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2023年7月29日 (土)

週刊大司教第135回、年間第17主日A

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暑い毎日が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

この時期、学校も夏休みに入り、教会のキャンプなど様々な行事があろうかと思います。どうか暑さに気を付けて、無理はなさいませんように。またWYDワールド・ユース・デーに参加する青年たちや同行司教、司祭、修道者も、すでにポルトガルに向けて出発しています。本番の大会が始まる前に、現地の教区との交流のプログラムが用意されています。こちらからフォローください。日本からは、勝谷司教、酒井司教、成井司教も同行しています。ヨーロッパも暑いみたいです。参加者たちの健康のために、またワールド・ユース・デーの成功のために、お祈りください。

以下、今夕6時配信の週刊大司教第135回、年間第17主日のメッセージ原稿です。

年間第17主日A
週刊大司教第135回
2023年7月30日

マタイ福音は、「宝」について語るイエスのことばを記します。「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」です。ここでイエスが語る「宝」は、経済的な付加価値を与えてくれる財産としての「宝」ではなく、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、いのちを生かす「宝」であります。

それをよく表しているのが、第一朗読の列王記の話です。神はダビデの王座を継いだソロモンに、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われます。それに対してソロモンは、経済的な付加価値を持った「宝」を求めることもできたでしょう。しかしソロモンは、自分の利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願い、神から喜ばれることになります。その結果として、「知恵に満ちた賢明な心を」神から与えられたと、記されています。

ソロモンは自分の利益ではなく、自分に託された神の民のための「宝」を求めた。ここに福音に記された、すべてをなげうってでも手に入れたくなる「宝」の意味が示されています。

わたしたちが求め続ける「宝」は、自分の利己的な欲望を満たす宝ではなく、他者のいのちを生かし、社会の共通善に資するような「宝」であって、わたしたちが人生を賭けてでも求め続けなくてはならない「宝」であります。そしてわたしたちには、その「宝」が、イエス・キリストの福音として与えられています。「宝」そのものである主御自身が、常にわたしたちと歩みをともにしてくださっています。人生のすべてを賭けて、その主に従っていきたいと思います。

まもなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、毎年恒例の平和旬間がはじまります。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。

夏になって戦争の記憶をたどり、平和を祈るとき、この教皇の言葉を思い出したいと思います。わたしたちは過去を振り返り平和を祈るとき、将来に対する平和を生み出す責任を担います。

暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(カテキズム1753)。「戦争は死です」。賜物であるいのちを生かす神の「宝」から目をそらすことなく、ともに歩まれる平和の主に従っていきたいと思います。

 

 

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2023年7月23日 (日)

五井教会堅信式@2023年7月16日

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一週間遅れになってしまいましたが、先週の日曜日、7月16日午前10時から、千葉県の五井教会で、堅信式ミサを行い、18名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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五井教会の主任司祭は、コロンバン会のティエン神父様が主任司祭で、日本人信徒のほか、フィリピンやベトナム、インドネシアなど、様々な国出身の信徒の方が大勢おられる共同体です。

余裕を持ったつもりで、朝の8時に関口を車で出発したのですが、京葉道路は事故渋滞で、途中で下道におり、ミサが始まる10時を少し過ぎての到着となってしまいました。

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以下、当日のミサの説教を録音から書き起こしたものです。

カトリック五井教会堅信式 (2023@年間第15主日)

今朝は、8時には出てきたのですけれども、京葉道路が事故渋滞をしていたので途中で降り、下道を走って2時間ちょっとかかってしまいました。遅れて申し訳ありませんでした。また、たぶん木曜日の夜、寝ている間に熱中症になったのかもしれません。昨日、一昨日と、熱が出ましたが、コロナは陰性でした。二日間休んでいたのでちょっと本調子ではないのですが、幸い喉は影響を受けておらず声が出るので、今朝は堅信式のために五井教会来ることができほっとしています。

今日、堅信を受けられる18人の方に、心からお祝いを申し上げたいと思います。
今日の第一朗読では、イザヤの預言が朗読されました。その後半に「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」という言葉が記されています。

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ご存知のようにヨハネ福音書の冒頭には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されています。つまり、イエス・キリストは、神の言葉そのものであると記されています。ですから、このイザヤの預言が記している「わたしの言葉」、それはイエスご自身のことであります。「わたしの口から出る」、つまり神の言葉は人となって、わたしたちのところにやって来られた。そしてその言葉は、何も成し遂げることがなくむなしいままで、御父のもとに帰ってゆくことは絶対にあり得ない。「わたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」のだと記されているわけです。

イエス様ご自身は33歳の時に十字架にかけられて死に、復活し、御父のもとに帰ってしまわれたよね。ではそのあと、その神の言葉はどうなってしまったのでしょう。

わたしたちはイエスご自身が目に見える形でわたしたちの間に存在していなくても、わたしたちと共にいてくださるということを信じているからこそ、いまこうやって一緒に共同体として集まっているわけですよね。つまり、神の言葉は、受難と死と復活と昇天の後にいなくなってしまったのではなくて、わたしたちと共に、それからずっと一緒に存在しておられるのです。

では、いったい神はどこに、イエス様はいつもどこに、いてくださるのですか?

まず一つ思いつくのは、最後の晩餐の時に、パンと葡萄酒を取って、「わたしのからだである」、「わたしの血である」、これを飲む時、食べる時、わたしのことを忘れずに記念し続けなさいと言われたあの主の言葉通り、こうやって集まりご聖体の祭儀に与る時、そこに主ご自身はご聖体のうちにおられるということです。

そしてもう一つ、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」という主の言葉です。こうして主のみ名において共同体が集まる時、ここに、主ご自身がおられるのですよ。

そしてさらに、ミサの中では、第一朗読、第二朗読、そして福音朗読と、3回聖書が朗読されます。この聖書の朗読は、昔、書かれた本を懐かしく読んでいるのではありません。いま、朗読されるまさしくこの時に、その神の言葉は、わたしたちのうちに現存するのです。神の言葉が声に出される時、ここに神が現存される。イエスが現存される。

わたしたちは教会で、三つのイエスの現存に出会います。
一つはご聖体におけるイエスの現存。そして、二人三人がイエスの名のもとに集まっているという時におられるイエスの現存。そして聖書の言葉が朗読される時に、その言葉のうちにおられる主の現存。イエスは、三つの現存を通して、わたしたちと共におられるのです。

