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2023年8月26日 (土)

週刊大司教第139回:年間第21主日A

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8月も終わりに近づき、そろそろ秋の気配を感じても良い頃なのですが、東京では暑い毎日が続いています。

先日、その「統合」が発表された大阪高松大司教区では、これまでの大阪教区と高松教区とは異なる全く新しい教区が誕生することになるので、その初代の教区司教である前田枢機卿様も、同様に改めて新しい教区の大司教として着座をしなくてはなりません。先日発表がありましたが、10月9日の月曜日午後1時から大阪カテドラル聖マリア大聖堂で、新しい大司教区の設立式と、前田枢機卿様の着座式が行われることになりました。また教区の本部は玉造に、大阪高松大司教区の司教座聖堂は大阪カテドラル聖マリア大聖堂(玉造)となることが発表されています。

ちょうどわたし自身は、シノドスに参加するため10月はローマに滞在中のため参加することができませんが、どうか新しい大阪高松大司教区のために、皆様のお祈りをお願いいたします。

8月18日の夕方6時から2時間ほど、オンラインでそのシノドスの打ち合わせのミーティングが行われました。ミーティングはバチカンのシノドス事務局が主催し、それぞれの大陸別で行われています。アフリカなどは、三日間の実際の集まりを行ったと聞きましたが、アジアは、特に南や東南アジア諸国では休みの季節ではなく普通の日なので、オンラインで行うことを求めて、結局この日だけになりました。シノドスの作業文書の後半には、三つの優先事項と、それぞれの課題が記してありますが、10月のローマでの会議では、参加者全員をこのテーマと課題と言語別に15人ほどずつのグループに分け、基本的にグループでの分かち合いを中心に行うことが示されました。また今回の参加者が、そのまま、来年10月に行われる第二会期にも参加するように求められました。さらに、通常のこれまでのシノドスのように、各国からの報告などは特に行われない模様で、事前に司教協議会からの発表を用意していく必要もない模様です。

アジアからは参加する枢機卿や司教を始め、司祭、修道者、信徒の参加者も含め、40名以上が参加。その中には、わたしを含め、日本から3名が参加しました。

どのような実りが10月の会議から生まれてくるのか想像もつきませんが、聖霊の導きに任せながら、互いに耳を傾け、識別することができればと思います。

なお先日8月20日の聖書と典礼の7ページ目に、シノドスについてのわたしのコラムがありますが、そのタイトルがちょっと誤解を招くものになっていたので、訂正しておきます。タイトルは「シノドスの道を歩む教会のゴール」となっています。あながち間違いではないのですが、これだと教会そのものにゴールがあるように読めてしまいます。ゴールは「シノドスのゴール」です。そして本文を読んでいただければわかるように、ローマで開催される会議が今回のシノドスのゴールなのではなくて、実はゴールは存在しておらず、教会が教会として存在するための姿勢を身につけることを目指してこれからも歩み続けなくてはならないことを記してあります。

今回のシノドスはこれまでと違い、何かつかみ所がないプロセスのため、様々な憶測を呼んでいます。批判も多く聞こえてきます。しかしこれからの教会の歩みを定める重要な機会であると感じています。どうか、あらためて、シノドスのために皆様のお祈りをお願いいたします。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第139回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

年間第21主日A
週刊大司教第139回
2023年8月27日

「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と弟子たちに迫るイエスの言葉は、わたしたちひとり一人への問いかけでもあります。

「あなた自身はわたしのことをどう考え、どう判断しているのか。自分自身の決断をここで明確にしろ」と、迫力を込めてイエスは迫ってきます。そしてそれは、今の時代に生きているわたしたちだからこそ、真摯に応えなくてはならない問いかけです。

なぜでしょうか。それはわたしたちが、あふれんばかりの情報の渦に取り囲まれて生活を営んでいるからに他なりません。いまやわからないことがあれば、ネット上でいくらでも簡単に答えを見いだすことができます。信仰についででさえも、ネット上で問いかければ、誰かが即座にわかりやすい答えを提供してくれる時代です。そんな時代にイエスは、「あなた方はわたしを何者だというのか」と問いかけます。つまりあふれかえっている情報のどこに何が述べられていたのかを知りたいのではないのです。真偽すらわからない、どこかの誰かが教えてくれた、簡単に理解できる情報ではなくて、「おまえ自身はどう考えるのか」とイエスは迫ります。

