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2023年9月30日 (土)

週刊大司教第144回:年間第26主日A

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シノドスに参加するために、ローマに出かけています。

10月末日までの一ヶ月間、ローマから、またシノドスの様子などを報告させていただきます。

出発前に撮影していた、週刊大司教第144回、年間第26主日のメッセージ原稿です。

年間第26主日A
週刊大司教第144回
2023年10月01日

この週刊大司教をご覧いただいている本日、わたしはシノドスに参加するためにローマにおります。事前の予定では、9月30日の晩に、エキュメニカルな祈りの集いがあり、その後10月3日まで、ローマ郊外で参加者全員が集まり黙想会が行われます。その後、10月4日からバチカンで今回のシノドスの第1会期がはじまります。また来年の10月には、同じ参加者で、第二会期が行われる予定になっています。

シノドス参加者に聖霊が豊かに注がれ、識別が深められ、教会のためによりよい道を見いだすことができるように、シノドスのために皆様のお祈りをお願いいたします。

マタイ福音には、父親の命令に対する兄と弟の答えと、実際の行動についてのイエスの話が記されていました。兄は命令を拒んだものの、結局考えをあらため父親の望み通りにした。しかし弟右は、命令に従うそぶりを見せたものの、結局それに従わなかった。イエスは「どちらが父親の望み通りにしたか」と尋ねていますが、すなわち神にとって大切なのは、結果として神の望みを実現しようと行動することであって、表向きに積極的なジェスチャーをすることではないということを、明確にします。

残念ながらわたしたちは、見た目にとらわれて人を裁きます。表向きのジェスチャーに簡単にだまされます。かぶった仮面の内側を見抜くことができません。そして時に、表向きの表現や行動をよりよく見せることが、信仰心を表現することだと勘違いすらします。でもそれは、神には通用しません。人の目をごまかすことは容易でも、神の目をごまかすことはできません。

わたしたちは、神の望みをこの世界の中で実現するように、本当に努め、行動しているでしょうか。そのわたしたちの姿勢を問いかけているのが、今回のシノドスです。

今回のシノドスは、教会が教会であるための本当のあり方を再確立しようとする試みです。教会共同体が愛に満ちあふれていたり、敬虔であったり、喜びに満ちあふれているのは、福音を告げ知らせるため、それも言葉の知恵によらずに主の十字架をむなしいものとしないためであります。つまり交わりの共同体は、それ自体が福音をあかしする存在、すなわち宣教する共同体でなくてはなりません。共同体が宣教する共同体であるからこそ、誰ひとり排除されることなくすべての人がその交わりに招かれることができます。そのためにも、教会共同体は、常に聖霊の導く方向性を識別することが必要であり、その導きに身を任せることで、ジェスチャーではない信仰のあり方を具体的に生きることが可能になります。

何か雲をつかむような話をしてしまいましたが、公開されているシノドスの討議要綱などに目を通していただき、シノドス参加者とともに、みなさんそれぞれの場で、祈りと分かち合いのうちに、聖霊の導きを識別する道を歩んでいただければと思います。

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2023年9月23日 (土)

週刊大司教143回:年間第25主日

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東京教区では、悲しいことに、9月に入って帰天する司祭が相次いでいます。森司教様、西川神父様、古賀神父様に続いて、9月20日には星野正道神父様が73歳で帰天されました。葬儀ミサは9月26日の予定です。どうぞパウロ星野正道神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

星野神父様の略歴は、こちらをご覧ください。長年にわたり教育界で働かれ、特に白百合女子大学で長く教授を務められました。

9月はこれで、すべての火曜日が、教区司祭の葬儀ミサとなりました。帰天された司祭の永遠の安息をお祈りいただくと共に、彼らの後を継ぐ後継者が与えられるように、司祭の召命のためにも、どうかお祈りくださいますように、心からお願い申し上げます。

それでも新しい司祭は、少しづつではありますが、確実に誕生し続けています。9月23日土曜日の午後には、イグナチオ教会でイエズス会に二人の新しい司祭が誕生しました。叙階されたのはアシジのフランシスコ森晃太郎さん、洗者ヨハネ渡辺徹郎さんのお二人です。おめでとうございます。これからのお二人の司祭としての人生に神様の祝福を祈ると共に、その活躍に期待しています。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第143回、年間第25主日メッセージ原稿です。

年間第25主日A
週刊大司教第143回
2023年9月24日

マタイの福音に記されたぶどう園で働く労働者と主人の話は、なんとなく心が落ち着かない話であります。確かに記されている話では、主人は最初の労働者に一日につき一デナリオンの支払いを約束して雇用したのですから、何も約束違反はしていません。しかし実際には、明らかに自分より短い時間しか働いていない労働者が、自分より先に一デナリオンもらっているのだから、もっと働いた自分にはより多くの報いがあるはずだと考えるのは、支払いが労働の対価であるという考え方からは、当然です。実際問題、雇用の現場で、同じ職種にもかかわらず、丸一日働く人と1時間しか働かない人を、全く同じ給与にしたとしら、あっという間に労働争議が発生しそうです。

