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2023年6月24日 (土)

週刊大司教第130回:年間第12主日

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週刊大司教も130回目となりました。毎回ご視聴いただいている皆様には、心から感謝申し上げます。以前から申し上げているとおり、視聴回数が1000回を下回る事が続いた場合は、プログラムの継続に関して判断させていただきたいのですが、いまのところ、毎回、おかげさまで1000回を上回るご視聴をいただいています。福音に基づく黙想と祈りの機会をともにしてくださる皆様に、感謝します。少しでもみなさまの霊的な糧のひとつになっているのであれば、それは幸いです。

本日6月24日午後に、イグナチオ教会で、幼きイエス会(ニコラ・バレ)の来日150周年感謝ミサが捧げられました。来日はキリシタン禁制の高札が撤去される一年前の1872年です。その後、女子教育に力を注ぎ、雙葉学園を中心に活動されておられます。幼きイエス会では150年にあたる昨年から各地で記念の行事を行い、今回のミサが、記念行事の締めくくりと伺っています。会員の皆様の150年の献身的な活動に心から感謝申し上げるとともに、修道会の志を受け継いで、現在も学校教育に携わってくださる多くの方々に、心から感謝申し上げます。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第130回、年間第12主日のメッセージ原稿です。

年間第12主日A
週刊大司教第130回
2023年6月25日

人間の知恵とか力とかを遙かに超えたところに、父なる神はおられます。わたしたちは人間の身勝手な思いではなく、この世界を創造し、このいのちをたまものとして与えてくださった神の思いを実現するために、恐れることなく努めていきたいと思います。わたしたちには、神がその愛といつくしみの結実として創造され、神の似姿としての尊厳を持って与えられたたまものであるいのちを、その始まりから終わりまで、例外なく守り抜く務めがあります。

しかしながら、コロナ禍にさいなまれた世界は、無関心のグローバル化によって利己的になり、自己保身は暴力的な行動を生み出し、今や世界は暴力と排除によって支配されているかの様相を呈しています。とりわけ社会にあって弱い立場に追いやられている人たちを守ることは、教会の尊い務めであるにもかかわらず、神の思いに心を向けることなく、そのいのちの尊厳を守ることよりも危機に追いやるような傾きを肯定する声が大きくなることは、残念なことです。

教皇フランシスコは、難民や移住者への配慮は、いのちの尊厳に基づいて強調されなければならないと繰り返してこられました。それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたり、さらには社会にあって異質な存在として必ずしも歓迎されないどころか、しばしば排除されている人たちが世界には多く存在します。教皇は、危機に直面するいのちの現実を目前にして、キリストに従うものがそれを無視することはできないと強調されます。法律的議論も大事ではあるけれど、まず優先するべきは、いのちをいかにして護るのかであることを指摘してやみません。

教皇就任直後に、アフリカからの難民が押し寄せる地中海に浮かぶランペドゥーザ島を司牧訪問されたことが、教皇の姿勢を象徴しています。母国を離れようとする人には、他人が推し量ることなどできない様々な事情と決断があったことでしょう。それがいかなる理由であったにしろ、危機に直面するいのちにいったい誰が手を差し伸べたのか。その境遇に、その死に、誰が涙を流したのか。誰が一緒になって彼らと苦しんだのか。教皇は力強くそう問いかけました。

教会は、移住者の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳を優先しなければならないと、長年にわたり主張してきました。教皇ヨハネパウロ二世の1996年の言葉です。

「違法な状態にあるからといって、移住者の尊厳をおろそかにすることは許されません。(1996年世界移住の日メッセージ)」

神が与えてくださったたまものであるいのちを最優先とする道に、神の愛といつくしみはわたしたちを導いています。

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2023年6月17日 (土)

週刊大司教第129回:年間第11主日A

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6月16日はイエスのみこころ(聖心)の祭日でした。6月は聖心の月とされています。

イエスのみこころは、わたしたちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水が、いのちの泉であり新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスのみこころ」の祭日が設けられています。

みこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ちあふれる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主はご自分の心に倣うようにと呼びかけられました。そしてみこころの信心を行うものには恵みが与えられると告げ、その一つが、9ヶ月の間、初金曜日のミサにあずかり聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあるとされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。(イエスのみこころへの信心に関連して、次のリンクに、教皇ベネディクト16世が2006年にイエズス会総長にあてた書簡の訳が掲載されています。)