どこかの誰かが解説してくれるわかりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その言葉に直接耳を傾け、具体的に、個人的に、イエスと出会う中で見いだした、「わたしのイエス」について語るように求めているのです。噂話のイエスではなくて、いまそこに生きているイエスについて語ることを求めているのです。

わたしたちがこのあふれんばかりの情報の渦の中で見聞きしていることは何でしょう。無責任な情報の垂れ流しは、前向きないのちを生きる力を生み出すよりも、いのちに対する攻撃や差別を生み出す負の力をより強く持っています。いや、実際にいのちを奪ってしまうほどの、暴力的な負の力をもって、わたしたちを、いのちの尊厳を軽んじる暗闇に引きずり込もうとしています。

わたしたちは、自分自身の言葉に責任を持って、いのちを生かす言葉を語るものでありたいと思います。

いのちを育む真理の物語は、どこかの誰かの人間的知恵から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち人となられた神の言葉である主イエスから生み出されます。主の語る言葉を、わたしたち自身の言葉として語り続けましょう。

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2023年8月19日 (土)

週刊大司教第138回:年間第20主日A

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8月も半ばを過ぎました。今年は荒々しい天候の夏になり、全国的に台風などの影響を大きく受けている地域があります。被害を受けられた多くの皆様に、お見舞い申し上げます。特にこの炎天下で復旧作業にあたられる方々の健康が守られますようにお祈りいたします。

新潟教区の秋田も洪水の被害を受け、新潟教区の数少ないカトリック学校である秋田市の聖霊高校もあふれた水による被害を大きく受けられました。同じく秋田市郊外にある聖体奉仕会近くでも土砂崩れが発生したと伺っています。9月15日には秋田聖母の日が予定されており(参加は予約が必要です)、わたしも巡礼団と一緒に聖体奉仕会を訪れる予定です。今回の災害で開催も危ぶまれましたが、無事に開催できる見込みです。カトリック新潟教区のホームページには、最新の情報やボランティア受付などが掲載されていますので、一度ご覧ください。新潟教区のホームページはこちらのリンクです

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第138回、年間第20主日のメッセージ原稿です。

年間第20主日A
週刊大司教第138回
2023年8月20日

マタイ福音は、イエスがティルスとシドンの地方に行かれたときに、カナンの女性が娘の病を癒やしてくれるように求めた話を記しています。確かにイエスの福音はすべての人に告げ知らされなくてはならないということをわたしたちは知っていますが、受難と復活の出来事の前、すなわち旧約の枠組みの中にあっては、救いは選ばれた民にのみ向けられていることは常識でした。イエスは、その常識の枠組みを徐々に打ち破りながら、ご自分の受難と復活の後には新しい契約の枠組みの中で、選ばれた一部の民ではなく、すべての人に救いを述べ伝えるようにと、弟子たちを導いて行かれます。

今日の福音には、そのイエスの弟子たちに対する注意深い導きが記されています。すなわち主御自身はどこを見ているのか、そのまなざしの向けられる先を教えようとするイエスの姿です。

当時の常識の枠を無視しながら、「主よ、わたしをあわれんでください」と叫び続けるカナンの女性に対し、弟子たちは、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので」とイエスに進言します。つまり、常識では対処できない課題に真摯に取り組むのは面倒なので、厄介払いに病気でも治してやったらどうでしょうという進言です。しかしイエスはその進言に耳を貸しません。イエスが望まれる神のいつくしみの業は、厄介払いのために渋々するようなものではないからに他なりません。

イエスは、まるで挑発するように、「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」と女性に告げています。そして女性の心の奥が明示される、その答えを待っていたのでしょう。彼女のイエスに対する信仰は、表面的な病気の癒やしを求めることではなく、もっと深い、心の底からの救い主に対する信頼に基づいた信仰であることを、彼女は、その謙遜さに満ちあふれた答えで証明して見せました。イエスが「あなたの信仰は立派だ」とまで認めたその信仰は、どんな困難の中でも、諦めることなく、イエスに対する信頼を深め続ける、神の前での謙遜なその態度に表されていました。

