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2023年4月30日 (日)

世界召命祈願日ミサ@東京カテドラル

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復活節第四主日の今日を、教会は世界召命祈願日と定めています。1964年に教皇パウロ6世によって定められました。

カトリック中央協議会のホームページには、次のように解説されています。

「神は、すべての人が誠実に自分の生涯を過ごすように招いています。ある人は社会の中で会社員、医師、看護師、教員、工場で働く人として、また夫、妻、父、母としてよい家庭を築くように、そして、ある人は神と人とに仕える司祭、修道者となるように招かれています。神の招きはこのように人それぞれ異なりますが、自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことが大切です。近年、司祭や修道者の減少、高齢化が進んでいます。とくに「召命祈願の日」には、司祭、修道者への招き(召命)に1人でも多くの人がこたえることができるように祈りましょう」

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東京教区では、召命のために祈り献金し神学生や修道志願者を支える活動をしている一粒会があります(「いちりゅうかい」と読みます)。一粒会の会員は、東京教区に所属するすべての信徒・司祭・修道者です。ですから、皆さんも一粒会の大切な会員です。お祈りをお願いします。

ご存じのように、教区司祭の養成に限って言えば、その養成期間は最低でも7年とされています。時間がかかるとともに、共同生活を神学院で過ごしますから、その費用もかかります。上石神井にある東京カトリック神学院は、東京教会管区と大阪教会管区が合同で運営する神学院ですが、その養成費用・運営費用は、信徒数に応じて按分されます(なお神学生の学費はひとりあたり同額で、それぞれの教区の負担です)。信徒数が一番多い東京教区の負担は小さいものではありません。皆様の支援をお願い申し上げます。

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また現時点では、司祭志願者は受洗3年後以降で、23歳以上とされておりますが、近年は30代後半や40代の志願者も増加しています。神の呼びかけはいつあるかわかりませんし、それに応えることも容易ではありませんが、同時に、司祭養成にはラテン語やギリシア語の習得も含まれるため、よく知られているようにそういった言葉の習得は年齢とともに難しさが増していきます。ですので多くの人が神の呼びかけに気がつき、躊躇することなくその道を歩み始めることができるように、お祈りでの支えをどうかお願いいたします。

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以下、本日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた召命祈願ミサの、説教原稿です。

世界召命祈願日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月30日

現代の教会は、果たして召命の危機に直面しているのでしょうか。そもそも教会内でよく言われる「召命の危機」とはいったどういう意味なのでしょうか。

この言葉を使う人によって、その意味するところは多少異なるのだろうと思います。一般的には「召命の危機」という言葉によって、司祭や修道者の道を志す人が少なくなっている現実を指しているのだろうと思います。しかし同時にこの言葉は、すでにその道を歩み始めた司祭・修道者が霊的な歩みの中で直面する、いわば霊的な危機をも指している言葉です。

司祭・修道者の霊的な召命の危機については、教皇様もシノドスの歩みを進める中で、霊的識別を解き明かす中で触れておられます。2022年10月5日の一般謁見で、次のように述べておられます。

「霊的な疑いや召命の危機の根底には、宗教的な生活と、わたしたち人間、認識、感情の側面の間の対話が十分ではないということが少なくありません」

その上で教皇様は、「真の識別(そして祈りにおける真の成長)の最大の障害は、神という実体のない本質ではなく、わたしたち自身が自らのことを十分に知り得ていない、あるいは、ありのままの自分自身を知りたいとさえ思わないという事実であると、わたしは確信に至りました。わたしたちほぼ全員が、他者の前だけでなく、鏡を見るときでも仮面の下に隠れています」というイエズス会会員であるトマス・ヘンリー・グリーン師の言葉を引用され、常に、そして繰り返し自らのあり方を振り返り、客観的に見つめ直すことで、自分自身を知ろうとすることが識別のために重要であると強調されています。

私たちが生きている現代社会は、超越者に対する畏敬の念を失いつつある世界です。大災害に襲われ、目に見えない小さなウイルスに翻弄されているにもかかわらず、それでも人間の知恵と知識で世界をコントロールできるという確信から解放されない世界です。具体的ないのちの危機に直面しているにもかかわらず、それでもなお互いの利己的思惑のために暴力を持って対立し、いのちを奪い合い、悲しみと絶望を生み出している世界です。

