりへとわたしたちを向かわせます。孤立することで、成長したり充実感を得たりする人はいません。愛はそのダイナミズムによって、ますますの寛容さ、他者を受け入れるいっそうの力を求めます(95)。」

わたしたちの福音宣教は、まずわたしたちの日々の生活の中での言葉と行いを通じて、福音を告知することに始まります。福音の告知は、直接に福音を語ることではなく、言葉と行いを通じた証しです。しかしわたしたちに求められている福音宣教は、そこに留まるものではありません。わたしたちのうちに宿る神の愛は、「普遍的な交わりへとわたしたちを向かわせ」るからであります。教会共同体における交わりへと、多くの人が招かれるようにすることは、神の愛が注がれているすべてのいのちが、十全に生きられるようにするために必要です。

教皇パウロ六世は使徒的勧告「福音宣教」において、「よい知らせを誠意を持って受け入れる人々は、その受容と分かち合われた信仰の力によって、イエスの名のもとに神の国を求めるために集まり、神の国を建て、それを生きます(13)」と述べておられます。

御聖体の秘跡に与ることは、個人的なことではありません。御聖体を通じて、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに歩み続けるわたしたちには、身をかがめ他者の足を洗う姿勢が求められ、福音を言葉と行いで証しすることが求められ、教会共同体における交わりに多くの人を招き入れることが求められています。難しいことです。どうすれば良いか悩みます。しかし、そこにはつねに、主ご自身が常にわたしたちと共におられ導いてくださっています。

御聖体の秘跡のうちに主がそこに現存されているという神秘を、聖体祭儀を通じて、改めて心に刻み、共におられる主から力をいただきましょう。

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2023年東京教区聖香油ミサ@東京カテドラル

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東京教区の聖香油ミサが、本日、聖木曜日の午前10時半から、教皇大使の同席のもとに執り行われました。東京で働く教区と修道会、宣教会の司祭の多くが共同司式に参加し、秘跡の執行のために必要な聖なる油を祝福し、司祭は叙階の時の約束を更新しました。またミサ中に、東京教区の田町神学生とサレジオ会の深川神学生が、叙階に向けての一段階でもある朗読奉仕者の選任を受けました。

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秘跡の執行に必要な聖なる油は、病者の油、洗礼志願者の油、そして聖香油があり、すべて純粋なオリーブオイルを用いています。また聖香油には、香料が混ぜられます。信徒の方の普段の生活の中で一番関わることが多いのは病者の塗油の秘跡に使われる油と、堅信式に使われる聖香油でしょう。また聖香油は、司祭や司教の叙階式にも必要な油です。

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東京では聖木曜日に行っていますが、他の教区ではほとんどが昨日の水曜日に執り行っているかと思います。これは聖木曜日が主の晩餐を記念する日であり、御聖体が制定されミサが定められた日ですので、司祭のための日とされているからで、この日に教区で働く司祭は教区の司教と共に集い目に見える形で教区司祭団の一致を祈りのうちに再確認します。またこのミサで祝福された聖なる油を、復活徹夜祭などの洗礼や堅信のために持ち帰ります。ですから、できる限りすべての司祭が参加できるような日程の背邸が不可欠で、わたしが以前いた新潟教区もそうですが、聖香油ミサを聖木曜日に設定すると、多くの司祭がミサ後に自分の小教区に戻ることができなくなってしまいます(例えば新潟から秋田までは、車で5時間以上かかります)。そこで、多くの教区では遠隔地の司祭も参加できるように水曜に聖香油ミサを設定しています。

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昨日行われた聖香油ミサについてもすでにいくつかの教区でネットにあげられていますが、新潟教区の成井司教様の説教が、とても心に響くものでした。こちらのリンクから、新潟のカテドラルでの写真と共に読むことができます

以下、本日午前10時半から行われた、東京教区の聖香油ミサの説教原稿です。なおビデオは、ミサのはじめの部分でわたしのワイヤレスマイクが故障し、音声が途切れています。途中から回復しています。

聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月6日

いのちの危機を肌で感じ、集まることの困難さの中で直接に他者と出会うことを制限せざるを得なかったこの3年間の状況は、特別な体験のときでありました。まだ基本的な感染対策は必要と思われるものの、いわゆる普通の生活が戻ってきつつあります。

感染症対策のため、厳しい制限を教会が求めていた間、その結果として引き起こされるであろう将来を悲観して、様々なことが言われていました。このまま、自宅でお祈りすることで充分だという人が増え、教会に信徒が戻ってこないのではないか。共同体が消えてしまうのではないか。