わたしたちも、日々の生活の中で様々な困難に直面し、また社会に満ちあふれた暴力や不正義に翻弄され、「主よ、わたしたちをあわれんでください」と祈りのうちに声を上げ続けています。時に、状況は全く好転せず、くじけてしまいそうになります。でも、神の力に、そのいつくしみに、その愛に、わたしたちは信頼を置きました。その信頼を失うことなく、すべてを治められる御父の前にたたずみ、謙遜にその計らいに身を委ね続けて参りましょう。

 

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2023年8月15日 (火)

2023年聖母被昇天の祝日@東京カテドラル

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8月15日、聖母被昇天の祝日です。

台風の被害を受けられた多くの方々に、お見舞い申し上げます。東京は、一日曇り空でした。東京カテドラルでは、午前7時と、午後6時の二回、聖母被昇天のミサが捧げられ、午後6時のミサを、大司教司式ミサといたしました。ご一緒にお祈りくださった皆さん、ありがとうございます。

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また初代教会の殉教者であった聖タルチシオは、もともとこの8月15日が記念日でありましたので、わたしは今でも8月15日を霊名の記念日としています。現在の教会の暦では、8月12日に移動しているかと思います。霊名の日にあたり、この数日多くの方からお祝いの言葉をいただきました。感謝申し上げます。これからもお祈りくださること、どうかお願いいたします。

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本日のミサの終わりにもお伝えしましたが、教皇様は、本日ローマ時間正午、大阪大司教区と高松司教区を合併して、新たに大阪・高松大司教区の設立を宣言され、その初代教区司教として、前田万葉枢機卿様を任命されました。

日本の教区の区割りは、20世紀初頭の鉄道網のつながりとその当時の人口分布を優先して決められていますので、21世紀の今では事情が異なる中で、様々な課題が出ております。同時に、社会の人口動態に合わせて、教会の信徒数も移り変わっています。加えて近年、子供の数が社会一般で減少するのに合わせて、司祭召命も少なくなっており、戦後の一時期に叙階された多くの先輩司祭の後を継ぐ若手の司祭が不足しています。様々な事情を勘案して、この数年、大阪教区と高松教区を一緒にすることが検討されてきたと伺っています。司教省の管轄する国では、例えばイタリアのように教区の合併は珍しくありませんが、福音宣教省の管轄する国では、あまり例がないために、福音宣教省も決断をして教皇様に答申をするまで、かなり慎重に検討を重ねてきたと聞いています。

新しく誕生する大阪・高松教区の上に、神様の豊かな祝福と聖霊の導きがあるように、共に祈りましょう。

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以下、本日午後6時の東京カテドラルでのミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年8月15日

平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受け、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。そしてエリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げた讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画の実現された様が記されています。そこでは、この世界の常識が全く覆され、教皇フランシスコがしばしば指摘される、社会の中心ではなく周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが向けられていることが記されています。

しかしわたしたちが生きている現実はどうなのでしょうか。社会の中心ではなく周辺部に追いやられた人に向けられている神の目、神のいつくしみを、わたしたち福音に生きるものは、具体的に実現するように行動しているでしょうか。

もちろんすべてのいのちの創造主である御父にとって、賜物として与えられたすべてのいのちは、等しく愛を注がれる対象であり、大切な存在です。賜物であるいのちは、神がそれほどの愛を注がれ、またご自分の似姿としての尊厳を与えられているからこそ、その始まりから終わりまで、すべからくその尊厳が守られ、大切にされなくてはならない存在です。しかし、世界全体を見れば、様々な理由から、その尊厳が損なわれ、いのちの危機に直面する人も少なくありません。社会から忘れ去られた状況の中で、かろうじて命をつないでいる人も少なくありません。まるで価値がないものであるかのように、いのちを暴力的に奪われていく存在もあります。

今この瞬間にも、例えば戦争が続くウクライナでは、身に迫るいのちの危機に恐怖を抱えながら生きている多くのいのちが存在します。武力によるいのちの危機に直面する人は、世界の様々な地域に多く存在します。