今年は、祭日の前の日の木曜日、その名も「聖心女子大学」で、イエスのみこころのミサを捧げる機会に恵まれました。毎週木曜日の昼休みに、学生のためのミサを続けておられますが、その一つを、毎年担当させていただいてきました。今年は大学の聖堂に150名ほどの学生さんとスタッフが集まり、ミサに参加してくださいました。いえすの聖心がそうであるように、大学も社会にあって、安らぎをもたらし、希望を生み出す存在でありますように。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第129回、年間第11主日のメッセージ原稿です。

年間第11主日A
週刊大司教第129回
2023年6月18日

「収穫は多いが、働き手が少ない」

豊かに実っているにもかかわらず、それを収穫する人が足りない。だから働き手をさらに必要なのだ。そのように理解すると、例えば日本での福音宣教の厳しい現実を目の当たりにして、一体どこにその豊かな実りがあるのだろうかと問いかけてしまいます。

この言葉は、それよりももっと根本のところを問いかけています。つまり神の国の完成のためには、神が求められるこの地上でするべきこと、しなければならないことは山積しており、それに取り組むための働き手がもっと必要なのだという意味でしょう。加えて、この言葉は単に、司祭の召命の必要性だけを説いているものでもありません。もちろん司祭は必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、一人司祭だけではありません。すべてのキリスト者には、それぞれの場で、それぞれに与えられた才能に従って、「働き手」となることが求められています。

主御自身が「働き手」として最初に選ばれた12人の弟子たちも、決して皆が同じような人だったのではなく、様々な性格、様々な才能、様々な思いを持った異なった人たちでありました。まさしく多様性のうちにある人々です。その多様性ある共同体は、「天の国は近づいた」と告知する使命によって一致していました。それぞれが、それぞれに与えられた才能を生かし、異なる方法で、しかし同じ務めを果たすことで、多様性における一致が、弟子たちの共同体に実現し、あかしされていきました。同じように、現代社会に生きる教会共同体は、一つの体を形作る一人一人が、それぞれに与えられた才能を生かし、それぞれに異なる方法で、しかしキリストの福音を告げ知らせるのだという同じ思いによって結ばれるとき、多様性における一致が実現します。

教皇フランシスコは回勅「兄弟のみなさん」に、こう記しています。

「いのちがあるのは、きずな、交わり、兄弟愛のあるところです。・・・それとは逆に、自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだとうぬぼれるなら、そこにいのちはありません(87)」

わたしたちの目の前には、神の国の完成のためにしなければならないことが広がっています。働き手はわたしたちです。わたしたちは共同体の一致の絆のうちに、その務めを果たしていきます。なぜならばキリストの体である共同体にこそ、いのちがあるからです。共同体の絆、交わり、兄弟愛に、わたしたちを生かす源であるいのちがあります。一人では「働き手」の務めを果たすことはできません。ともに助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の中で「働き手」として、収穫の業、すなわち福音のあかしに努めて参りましょう。

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2023年6月11日 (日)

キリストの聖体の主日@東京カテドラル

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キリストの聖体の主日の今日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた関口教会の午前10時のミサにおいて、5名の子供たちが、初聖体を受けられました。おめでとうございます。

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説教の後に、内陣に呼ばれた白いドレスとベールで着飾った5名は、復活のろうそくから火をとったそれぞれの初聖体の記念のろうそくを受け取り、祝福をいただきました。そして拝領の時も内陣に上がり、わたしから直接に聖体を拝領。拝領祈願後には、教会からのお祝いが主任司祭から贈られました。

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以下、本日の説教の原稿ですが、途中から、内容はほぼそのままですが、実際には話し方を変更しました。配信されていたビデオをご覧ください。配信担当者には、話している内容に合わせて、オリジナルの原稿を提示していただくことになり、申し訳ありませんでした。

なお昨日土曜日の午後5時から、吉祥寺教会でキリストの聖体の主日のミサの中で、18名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。そちらのミサの説教も、大体の話の筋は一緒です。そちらは原稿はありません。吉祥寺教会のyoutubeからビデオを見ることができます。

キリストの聖体の主日A (配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年6月11日

わたしたちは、ミサに与るとき、どうしてご聖体を拝領するのでしょうか。ミサは聖体の祭儀ですから、聖体を拝領できる人は拝領することが当たり前と、当然のように拝領していないでしょうか。

