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2023年4月30日 (日)

復活節第三主日堅信式ミサ@成城教会

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一週間経過してしまいましたが、先週、4月23日午後に、成城教会で行われた堅信式ミサの、説教の録音を起こした原稿ができましたので、掲載します。

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この日のミサでは、53名の方が堅信の秘跡を受けられました。53名は東京でも、一つの教会の堅信の数としては多い方です。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

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以下、説教の録音からの起こした原稿です。

カトリック成城教会堅信式@復活節第3主日
2023年4月23日

今日、堅信を受けるために準備をしてこられた方々に、こころからお慶びを申し上げます。神様がこの秘跡を通じて、皆様に聖霊をしっかりと送ってくださり、これからのキリスト者としての人生を護り導いてくださるように祈りを捧げたいと思います。

先日帰天された教皇ベネディクト16世は、教皇になられる前、ラッツィンガー枢機卿として、カトリック教会の教理省というところの長官を長年務めておられました。教理省というのは、カトリック教会の教えを司っている役所です。ラッツィンガー枢機卿が教理省の長官だった頃には、やはり彼はドイツ人ですし、教会の正しい教えを守ることに厳しい指摘をされる、とても厳しい枢機卿だと言われていました。

実際には、教皇になられてからローマで何度かお会いしましたが、とっても優しいおじいちゃんで、耳にしていた厳しい番人、教会の教えの番人というイメージはまったくありませんでした。

そのラッツィンガー枢機卿様が教皇ベネディクト16世になられたとき、最初に「デウス・カリタス・エスト」という本を書かれました。「神は愛」です。教皇になって、いったいどんな本を最初に書くのだろう、どんな教えの本を書くんだろうと、彼のことだから何か厳しい教えを書くのじゃないかと固唾をのんで見守っていましたら、最初に書いた本は、「神は愛」でありました。神の愛についての考察です。

その冒頭に、「人をキリスト者にするのは、決して、倫理的な選択や高邁な思想」ではないと書いてあります。
教皇ベネディクト16世は、人生をかけて神学を学んだ人です。第二バチカン公会議のときには、司教さんたちが集まっている中で、新進気鋭の若手の神学者として、30代半ばだったと思いますけれども、神学の顧問として呼ばれ、教会の教えというのはこうゆうことなのだと、はっきりとさせるための中心人物だったんです。しかも大学で神学を教える先生だったその人が、人をキリスト者にするのは、高邁な思想だとかの知識の積み重ねではないというんです。

では、いったい何が人をキリスト者にするのでしょう。教皇ベネディクト16世は、「それはある人との出会いだ」と。ある人との出会い、それこそが、人をキリスト者にするのだと書いています。ある人との出会いとは何のことか。それは当然、イエス・キリストとの出会いです。イエス様との出会い、その出会いこそが人をキリスト者にするのだと。

彼は決して、知識の積み重ねは必要ないと言っているのではないです。ここは非常に重要なところで、高邁な思想や知識の積み重ねは要らないと言っているのではありません。そうではなくて、その積み重ねの上で、イエスとの出会いが必要なんだということを述べておられるんです。

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先ほど朗読された、イエスの復活についての、一番美しい物語である『エマオの弟子』。イエスが殺されて、十字架につけられて殺されて、葬られて、いなくなってしまって、さあどうしようと不安に駆られている弟子たちのうちの二人が、エルサレムを離れ逃げて行ったんでしょうね、安心安全を求めて。エルサレムからエマオに向かって歩いて行った。

その間に彼らは、その二人は何をしていたか。これまで積み重ねてきた知識について語り合っているんです。聖書に書かれていることとか、学んできた様々な知識を二人で論じ合っているんですそこにイエスが現れます。そしてイエスと出会ってゆくんです。つまり、知識は彼らをキリスト者にしなかったのです。

そこでイエスが二人に、聖書に書かれているのはこうゆうことなのだと改めて教え、そしてさらに一緒に食卓に着いてパンを割く。そのとき、あっ、あの最後の晩餐の出来事と同じだと。このイエスと出会ったときに初めて二人は目が開かれて、キリスト者になったんです。本当の意味でのキリスト者に、変えられていった。知識に基づいて信仰の道に入り、イエスと直接出会って、キリスト者へと変えられていったのです。
そして二人は、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と、言いますよね。

なぜ燃えたのか。つまり、燃料はそこにあったんです。つまり知識があったんです。様々な思想があったんです。体験があったんです。それに火を点けたのは、イエスとの出会いです。実際にイエスと出会ったことによって、積み重ねてきた燃料に火が点いたんです。だからあのとき、心は燃えていたんです。