紛争の結果として、また経済的な問題から、生まれ故郷を離れて国境を越える道を選ばざるを得ない人も少なくありません。故郷を捨て、国境を越えることは簡単な選択ではなく、そのひとり一人には、他者の理解を遙かに超えた物語があることでしょう。

国内にあっても、特にこの三年のコロナ禍のもたらした経済への負の影響と、社会全体の状況から、生活の困難に直面し、いのちの危機にさらされている人も少なくありません。かろうじて、いのちをつないでいる人も、おられることでしょう。

神の愛といつくしみは、すべてのいのちに注がれていますが、特にそのすべての危機に直面するいのちに対して、神の愛といつくしみはさらに一層注がれることを、聖母マリアは宣言しています。わたしたちは、その神の愛といつくしみを、具体的に実現するものでありたいと思います。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりに、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記し、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、聖母マリアの讃歌に明記されています。

聖母マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、聖母マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを高らかに歌います。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。

また「身分の低い、この主のはした目にも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が何をもって人間の価値を判断しているのかを明示します。それは人間の常識が価値があるとする量りではなく、神ご自身が持っている量り、すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだという、神のいのちに対する量りが示されています。だから人間が価値がないと見なすいのちにこそ、神は価値を見いだされるのです。

エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。わたしたちにとって、神のことばが実現することこそが、神の秩序の確立、すなわち神の平和の実現であります。真の平和は、弱い存在を排除するところにはありません。自分の利益のみを考えて、他者を顧みないところには、真の平和は存在しません。自分の利益のために、他者のいのちを犠牲にしようなどと考えるところに、神の平和は存在しません。

わたしたちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。

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1981年に広島を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、平和メッセージの中で、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と四回も繰り返され、核兵器の廃絶と戦争のない平和の確立を訴えられました。

8月15日に私たちは毎年、第二次世界大戦の悲劇を思い起こしながら、敵味方に分かれた双方の亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、平和への誓いを新たにしています。残念なことにいま、ウクライナで戦争は続き、姉妹教会であるミャンマーの人々に平和と安定は訪れず、東アジアのこの一角では、以前にも増して、武力攻撃が不可避であるかのような雰囲気さえ漂っています。その現実の中で、教皇ヨハネパウロ二世の呼びかけに応えて、「過去を振り返り」、その上で将来に対してどのような責任ある行動をとるのか、考えなくてはなりません。

わたしたちは、単なる優しさによって、困難に直面する人に手を差し伸べるのではありません。わたしたちは、それが神の平和の確立につながるからこそそうするのです。神がこの世界に実現することを望まれている神の価値観が具体化し、神の秩序が確立するようにと、わたしたちは危機に直面するいのちに手を差し伸べます。愛の奉仕の業は、優しさの結実ではなく、神の平和を確立する行動です。

神の計画を実現するためにすべてを捧げた聖母マリアに倣い、その取り次ぎに信頼しながら、わたしたちもそれぞれの場で、それぞれの方法で、神の平和の確立のために働き続けましょう。

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2023年8月13日 (日)

2023年平和旬間行事@東京カテドラル

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8月6日から15日までの、毎年の平和旬間にあたり、以前はそのための特別な委員会を設置して企画に当たってきました。この委員会は、現在、他の社会系の委員会とともにカリタス東京(東京教区の神の愛の活動を統括する組織)の管轄となり、今年の平和旬間はカリタス東京が企画運営しました。

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これまではイグナチオ教会で講演会を行い、その後、関口まで平和行進を行って、締めくくりに平和を祈るミサとしていました。その後、この3年間は感染症の状況のため、こういった活動はすべて一時停止となっていました。今年は、8月12日の土曜日、まず11時の平和を祈るミサから始まり、その後、昼休みを挟んで、午後からは松元ヒロさんのトークショー、そして宮台真司さんの講演会と続き、夕方5時には終了となりました。

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多くの方に参加いただき感謝いたします。なおミサの様子(一番下に貼り付けます)と、宮台真司さんの講演(こちらのリンクです)は、関口教会のYoutubeチャンネルから、ご覧いただけます。