ですから、神の言葉は、神の口から出て、人となってわたしたちのところにお住まいになり、いまに至るまで、わたしたちと共にいて、その使命を成し遂げようとしておられます。その使命を、どうしたら成し遂げるようにすることができるのか。神様に任せてしまえば良いわけではありません。

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福音書は、種蒔きの話を記していました。

種を蒔く。種は神の御言葉ですよね。神の御言葉である種を蒔くけれども、その蒔かれていく土壌によって、育ち方が違っていくのだと。
道端に落ちてしまうと、鳥が来て食べてしまう。石だらけの土の少ない所では、あっという間に枯れてしまう。茨の間に落ちると、茨に塞がれてしまって育つことができない。

「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」と記されています。

ここでは種を蒔くのは神様ですから、わたしたちにできることは何なのかと考えてみると、それは、種が蒔かれるための土壌を、土を、良い土を、用意することです。

神様はイエスをこの世に人として遣わし、神の言葉をここに残し、そして、毎週、毎週、ミサの中で聖書が朗読されるたびに、この神のみことばのうちに現存し、わたしたちと共にいてくださる。

その神のことばが使命を成し遂げるためには、その種が蒔かれて育つ土、土を用意しなければならないのです。わたしたちの使命は、土を、良い土を準備することです。神様が蒔かれた種が育つことができるような、良い土を用意していくこと。それがわたしたち一人ひとりに与えられている使命のひとつであると思います。

では、どうやってその良い土を用意するんだろうか。

本当の農業であれば、必要な材料を買ってきて土壌改良するでしょうけれども、相手は人間の心なのですよ。この人の心をどうやって良いものにしていくのか。

それは他の人の良い模範、他の人の良い心に触れること、でしかあり得ないんですよ。わたしたちにとって大切なのは、自分自身の良い心、良い思い、それをわたしたちの言葉と行いを通して、他の人たちの間で証ししていくことなのです。

決して、人前に立って、あなた方みな回心しなさい、そうしなければ地獄に落ちるぞというのが、わたしたちにとって土を改良していくわざではないのです。

わたしたちは日々の生活の中で、いろんな人たちと出会っていきますよね。この日本において多くの人は、キリストを知らないか、または誤った解釈をしているか、もしくは変な宗教の一つだと思っているか、ではないでしょうか。キリスト教徒がものすごく少ないこの国の中で、わたしたちはそのような人と毎日出会い、一緒に生活をしているわけですね。

その中で、わたしの語る言葉、わたしの行い、それを通じて、神様の愛を、神様のいつくしみを、あわれみを証ししていきたいんですよ。その証しをすることこそが、福音を伝えることであり、神のみことばの種が蒔かれるための、良い土を作る働きなのだと思います。

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堅信を受けられる方々にあっては、水による洗礼を受け、ご聖体を受け、そしてこの堅信で聖霊の恵みを受けることによって、キリスト教徒になっていくプロセスが完成します。ですから、この堅信の秘跡を受けることによって、完成したカトリックの信者、キリストの弟子になるのです。そして完成しているということは、お恵みもいただきますけれども、同時に、求められていること、務め、責任がそこには必ず発生をするわけです。

その責任の最たるものは、この言葉と行いを通して、神の愛といつくしみとあわれみを証しをしていくこと、福音を告げ知らせていくことが、わたしたち一人ひとりに課せられている務めであります。

それを心に刻んでいただきたい。ですが、容易にできることではないので、だからこそ聖霊を、この堅信の秘跡の中でいただくのです。聖霊は、わたしたちの福音を証しするぞという決意を、後ろから後押ししてくれる神の息吹、神の力です。わたしが、何とかしてこの社会の中で良い土を用意するために、言葉と行いで証ししていくぞという、この決意を、後ろから支え押してくれる、後押ししてくれるのが、聖霊の働きだと思います。その聖霊の働きに信頼し、これからも福音を述べ伝えることができるように、努力をしていただければと思います。

そして、ここに集まっている多くの人たちは、この18人以外には関係ないと思っているかもしれないですが、今日、堅信式の時に、集まっているみなさんにも質問するんです。ご存じですか?

堅信式の中で、堅信を受ける人たちに質問するんですよ。

最初、「あなたは悪霊を捨てますか?」とか、「神を信じますか?」って、質問します。みんなハイって答えると思います。そしたらその後に、実はですね、「ではここにお集まりのみなさんにも、一つ質問があります」とわたしは尋ねます。だいたいみんな気が付かずに、すーっと通り過ぎていってしまうんですけれども、本当はみなさん、すごいことを約束するんですよ。

今日、気をつけて聞いておいてください。みんなすごいことを約束しますから。よく耳を傾けて、一体自分は何を約束するのだろうかと、気をつけておいていただければと思います。

 

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2023年7月22日 (土)

週刊大司教第134回:年間第16主日A

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年間第16主日です。暑い毎日が続いています。大雨の被害を受けられた多くの方々、特に新潟教区の秋田県の皆様には、心からお見舞い申し上げます。

教会は7月の第四日曜日を祖父母と高齢者のための世界祈願日と定めています。日本では来年から、9月の敬老の日の前日(敬老の日が必ず月曜日ですから、その前日の主日)にこの世界祈願日を移動することにして、すでに教皇庁の許可を得ています。カレンダーの印刷などの都合もあるため、実施は来年からとなります。この世界祈願日のために教皇様のメッセージが発表されています。こちらをご覧ください

司教総会は予定通り終了しました。議決されたことについては、後日カトリック新聞などをご覧ください。司教たちのためにお祈りくださった皆様に、心から感謝申し上げます。

まもなくワールド・ユース・デーがリスボンで開催されます。それに先だって、事前の様々な行事のため、すでに日本を出発したグループもあるようですし、日本の司教協議会が主催するグループも、7月26日あたりから現地に向けて出発することになります。日本からは100名を遙かに超える青年たちが参加されます。司教団主催のグループも、帰国は8月10日頃です。暑い中の長旅です。健康が守られ、現地で良い祝福された出会いがあるように、ポルトガルのリスボンで開催されるワールド・ユース・デーのためにお祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第134回、年間第16主日メッセージ原稿です。

年間第16主日A
週刊大司教第134回
2023年7月23日

マタイ福音は、創造主である神が、良い麦も後で蒔かれた毒麦も、共に育つことを容認するけれども、最終的には刈り入れの時に二つを峻別すると語るイエスのことばが記されていました。このたとえでの刈り入れの時とは、一般的に世の終わりの最後の審判の時であります。