以前でさえ、様々な事由によって教会から足が遠のいてしまう人が多数おられました。ですから、実際に教会に集まることが難しい状況が続き、様々なイベントが失われてしまって、その傾向に拍車をかけてしまったのかも知れません。いわゆる「普通」の状況が戻りつつあるいま、それぞれの教会共同体の現実はどうでしょうか。

教会共同体は、常に聖霊によって導かれ、常に刷新されながら時の道を歩んでいます。教会は、常に古い存在であるけれど、同時に常に新しい存在でもあります。

弟子たちを招かれたイエスの呼びかけのことばに始まり、最後の晩餐での聖体の秘跡の制定と、十字架上での受難と死と復活。五旬祭の日、隠れて集まっていた弟子たちに聖霊が降り、福音が世界各地へと告知され始めた日。教会は、これらの出来事に根ざしています。その意味で、教会は常に古い存在です。しかし同時に、聖霊降臨のその日から、教会は常に聖霊の導きによって先へ先へと、時の流れの中で新たにされながら、前進を続けてきました。その意味で、教会は常に新しい存在です。

感染症の厳しい状況を経て、「普通」の教会になることは、決して3年前の状況を取り戻すことではないと思います。帰るのは過去ではありません。なぜならば、わたしたちは、常に古いけれども常に新しい、前進を続ける神の民だからであります。

前進を続ける神の民は、シノドスの歩みを共にしています。昨年夏には各国での段階、今年の三月末には大陸での段階が、ちょうど終了したところです。といっても、これでわたしたちのシノドスの歩みが終わったわけではありません。

常に聖霊によって新しくされている教会は、その聖霊の導きの方向性を、識別し続ける必要があります。現代世界憲章には、「神の民は、世界を満たす主の霊によって導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、展望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようと努める(11)」と記されています。

時のしるしを読み取ることは、教会の変わることのない務めであります。シノドスの歩みは、まさしく、教会共同体が、聖霊の導きを識別し、常に時のしるしを読み取る中で、現代社会に福音を告げしらせ、「教会は人間についてどのように考えているのか。現代社会の建設のために提示すべき者は何か。世界における人間活動の究極的意義は何か(現代世界憲章11)」という問いへの回答を示す存在であり続けることを、当たり前の姿にしようとする道を模索するものに他なりません。

教皇様はこのシノドスの歩みに関連して、2022年8月から今年の2月まで、14回にわたって一般謁見で、「識別」についての講話をなさいました。翻訳されて中央協議会のホームページに掲載されています。

その中で、識別に必要な助けとして、「神のことばと教会の教義を基にした判断」と、「聖霊のたまもの」をあげておられます。その上で、共同体における交わりの重要性をこう指摘します。

「アフリカの思慮深いことわざがあります。・・・「早く到着したいのならば、一人で行きなさい。安全に到着したいのならば、他者とともに行きなさい」・・・。人と一緒に、あなたの部族の人たちと一緒に行きなさいというのです。これは大切なことです。霊的生活において、わたしたちのことを知っていて、手助けしてくれる誰かに同伴してもらうことの方が、一人よりも良いからです。これが霊的同伴です」

感染症の困難さをなんとかくぐり抜け、新たに出発しようとしている教会は、いまだからこそ、共同体であることの大切さを見つめ直し、霊的な支えあいのうちにともに歩むことの重要性を理解し、小西神父様が教区ニュースに書かれていましたが、「お互いに相手に対して小さくなる信仰の共同体」を実現していきたいと思います。

共にシノドスの道を歩み続ける教会共同体にとって、牧者である司祭の存在は重要です。ですから、今日のこのミサで、教区で働く司祭団が見守る中で、朗読奉仕者選任式が行われることには、福音宣教の後継者の誕生につながるという大切な意味があります。

司祭への道は、決して共同体の中で序列が上がり段々と偉くなっていくのではなく、反対に、出会う多くの人にいのちを生きる希望を見いだす道を示し、互いの絆を生み出し深めていくために、ともに歩む姿勢を学んでいく道です。司祭養成の道を歩むことは、力強いものとなっていく道ではなく、自分の弱さ、足りなさの自覚を深める道です。自分の弱さを自覚するからこそ、神の力が自分のうちで働くのです。力不足を自覚するからこそ、支えてくださる多くの方々の祈りの力を感じることができるのです。どうか、常に謙遜な奉仕者であってください。