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聖歌隊を務めたイエスのカリタス会のみなさん、手話通訳や要約筆記にあたってくださったみなさん、会場設営の手伝いや当日の受付・案内をしてくださったみなさん、配信をしてくださったみなさん、そのほか、今回の企画のためにお手伝いいただいたみなさんに心から感謝します。またトークショーの松元ヒロさん、講演の宮台真司さん、ありがとうございました。

以下、平和を祈るミサの説教の原稿です。

平和を願うミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年8月12日

8月5日の午後、広島教区のカテドラルである世界平和記念聖堂で、毎年恒例となっている平和祈願ミサに参加してきました。今年は、アメリカ合衆国から二人の大司教が参加され、なかでも、原子爆弾の研究が行われたロスアラモス研究所を抱えるサンタ・フェ教区のウェスター大司教は、「核兵器を最初に使用したわたしたちだからこそ、核兵器を解体し、二度と使用されないようにしなければならない」と、核抑止力による平和の可能性を否定し、核兵器廃絶を力強く呼びかけられました。核兵器大国の一つであるアメリカ合衆国の教会から、核兵器の廃絶による平和を呼びかける声が上がり、その思いを広島の地で祈りのうちに連帯しながら確認し合うことができたのは、平和の確立に向けて大きな前進の一歩でありました。

広島と長崎の司教様方が中心になって、核なき世界基金を創設し、核兵器の廃絶のための活動を続けておられますが、その意味でも、合衆国の教会と連帯することには重要な意味があると思います。

あらためて教皇フランシスコの長崎における言葉を思い起こします。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられているにもかかわらず、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは天に対する絶え間のないテロ行為です」

さらに教皇は広島で、「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。・・・真の平和とは、非武装の平和以外にありえません」と力強く呼びかけられました。

さて、広島の平和行事の二日目、今年の8月6日は、教皇大使に同行して、平和記念公園で行われた広島市主催の平和記念式典に参加する機会に恵まれました。広島市長の平和宣言は核抑止論を否定し、核兵器禁止条約に日本も参加するように呼びかける力強いものでした。

市長の宣言に続いて、小学生二人の子ども代表が、「平和への誓い」を読み上げました。力強い誓いの言葉でありました。その誓いの言葉は、こうはじまっていました。

「みなさんにとって「平和」とは何ですか。争いや戦争がないこと。差別をせず、違いを認め合うこと。悪口を言ったり、けんかをしたりせず、みんなが笑顔になれること。身近なところにも、たくさんの平和があります」

「みなさんにとって「平和」とは何ですか」。この問いかけは、わたしたちひとり一人への問いかけです。わたしにとって、平和とは一体何なのでしょう。わたしは、何を持って平和と考えているのでしょう。そしてその平和は、いま実現しているでしょうか。

この数年間、世界は未知の感染症の脅威にさらされ、多くのいのちが危機にさらされる中で、互いに連帯し支え合うことでしかわたしたちはいのちをつなぐことができないと納得させられたはずでした。連帯こそがいのちを守り、いのちを生かします。

しかしともに一つの地球に生きている兄弟姉妹であるにもかかわらず、相互不信が争いを引き起こし、その中で実際に戦争が起こり、また各国を取り巻く地域情勢も緊張が続いています。世界的な規模で言えば、ウクライナでの戦争状態に解決の糸口はまだ見えておらず、それどころか、核兵器の使用さえもちらつかせながら、当事国相互の不信感は深まっています。またわたしたちの姉妹教会であるミャンマーの状況も、全く好転することがありません。

そういう不安定な状況が続くとき、どうしてもわたしたちの心は、暴力を制して平和を確立するために暴力を用いることを肯定しようとする思いが生み出されてしまします。多少の暴力による反撃は、平和を確立するためならば仕方がないという思いが、どうしても募ってきます。それに合わせて、日本を含む多くの国では、自衛のための武力を増強することを当たり前だと考える傾向さえ強まっています。

しかし暴力は、真の平和を生み出すことはありません。人間の尊厳は、暴力によって守られるべきものではありません。それは、いのちを創造された神への畏敬の念のうちに、互いに謙遜に耳を傾け合い、支え合う連帯によってのみ守られるものです。