わたしたちが生きているいまの世界は、まさしく神が創造された良い麦と、人間の欲望が生み出した悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。暴力が支配し賜物であるいのちが危機に直面するような現実を目の当たりにするとき、神が悪の存在を容認しているのかと考えてしまいますが。福音は、それは刈り入れの時まで待っておられるのだとして、峻別できるそのときを待っておられるのだと記します。すなわち創造主である御父は、悪がこの世界を支配するような状況を容認しているわけではないことを心に留め、毒麦を凌駕するほどに良い麦が世界を支配するように、わたしたちはただ傍観するのではなく、良い麦をさらに広く蒔き続ける努力をしなければなりません。わたしたちに与えられている使命は、畑に入って毒麦を抜きととることではなく、良い麦をさらに広く蒔き続けることに他なりません。

教会は7月の第四日曜日を、祖父母と高齢者のための世界祈願日と定めています。日本では来年以降は、聖座の許可を受けて、敬老の日のある9月にこの祈願日を移行することを決めていますが、今年はまだ7月に行われます。

少子高齢化が多くの国で激しく進み、伝統的な家庭のあり方が崩壊する中で、かつては知恵に満ちた長老として社会の中に重要な立場を持っていた高齢者が、周辺部に追いやられ、忘れ去られていく状況が出現しました。高齢者にはそれまでに豊かに蓄えた知識を持って、次の世代につなげる大切な努めがあることを教皇は強調し、若い世代と高齢の世代の交わりを勧めておられます。

今年のメッセージで教皇は、今年の夏に開催されるワールド・ユースデーに近いことから、若い世代と高齢の世代の交わりに重要性を強調され、こう述べています。

「主は若者に、年を重ねた人たちとかかわることで彼らの記憶を大事に守りなさいとの呼びかけを受け入れるよう、そして高齢者のおかげで自分は大きな歴史の流れに属する恵みを与えられているということに気づくよう期待しておられます」

その上で教皇は、「即座ということばかりに、つまり直ちにがっぽり頂戴しよう、「すべてを今すぐに」ということばかりに神経を使う人は、神の働きが見えなくなってしまいます。それに対して神の愛の計画は、過去、現在、未来を貫き、各世代へと及んで、それらを結び合わせます。それはわたしたちを超越した計画ですが、そこにおいてはわたしたち一人ひとりが重要であり、何よりも自分を超えていくことが求められます」と述べて、互いの存在に目を向け、すべての人を福音宣教に招かれる主の呼びかけにともに耳を傾け、支え合いながら、ともに歩みを続けるようにと招いておられます。

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2023年7月15日 (土)

週刊大司教第133回:年間第15主日A

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年間第15主日です。

日ごとに暑さが増し、不安定な天候も続き、各地で大雨の被害も出ています。災害で困難な状況の中におられる方々にお見舞い申し上げると共に、命が守られるようにお祈りいたします。

大分教区の名誉司教であるペトロ平山高明司教様が、今朝7月15日未明に帰天されました。99歳でした。明日日曜の午後6時半から仮通夜、月曜の午後6時半から通夜、火曜日の午前11時から葬儀とのお知らせが届きました。いずれも大分のカテドラル、大分教会です。平山司教様は1970年から2000年まで大分教区司教を務められ、引退後の2008年から9年間、新求道共同体の道のローマの日本のための神学院の院長もお務めでした。平山司教様の永遠の安息をお祈りいたします。

7月18日の午後から21日まで、司教総会が開催されます。全国の司教が全員集まります。司教たちのために、お祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第133回、年間第15主日メッセージ原稿です。

年間第15主日A
週刊大司教第133回
2023年7月16日

神のことばは、常にわたしたちとともにいてくださる神の現存です。なぜならば、世の終わりまでわたしたちとともにいてくださると約束された主イエスこそは、「人となられた神の言」であるからに他なりません。この世界の現実のなかにあって、神のことばは様々な方法を通じて幾たびも幾たびも繰り返され響き続けているにもかかわらず、いまだ世界全体には浸透していません。

ヨハネ福音の冒頭に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおりであります。神はご自分のことばを種のように蒔き続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

ですから、わたしたちは、神が蒔き続けておられる種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶようにと、事前にしておかなくてはならない準備があります。

その準備、すなわち土壌改良を成し遂げるのは、わたしたち一人ひとりの日々の生活における、言葉と行いによる神の愛といつくしみのあかしであります。人とのかかわりの中で、わたしたちの言葉と行いは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。神の言葉が豊かに実るときに、そこには賜物であるいのちを最優先にして守り抜く世界が実現しているはずです。いのちを守らず生かさない社会という土壌で、神のことばの種が豊かな実りを生み出すことはできません。

インターネットが普及している現代社会では、ネット上に残されていくことばも神の愛といつくしみをあかしするものでなければなりません。時にクリスチャンを標榜しながら、他者のいのちに対して攻撃的になるような、きわめて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にするとき、いったいどのような土壌を神のことばの種のために備えようとされているのかと思い、悲しくなることがあります。わたしたちは口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても自分の語る言葉と具体的な行いが、神のことばの種を蒔く土壌を準備するためなのだと、常に心しておきたいと思います。

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2023年7月13日 (木)

来るシノドスでの歴史的出来事について

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教皇庁からは、毎日ローマ時間のお昼に様々な公示が発表されます。教皇様による様々なメッセージや、各省庁からのメッセージなどですが、中でも人事の発表には注目が集まります。

7月7日には、10月に開催される通常シノドス第16回総会の参加者名簿が公表されました。参加者名簿はこちらからご覧いただけます

そして7月9日のお昼には、恒例の教皇様によるアンジェルスの祈りに続いて、教皇様ご自身から、9月30日に枢機卿会を開催して、新しい枢機卿を親任するとの発表がありました。

まずはシノドスですが、すでに各国・地域の司教協議会は、そのサイズ(司教の人数)に応じて、代表の司教を選挙で選んでありました。ちなみに日本の司教団は代表が1名で、すでに以前の総会でわたしが選出されていました。これらの司教協議会代表に関しては、今年の5月頃に教皇様の裁可があり、内示がありました。

それ以外に、教皇様は各大陸(7つ)からそれぞれ10名ずつの司祭・修道者・信徒の代表を選ぶことを決められ、各大陸の組織(アジアではFABC)に、20名の候補者を出すようにとの通知がありました。これに加えて、教皇様がご自身で選ばれた参加者や、専門家など、今回初めて司教や枢機卿以外でも投票権を持って参加することになった多くの方の選出がかなりの時間を要したようで、参加者の発表は7月7日までずれ込みました。