同時に、司祭の養成には、信仰共同体の愛に満ちた関わりも不可欠です。司祭の養成は、教区や神学院の養成担当者だけの責任ではなく、教会共同体の皆が責任を分かち合い、祈りを通じて、養成を受ける神学生と霊的に歩みをともにすることが必要です。また神学生にあっては、養成の歩みを進める中で、しばしば困難に直面し、人生の岐路に立たされます。そのようなとき、ふさわしい選択をするためには、多くの人の祈りによる支えが大切です。わたしたちの召命も、信仰における連帯によって生かされます。どうぞ、神学生のために、そして新たな召命のために、お祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない東京教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。司祭のみなさんの、毎日のお働きに心から感謝申しあげます。神父様方の献身的なお働きによって、教区は前に進む力を得ています。

また司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司祭団は司教と共にこのミサの中で祝福いたします。

加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、祈りを持って支えてくださるように、歩みを共にしてくださるように、お願いいたします。

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2023年4月 2日 (日)

2023年受難の主日@東京カテドラル

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聖週間が始まりました。

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本日は午前10時から関口教会の受難の主日のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で司式いたしました。そろそろ皆で集まることができつつあり、今日も大聖堂は定員まで一杯でしたが、以前のようにルルドからの行列を皆でするには、多少の躊躇が残ります。会衆のみなさんには聖堂内の席に留まっていただき、司祭団と、信徒の代表の方で、正面入り口からの入堂行列をいたしました。

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以下、本日のミサの説教原稿です。

受難の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2023年4月2日

熱狂は燃え立つ炎ですが、炎が燃えさかったあとに残されるのは、風に散らされる灰でしかありません。

感動は水のように心に染み渡り、様々な感情を司る心の土台に深く刻み込まれ、時間を超えて残されていきます。

四旬節を通じて霊的な回心の道程を歩んできたわたしたちは、受難の主日の今日から、聖週間を過ごし、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。その聖週間の冒頭で、主イエスのエルサレム入城が朗読され、そしてミサの中では主の受難が朗読されました。

世界を支配される真の王は、立派な馬に乗って華々しくエルサレムに入城するのではなく、小さなロバに乗って歩みを進めました。この王を群衆は、熱狂のうちに迎えます。群衆は熱狂に支配されています。熱狂は、時として心の目をふさいでしまいます。立派な馬に乗って従者を従えて華々しく入城する王なのではなく、ロバに乗って人々と共に入場するイエスの姿を見つめる群衆は、その心の目が熱狂に支配され、イエスが生涯をかけて伝えた神の福音の真髄がロバに乗った謙遜な姿に凝縮されていることに気がつきません。心は自分たちの勝手な思いに支配されているからです。ですから福音の終わりに、群衆が「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と、見当外れのことを言いつのる姿が記されています。もちろん神の子であるイエスは、単なる一地域に限定された一預言者ではなく、世界を支配する王であるキリストです。しかし、熱狂に支配された心の目には、この本当の姿が見えることはありません。

一時的な熱狂は炎のように燃えさかり、そこに灰が残されるだけであるように、イエスを熱狂のうちに迎えた群衆は、その数日後に、イエスを十字架につけるように要求する熱狂した群衆へと変身していきます。再び人々の心の目は、扇動された熱狂に支配され、そこに佇んでいるのが、世界を支配する真の王であるキリストであることが分かりません。十字架につけよと要求する人々の熱狂は、暴力的な力を生み出し、イエスを汚い言葉でののしり、死へと追いやります。

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目の前の存在を、その人を見ることなく、自分が心に描いた勝手なイメージに支配されているのです。熱狂に支配された目には、自分の勝手な思いが生み出したイメージしか写りません。冷静になることもなく、思い込みでさらに興奮しながら、熱狂が生み出した暴力的な力に身を委ねます。その心の目には、目前に静かに苦しみを耐えながら佇まれる神の姿が見えていません。

福音の終わりに、象徴的な言葉が記されています。一連の出来事を目の当たりにした百人隊長は、起こった出来事に恐れを感じることで、初めて熱狂から冷めやり、目の前の存在をしっかりと見ることができました。そこに初めてすべてを超越する神の存在を見出した彼は、大きな感動と共に、「本当に、この人は神の子だった」と言葉を発します。

神との出会いを求めるわたしたちこそは、この群衆のように熱狂に支配されて、熱狂が生み出す暴力的な力に身を委ね、自分の思い描くイメージを求めて過ちを犯すのではなく、実際にわたしたちと共にいてくださる目の前の主ご自身を、心の目で見つめるものでありたいと思います。熱狂から解放されて、暴力的な力から解放され、主ご自身との出会いに心の感動を求めるものでありたいと思います。

