2023年聖母被昇天の祝日@東京カテドラル
8月15日、聖母被昇天の祝日です。
台風の被害を受けられた多くの方々に、お見舞い申し上げます。東京は、一日曇り空でした。東京カテドラルでは、午前7時と、午後6時の二回、聖母被昇天のミサが捧げられ、午後6時のミサを、大司教司式ミサといたしました。ご一緒にお祈りくださった皆さん、ありがとうございます。
また初代教会の殉教者であった聖タルチシオは、もともとこの8月15日が記念日でありましたので、わたしは今でも8月15日を霊名の記念日としています。現在の教会の暦では、8月12日に移動しているかと思います。霊名の日にあたり、この数日多くの方からお祝いの言葉をいただきました。感謝申し上げます。これからもお祈りくださること、どうかお願いいたします。
本日のミサの終わりにもお伝えしましたが、教皇様は、本日ローマ時間正午、大阪大司教区と高松司教区を合併して、新たに大阪・高松大司教区の設立を宣言され、その初代教区司教として、前田万葉枢機卿様を任命されました。
日本の教区の区割りは、20世紀初頭の鉄道網のつながりとその当時の人口分布を優先して決められていますので、21世紀の今では事情が異なる中で、様々な課題が出ております。同時に、社会の人口動態に合わせて、教会の信徒数も移り変わっています。加えて近年、子供の数が社会一般で減少するのに合わせて、司祭召命も少なくなっており、戦後の一時期に叙階された多くの先輩司祭の後を継ぐ若手の司祭が不足しています。様々な事情を勘案して、この数年、大阪教区と高松教区を一緒にすることが検討されてきたと伺っています。司教省の管轄する国では、例えばイタリアのように教区の合併は珍しくありませんが、福音宣教省の管轄する国では、あまり例がないために、福音宣教省も決断をして教皇様に答申をするまで、かなり慎重に検討を重ねてきたと聞いています。
新しく誕生する大阪・高松教区の上に、神様の豊かな祝福と聖霊の導きがあるように、共に祈りましょう。
以下、本日午後6時の東京カテドラルでのミサの説教原稿です。
聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年8月15日平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受け、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。そしてエリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げた讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画の実現された様が記されています。そこでは、この世界の常識が全く覆され、教皇フランシスコがしばしば指摘される、社会の中心ではなく周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが向けられていることが記されています。
しかしわたしたちが生きている現実はどうなのでしょうか。社会の中心ではなく周辺部に追いやられた人に向けられている神の目、神のいつくしみを、わたしたち福音に生きるものは、具体的に実現するように行動しているでしょうか。
もちろんすべてのいのちの創造主である御父にとって、賜物として与えられたすべてのいのちは、等しく愛を注がれる対象であり、大切な存在です。賜物であるいのちは、神がそれほどの愛を注がれ、またご自分の似姿としての尊厳を与えられているからこそ、その始まりから終わりまで、すべからくその尊厳が守られ、大切にされなくてはならない存在です。しかし、世界全体を見れば、様々な理由から、その尊厳が損なわれ、いのちの危機に直面する人も少なくありません。社会から忘れ去られた状況の中で、かろうじて命をつないでいる人も少なくありません。まるで価値がないものであるかのように、いのちを暴力的に奪われていく存在もあります。
今この瞬間にも、例えば戦争が続くウクライナでは、身に迫るいのちの危機に恐怖を抱えながら生きている多くのいのちが存在します。武力によるいのちの危機に直面する人は、世界の様々な地域に多く存在します。
紛争の結果として、また経済的な問題から、生まれ故郷を離れて国境を越える道を選ばざるを得ない人も少なくありません。故郷を捨て、国境を越えることは簡単な選択ではなく、そのひとり一人には、他者の理解を遙かに超えた物語があることでしょう。
国内にあっても、特にこの三年のコロナ禍のもたらした経済への負の影響と、社会全体の状況から、生活の困難に直面し、いのちの危機にさらされている人も少なくありません。かろうじて、いのちをつないでいる人も、おられることでしょう。
神の愛といつくしみは、すべてのいのちに注がれていますが、特にそのすべての危機に直面するいのちに対して、神の愛といつくしみはさらに一層注がれることを、聖母マリアは宣言しています。わたしたちは、その神の愛といつくしみを、具体的に実現するものでありたいと思います。
教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりに、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記し、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。
その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言します。
教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、聖母マリアの讃歌に明記されています。
聖母マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、聖母マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを高らかに歌います。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。
また「身分の低い、この主のはした目にも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が何をもって人間の価値を判断しているのかを明示します。それは人間の常識が価値があるとする量りではなく、神ご自身が持っている量り、すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだという、神のいのちに対する量りが示されています。だから人間が価値がないと見なすいのちにこそ、神は価値を見いだされるのです。
エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。わたしたちにとって、神のことばが実現することこそが、神の秩序の確立、すなわち神の平和の実現であります。真の平和は、弱い存在を排除するところにはありません。自分の利益のみを考えて、他者を顧みないところには、真の平和は存在しません。自分の利益のために、他者のいのちを犠牲にしようなどと考えるところに、神の平和は存在しません。
わたしたちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。
1981年に広島を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、平和メッセージの中で、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と四回も繰り返され、核兵器の廃絶と戦争のない平和の確立を訴えられました。
8月15日に私たちは毎年、第二次世界大戦の悲劇を思い起こしながら、敵味方に分かれた双方の亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、平和への誓いを新たにしています。残念なことにいま、ウクライナで戦争は続き、姉妹教会であるミャンマーの人々に平和と安定は訪れず、東アジアのこの一角では、以前にも増して、武力攻撃が不可避であるかのような雰囲気さえ漂っています。その現実の中で、教皇ヨハネパウロ二世の呼びかけに応えて、「過去を振り返り」、その上で将来に対してどのような責任ある行動をとるのか、考えなくてはなりません。
わたしたちは、単なる優しさによって、困難に直面する人に手を差し伸べるのではありません。わたしたちは、それが神の平和の確立につながるからこそそうするのです。神がこの世界に実現することを望まれている神の価値観が具体化し、神の秩序が確立するようにと、わたしたちは危機に直面するいのちに手を差し伸べます。愛の奉仕の業は、優しさの結実ではなく、神の平和を確立する行動です。
神の計画を実現するためにすべてを捧げた聖母マリアに倣い、その取り次ぎに信頼しながら、わたしたちもそれぞれの場で、それぞれの方法で、神の平和の確立のために働き続けましょう。
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