しかしイエスの本意は、労働の対価としての支払いのことにないことは、その終わりの方の言葉によって少し理解できるような気がします。

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」

すなわち、イエスはここで、ご自分のいつくしみについて語っておられます。ご自分が愛を持って創造し、賜物として与えられたいのちを、神がどれほど大切にしておられるか。そのいのちに対する愛は、分け隔てなく、価値における優劣の差もなく、すべからく大切であり、愛を注ぐ対象であり、いつくしみのうちに包み込む対象であることを、この言葉は明確にしています。

この世界は、往々にして、数字で見える成果によって人間を評価し格付けします。それが極端になると、人間のいのちの価値を、能力の優劣によって決定し、この世界に役に立たないいのちには存在する意味がないという暴力的な排除の論理にまで到達してしまいます。数年前に発生した、障害者の方々の施設を元職員が襲撃し、19名の入所者を殺害するという事件思い起こします。犯人の、「重度の障害者は生きていても仕方がない。そのために金を投じるのは無駄だ」などという主張が、極端に走ったいのちへの価値判断を象徴しています。神にとっては、どのような違いがあったとしても、ご自分が創造されたいのちは、すべからく等しく大切な存在であることを、今日の福音は明確にしています。

本日は、世界難民移住移動者の日であります。教皇様は「移住かとどまるかを選択する自由」をテーマとして掲げられました。メッセージの中で教皇様は、ヨハネパウロ二世のこの言葉を引用しています。

「移民と難民のために平和的状況を築くには、まず、移民しない権利、すなわち母国に平和と威厳をもって住む権利の保護に真剣に取り組まなくてはなりません」

その上で教皇様は、「移民難民は、貧困、恐怖、絶望から逃れるのです。こうした原因を根絶し、やむにやまれぬ移住に終止符を打つには、わたしたち全員が、おのおのの責任に応じて、それぞれが協力して行う取り組みが求められます」と呼びかけておられます。

すべてのいのちは、優劣の差なく、すべてが神の目にとって大切な存在です。その愛といつくしみは、すべてのいのちに向けられています。神の愛といつくしみのまなざしを、わたしたちの利己心が、差別意識が、排除の心が、遮ることのないようにいたしましょう。

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2023年9月16日 (土)

週刊大司教第142回:年間第24主日A

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東京教区では、森司教様、西川哲彌神父様に続いて、9月10日にパウロ・テレジオ古賀正典神父様が帰天されました。葬儀は9月19日火曜日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。お祈りください。

古賀神父様は、一時、神学生時代にレデンプトール会の志願者として名古屋で養成を受けられたこともあり、わたしにとってはその当時からの知り合いでありました。年齢のわたしより一つ下であります。東京教区司祭として1990年に叙階後、小教区司牧や教区本部事務局で働かれ、わたしが司教になった2004年頃は、中央協議会の法人事務部長も務めておられました。その後体調を崩し、2017年からはペトロの家で療養生活を続けておられましたが、この9月10日の早朝、帰天されました。古賀神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

秋田の涙の聖母で世界に知られている聖体奉仕会修道院で、4年ぶりに秋田聖母の日が開催され、地元の成井司教様に、大阪の酒井司教様とわたしも加わり、9月15日のミサは秋田県内外の司祭も含めて、司教三名、司祭6名で、集まった150名を超える方々とともに、ミサを捧げ祈ることができました。わたしはミサを司式させていただきましたので説教原稿は別掲します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第142回、年間第24主日メッセージ原稿です。

年間第24主日A
週刊大司教第142回
2023年9月17日

多分に身勝手なわたしたちは、自分の過ちは無条件で許してほしいと願うのに、自分に対する他者の過ちには、そう簡単に許してしまおうという気持ちにはなりません。いつくしみとゆるしは、わたしたちにとって生涯の課題であるともいえるでしょう。

本日の第一朗読であるシラ書も、そしてマタイ福音も、ゆるしと和解について記しています。

わたしたちが他者との関係の中で生きている限り、どうしてもそこには理解の相違が生じ、互いを理解することが出来ないがために裁いてしまい、その裁きは時として怒りを生み、結局のところ相互の対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの感情を抱いたままでは、自分と神との関係の中で、ゆるしをいただくことは出来ない。

わたしたちは完全なものではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度そういった過ちを悔い、神にゆるしを願うことでしょう。しかし神は、神にゆるしを請う前に、他者と自分の関係を正しくすることを求めます。他者との人間関係において、ゆるしと和解が実現しなければ、どうして神にゆるしを求めることが出来るだろうかと、シラ書は指摘します。

マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言うイエスの言葉を記しています。もちろん490回ゆるせばよいという話ではなく、七の七十倍という言葉で、限りない深さを持った神のゆるしを示します。またそのゆるしをいただいたものが、そのあわれみを他者との関係における自らの行動につなげるのではなく、反対に隣人を無慈悲に裁いた話をイエスはたとえとしてあげ、他者を裁くものには、神のゆるしがないことも明示されています。

わたしたちは、なぜ、ゆるし続けなくてはならないのか。それをパウロはローマの教会への手紙で、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、わたしたちの人生そのものが、主ご自身が生きられたとおりに生きることを目的としているのだと指摘します。

その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、自らの命を奪おうとしているものをゆるすいつくしみであり、愛するすべてのいのちの救いのために、自らを犠牲にする愛といつくしみそのものの人生です。ですからわたしたちは、あわれみ・いつくしみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的にゆるし、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。それは、わたしたちが、愛といつくしみそのものである主イエスに従うのだと、この人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」というパウロの言葉に、今一度心を向けましょう。

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秋田の聖母の日@聖体奉仕会

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久しぶりに、秋田の聖体奉仕会修道院を会場に、秋田の聖母の日が行われ、東京から出発した17名ほどの巡礼団とともに、参加してきました。今回は、地元の成井司教様を始め、大阪の酒井司教様とわたしの三名の司教と、秋田地区などで働く司祭6名が参加して、一般の参加者も150名を超えていました。久しぶりに集まって祈りを捧げることができて、感謝です。

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この秋田の聖母の日が始まったきっかけは、2013年10月に、ローマ教区が主催して世界各地の聖母巡礼所を中継で結んだロザリオの祈りに参加したことでした。当時のことはこちらに記してありますし、当時のビデオもまだ見られますので、ご覧ください。リンク先の当時の司教の日記の一番下にビデオが貼り付けてあります。(ビデオ内で秋田が登場するのは、1時間55分あたりです)10月12日の夜に始まり、時差の関係で徹夜で祈りをささげ、翌日のミサで締めくくった集まりには、海外も含め各地から多くの方が参加されました。当時の日記には、事前申し込みは800人ほどでしたが、当日はそれ以上に人が聖体奉仕会に集まったと記されています。

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この行事に触発されて、翌年2014年から、9月14日の十字架称賛と15日の悲しみの聖母の両日、聖体奉仕会で「秋田の聖母の日」と名付けた祈りの集いを開催してきました。それ以来、毎年、国内外から、多くの方が参加してくださっています。また秋田地区の神言会司祭団も、協力してくださっています。わたしは17年に新潟教区から東京教区に移っても、毎年この行事には参加しておりましたし、それに併せて巡礼も行ってきました。

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残念ながら感染症の状況のため、2019年の集まりを最後に、オンラインでの開催が続いてきましたが、今年は久しぶりに集まることができました。十字架の道行きは個別に行われ、東京発の巡礼団も午前中にゆっくりと庭での十字架の道行きをすることができました。そして皆で集まってのロザリオの祈りでは、酒井司教様が講話をしてくださり、聖体礼拝では成井司教様の講話、そして悲しみの聖母の祝日ミサはわたしが司式させていただきました。

15日の夜は、羽田空港で雷雨があったようで、秋田便が欠航となり、東京から出発した巡礼団は慌てましたが、企画した信徒の旅行社パラダイスの豊富な危機経験と聖体奉仕会の助力のおかげで、秋田市内に宿を確保でき、巡礼団も無事に翌朝東京へ向かいました。

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みなさんご苦労様でした。企画運営してくださったみなさん、ありがとう。参加してくださったみなさん、感謝します。

以下、ミサでのわたしの説教の原稿です。なお前日、十字架賞賛の祝日のミサでの説教は、原稿はありません。

秋田の聖母の日
2023年9月15日
聖体奉仕会聖堂

3年以上に及ぶ感染症による混乱の中、目に見えないウィルスと対峙してきたわたしたちは、これから先に一体どんな未来が待ち受けているのかという、これまでであれば抱くことのなかったような先行きの見通せない不安の闇に引きずり込まれ、まるでその暗闇の中を手探りで歩いているような状況が続きました。具体的に目に見える危険が迫っているのであれば、様々に対処する方法も考えられて心の安心を得ることもできるのでしょうが、目に見えない存在がどのような影響を具体的に及ぼすかが良くわからないという状況は、わたしたちを疑心暗鬼の闇に引きずり込みました。 この秋田での、恒例となっていた秋田の聖母の日の巡礼も、そのような状況の中で集まることができず、開催することが難しい状態が続いていました。今年、こうやってみなさんと一緒にこの聖堂に再び集まり、聖母マリアの生きる姿勢に倣い、その霊性に学び、聖母の取り次ぎを求めてともに祈ることができるようになったことは、大変喜ばしいことだと思います。