日本に関係する参加者は4名です。一人は、以前上智大学で教えていたイエズス会のオロリッシュ枢機卿。現在ルクセンブルグの大司教であるオロリッシュ枢機卿は、リストではかなり最初の方のGENERAL RAPPORTEURという役目です。全体報告者とでも訳すのでしょうか。今回のシノドスを、シノドス事務局長のグレック枢機卿とともにはじめの頃から企画し推進してきた方ですので、総会でも重要な立場におられます。

もう一人は、専門家にリストアップされているシスター弘田。メルセス会のシスター弘田は、ローマで働かれたこともあり、以前のシノドスにも専門家として参加された経験があります。また今回のシノドスの企画運営の委員会の唯一の女性委員でもあります。

そして、日本代表のわたし。

そして、直後に枢機卿親任の発表があったのであまり注目されていませんが、歴史的な快挙である西村桃子さんの任命です。何が歴史的かというと、彼女の役割は、「議長代理(President delegates)」という役目の一人です。

シノドスの議長(President)は教皇様ご自身ですから、毎日の議事運営を実際に担ってシノドスを回していくのが議長代理の役目です。つまり西村さんは、教皇様の代理を務めるように任命されました。これ、実は、ものすごいことです。歴史的快挙です。

これまでのシノドスでは、この役割はほぼ枢機卿たちが独占して任命されてきました。教皇様の代理ですから、それが当たり前であったのでしょう。それを教皇フランシスコは今回、9名を任命されて、その中に枢機卿はひとりのみ。それに司教が4人、司祭がひとり、そして奉献生活者の女性が二人。そのうちの一人が西村桃子さんです。

西村桃子さん、歴史的快挙です。

西村さんはセルヴィ・エバンジェリーという宣教者の会の会員で、横浜教区で青年司牧活動に従事されています。フィリピンでの経験や、アルゼンチンでの経験が豊かにあり、英語とスペイン語に堪能です。

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実は、今年の初め、アジアの大陸別シノドスを準備するにあたり、FABCの事務局ではアジア各地から、司祭だけに限らず様々な専門家に参加していただいて、事前の準備をしたり、文書を作成したり、実際の運営にあたるグループを立ち上げました。ところが東アジアからの代表がなかなか見つからない。東アジアは、「英語で文書が書ける女性」が条件だったため、なかなか候補者が見つかりません。すでに準備作業がはじまっていましたが、ある日ふと気がついて、東京教区で青年司牧にあたっておられるセルヴィ・エバンジェリーの会員を通じて西村さんにコンタクトをとったところ快諾。加えて、オロリッシュ枢機卿とも知り合いであることもわかり、早速チームに加わっていただきました。(上の写真がそのFABCのアジア大陸別シノドス文書作成チーム。西村さんは左から2番目。FABC会長のチャールズ・ボ枢機卿の隣り)

アジア各国からの司祭や信徒の神学者からなるチームの中で、西村さんは素晴らしい活躍を見せ、チームメンバーからも高い評価を得ていました。今回、議長代理に選出されたのも、アジアの大陸シノドスでの活躍が評価されてのことだと思います。FABCの事務局に関わるものとして、大変名誉な任命であると思います。(下の写真は、アジアの大陸別シノドスに参加した日本代表団とオロリッシュ枢機卿)

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シノドスの準備は進んでいるようですが、教皇様が9月30日に枢機卿会を開催すると突然発表されたので、現場は大混乱している様子が伝わってきます。宿泊場所の確保が何やらエラいことになっているようです。

シノドスの投票権を持つ参加者(メンバー)は、いまのところ378名。そのほかに83名が招待されています。記者資料によればその中に女性は85名で、そのうちの56名が投票権を持っているメンバーです。アジアからは、総勢で44名が参加する予定です。

9月30日の枢機卿会から始まり、10月29日まで続くシノドスが、どうか聖霊に導かれて進むべき道を見いだすことができるように、お祈りください。

なおシノドスの討議要綱は、現在中央協議会で翻訳中で、まもなく公表されます。討議要綱は、すべての方にも読んでいただきたい文書で、それに基づいた分かち合いを、それぞれの場で進めていただきたい文書です。中央協で公表されましたら、分かち合いなどの呼びかけを改めていたします。

 

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2023年7月 8日 (土)

週刊大司教第132回:年間第14主日A

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年間第14主日です。

東京カトリック神学院の常任司教委員会は、通常は潮見で集まりますが、年に二回、7月と12月に、上石神井の神学院に一泊して会議をしています。木曜日の晩の祈りから参加し、食後には神学生との話し合い。翌朝はミサを一緒に捧げて、その後に常任司教委員会の会議です。現在は、東京カトリック神学院は東京教会管区と大阪教会管区が運営にあたっていますので、常任もそれぞれの管区から一人づつ。広島の白浜司教、京都の大塚司教、横浜の梅村司教、そしてわたしで、委員長は大塚司教です。これ以外に年に二回、司教総会の時に、関係するすべての司教が参加しての神学院司教会議が行われます。

この7月6日と7日が、今年の最初の一泊会議でしたので、神学院に泊まってきました。6日の夜には神学生を四つのグループに分け、それぞれに一人ずつ司教が入って、いろいろと話をする機会がありました。わたしが参加してグループには、4名の神学生が参加し、札幌教区の千葉助祭が進行を務め、わたしも含めて自分の召命の話や、これからの日本の教会の歩みについて、分かち合いの時を持ちました。また今朝、7月7日は、朝のミサの司式をさせていただきました。神学院は6時半の朝の祈りがすべてが歌唱で行われます。普段は一人で唱えるだけの詩編ですが、共同体のみなさんと一緒に歌うことで、その詩編の豊かさが心に染み入ります。

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ご存じのように、東京教区の神学生は現在2名です。神学課程に一人、哲学課程に一人。どうか召命のためにお祈りくださると同時に、司祭の道を考えている方がおられたら、勇気を持って一歩踏み出すように励ましてください。その道を考えている方は、まずご自分の教会の主任司祭に相談されてみてください。それぞれの事情に応じて、教区の養成担当の司祭につないでくれるでしょう。毎年9月が入学願書の締め切りですが、そのギリギリで良いのかというと、そうでもないのです。まず志願される方がどのような方かを教区養成担当者が知る必要がありますから、神学院への入学願者を出す前に、時間が必要です。条件は23歳以上、高卒以上、独身、男性。普段からご自分の小教区の司祭と召命についてよく話し合ってください。司祭召命は個人の召命にとどまらず、共同体が生み出すものでもあります。ですから、小教区とのつながりは大切です。司祭の道をお考えの方は、是非早めに、主任司祭にご相談ください。

