2023年教区合同堅信式@東京カテドラル
東京教区では、聖霊降臨の主日の午後に、カテドラルで、教区合同堅信式を行ってきました。それぞれの小教区で司牧訪問に合わせて堅信式を行う共同体も多くありますが、合同堅信式に参加される小教区も、少なくありません。カテドラルでの司教ミサに与る機会でもあります。
二年ほどは感染症の蔓延のため中止となり、昨年は規模を縮小して行いましたが、わたし自身が新型コロナに感染して発症し、発熱と激しい喉の痛みで声を失い、司式を稲川総代理に委任しましたので、今年の合同堅信式は、わたしにとっても久しぶりの行事となりました。
今日午後の堅信式では、同じ関口教会にある韓人教会の方々も含めて、110名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。
これから大人の信徒として、福音をあかしし、広く伝えていく務めを、それぞれの場で、それぞれの方法で、しっかりと果たしていってください。また、教会共同体とともにミサに与り、御言葉と御聖体のうちに現存される主イエスによって力づけられ、共同体を導かれる聖霊に身を委ね、御父の愛といつくしみを、広くあかしする者となってください。
以下、本日のミサの説教の原稿です。
聖霊降臨の主日合同堅信式ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年5月28日わたしたちは、どうやって、自分の信仰をあかしできますか。どんな言葉で、どんな行いで、イエスをキリストだと信じていることをあかしできますか。信仰をあかしすることは、教会共同体に与えられた務めです。この世界に生きる教会共同体は、その義務を果たさなくてはなりません。
そしてわたしたちひとり一人は、その教会共同体を形作っている一員です。ですから、自分の信仰を生活の中であかしすることは、わたしたちひとり一人の務めでもあります。
「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」
パウロはコリントの教会への手紙にこう記しています。
第二バチカン公会議は教会憲章で、教会はキリストの体であると宣言しています。教会は、キリストの一つの体を形作っています。この体において「キリストのいのちが信じる者に注ぎ込まれ、・・・(わたしたちは)諸秘跡を通して、苦しみと栄光を受けたキリストに神秘的かつ現実的な方法で結ばれる」と信じています。洗礼を通じてキリストの死と復活に与り、聖体をいただくことでキリストと一致し、そして聖霊によってそれぞれがふさわしいたまものをいただきます。
わたしたちは、どうやって、自分の信仰をあかしできますか。教会共同体におけるわたしの務めは何でしょうか。キリストの体の一部分として、わたしはどんな役割を果たしていくのでしょうか。
先日帰天された教皇ベネディクト16世は、教皇に就任して一番最初に、「神は愛」というタイトルの回勅を発表されました。その冒頭に、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです」と記しておられます。
わたしたちは、信仰を深めるためにいろいろなことを学びます。過去の大聖人の言葉に触れたりします。聖書に記された言葉について、様々な学問的な見解を学びます。わたしたちは、時間をかけて様々に知識を積み重ねていきます。歴史の中で積み重ねられた様々な知識を身につけたとき、初めてそれに基づいて信仰における選択をすることができるように思ってしまいます。
しかしベネディクト16世は、それだけでは人はキリスト者にはならないというのです。教皇は、必要なことは「出会い」だと言います。誰との出会いですか。主イエスとの個人的な出会いです。知識の積み重ねが不要だとは決して言いません。その知識の積み重ねは、主イエスとの個人的出会いで初めて、命を吹き込まれ生かされるのです。命を吹き込むのは聖霊です。
ヨハネ福音は恐れのあまり部屋に隠れていた弟子たちの姿を記しています。弟子たちはイエスと一緒に時を過ごし、イエスの教えたことについて十分な知識を積み重ねていました。しかし恐れは彼らにその知識を封印させてしまいます。そこに復活された主御自身が現れ、「あなた方に平和があるように」」と告げられます。その言葉は、日常のあいさつの言葉に留まらす、恐れに束縛される弟子たちの心には、神の平和が欠如しているのだという事実をも指摘しています。
神の平和とは、なんでしょうか。ヨハネ23世の回勅「地上の平和」の冒頭にこう記されています。
「すべての時代にわたり人々が絶えず切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」
すなわち、神の平和とは、神の定めた秩序が実現していることを指しています。
ですから、イエスが弟子たちに指摘された神の平和の欠如とは、すなわち、神が求めておられる世界のあり方とは、正反対にある状態です。恐れる心は自分を守ろうとする思いに満たされ、他者への配慮に欠ける利己的な心となってしまいます。グローバル化された世界で、この3年間私たちがパンデミックのさなかにあって目撃してきたのは、互いに助ける世界の姿ではなくて、互いに罵り合い、排除し合い、挙げ句の果てには暴力が支配する世界を生み出してしまう身勝手さでありました。わたしたちは、互いに助け合う者として共に生きるようにと、このたまものであるいのちを与えられています。そのわたしたちが、他者への心配りを忘れて自己保身に走るとき、そこに神の秩序の実現はあり得ません。
「聖霊を受けなさい」と恐れる弟子たちに、イエスは語りかけます。聖霊は、「いのちの霊、すなわち永遠のいのちの水がわき出る泉」であります(教会憲章4)。聖霊は、心の恐れを打ち砕く、いのちの源です。わたしたちが聖霊の息吹に満たされたとき、はじめて、神の平和が実現する道が開けます。聖霊降臨の主日の今日、主御自身がわたしたち教会共同体の真ん中にたち、わたしたちひとり一人に「平和があるように」と呼びかけ、「聖霊を受けなさい」とその息吹で包んでくださっていることを、あらためて心に刻みます。
使徒言行録は、聖霊によって生かされた弟子たちが、恐れから解き放たれて、まるで人が変わったかのように勇気に満ちあふれて、様々な言葉で福音を語る姿を記しています。聖霊をいただいた教会は、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が伝えられ、理解され、それを通じて神の平和が実現するようにと、世界に向けて遣わされています。神の望まれる世界が実現するように働きかけるために、遣わされています。
わたしたちの信仰は、徹底的に共同体的でありながら、同時に徹底的に個人的でもあります。わたしたちはキリストの体の一部分として共同体の中で信仰を生き、信仰をあかしします。しかしその信仰は、わたしと主との個人的出会いの中で実現していきます。
共同体として集まり、ミサの中でこの朗読台から聖書が朗読される。その神のみことばの中に、主は現存される。ここで語られるのは、昔、書かれた古文書を読み上げているだけではないのです。いまここに、ことばで語られることによって、声に出して語られることによって、そこに主は現存されている、と教えています。
共同体として集まり、ミサの中で捧げられる御聖体のいけにえ。そのご聖体のうちに主は必ずそこに現存される。それは主ご自身が「わたしのからだ」「わたしの血」だと約束されたからに他ありません。この二つ現存、朗読されるみことばにおける現存と捧げられるご聖体における現存。わたしたちが聖堂に集まっているとき、主はここにおられるのです。そしてもう一つあります。
それは、主ご自身が、「二人、三人がわたしの名によって集まるところに、わたしはそこにいる」とおっしゃったことです。わたしたちがこうして一緒になって集まっているとき、そこに主ご自身がおられるんだと信じている。だから共同体は不可欠なのです。
堅信の秘跡を受けられる皆さん、教会共同体と歩みをともにしてください。一緒になって主から与えられた務めを果たしていきましょう。ともにミサに与り、御言葉のうちに、御聖体のうちに現存される主との個人的出会いの場をいただきましょう。共同体のただ中にともにおられる主に信頼しましょう。一緒になって、信仰をあかしする者であり続けましょう。聖霊がその努力を後押ししてくださいます。
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