繰り返しになりますが、カテキズムにも記されている通り、目的が手段を正当化することはありません(カテキズム1753)。暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力的手段を、平和の確立という目的のために肯定することはできません。言うまでもなく「戦争は死です」(ヨハネパウロ二世、広島平和メッセージ)。

まだ新潟の司教をしていた2016年7月に、パプアニューギニアの東の端、ブーゲンビル島を訪ねる機会がありました。ラバウルのすぐ隣のブーゲンビル島には、太平洋戦争中、日本軍が航空基地をいくつか開設し、そこに島の中央を割って連合国軍が上陸し、多くの兵士や地元の人も命を落とした地です。さらには日本の連合艦隊司令長官であった山本五十六海軍大将が、1943年4月、ラバウルからの視察途上で搭乗機が撃墜され戦死された地でもあります。

未だに島の各地に戦争の爪痕が残っており、旧日本軍が構築したコンクリート製の要塞も、いくつも残されていました。また山本五十六大将の搭乗した軍用機が撃墜された場所には、その残骸がいまも残されています。すべて深い熱帯ジャングルに、包み込まれていました。

そういった戦争の痕跡を訪れ、亡くなられた方々の安息と恒久の平和を祈りながら、それらすべてが取り残されたジャングルの熱帯という過酷な状況の中で、ふるさとを遠く離れて闘った多くの人の心に思いを馳せました。なぜんこんな遠くまで、しかも過酷な環境の中で、実際の戦闘よりも、病気や飢餓でなくなられた方も少なくなかったと伺いました。その中で、敵味方として戦争を闘った人々のおもい、そして目の前で起こった闘いに巻き込まれた現地の人たちのおもいに心を馳せ、尊厳ある賜物であるいのちを奪い、神が守り育むようにと与えられたこの環境を破壊する暴力の結末に、心が痛みました。「戦争は死です」。同時にそれは、偶然もたらされた災害ではなく、「戦争は人間の仕業」でもあります。ですから、それを止めるのも人間の務めであります。

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毎年のこの時期、広島や長崎での衝撃的な出来事の記憶を新たにして、平和の大切さを思い起こし、多くの人が祈りを捧げます。沖縄の出来事や各地の空襲、そして原爆で亡くなられた方々を思い起こし永遠の安息を祈ります。しかし同時に、遙か彼方の地で、過酷なジャングルの中で、敵味方として闘う中で命を落とした多くの方々、そして巻き込まれ命を奪われた地元の多くの人たちの存在も、忘れるわけにはいきません。暴力によって奪われたひとり一人のいのちには、わたし自身がそうであるように、他人からは計り知ることのできない壮大な人生の物語があります。多くの出会いがあります。多くの喜びと悲しみがあります。支える家族があります。共に生きる兄弟姉妹があります。それらを一瞬にして奪う暴力を肯定することはできません。

平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢をとり続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、いのちを暴力的に奪おうとするすべての行動に抗うことでもあります。

平和旬間にあたり、いのちの創造主が愛といつくしみそのものであることに思いを馳せ、わたしたちもその愛といつくしみを社会の中に実現することができるように、祈り、行動していきましょう。

 

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2023年8月12日 (土)

週刊大司教第137回:年間第19主日A

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8月6日から15日まで、ともに平和旬間を過ごしている日本の教会です。

本日8月12日は、午前中に平和を祈るミサをカテドラルで捧げ、その後、午後からいくつかの行事がありました。ミサの説教とともに、別途報告します。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第137回、年間第19主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第137回
2023年8月13日

日本の教会は、過去の歴史を心に留め、その体験から謙遜に学び、同じ過ちを繰り返すことのないように行動するために、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。この時期、いつもよりさらに力を込めて、平和の実現のために祈り行動するように呼びかけています。

マタイ福音はパンを増やす奇跡に伴う驚きと喧噪のやまない興奮状態の直後に、イエスが一人山に登って祈られたことを記しています。わたしたちは、特に感情が高ぶっているときには、どうしてもその感情にとらわれて、思いと行いが先走ってしまう誘惑の中で生きています。平和を求める願いも、なかなかそれが実現しないどころか、全く反対に平和をないがしろにするように現実を目の当たりにするとき、どうしても心は高ぶり、感情と行動が先走ってしまうこともあります。思いが強ければ強いほど、この現実を目の当たりにすれば、当然の心の動きだと思います。