10月のシノドス参加者が、7月7日に教皇庁から発表されました。歴史的な出来事です。日本から西村桃子さんが、議長団に選出されました。女性が選ばれたこと自体、はじめてではないでしょうか。後ほど改めて書きます。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第132回、年間第14主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第132回
2023年7月9日

マタイ福音には、「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されていました。

現代社会にあって、心の安らぎを見いだすことは容易ではありません。かつて安らぎの場の筆頭とも考えられた伝統的な家庭は広く崩壊し、地域共同体もその役割を果たしていません。その中にあってわたしたち教会の役割こそは、人と人との出会いのなかにあって安らぎを生み出すことではないでしょうか。

教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、すべての人が仲良くともにいるというのは理想としてはそうですが、現実的ではありません。異なる人が互いに理解することに苦労しながらも、しかしそれでも教会が安らぎを生み出す場となり得るのはどうしてでしょう。それはその安らぎが、ひとり一人の性格に頼っているようなものではなく、教会共同体の真ん中に現存される主イエスご自身からもたらされるからに他なりません。ですからわたしたちは、互いに理解することの難しい異なる存在であるにもかかわらず、安らぎをもたらす主によって一致しているのです。

残念ながら、教会にあっても、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは天使のような人ばかりではなく、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え欠点を抱えた不十分な人間です。

しばしばわたしたちの人間的知恵や経験による賢さは、自己中心の世界を生み出し、まるで自分の周りに防御壁を築き上げるようにして、そこに近づいてくる人を傷つけてしまいます。ですから、わたしたちは常に、心に言い聞かせましょう。教会は安らぎを与える場であり、重荷を与える場ではない。そして教会とは誰かのことではなく、自分こそがその教会である。そのわたしには、真ん中にいる主イエスが生み出される安らぎにまず満たされ、そしてそれを伝える務めがある。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心には神の霊が宿ります。主とともにあるわたしたちは、主が与えてくださる安らぎを、自らもあかしする道を選びましょう。

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2023年7月 7日 (金)

幼きイエス会来日150周年感謝ミサ

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ニコラバレで知られる幼きイエス会。東京の四谷にある雙葉学園を始め、各地で学校教育にも取り組んでこられました。日本に宣教のために最初のシスターが来日して、すでに151年です。

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日本に最初にやってきた宣教師はフランシスコ・ザビエルで、よく知られていますが、最初に日本にやってきたシスターは幼きイエス会のメール・マチルドと4名の会員です。その意味で、幼きイエス会のシスター方は、日本の福音宣教のパイオニアです。

来日150年を記念する行事が関係する各所で一年間行われ、その締めくくりの感謝ミサが、総長様(上の写真)も迎えて、6月24日午後、麹町聖イグナチオ教会で捧げられました。教皇大使とともに司式させていただきましたが、以下、当日の説教の原稿です。日本語の後に、サマリーが英語でついています。

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幼きイエス会のみなさん、おめでとうございます。

幼きイエス会来日150周年感謝ミサ
麹町教会
2023年6月24日

幼きイエス会のシスター方が、再宣教がはじまったばかりの日本で、福音をあかしする活動を始められて、すでに150年以上が経過しました。長い迫害の時代を経て、大浦天主堂において聖母の導きのもと、信徒が再発見されたのが1865年。いまから158年も前のことであって、そのときはまだ明治にもなっていません。その後、あらためて起こった厳しい迫害の出来事を経て、キリシタン禁制の高札が撤去されたのが1873年。ちょうど150年前の出来事です。

150年がたったいま、現代社会の視点からその当時の状況を推し量ることは簡単ではありません。わたしたちからは考えられないような困難に直面されたことでしょう。とりわけ、外国からやってきた宣教師として、ただ単純に日本で生きるのではなくて、福音を具体的に伝えあかしする業に取り組むことには、いまからは考えられない困難があったことだと思います。

その困難な状況の中にあっても、シスター方には、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」にこそ御一人子が受肉されたこと、そしてそれは、「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」であったことを心に刻み、人生を賭けて、天の御父の御心をあかしされて行かれました。志を同じくする仲間達は、修道会のカリスマを具体的に生きながら、キリストの一つの体のそれぞれの部分として、社会において言葉と行いを通じて希望の光を証しすることに真摯に取り組み、いま150年という時を刻みました。これまでの歴史を刻んできた修道会の先達の奉献の志しとその働きに心から感謝いたしましょう。またその宣教活動の始まりからいまに至るまで、幼きイエス会のみなさんを導いてくださる主のはからいを心にとめ、その招きにこれからも信頼のうちに応え続ける決意を新たにしたいと思います

幼きイエス会のホームページの冒頭に、ニコラ・バレ神父様のことが記されていました。

17世紀、貧富の差の激しかった当時のフランスで、貧しい家庭の子どもたちの教育が顧みられていない現実のなかで、彼らが神の子の尊厳にふさわしく育つのを助けるため、無料の小さな学校を始め、その学校の女教師たちのグループが、幼きイエス会の起源だと記されていました。

また、「貧しく、うち捨てられた子どもを受ける者は、まさに、イエス・キリストご自身を受けることになる。これこそ、本会の第一の、そして主要な目的である」という言葉も記されていました。その思いを具体的に生きるために、女子の教育や孤児の世話など、社会に大きく貢献される事業を日本においても続けてこられたのは、まさしく福音を目に見える形で生き、あかしする福音宣教の業であったと思います。

それから150年という年月を経て、いま問われているのは、大きく変革した社会の状況の中で、いま、その同じ思いを生きるとは具体的にどういうことなのか、改めて問いかけることであり、それこそは日本の再宣教におけるパイオニアである幼きイエス会の重要な務めであるとも思います。