もちろん主御自身が最後の晩餐の席上で、「これはわたしの体、これはわたしの血。わたしの記念としてこれを行え」と、聖体の秘跡を制定し、それを続けていくことを命じられたからこそ、わたしたちはミサを捧げ続けています。弟子たちは最後の晩餐の席で、「『とって食べなさい』、『皆、この杯から飲みなさい』というイエスの招きを受けました。こうして彼らは初めてイエスとの秘跡による交わりに与りました」と教皇ヨハネパウロ二世は「教会にいのちを与える聖体」に記しています(21)。

その上で教皇は、「このときから、世の終わりまで、わたしたちのためにいけにえとされた神の子との秘跡による交わりを通じて、教会は築き上げられていくのです」と記し、わたしたちがご聖体をいただくのは、一人個人的な霊的な充足のためだけではなく、教会共同体を築き上げていくためであることを明確にします。わたしたちは、自分自身がキリストと一致するために、そして同時に教会共同体の一致のために、ご聖体を拝領します。

教皇は「信者は洗礼によってキリストの体と一つにされますが、この一致は、聖体のいけにえにあずかることによってつねに更新され、強められます(22)」とも記しています。ご聖体は、それを実際に拝領することと霊的に拝領することの両方を通じて、わたしたちひとり一人をキリストのただ一つの体との一致へと招きます。そして、そのキリストの体を目に見える形であかししている教会共同体の一致へと招きます。聖体に生かされている教会共同体は、一致の共同体です。

ご聖体のいけにえは、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と教会憲章は記しています(11)。キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに現存される主御自身は、この秘跡を通じて、わたしたちとともに常におられます。

ご聖体の秘跡は、わたしと主との交わりという意味で、極めて個人的な秘跡でもありますが、同時にそれは共同体の秘跡でもあります。そもそもミサそれ自体が、個人の信心ではなくて、共同体の交わりの祭儀です。わたしたちは常に、共同体の交わりのうちにご聖体をいただきます。

パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。

わたしたちの信仰と共同体は切り離すことができません。共同体の交わりのうちにある信仰です。しばしばわたしたちは「交わり」という言葉を使いますが、どういう意味でしょう。人がたくさん集まって、その交わりを深めると言えば、それは互いをよく知り合い仲良くなっていくことを意味しているのでしょうが、教会で語る交わりはそれにとどまってはいません。

パウロはコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。わたしたちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。わたしたちの信仰は、キリストの体にあずかる信仰です。そのキリストの体はたくさんある体ではなく、唯一の体です。唯一の体の一部分として生きるようにと、わたしたちは招かれています。一部分として生きるとき、わたしたちの役目は、その一つの体を生かすことであって、殺すことではありません。そのためには自分勝手なことをしているわけにはいきません。一つの体の様々な部分と互いに手を携え、支え合ってこそ初めて、キリストの体を生かすものとなることができます。わたしたちは共同体を通じて、キリストの体にあずかり、それによっていのちを分かち合い、愛を共有するという「交わり」のなかで、生きている信仰です。教会共同体を、生きたキリストの体をあかしする存在とするために、わたしたちひとり一人は、主御自身によって招かれています。

キリストの聖体のお祝いは、主御自身がご聖体のうちに現存され、ともにいてくださることを称えるのみならず、ご聖体をいただくわたしたちが交わりのうちに一致していることを積極的にあかしする決意を新たにするときでもあります。教会共同体の中で、自らに与えられた役割を自覚し、その役割を、他の方々との支え合いと分かち合いのうちに生かしていく決意を新たにするときでもあります。

あらためて最後の晩餐の席上で、主御自身の言葉と思いに心をむけましょう。イエスはすでにご自分が弟子たちの元から去って行くのをご存じでした。しかし弟子たちはまだそのことを理解していません。そういう中で、残される弟子たちのことを思うイエスの思いは、どれほど苦しかったことでしょう。ミサの中で司祭は、「わたしの記念としてこれを行いなさい」と唱えます。「記念として」という言葉は、なんともドライな言葉です。この言葉にイエスはどういう思いを込めておられたでしょう。「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」そう願う、イエスの切々たる思いが、この言葉に込められていると、「わたしの記念としてこれを行いなさい」と唱えながら、わたしは常々感じています。

