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2023年6月11日 (日)

キリストの聖体の主日@東京カテドラル

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キリストの聖体の主日の今日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた関口教会の午前10時のミサにおいて、5名の子供たちが、初聖体を受けられました。おめでとうございます。

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説教の後に、内陣に呼ばれた白いドレスとベールで着飾った5名は、復活のろうそくから火をとったそれぞれの初聖体の記念のろうそくを受け取り、祝福をいただきました。そして拝領の時も内陣に上がり、わたしから直接に聖体を拝領。拝領祈願後には、教会からのお祝いが主任司祭から贈られました。

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以下、本日の説教の原稿ですが、途中から、内容はほぼそのままですが、実際には話し方を変更しました。配信されていたビデオをご覧ください。配信担当者には、話している内容に合わせて、オリジナルの原稿を提示していただくことになり、申し訳ありませんでした。

なお昨日土曜日の午後5時から、吉祥寺教会でキリストの聖体の主日のミサの中で、18名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。そちらのミサの説教も、大体の話の筋は一緒です。そちらは原稿はありません。吉祥寺教会のyoutubeからビデオを見ることができます。

キリストの聖体の主日A (配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年6月11日

わたしたちは、ミサに与るとき、どうしてご聖体を拝領するのでしょうか。ミサは聖体の祭儀ですから、聖体を拝領できる人は拝領することが当たり前と、当然のように拝領していないでしょうか。

もちろん主御自身が最後の晩餐の席上で、「これはわたしの体、これはわたしの血。わたしの記念としてこれを行え」と、聖体の秘跡を制定し、それを続けていくことを命じられたからこそ、わたしたちはミサを捧げ続けています。弟子たちは最後の晩餐の席で、「『とって食べなさい』、『皆、この杯から飲みなさい』というイエスの招きを受けました。こうして彼らは初めてイエスとの秘跡による交わりに与りました」と教皇ヨハネパウロ二世は「教会にいのちを与える聖体」に記しています(21)。

その上で教皇は、「このときから、世の終わりまで、わたしたちのためにいけにえとされた神の子との秘跡による交わりを通じて、教会は築き上げられていくのです」と記し、わたしたちがご聖体をいただくのは、一人個人的な霊的な充足のためだけではなく、教会共同体を築き上げていくためであることを明確にします。わたしたちは、自分自身がキリストと一致するために、そして同時に教会共同体の一致のために、ご聖体を拝領します。

教皇は「信者は洗礼によってキリストの体と一つにされますが、この一致は、聖体のいけにえにあずかることによってつねに更新され、強められます(22)」とも記しています。ご聖体は、それを実際に拝領することと霊的に拝領することの両方を通じて、わたしたちひとり一人をキリストのただ一つの体との一致へと招きます。そして、そのキリストの体を目に見える形であかししている教会共同体の一致へと招きます。聖体に生かされている教会共同体は、一致の共同体です。

ご聖体のいけにえは、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と教会憲章は記しています(11)。キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに現存される主御自身は、この秘跡を通じて、わたしたちとともに常におられます。

ご聖体の秘跡は、わたしと主との交わりという意味で、極めて個人的な秘跡でもありますが、同時にそれは共同体の秘跡でもあります。そもそもミサそれ自体が、個人の信心ではなくて、共同体の交わりの祭儀です。わたしたちは常に、共同体の交わりのうちにご聖体をいただきます。

パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。

わたしたちの信仰と共同体は切り離すことができません。共同体の交わりのうちにある信仰です。しばしばわたしたちは「交わり」という言葉を使いますが、どういう意味でしょう。人がたくさん集まって、その交わりを深めると言えば、それは互いをよく知り合い仲良くなっていくことを意味しているのでしょうが、教会で語る交わりはそれにとどまってはいません。

パウロはコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。わたしたちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。わたしたちの信仰は、キリストの体にあずかる信仰です。そのキリストの体はたくさんある体ではなく、唯一の体です。唯一の体の一部分として生きるようにと、わたしたちは招かれています。一部分として生きるとき、わたしたちの役目は、その一つの体を生かすことであって、殺すことではありません。そのためには自分勝手なことをしているわけにはいきません。一つの体の様々な部分と互いに手を携え、支え合ってこそ初めて、キリストの体を生かすものとなることができます。わたしたちは共同体を通じて、キリストの体にあずかり、それによっていのちを分かち合い、愛を共有するという「交わり」のなかで、生きている信仰です。教会共同体を、生きたキリストの体をあかしする存在とするために、わたしたちひとり一人は、主御自身によって招かれています。

キリストの聖体のお祝いは、主御自身がご聖体のうちに現存され、ともにいてくださることを称えるのみならず、ご聖体をいただくわたしたちが交わりのうちに一致していることを積極的にあかしする決意を新たにするときでもあります。教会共同体の中で、自らに与えられた役割を自覚し、その役割を、他の方々との支え合いと分かち合いのうちに生かしていく決意を新たにするときでもあります。

あらためて最後の晩餐の席上で、主御自身の言葉と思いに心をむけましょう。イエスはすでにご自分が弟子たちの元から去って行くのをご存じでした。しかし弟子たちはまだそのことを理解していません。そういう中で、残される弟子たちのことを思うイエスの思いは、どれほど苦しかったことでしょう。ミサの中で司祭は、「わたしの記念としてこれを行いなさい」と唱えます。「記念として」という言葉は、なんともドライな言葉です。この言葉にイエスはどういう思いを込めておられたでしょう。「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」そう願う、イエスの切々たる思いが、この言葉に込められていると、「わたしの記念としてこれを行いなさい」と唱えながら、わたしは常々感じています。

「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」

その言葉は、今日、ミサに与るわたしたちひとり一人に向かって、主御自身が語りかける主の思いに満ちあふれた言葉です。

「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」

この言葉を心に深く刻みつけておきたいと思います。主の切々たる思いを、心に刻みつけておきたいと思います。

聖変化の直後、司祭は、「信仰の神秘」と呼びかけます。それに対して、新しくなった応答の言葉の一番目は、「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られるときまで」となっています。以前は「主の死を思い復活をたたえよう。主が来られるまで」と翻訳されていました。原文のラテン語は一緒です。新しい翻訳と以前の翻訳の大きな違いは、「あなたの死を告げ知らせ」が付け加えられたことです。そして主の死と復活をこの世において告げ知らせるのは、わたしたちに与えられた使命です。その使命を明確にする翻訳に変わりました。

わたしたちは、「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」と主御自身から呼びかけられた直後に、「主の死と復活を告げ知らせる」と宣言しているのです。誰かがするのではなくて、キリストの体に与るようにと招かれたわたしたちひとり一人が、ひいてはその交わりにあって教会共同体そのものが、現代世界のただ中で、主イエスを告げ知らせることを高らかに宣言しているのです。聖体祭儀に与るわたしたちの務めです。

直接に、または霊的にご聖体をいただくわたしたちは、キリストの一つの体にあずかり、その交わりの中で互いに支え合い、分かち合いながら、主の思いを心に刻み、共同体の一致のうちに、主の福音を告げ知らせるものでありましょう

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