わたしたちはこの3年間、歴史に残る困難に直面してきました。

新型コロナ感染症の蔓延は、未知の感染症であるが故に、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込みました。なかなか出口が見えない中を、わたしたちはまるで闇の中を光を求めて彷徨い続けるような体験をいたしました。いのちが危機に直面するというような体験は、なかなかあるものではありません。その意味で、先行きの見えない不安がいかに人を疑心暗鬼の闇に引きずり込み、それが社会全体においていかに自己保身と利己主義を強め、排他的にしてしまうのかを、目の当たりにしたことは、貴重な体験であったと思います。いま世界はまるで暴力に支配されているかのようです。ウクライナで続く戦争は言うに及ばず、神から与えられた尊い賜物であるいのちを危機に直面させるような状況は、偶然の産物ではなく、社会全体が排他的になり暴力的になった結果であり、わたしたちが生み出したものです。

この現実の中にあるからこそ、わたしたちは、教会が存在する理由を改めて見直し、それに忠実に生きていきたいと思います。第二バチカン公会議の教会憲章は、教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」(教会憲章一)であると記します。

いまわたしたちはこの日本の地において、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしと道具」になっているでしょうか。

教皇フランシスコは、コロナ禍のはじめ頃から、ポストコロナを見据えて、全世界的な連帯の重要性を説き続けてきました。教会こそは、その連帯を具体的に生きることで、「神との親密な交わりと一致」をあかしする存在となることができます。

今の世界を支配する疑心暗鬼の暗闇の中で、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まるなかにあって、教皇様は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する神の民であるようにと呼びかけておられます。とりわけ教会が、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと呼びかけ、東京ドームのミサでも、「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と力強く呼びかけられました。

疑心暗鬼の暗闇の中で不安に苛まれる心は、寛容さを失っています。助けを必要としているいのちを、特に法的に弱い立場にある人たちを、いのちの危機に追い込むほどの負の力を発揮しています。異質な存在を排除する力が強まっています。この現実の中で、わたしたちは神からの賜物であるいのちを守る、野戦病院でありつづけたいと思います。

来日150年を記念され、新たな次の一歩を模索される中で、みなさんが「神との親密な交わりと全人類一致のしるしと道具」であり続け、野戦病院であり続けることができますように、聖霊の導きを祈りましょう。

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More than 150 years have passed since the Sisters of Infant Jesus began their missionary activities in Japan together with MEP missionaries.

The long-standing declaration of prohibition of Christianity was officially lifted only in 1873 and that was the social background of the time when pioneer missionaries started their work of evangelisation in Japan. There must be unimaginable difficulties existing in the society against activities of expatriate in Japan at that time. So we admire their courage to proclaim the Good News of Jesus Christ in Japan and we are sincerely grateful to their missionary zeal.

In these difficult and challenging situation at that time, the pioneer Sisters always kept in their hearts that Heavenly Father gave his Son so that "whoever believes in him should not perish but have eternal life" and Jesus came among us not to "condemn the world, but in order that the world might be saved through him". The Sisters made serious efforts to be witnesses of love and mercy of God the Father.

According to the Web-page of the Sisters of Infant Jesus in Japan, the foundation of the congregation was laid in France in 17th Century to help children of poor families to maintain their God given human dignity, the founder Nicolas Barre established free school for kids. In Japan, too, from the beginning the Sisters continued the work inspired by the teachings of the founder in education and social welfare. Past 150 years, Sisters of Infant Jesus continued the missionary activities especially in Education to be witnesses of love and mercy of God. For this, we are grateful.

Now you are stepping into the new page of the history after 150 years in Japan. So the question would be how to continue to be witnesses of love and mercy of God in this modern, secular and rapidly changing society.

We have been going through difficult time of the history because of COVID pandemic for past 3 years. Anxiety makes us defensive, defensiveness made us selfish, and selfishness made us exclusive, and exclusiveness made us aggressive.

That is why we should go back to our very basics of the Church. According to the Lumen Gentium, Church is "a sign and instrument both of a very closely knit union with God and of the unity of the whole human race" So we want to put this definition into practice. As Pope Francis always emphasizes, only solidarity among us makes us witnesses of unity. We want to go out, as Pope encourages us to do, to be witnesses of solidarity and mercy being field hospital of mercy and love of God.

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2023年7月 5日 (水)

7月2日は木更津教会で堅信式でした

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先日、7月2日の日曜日は、千葉県の木更津教会に出かけ、堅信式ミサを行いました。6名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。この6名のうち3名は木更津教会の所属で、3名は木更津教会の主任司祭である加藤英雄神父様が兼任されている館山教会の所属の方でした。この日のミサは午前10時からでしたが、昼食後に加藤英雄神父様は、車で館山教会の午後のミサのために出かけて行かれました。

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残念ながら、この日は教区からの撮影がなかったので、ミサ中の写真はありませんが、木更津教会の雰囲気を当日撮影した写真です。聖堂内陣の左手には、保護の聖人である聖コールマンの像が。横長の聖堂です。教会裏手には結婚式場があり、写真にあるように、立派な十字架がそびえています。(教会の緑の屋根の向こうに、結婚式場の十字架が見えます)

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教区のホームページにはこう記されています。

「木更津教会の基盤となる精神的歴史は、遥か遠く明治17年頃パリ外国宣教会伝道師ビイーグルース神父、カディヤック神父の房総伝道に遡る。川崎から帆船で木更津に上陸し、馬車と徒歩で房総を伝道された先哲の師のご苦労と、強靭なまでの信仰の深さによってその基盤が作られた。戦後の混乱期、木更津では進駐軍の蒲鉾兵舎が聖堂の時期もあった 。昭和26年(1951年)東京湾隣接地区埋め立て計画によりできた、木更津海岸埋め立て地に敷地が購入され、小さな仮の教会が建てられた。これが東京教区カトリック木更津教会の始まりである。 翌昭和27年(1952年)には、現在のマリア館に聖堂が作られた。その後 、赴任した司祭と信者たちの信仰と努力と、アイルランドの兄弟の暖かい寄付により、昭和30年(1955年)に、現在の聖堂が献堂された」

千葉県内の教会の多くには、海外、特にフィリピンにルーツを持つ信徒の方が大勢おられます。特にフィリピンの信徒の方に関しては司牧的なケアのためにコロンバン会のフィリップ神父様が岡田大司教様の命を受けて、グループを組織し、これまで精力的に様々な活動を行ってこられました。フィリップ神父様には、さらにその司牧活動を豊かにしていただくために、今年の人事で都内の大森教会の主任司祭に異動していただきましたが、これまでの千葉県内におけるフィリピン出身信徒の方々への司牧的配慮の活動に精力的に取り組んでいただき、心から感謝しています。現在は司牧方針を少し転換しようとしています。これまで培われたつながりを大切にしながら、同時にそれぞれの主任司祭を中心にした小教区ベースの活動にシフトを始めようとしています。