しかしそんなときでも、イエスは、心の高ぶりから離れ、一人落ち着いて祈りのうちに振り返ることの大切さを教えています。

平和旬間は、もちろん、現実の世界の中で次々と起こるいのちに対する暴力的な出来事を学び、それに対抗して行動するための重要な時期でもありますが、同時に、それが教会が定めた時期なのですから、祈りのうちに平和を願い黙想し振り返ることも忘れてはいけません。一つの体に様々な役割の部分があるように、キリストの体にも様々な部分があります。平和を求める願いも、具体的な行動でそれを示そうとする人もいれば、祈りを持ってそれを実現しようとする人もいる。それぞれにふさわしい方法で、この平和旬間を過ごしていただければと思います。

戦争は自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能です。暴力が世界を席巻し、いのちを守るためには暴力で対抗することも肯定するような風潮の中、わたしたちは神から与えられた賜物であるいのちを守り抜くものとして、あらためて「戦争は死です」と声を上げたいと思います。

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2023年8月 5日 (土)

週刊大司教第136回:主の変容の主日

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8月6日は主の変容の主日です。

また広島の原爆の出来事を記憶するこの日から、8月9日の長崎の日を経て、8月15日までは、平和旬間です。毎年のように、わたしたちは平和を考え、平和を黙想し、平和を求めて祈り続けていますが、残念ながら、世界はいのちに対する暴力に満ちあふれています。くじけることなく、神の平和の実現を叫び続けていきたいと思います。

8月5日の午後には、広島教区が主催する平和行事に参加し、ともにミサの中で平和を祈りました。これについては別途記載します。

司教協議会会長としての今年の平和旬間の談話は、こちらのリンクからご覧ください。

また東京大司教としての呼びかけは、別途掲載します。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第136回目のメッセージ原稿です。

主の変容の主日A
週刊大司教第136回
2023年8月6日

主の変容の主日にあたり、マタイ福音はイエスがペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネの眼前で栄光を示された出来事を記します。神の栄光に包み込まれたペトロは、あまりの驚きに何を言っているのか分からないまま、そこに仮小屋を三つ建てることを提案したと福音は伝えます。ペトロはその栄光の中にとどまり続けたかったのでしょう。しかしイエスは、さらなる困難に向けて前進を続けます。

モーセとエリヤは律法と預言書、すなわち旧約聖書を象徴する存在です。それは神とイスラエルの民との契約であり、神に選ばれた民の生きる規範でありました。しかし響き渡る神の声は、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と告げます。つまり、イエスは旧約を凌駕する新しい契約であり、イエスに従う者にとっての生きる規範であることを、神ご自身が明確に宣言されました。

ペトロはその手紙の中で、「わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません」と強調し、キリストの栄光に触れたときにどれほど心を動かされたのかを強調します。ペトロが伝えたいことの原点は、変容を目の当たりにしたときに彼の心を揺さぶった驚きでありました。

わたしたちは主イエスとの出会いに、心を揺さぶられたことがあるでしょうか。この人生の中で、どのような出会いに心を揺さぶられたことでしょうか。

教会は今日から10日間を、平和を想い、平和を願い、平和の実現のために行動するように呼びかける平和旬間と定めています。広島と長崎の日にはじまり終戦の日まで続く10日間は、抽象的な出来事ではなく、そこにひとり一人の人間の心が揺さぶられた実体験の積み重ねの10日間です。そしてその10日間にとどまるのではなく、そこに至るまでの沖縄や南太平洋や中国や朝鮮半島を含めた人間の争いが生んだ悲劇の積み重ねと、いまに至るまで平和を確立することができずにいる中での多くの人の心の思いという、具体的な出来事の積み重ねでもあります。わたしたちは抽象的に平和を語るのではなく、神が愛してやまない賜物であるひとり一人のいのちが、いま危機に直面している事実を心に刻み、そのひとり一人の体験に心を揺さぶられながら、平和を語らずにはいられません。

平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢をとり続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、いのちを暴力的に奪おうとするすべての行動に抗うことでもあります。