ですから、わたしたちの信仰には二つのことが絶対に不可欠です。

一つは、知識の積み重ねです。教会の様々な教え、カテキズムですね。そうしたことをしっかり学んでいく。それは必要なのですが、でもそれに留まらないのです。それだけではわたしたちはキリスト者になりません。それに火を点けないといけない。では火は、誰が点けてくれるのか。それは、イエスとの出会いです。これが二つ目です。

では、イエスとどうやって出会うのか、どこでイエスと出会うのか。
第二バチカン公会議は、イエスはここに現存しているのだと。このミサに集まるときに、ここにおられるんだということを強調します。
二つの現存があるのです。

一つは、この朗読台から聖書が朗読される、その神のみことばの中に、主は現存される。ここで語られるのは、昔、書かれた古文書を読み上げているだけではないのです。いまここに、ことばで語られることによって、声に出して語られることによって、そこに主は現存されている、と教えています。

そしてもう一つ、ご聖体の秘跡。聖体のいけにえが捧げられているときに、そのご聖体のうちに主は必ずそこに現存される。それは主ご自身が「わたしのからだ」「わたしの血」だと約束されたからに他ありません。

この二つ現存、朗読されるみことばにおける現存と捧げられるご聖体における現存。わたしたちが聖堂に集まっているとき、主はここにおられるのです。そしてもう一つあります。

それは、主ご自身が、「二人、三人がわたしの名によって集まるところに、わたしはそこにいる」とおっしゃったことです。わたしたちがこうして一緒になって集まっているとき、そこに主ご自身がおられるんだと信じている。

ですから、教会にとって共同体はとても大切なんです。共同体として集まることは、とても大切なことなのです。信仰は、自分の部屋の中でひとりで保ってゆくことは、もしかしたらできるかもしれない。迫害の時代に、確かに人は信仰を自分ひとりで持っていました。

でもあの迫害の時代に隠れキリシタンとして、潜伏キリシタンとして信仰を守ってきた多くの人たちは、自分たちはいつかあのパパ様に出会うことができる、信仰の絆で結ばれている。その誰かに結ばれているんだという思い、自分は孤立していないという思いが、ずっと彼らを支えてきたわけです。

それは今も同じです。自分の部屋にいようが聖堂に集まろうが、どこにいようとも、わたしたちは洗礼によって一つの絆で結び合わされている。共同体は、ただ単にこの聖堂に集まってくる人たちだけではなく、すべての洗礼を受けた兄弟姉妹が、わたしたちの兄弟姉妹として共同体に繋がれている。この思いを常に抱いているということは、とても大切なことだと思います。

今日、堅信の秘跡を受けられることによって、洗礼、ご聖体、そして堅信という3つの秘跡をいただくことになります。これが、キリスト教の入信の秘跡の完成です。わたしたちがキリスト者になっていくのは、水による洗礼、ご聖体、そして聖霊による堅信、この3つが必要です。この3つがあることによってわたしたちは、完成したキリスト者になっていくのです。

今日、堅信の秘跡を受けて完成するみなさんは、成熟した大人のキリスト者としてこれから信仰を歩んでゆくわけですけれども、社会の中で大人には権利と責任があるように、教会にも権利と責任があります。

特にどんな責任がわたしにあるんだろうかということを、是非とも今日は考えて頂きたいと思います。
一つだけ責任について申し上げます。それは、主イエスご自身がご復活のあと弟子に現れて、天に上げられるときに命じられていった、「全世界に行って福音を述べ伝えなさい」です。福音を述べ伝えるという、あの福音宣教命令は、いの一番の務め、責任であります。
だからといって、道端に立って太鼓を叩いてキリストの教えを説けというのではなく、毎日の生活の中で、わたしたちの語ることば、わたしたちの行う行い、ことばと行いを通じて、イエスキリストの福音を証ししていくということです。その務めが一人ひとりに与えられているということを、どうぞ心にしっかりと刻んで頂きたいと思います。

そんなことはわたしにはできない、わたしにはそんな力はない、と思うでしょう。

誰にもそんな力はないんです。そんな力がないからこそ、堅信の秘跡を受けるんです。聖霊の助力をいただくんです。聖霊は、そうしたわたしのことばと行いを、福音を証ししたいという思いを、後ろから後押ししてくれます。それが、聖霊の力です。

聖霊は皆さんを一生懸命これから助けてゆこうとしています。後ろから前に向かって吹いて支えてくださいます。それを信頼し、日々の生活の中でイエスキリストの福音を証しする務めを果たしていくと、今日、心に決めていただきたいと思います。

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