これについて東京教区では、2021年3月に、外国籍信徒の方々の司牧方針を発表しています。こちらのリンクから一度ご覧ください。最後の方にまとめがあります。まとめの部分は以下に引用しておきます。基本的には言語別のグループを作るよりも、小教区共同体に包摂する形での司牧的配慮を目指すものです。

なおこれらについては、英語ですが、「Pastoral Orientations on Intercultural Migrant Ministry」という聖座の指針が、2022年の3月に発表されています。聖座の指針はこちらのリンクから各国語版をダウンロードして読むことができます(残念ながら日本語版はありません)。

以下、東京教区の指針のまとめの部分です。

4. 司牧方針のまとめと今後の方向性
以上の分析と考察を踏まえて、外国籍の方々への司牧方針を次のようにまとめます。

● 東京大司教区は、人種、国籍、言語、文化の違いを乗り越えて一つの信仰の共同体を教区のレベルでも小教区共同体のレベルでも実現することを目指します。
●東京大司教区は、すべての信徒が、小教区共同体に所属し、共に責任を担いあって育て運営する信仰の共同体を目指します。
●東京大司教区は、人種、国籍、言語が異なるという多様性の中で、誰一人として孤立することのないように、信仰における固い決意と互いの尊敬のうちに支え合う信仰の共同体を目指します。
●東京大司教区は、それぞれの小教区共同体での違いを乗り越える取り組みを支援するために、CTICを核とした社会司牧の組織を創設し、支援体制を整えます。
●なお、この方針に記した内容や、それに基づいて行った取り組みについては三年後を目途にふり返りと評価を行い、必要に応じた修正をします。
●さらに、このふり返りと評価は、教区の宣教司牧評議会が中心となって実施しますが、可能な限り多くの方々の意見を伺うつもりですので、教区内の皆さまの協力をお願いします。

 

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2023年7月 2日 (日)

麹町教会で堅信式@23年6月25日

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6月25日の日曜日、二つの堅信式を行いました。

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まず午前中は日野市にあるカトリック豊田教会で、8名の方の堅信式。かなり狭い敷地に三階建ての建物が建っている豊田教会です。一階が信徒会館、二階が聖堂、三階が司祭館で、外階段で結ばれています。主任司祭は五十嵐神父様。小さく家庭的な共同体です。

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そして午後からは四谷にある麹町聖イグナチオ教会で104名の堅信式。主任司祭が高祖神父様に交代してからの初めての堅信式でした。

みなさんおめでとうございます。

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以下は、麹町教会の堅信式での説教を文字起こしした原稿です。

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カトリック麹町教会堅信式 @2023年、年間第12主日

「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と、いま、朗読をされた福音書に、主イエスの言葉が記されていました。

暗闇の中で言う、耳打ちをする。それは、小さな声で、一人にしか聞こえない小さな声でということですね。それを明るみで、大きな声で、屋根の上で、多くの人たちに告げ知らせなさい。イエスの福音を宣べ伝えなさいという命令が、この短い言葉に込められています。

最初に聖霊降臨があった時、あの五旬祭の日、11人の弟子たちは恐れて、聖母マリアと共に家の中に隠れて静かにしていました。そこに聖霊が降り、色々な国の言葉で話を始めた。色々な国の言葉で話を始めたので、そこに集まってきた人たちが驚いたと、どうしてこの人たちは、わたしの理解できる言葉で神のわざについて語っているんだろうと驚いたと、記されています。

でも、どうしてあの大勢の人たちはそこにやってきたんでしょう。弟子たちは隠れていたんですよね。弟子たちは、聖母マリアと共に家の中に隠れていたのに、どうしてこの多くの人たちがそこにやってきたのか。それは、ものすごい物音がしたからだと、使徒言行録に書いてあります。大きな音がしたと。騒々しかったんです。騒がしい出来事が起こったので、いったい何事だと思って人々が見に来た。そうしたら、そこで、大きな声でイエスの福音が述べ伝えられていた。その様子が、あの聖霊降臨の日の出来事として記されています。

つまり、聖霊降臨の出来事、聖霊が降ってきている、または聖霊によって満たされているというのは、どういう状態なのか。それは、静かに隠れてボソボソ語るのではなく、大きな声で、イエスについて、神について語っている。そして、居心地が悪いくらいに騒々しくワサワサとしている。それが、聖霊が降っている状態なんですよね。

聖霊に満たされた教会と、よく言いますよね。聖霊に満たされた教会とは、どういう教会なんでしょう。それは、みんなが静かにして、ニコニコしながら聖堂の中でお祈りをしている、落ち着いた教会……、ではないんですよ。

聖霊によって満たされている教会は、ワサワサしていて、居心地が悪いんです。あっちでもこっちでもいろんなことが起こって、あっちでもこっちでもいろんなことを語る人たちがいて、落ち着かないのが、聖霊が実際に働いている教会です。

なので、教会が、とっても静かで、みんなが一致していて、楽しく、にこやかにしている時には、もしかしたら聖霊は働いていないのかもしれません。

いま教皇様は、シノドスの道をともに歩もうと呼びかけておられます。

残念ながら、特に日本やアジアの多くの国では、新型コロナ感染症の蔓延と重なってしまったので、あまりできていないのですけれども、それでも様々なところで、このシノドスについて耳にされることがあると思います。

教皇様が目指しているシノドス的な教会というのは、まさしくそれなんですよ。あっちでもこっちでもワサワサいろんなことを言っていて、落ち着かないけれど、それでも一致している。いろんなことをいろんなところで、聖霊に導かれている通りに、それぞれ自由に発言をして、そしてワサワサして、大騒ぎをして、なかなか落ち着かない。けれども一致しているんです。身勝手に分裂しないのです。なぜ分裂しないかというと、それは聖霊によって導かれているからです。もしも落ち着きがない上に、さらに分裂するのならば、それは聖霊による導きではないです。
騒々しく落ち着きのない共同体が、聖霊によって導かれているのか、そうではないのかの最終的な判断、それは同じ目的に向かって一致しているか、分裂しているかです。

その聖霊の導きを一緒に識別しながら、でも、皆が皆、同じことを考え同じことをするためのシノドスの歩みではなく、聖霊の導きに委ね、それぞれが与えられた賜物を豊かに、忠実に生きている、落ち着きのないワサワサとした教会共同体。でも同じ目的で一致している。聖霊によって一致している教会共同体を作り上げることを、このシノドスは目指しているのだと、わたしは思っています。