「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」

その言葉は、今日、ミサに与るわたしたちひとり一人に向かって、主御自身が語りかける主の思いに満ちあふれた言葉です。

「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」

この言葉を心に深く刻みつけておきたいと思います。主の切々たる思いを、心に刻みつけておきたいと思います。

聖変化の直後、司祭は、「信仰の神秘」と呼びかけます。それに対して、新しくなった応答の言葉の一番目は、「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られるときまで」となっています。以前は「主の死を思い復活をたたえよう。主が来られるまで」と翻訳されていました。原文のラテン語は一緒です。新しい翻訳と以前の翻訳の大きな違いは、「あなたの死を告げ知らせ」が付け加えられたことです。そして主の死と復活をこの世において告げ知らせるのは、わたしたちに与えられた使命です。その使命を明確にする翻訳に変わりました。

わたしたちは、「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」と主御自身から呼びかけられた直後に、「主の死と復活を告げ知らせる」と宣言しているのです。誰かがするのではなくて、キリストの体に与るようにと招かれたわたしたちひとり一人が、ひいてはその交わりにあって教会共同体そのものが、現代世界のただ中で、主イエスを告げ知らせることを高らかに宣言しているのです。聖体祭儀に与るわたしたちの務めです。

直接に、または霊的にご聖体をいただくわたしたちは、キリストの一つの体にあずかり、その交わりの中で互いに支え合い、分かち合いながら、主の思いを心に刻み、共同体の一致のうちに、主の福音を告げ知らせるものでありましょう

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2023年6月10日 (土)

週刊大司教第128回:キリストの聖体

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キリストの聖体の主日です。

昔ガーナにいた頃は、キリストの聖体の主日には、聖体行列をして村の中を回りました。村の方の半分ほどが信徒だからこそ意味がありました。村の四カ所にステーションを設け、祈りを捧げ、その地域にご聖体を持って祝福をして回りました。もちろん聖歌隊と多くの方が、一緒に行列を作って回りました。ご聖体における主の現存を確信し、その愛といつくしみに感謝するとともに、一つの体へと集められた一致の秘跡の絆のうちに、互いに信仰者が結ばれていることを確認し、確信するためにも、そういった村での聖体行列には大きな意味がありました。

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わたしたちも、ご聖体のうちに現存される主が、教会共同体とともに歩んでくださることを、この日、再確認したいと思います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第128回、キリストの聖体のメッセージ原稿です。

キリストの聖体の主日A
週刊大司教第128回
2023年6月11日

ご聖体のいけにえは、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と教会憲章は記しています(11)。キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに主御自身が現存され、わたしたちとともに常におられます。

ご聖体の秘跡は、わたしと主との交わりという意味で、極めて個人的な秘跡でもありますが、同時にそれは共同体の秘跡でもあります。そもそもミサそれ自体が、個人の信心ではなくて、共同体の交わりの祭儀です。わたしたちは常に、共同体の交わりのうちにご聖体をいただきます。

ですからたとえ司祭がひとりでミサを捧げたとしても、それは司祭の個人的信心のためではなく、共同体の交わりのうちにあって、司祭はミサを捧げます。

教皇ヨハネパウロ二世の「教会にいのちを与える聖体」には、次のように記されています。

「(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら『たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです』」(31)

パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。

わたしたちの信仰と共同体は切り離すことができません。パウロはコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。わたしたちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有するという「交わり」のなかで、生きている信仰です。

ご聖体をいただくわたしたちは、一つのキリストの体に与り、キリストの体をともに形作るものとして、キリストにおける一致をあかしするものでなくてはなりません。キリストの聖体のお祝いは、主御自身がご聖体のうちに現存され、ともにいてくださることを称えるのみならず、ご聖体をいただくわたしたちが交わりのうちに一致していることを積極的にあかしする決意を新たにするときでもあります。

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2023年6月 4日 (日)

三位一体の主日堅信式ミサ@下井草教会

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三位一体の主日の今日、午前9時半から、都内、下井草教会で堅信式を行い、22名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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下井草教会は、サレジオ会が司牧を担当しており、現在の主任司祭は並木神父様。22名の方々には、中学生や高校生、一家総出、年長の方など、様々な年代層の方がおられました。記録によれば、下井草教会を前回訪問したのは2018年7月で、その際には14名の方が堅信を受けられました。その後、感染症の拡大などもあり、5年ぶりの訪問となってしまいました。

なお、バチカンからの発表によると、教皇様は、今年の8月31日から9月4日まで、モンゴルを訪問されることを決定されました。詳細なプログラムはこれからですが、モンゴルは、すぐ近くの国ですし、またその隣の中国との関係も難しい問題がありますが、教皇様の使徒的訪問が無事に行われるよう、お祈りいたしましょう。