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世界はいま暴力に支配されているかのようであります。容易に熱狂によって支配され、熱狂が生み出す暴力に簡単に身を委ねる世界であります。もちろん、スポーツなど健全な熱狂は、喜びや希望を生み出す源の一つとなり得ますが、同時に熱狂から生み出される力は、容易に利己的な思いと結びつき、簡単に暴力的な力へと変貌します。

この3年間、感染症によって暗闇の中を彷徨う中、わたしたちは恐れと共に、同時に熱狂していました。情報が拡散する手段が変わってしまったのです。インターネットは世界を狭い場所にして、あっという間に情報が共有できるようにしました。

インターネットによる情報の拡散は、時にイエスをエルサレムに迎え入れた群衆を支配したような熱狂で、世界を包み込む力を持っています。善と悪の対立のような単純な構造の中で、すべてが決まっているかのような論調で他者を裁くとき、その裁きはネットから力を得て、あっという間に熱狂を生み出します。その裁きに基づく熱狂は、自分勝手なイメージを増幅し、そのイメージに支配される心の目は、そこに生身の人間の存在があることを、賜物であるいのちを生きている神から愛される人間の存在があることを、人の心があることを、見えなくしてしまいます。時としてその熱狂は、イエスを十字架の死に追いやったように、暴力的な負の力を持って賜物であるいのちを破滅へと追いやることさえあります。主は、わたしたちの目の前に静かに佇まれているのに、わたしたちの心の目はそれを見ていません。

わたしたちは何を見ているのでしょうか。わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの人々が、2年前のクーデターのあと、いまに至るまで、どれほど翻弄されいのちの危機に直面しているのか。ウクライナで続いている戦争のただ中で、どれほど多くの人がいのちの危機に直面し、恐怖の中で日々の生活を営んでいることか。

わたしたちは何を見ているのでしょうか。パンデミックによる経済の悪化で職を失った人たち、経済の混乱や地域の紛争の激化によって住まいを追われ、家族とそのいのちを守るために母国を離れ移り住む人たち。思想信条の違いから迫害され差別され、いのちの危機に直面する人たち。異質な存在だからと、共同体から、そして社会から排除される人たち。一人ひとりは、すべて、そこに存在する、賜物であるいのちを生きているかけがえのない神の似姿です。

わたしたちが目の当たりにしているのは、熱狂が生み出した力が、暴力としていのちに襲いかかる現実です。

熱狂の力が生み出す暴力が支配するとき、一人ひとりは抽象的な存在となり、具体性を失って忘れ去られていきます。でもそこには、一人ひとりの顔を持った人がいるのです。心持った人がいるのです。いのちを生きる人がいるのです。そのすべてのいのちを、神は救いに与らせるために、十字架への道を歩まれました。わたしたちは、その神の深い悲しみといつくしみの思いに触れるとき、あの日の群衆のように熱狂によって生み出された暴力的な力に支配されてはなりません。目の前にいる、一人ひとりの存在に目を向け、その心を思い、神が与えられた賜物であるいのちを、心の目でしっかりと見つめなくてはなりません。思いやりではないのです。優しさではないのです。そこに神がおられるからに他なりません。わたしたちは、主ご自身を探し続け、主との出会いを求め続ける者だからに他なりません。すべてのいのちが救いに与るように願う御父の御旨が成就するように、わたしたちの力を尽くさなくてはならないからに他なりません。わたしたちの務めです。

この一週間、十字架の苦難と死と復活に向かって歩み続ける主とともに、わたしたちも歩み続けましょう。

 

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2023年4月 1日 (土)

週刊大司教は2週続けてお休みです

週刊大司教の配信は、本日4月1日と来週4月8日を、お休みとさせていただきます。

次回の配信は、2023年4月15日の午後6時です。

その間、明日の受難の主日(枝の主日)にはじまり、復活の主日に至る聖週間は、関口教会で行われる大司教司式ミサが、すべて関口教会のYoutubeチャンネルから配信されます。

明日、4月2日(日)受難の主日 午前10時。

木曜日、4月6日は、午前10時半から教皇大使の臨席のもと、聖香油ミサ。

聖木曜日主の晩餐、聖金曜日主の受難、そして土曜日夜の復活徹夜祭は、すべて午後7時から。

復活の主日は4月9日午前10時からとなっています。

 

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