そのような社会の現実の中で、宗教的価値観は単なる理想として夢物語のように片付けられ、私たち宗教者は立ちはだかる現実の前で「仕方がない」と諦めに近い感情に支配されます。そのようなときに、私たちは仮面の下に隠れ、ありのままの自分に目を塞いでしまう。仮の姿を生きているときに、神が示される進むべき道は見えなくなってくるのではないでしょうか。「仕方がない」に流されるとき、私たちは召命の危機の道に足を踏み入れてしまいます。

その意味で、いまの世界は、召命を生きるには挑戦的な現実に満ちあふれています。キリスト者としての信仰生活そのものが常に挑戦にさらされ、道を模索して試行錯誤の繰り返しに生きるものですから、司祭・修道者としての召命を生きる道は、なお一層の挑戦にさらされ続けています。その中で、現実に妥協し諦めの中で仮面をつけて隠れるのではなく、自分をしっかりと見つめ、常に神の導きを識別し続けるものでありたいと思います。

これは司祭養成に限定された文書ですが、2016年に教皇庁聖職者省が出された司祭養成基本綱要である「司祭召命のたまもの」には、こう記されています。

「司祭養成は、一連のキリストの弟子としての歩みである。それは、洗礼と時に始まり、他のキリスト教入信の諸秘跡によって強化されて、神学校入学時にはその者の生活の中心として意識され、さらに生涯を通して継続されるものである」

司祭に限らず修道者にあっても、また固有の召命を生きるすべてのキリスト者にとって、召命を生きることは、常に完成を目指しながら継続される生涯を通じた養成の道であります。

ところで、一般に広く言われる「召命の危機」はどうでしょう。神学生が少ない、修道志願者が少ない。統計上の数字を見て、その少なさに不安に駆られる。当然だと思います。社会に存在する組織としては、後継者がいないことには大きな不安を覚えてしまいます。確かにその意味では「召命の危機」がそこにはあり、その原因が様々に取り沙汰されます。

しかしながら、人数が足りないという意味での召命の危機なるものは、存在していません。確かに数としての司祭修道者志願者が減少していて、組織としての教会は困難に直面していますが、それと召命の話は別問題であります。

なぜならば、召命は就職活動や求職活動ではなく、そもそも人間が生み出すものではないからです。努力をして召命の数を増やすなどというのは、召命の本質を考えるのであれば、なんとおこがましい不遜な言葉でしょうか。まるで召命を人間が生み出すことができるとでも言っているようなものです。わたしたちは召命を生み出すことはできません。それはわたしたちがいのちをコントロールできないのと同じです。いのちが神からのたまものであるように、召命は、たまものです。ですから先ほどの司祭養成の基本綱要も、そのタイトルを「司祭召命のたまもの」としています。

召命は、神からの呼びかけです。あの日、ガリラヤ湖の湖畔で、イエスご自身が声をかけられたように、徹頭徹尾、神からの一方的な呼びかけです。私たちにできるのは、それに応えるかどうか、応えて具体的に生きるのかどうかの決断であります。そして決断をしたものが、その召命を生き抜くことができるように助けることであります。主イエスは、常に呼びかけておられます。私たちに必要なのは、その呼びかけに耳を傾け、前向きに応える勇気を、多くの人が持つことができるよう、祈りをもって励ますことであります。ですから祈りましょう。召命が増えるようにではなくて、主からの呼びかけに応える勇気を持つ人が増えるように祈りましょう。

教皇様は、2023年2月15日の一般謁見で、召命についてこう語られています。

「福音宣教は、主との出会いから生まれ、すべてのキリスト教的活動、特に福音宣教は、ここから始まります。学校で学んだことからではありません。違います。主との出会いから始まるのです。・・・主とともに過ごさないなら、主ではなく自分自身をあかしすることになり、まったくの無駄に終わってしまいます」

イエスと出会いましょう。わたしたちは教会共同体の中で、イエスと出会います。ミサにともに集う中で、そこにおられる主と出会います。告げられる御言葉に現存される主と出会います。捧げられる御聖体のうちに現存される主と出会います。困難に直面する人、忘れられた人、助けを必要とする人との関わりの中で、小さな人々の一人一人のうちにおられる主と、出会います。

主との出会いから召命への道が開かれます。その召命への道は、司祭であり修道者であり、また信徒としての召命を生きる道です。イエスと出会いましょう。その呼びかけの声に耳を澄ませましょう。そしてその呼びかけに応えることができるように、勇気を願いましょう。

 

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