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以下、本日の下井草教会堅信式ミサの説教の概要です。

私たちは、「主イエスキリストのめぐみ、神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共に」という言葉で、ミサを始めます。この言葉は、先ほど朗読されたパウロのコリントの教会への第二の手紙を、締めくくっている言葉です。コリントの教会に宛てて、パウロは愛に満ちた教えの書簡をしたためます。そこにはパウロが伝えたいことが凝縮されています。そのすべてを背負ってまとめるのが、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という言葉です。

ですから教会は、共に集まってミサを捧げるとき、パウロが締めくくった言葉からミサを始めます。つまりパウロが伝えようとした主イエスの福音をすべて背負った言葉から、私たちの祈りを始めます。私たちは、パウロが伝えたかったイエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりをすべて自分たちの心に受け止めて、そこから信仰生活を始めます。私たち教会共同体は、どれほど時を経たとしても、この言葉によって、常にパウロの時代の教会と繋がっています。いや教会は、使徒言行録に記された五旬祭のあの日、聖霊が降ってきて弟子たちを満たし、福音がすべての人に告げられるようになったあの日から、連綿と続くときの流れの中を、常に前進しながら歩み続ける、交わりの教会です。

教会ではよく当たり前のように、「交わり」という言葉を使います。いまも、「聖霊の交わり」というパウロの言葉を引用しました。そもそも「交わり」ってどういう意味で使っているのでしょう。教会は人が集まるところだから、いろんな人と交わって仲良くなること、ではないのです。教会共同体というのは、仲の良い人の集まりのことではありません。教会が語る「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。パウロのコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」という言葉があります。その「あずかる」が、すなわち「交わり」のことです。

わたしたちの信仰は、ひとつのキリストの体である共同体を通じて、ひとつのキリストの体にあずかり、その中でいのちを分かち合い、互いに愛を共有する「交わり」のなかで、生きている信仰です。私たちは、一つのキリストの体を作り上げるために、それぞれが自分に与えられた使命を生きることで、その目的に貢献します。勝手に働くのではなくて、体のほかの部分と協力し協調しなければ、体はバラバラになります。皆が一つのキリストの体に与るのですから、互いに思いを一つにし、支え合い、励まし合い、協力しながら、私たちはキリストの体をこの世界に目に見える形で実現していきます。それが交わりの共同体です。

そこで一人一人の体における役割は何かを見極めていかなくてはなりません。それぞれの与えられたたまものがあるでしょう。それぞれの能力があるでしょう。できることできないこと。自分の役割に忠実であることは、自己実現ではなくて、キリストの一つの体を実現するための務めです。それが交わりの共同体です。

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教会は、聖体の秘跡によって一つに結び合わされています。私たちは数は多くても、一つのイエスの体に与ります。聖体を受けるものは、共同体の交わりへと招かれています。教会は常に聖霊の交わりの中にいます。つまりキリストの一つの体を作り上げるための私たちの務めは、聖霊によって導かれています。

堅信の秘跡は、キリスト教入信の過程の完成です。洗礼に始まり、御聖体を受け、そして堅信で聖霊の恵みをいただくことで、私たちは大人の信仰者として自立します。福音のためにすべてをかけ、交わりの共同体にあって、一つのキリストの体の部分としての役割を果たす責任を与えられます。今日から務めを果たしていきましょう。与えられた責任にふさわしくいきましょう。

とはいえ、私たちは弱い存在であるので、熱意はあっても、それを実現することは容易ではありません。だからこそ聖霊の助力があるのです。聖霊は、私たちの前向きな思いを後押ししてくれる神の力、神の息吹です。自らの務めを果たそうと決意するその思いを、後ろから吹き付ける聖霊の息吹が後押ししてくださいます。身を任せましょう。風がどこからどこへ吹くのか、私たちは誰も知りません。信頼を持って聖霊に身を委ね、後押ししてくれる方向へと勇気を持って踏み出しましょう。

 

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2023年6月 3日 (土)

週刊大司教第127回:三位一体の主日A

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三位一体の主日となりました。また6月はイエスの御心の月でもあります。

聖霊降臨からのこの一週間、月曜日には東京教区で働く司祭の毎月の集まりが行われました。教区司祭も修道会や宣教会司祭も、小教区司牧で働くすべての司祭が、毎月一度カテドラルに集まり、まず大聖堂で昼の祈りをともにしてから、ケルンホールで研修などを行っています。なかなか全員がそろうことはないのですが、それでも多くの司祭が参加してくださっています。

