2023年復活の主日@東京カテドラル
主イエスの御復活、おめでとうございます。
聖週間中は肌寒く雨が降ったり風が吹いたりの、ちょっと荒れ気味の天気が続いた東京でしたが、復活の主日の今日は、朝からきれいに晴れ渡りました。
東京カテドラル10時のミサには、座席の後ろで立ってミサに与る人も出るほど、大勢の方に参加していただきました。入堂の制限をほとんどしなくなりましたので、久しぶりに大勢の方が参加する復活祭でした。たまたま東京におられたのでしょうが、海外から団体で来られていた方も30名以上おられました。
またミサ後には、これも2019年の復活祭以来、本当に久しぶりに、ケルンホールで復活の祝いの茶話会(食事会はまだ実現していません)が行われ、昨晩受洗した方々だけでなく、2020年、2021年、2022年の受洗者や転入者の方々も紹介され、お祝いのひとときとなりました。
以下、本日のミサの説教原稿です。
主の復活A
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月9日みなさん、主の復活おめでとうございます。
昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方、堅信を受けられた方、おめでとうございます。
十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。
あらためて、感染症によるパンデミックの暗闇が始まった初期、3年前の9月に、教皇様が謁見で語られた言葉を思い起こしたいと思います。
「この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません」
この3年間、教会は互いに支え合い連帯することの大切さを、繰り返し強調してきました。いままさに全世界の教会が、進むべき道を模索して歩み続けているシノドスの道程のように、教会は、信仰を共同体の中で、互いに支え合って生きるのだと繰り返してきました。とりわけ、感染症がもたらした暗闇は、物理的に集まることを難しくしてしまいましたが、その中にあって、教会は、ともに歩むことと、単に一緒にいることは異なっているのだと言うことをはっきりと自覚させられました。神の民はどこにいても、常に歩みをともにする共同体です。それぞれがどこにいたとしても、洗礼の絆で結ばれた兄弟姉妹は、連帯のうちに神に向かって歩みを進めます。わたしたちは、ともに歩む神の民であります。
主イエスが受難の道を歩まれた晩に、恐れから三度にわたってイエスを知らないと口にしてしまったペトロは、先ほど朗読された使徒言行録では、全くの別人となっていました。ペトロはイエスについて、「聖霊と力によってこの方を油注がれた者とされました」と語っていますが、ペトロ自身が、主の復活の体験によって力づけられ聖霊を受けたことによって、力強い宣教者に変えられました。ペトロは盛んに、自分は「証人」であると強調します。すなわち彼自身が証しをする出来事そのものが、彼を変えた。だからこそ、ペトロはその出来事を語らざるを得ない。そうする力は、その体験から生み出されてくる力です。
ペトロは、その体験が個人的体験なのではなく、共同体としての体験であることを、たとえば「ご一緒の食事をしたわたしたち」というように語り、「わたしたち」が証人であると強調します。復活の体験は個人の体験ではなく、共同体の体験です。力強く変えられるのはわたしひとりではなく、互いに歩む兄弟姉妹と共にであります。信仰は、共に体験し、共に学び、共に深め、共に歩む道であります。
わたしたちは、創世記の2章18節にあるように、互いに助け合う者となるためにいのちを与えられています。ですから、連帯の内に互いに支え合うことは、わたしたちの優しい性格の賜物なのではなく、賜物として与えられたいのちを生きる者にとっての務めです。
しばしば引用していますが、2019年11月25日、東京で行われた東北被災者との集いでの教皇フランシスコの言葉を思い起こします。
「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。」
教会の愛に基づく様々な支援活動は、困難に直面するひとたちが、「展望と希望を回復」するために、自らは出会いの中で「友人や兄弟姉妹」の役割を果たすことです。「展望と希望」を、外から提供することはできません。連帯における支え合いこそが、いのちを生きる希望を生み出します。わたしたちが共同体として信仰を生きる理由は、教会共同体が社会にあっていのちを生きる希望を証しする存在となり、神による救いの道を指し示す、闇に輝く希望の光として存在するためであります。信仰は、自分の宗教的渇望を満たすためではなく、神から与えられたいのちがその尊厳を守られ与えられた使命を果たすためであり、その使命は共同体における連帯のうちに実現されます。
教皇ベネディクト16世は回勅「神は愛」に、 「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです」と記しています。
わたしたちは、生きている主イエスと出会いたいのです。復活された栄光の主と出会いたいのです。その主イエスは、教会共同体の中におられます。ミサに与るとき、朗読される聖書のことばに主は現存されます。御聖体の秘跡のうちに主は現存されます。そしてともに歩む兄弟姉妹の一人ひとりのうちに、主はおられます。「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25:40)」と、イエスのことばが福音には記されています。
第二バチカン公会議は、教会とは、神との交わりと全人類の一致を目に見える形で表す存在として、また世の光、地の塩として、いのちと希望をもたらすためにこの世界に派遣されている神の民であると強調しています。わたしたちは一緒になって旅を続ける一つの民であり、その中心には主ご自身が常におられます。主とともに歩む神の民は、人類の一致の見えるしるしとして、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。この教会の姿を具体的に生きようとしているのが、教皇フランシスコが共に歩むことを呼びかけているシノドスの道であります。
今回のシノドスは、参加すること、耳を傾けること、識別することの三つが重要だと言われています。そのために教皇様は、教会全体が参加して耳を傾けあい、祈り合い、識別するための長いプロセスを選択されました。それは決して、下からの決議を積み重ねて、民主主義の議会のように多数決で何かを決めていくようなプロセスを定める事を目的としているのではなく、識別するための姿勢、耳を傾けあう姿勢、互いに連帯の内に支え合う姿勢を、教会の当たり前の姿勢にすることを一番の目的としています。教会がその姿勢を身につけることができたのなら、それは聖霊の導きの識別へと自ずとつながります。ですから、準備された様々なステージが終わったからもう関係がないのではなくて、このシノドスの道で求められていることは、これからも続いて取り組まなくてはならないことです。
共同体における連帯はいのちを生きる希望を生み出します。共同体においてともに歩むことで、わたしたちは聖霊の導きを識別します。互いに支え合うことで、主ご自身と出会います。共に御言葉と御聖体に生かされることで、復活を体験したペトロのように大きく変えられていきます。
教会共同体が希望を生み出す存在であるように、互いに連帯のうちに、支え合いながら歩み続けましょう。
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