平和旬間にあたり、いのちの創造主が愛といつくしみそのものであることに思いを馳せ、わたしたちもその愛といつくしみを社会の中に実現することができるように、祈り、行動していきましょう。

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2023年8月 4日 (金)

2023年平和旬間、東京教区呼びかけ

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2023年07月19日

東京大司教区の皆様

2023年平和旬間にあたって

 

暴力が生み出す負の力が世界に蔓延し、いのちが危機に直面する中で、わたしたちは平和が夢であるかのような時代を生きています。日本の教会は、今年も8月6日から15日までを平和旬間と定め、平和を想い、平和を願い、平和の実現のために行動するように呼びかけています。

3年にも及ぶ感染症によるいのちの危機に直面してきた世界は、いのちを守ることの大切さを経験から学んだでしょうか。残念ながら、平和の実現が夢物語であるように、いのちを守るための世界的な連帯も未だ実現する見込みはありません。それどころか、ウクライナでの戦争状態は終わりを見通すこともできず、東京教区にとっての姉妹教会であるミャンマーの状況も変化することなく、平和とはほど遠い状況が続く中で、時間だけが過ぎていきます。

今年の平和旬間でも、平和のための様々なテーマが取り上げられますが、東京教区では特に姉妹教会であるミャンマーの教会を忘れることなく、平和を祈り続けたいと思います。

ご存じのように、2021年2月1日に発生したクーデター以降、ミャンマーの国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿の平和への呼びかけに応え、聖霊の導きのもとに、政府や軍の関係者が平和のために賢明な判断が出来るように、弱い立場に置かれた人々、特にミャンマーでの数多の少数民族の方々のいのちが守られるように、信仰の自由が守られるように、この平和旬間にともに祈りましょう。

具体的な行動として、今年は久しく中断していた「平和を願うミサ」が、8月12日(土)11:00からカテドラルで捧げられます。このミサの献金は、東京教区のミャンマー委員会(担当司祭、レオ・シューマカ師)を通じてミャンマーの避難民の子どもの教育プロジェクト「希望の種」に預けられます。また、8月13日の各小教区の主日ミサは「ミャンマーの子どもたちのため」の意向で献げてくださるようお願いいたします。

ともに一つの地球に生きている兄弟姉妹であるにもかかわらず、わたしたちは未だに支え合い助け合うことができていません。その相互不信が争いを引き起こし、その中で実際に戦争が起こり、また各国を取り巻く地域情勢も緊張が続いています。そのような不安定な状況が続くとき、どうしてもわたしたちの心は、暴力を制して平和を確立するために暴力を用いることを良しとする思いに駆られてしまいます。しかし暴力は、真の平和を生み出すことはありません。人間の尊厳は、暴力によって守られるべきものではありません。それは、いのちを創造された神への畏敬の念のうちに、互いに謙遜に耳を傾け合い、支え合う連帯によってのみ守られるものです。

加えて、カテキズムにも記されている通り、目的が手段を正当化することはありません(カテキズム1753)。暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定することはできません。「戦争は死です」(ヨハネ・パウロ二世、広島平和メッセージ)。

教皇フランシスコは、2019年に訪れた長崎で、国際的な平和と安定は、「現在と未来の人類家族全体が、相互依存と共同責任によって築く未来に奉仕する、連帯と協働の世界的な倫理によってのみ実現可能」であると述べられました。

その上で教皇は、「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられているにもかかわらず、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは天に対する絶え間のないテロ行為です」と指摘され、軍備拡張競争に反対の声を上げ続けるようにと励まされました。

いのちの危機にさらされ、困難の中で希望を見失っている人たちへの無関心が広がる世界では、異なるものを排除することで安心を得ようとする傾向が強まり、暴力的な力を持って、異質な存在を排除し排斥する動きが顕在化しています。

平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢をとり続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、いのちを暴力的に奪おうとするすべての行動に抗うことでもあります。

平和旬間にあたり、いのちの創造主が愛といつくしみそのものであることに思いを馳せ、わたしたちもその愛といつくしみを社会の中に実現することができるように、祈り、行動していきましょう。

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

今年の東京教区平和旬間行事については、こちらをご覧ください

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