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今月の集まりでは、先般叙階された新司祭の中から、東京で働いている5名が来てくださり、それぞれの抱負などについて分かち合った後、小グループに分かれて、先輩の司祭たちと、司牧の課題やこれからの展望について分かち合いのひとときを持ちました。教区、修道会と、それぞれ働く場所や役割は異なりますが、日本における、また特に東京における福音宣教のために働くというところでは一致しています。これからの活躍に期待したいと思います。いまは小教区の兼任も増えており、心身ともに多くのストレスに直面する司祭も少なくありません。どうか、どうか、司祭のためにお祈りくださいますように、お願いいたします。

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火曜日と水曜日は、大阪まで出かけ、梅田にある大阪梅田教会(東京の梅田教会と区別するためこう呼ばれますが、一般には大阪の梅田教会)を会場に開催されていた、日本の男子修道会管区長会と女子修道会総長・管区長会の合同の総会で、お話をさせていただきました。初日の火曜日には午後から教皇大使の講話と、開会ミサがあり、わたしは二日目の聖母の訪問の祝日のミサを司式し、そのあとに一時間程度のお話を午前と午後の二回させていただきました。テーマは、もちろん、シノドスです。わたしは講話が終わってすぐ、木曜日に東京で会議があるため大阪を離れましたが、総会は、火曜日から金曜日までの日程で行われ、修道者・奉献生活者の担当である山野内司教様が、すべての日程に参加されました。

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木曜日はいつものように常任司教委員会と、東京カトリック神学院の常任会議。金曜日は午前中に司祭生涯養成委員会の会議と、その後に銀座で聖書協会の財務委員会。

会議が続いた一週間でした。なおこの間に、6月1日付で東京教区ニュースが発行されています。その一面には、今回わたしが国際カリタスの総裁に選出されたことに関するインタビュー記事が掲載されています。ご一読いただければ幸いです。また様々な教区の働きや、ケルンとミャンマーとの関係、さらにはシノドスについての記事、坂倉神父様の訃報なども掲載されていますが、もうひとつ、カトリック美術展の記事が掲載されています。毎年この時期に、カトリック美術協会が主催して、有楽町のマリオンにあるギャラリーで開催しています。今回で67回目です。こちらの記事もご一読いただけると幸いです。来年の開催も決まっています。2024年は5月17日から22日です。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第127回、三位一体の主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第127回
2023年6月4日

ミサを捧げるとき、司祭は十字架の印の後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさんとともに」と呼びかけます。

この言葉は、パウロが、コリントの教会に宛てた書簡を締めくくった言葉です。コリントの共同体への様々な忠告や教えに満ちあふれた書簡を、パウロのこの祝福の言葉で締めくくります。

そして今を生きるわたしたち教会は、その締めくくりの言葉から、感謝の祭儀を始めます。すなわち、現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるたびごとに、パウロが締めくくった地点から、常に新たなスタートを切っています。

教会は、主イエスの恵みにあずかり、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされていきます。自ら創造されたたまものであるいのちを生きる人間を、独りたりとも滅びの道に捨て置くことはありません。神の愛における決意は、この三位一体の神を表す言葉に満ちあふれています。三位一体の神秘とは、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして愛を降り注ぐ、神の愛の迫力を感じさせる神秘であります。

わたしたちを共同体の交わりへと導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。わたしたちは、過去に戻りません。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう書いておられました。 

「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すというこの課題に対して、大胆かつ創造的であってください。」(33)

わたしたちは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」によって、繋がれています。ですから、わたしたちはどこにいても、常に、教会です。

「兄弟たち、喜びなさい」とコリントの教会に呼びかけたパウロは、「思いを一つにしなさい」と諭しています。わたしたちが語るキリストの体における一致は、同じことをおなじように考えて、おなじように行動する、一緒とは違います。聖霊はわたしたち一人ひとりに異なるたまものを与えられた。その聖霊のたまものを忠実に生かし、聖霊の交わりの中に生きるとき、わたしたちは異なる場で異なることをしていても、同じ聖霊に満たされ導かれることで、一致しています。

主キリストの恵みに満たされ、御父の愛に包まれ、聖霊の導きにともに身を委ねることで、一致のうちにある教会でありましょう。

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