水による洗礼、ご聖体、そして聖霊による堅信という、この3つの秘跡を通じてキリスト教入信の秘跡が完成します。完成するので、今日、堅信を受けられる方々は、完成したキリスト者になるはずですよね。昔は、キリストの兵士になると言いました。それくらいの思いで、キリストにすべてを捧げて、完成したキリスト者として、今日ここに誕生するはずです。

多くの恵みをいただきます。聖霊による多くの助けをいただきます。でも多くの恵みを受ければ受けるほど、責任が伴うわけですよね。その恵みに対する責任が生じます。わたしたちの責任って、いったいなんでしょう。わたしたちの責任、それは、小さくささやかれた言葉を屋根の上から大きな声で告げ知らせることです。

自分の生活の中でイエスの言葉を語り、自分の生活の中での行いを通じて、イエスの福音を証しする。言葉と行いをもって福音を証しするということが、完成した、成熟したキリスト者一人ひとりの務めです。

堅信を受けられる方々には、毎日の生活の中で、自らの言葉と行いを通じて、このイエスの福音を証しをしていく責任が、今日から発生します。

でもそれは、簡単なことではないと、今日の第一の朗読にも記されていました。
エレミヤの預言に記されています。みんなから非難されると。「多くの人の非難」「恐怖が四方から迫る」「共に彼を弾劾しよう」と、迫害を受けると。多くの人に簡単に受け入れてもらえる、神の言葉ではありません。
妥協したくなりますよね。

でも恐れずに、神の言葉を告げなさいということが、今日のイエスの福音の言葉にも記されていました。「恐れるな」と。
なぜならば聖霊が、福音を証ししようと思う、その熱意を、心を、決意を、必ずや後ろから後押しをしてくださるからです。

聖霊の恵みは、人を急にスーパーマンに変えてくれるということではないです。福音を証ししていこうと思う、その決意を、神の息吹として後ろからブワーッと吹きつけて支えてくださるのです。前に進むことができるように、支えてくれる力です。

聖霊の導きに信頼しながら、そしてイエス様が、いつも共にいてくださることを信じながら、御父に向かって、勇気をもって、イエスキリストの福音を証ししてゆくことができますように。言葉と行いを持って証ししていくことができますように。
今日、堅信を受ける時に決意を新たにし、そしてその決意を神様が支えてくださるように、祈り続けたいと思います。

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2023年7月 1日 (土)

週刊大司教第131回:年間第13主日A

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年間第13主日です。

6月29日は聖ペトロ聖パウロの祝日でしたが、毎年、この日に一番近い6月最後の月曜日には、東京カテドラルにおいて司祭の月例集会の代わりに両聖人の記念日のミサが捧げられてきました。これは、1938年に司教叙階された土井枢機卿様から、白柳枢機卿様、そして2017年に引退された岡田大司教様に至るまで、実に80年近くも、東京の三代の教区司教の霊名がペトロであったことから、自然と大司教の霊名のお祝いになっていたようです。ところがわたしはタルチシオという霊名でペトロではなかったものですから、この方程式が崩壊しました。

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そこにコロナもありましたので、いろいろと考え直し、この日は聖職者の集いとして、主に叙階の節目の年を記念している司祭のお祝いのミサとすることにしました。今年も、司祭叙階ダイアモンド(60年)、金祝(50年)、銀祝(25年)をお祝いする東京で働いておられる司祭をお招きして、教皇大使も参加する中、感謝ミサを捧げました。今年お祝いを迎えられた方々については、次の教区ニュースをご覧ください。

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わたしはその次の火曜日にマニラへ飛び、金曜日まで、マニラに本拠地を置くラジオ・ベリタス・アジアの会議に参加してきました。現在わたしが事務局長を務めるFABC(アジア司教協議会連盟)が設置し、フィリピンの司教団に運営を委託している大切な事業です。かつては特に中国に向けて短波の放送をすることに一番の力点がありましたが、いまは時代が変わりインターネットです。数年前に短波の事業は終了し、ネットを通じた放送へと大きく舵を切りました。

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二日間の会議の終わりは、29日の夕方6時から、マニラカテドラルで、教皇様の日のミサに参加させていただきました。毎年、聖ペトロ聖パウロの祝日に、教皇様のためにミサを捧げられており、この日は教皇大使のチャールズ・ブラウン大司教が司式、マニラ大司教のアドヴィンクラ枢機卿様が臨席の形で、ミサが捧げられました。こちらのリンクに、当日のビデオがあります。ミサは英語です。音楽がすごいです。

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以下、本日午後6時配信の週刊大司教第131回、年間第13主日のメッセージ原稿です。

 

年間第13主日A
週刊大司教第131回
2023年7月2日

マタイ福音は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という、主イエスの言葉を記しています。「自分の十字架」とは一体なんでしょうか。苦行を耐え忍ぶことでしょうか。人生の諸々の苦難を背負ってしまうことでしょうか。

わたしたちにとって、十字架とはいったいなんでしょう。マタイ福音に記されたこの言葉は、主にふさわしいものとなるための条件としての十字架です。それは前向きな行動を促す言葉です。

パウロはローマの教会への手紙に、「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」と記しています。主御自身の死と復活をもたらしたその中心には、十字架が存在します。すなわち、わたしたちは、十字架を通じて主の死にあずかり、主とともに新しいいのちに生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛といつくしみを具体的にあかしする、栄光と希望を指し示す存在です。

コリントの信徒への第一の手紙、一章十七節に、パウロはこう記します。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

もちろん、救いのために洗礼が必要であることは否定できませんが、その前提としてまず大切なことがある。それはイエス・キリストの福音を告げることなのだと、パウロは宣言しています。

加えてパウロは、「しかも」と続け、福音を言葉の知恵に頼って告げていたのでは、キリストの十字架がむなしいものとなるというのです。ここではじめて、パウロが語る十字架の意味が明らかになります。神ご自身による、具体的で目に見える愛のあかしが、十字架です。十字架は、人間の救いのために、神ご自身がその愛といつくしみをもって具体的に行動した愛のあかしそのものです。

十字架は、重荷や苦しみではなく、積極的な愛の行動の象徴です。わたしたちが神からよしとされるのは、神の愛といつくしみをいただいて、自らそれを積極的にあかしする行動を選択したときです。十字架をあかしするものとなりましょう。愛といつくしみを具体的な行動であかしし、すべての人に神の栄光と希望を伝えていきましょう。

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