みなさん、聖母とともに、ともに祈りを捧げるために、この秋田の地まで、良くおいでくださいました。

今年はさらに、夏の大雨もあり、秋田市内では聖霊高校なども洪水の被害に遭い、聖体奉仕会の近くでは土砂崩れも起こりました。大きな災害に見舞われ、まだまだ普段の生活を取り戻すには時間がかかる状況の中、今年の秋田の聖母の日を、予定通りに開催するために奔走してくださった聖体奉仕会のみなさんと協力者のみなさんに、心から感謝申し上げます。

先の見通せない不安の暗闇ということを考えるとき、聖母マリアご自身が、まさしくそういった不安に囲まれて人生を歩まれたことを思い起こさざるを得ません。

ルカ福音には、シメオンがマリアに語った言葉が記されていました。シメオンはその中で、幼子イエスについて、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と宣言します。天使のお告げを受け、救い主の母となることを知らされ、その驚きの告知を謙遜の心で、「お言葉通り、この身になりますように」と受け入れたマリアは、あらためてシメオンの口を通じて、まさしくその幼子こそが神の救いそのものであることを告知されます。この知らせに対するマリアとヨセフの素直な驚きを、「幼子について言われたことに驚いていた」と福音は記しています。

そしてマリアに対してシメオンは、その驚きにさらに追い打ちをかけるように、イエスの将来について「反対を受けるしるしと定められています」と驚きの事実を告げ、加えて「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と、マリア自身も苦しみの道を歩むことになる事実が告げられます。

この驚くべき告知の連続は、それこそマリアにとって、先行きの見えない大きな不安の闇となって襲いかかったことでしょう。しかしそれに立ち向かわれたマリアは聖母となりました。

聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

そこには、先行きが見えない不安による疑心暗鬼の闇に引きずり込まれる誘惑もあったことでしょう。イエスの弟子たちがそうであったように、苦しみの道を否定しようとする誘惑もあったことでしょう。そのようなことはあり得ませんと、反論したくなる誘惑もあったことでしょう。

それらはまさしく、イエスご自身がペトロを叱責された、「サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉に明らかなように、神の計画を無にしようとする悪の誘惑です。

聖母マリアは、しかしその誘惑と不安に立ち向かわれました。神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる方々との連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。

今日の福音は、聖母がその苦しみの道を一人孤独に歩んでいたのではないことを明確にします。そこにはシメオンのように、神の計画を知り、その神の計画に身を委ねるようにと励ます具体的な存在がありました。そしてもちろん天使のお告げの言葉、すなわち「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」、そして「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」というお告げの言葉における約束は、聖母にとって、救い主ご自身が常に道をともに歩んでくださるという確信を与えました。神のみ旨を識別しながら、ともに歩む信仰の道。まさしくいま教会が歩んでいるシノドスの道を最初に歩まれたのは、聖母マリアであります。

わたしたちが、感染症などの困難に直面し、怖じ気づき、疑心暗鬼の心が自己保身に走らせ、利己的な心は他者の必要に目をつぶらせ、心を安定させるために異質な存在を排除しようとするとき、聖母の生きる姿を思い起こさないわけにはいきません。わたしたちの信仰は、神の計画に信頼し、互いに助け合い、ともに歩んでくださる主に信頼しながら謙遜に身を委ねる信仰です。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりで、聖母マリアについて語っています。教皇は、「マリアは、福音を述べ伝える教会の母です」と記しています。

教皇は聖母の生きる姿勢を、「常に気をくばる友」、「あらゆる苦しみを理解される方」、「正義を生み出すまで産みの苦しみを味わうすべての民の希望のしるし」、「人に手を貸すために自分の村から急いで出かける方」などと記して、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と述べておられます。

この混乱の時代、聖母の生きる姿勢に倣い、さまざまに飛び交う言葉に踊らされることなく、神が望まれる世界の実現の道を見極めるために、祈りと黙想のうちに賢明な識別をすることができるように、聖霊の導きを祈り、またその導きに従う勇気を祈り願いたいと思います。

この先行きの読めない不安な時代に、そして連帯と助け合いが必要なこの時代に、あたかもそれに逆らうかのように、尊い賜物であるいのちをないがしろにするように、例えばウクライナでは戦争が続いています。世界各地で、いのちを危機に直面させるような状況が続いています。

神の母である聖母マリアは、信仰に生きるわたしたちすべての母でもあります。聖母は、いのちをないがしろにすることやいのちに対する攻撃をすることではなく、その尊厳を守り、育み、始まりから終わりまで徹底的にいのちを守り、神のみ旨に生き続けることの重要さをその姿で示しています。この困難な時代に生きているからこそ、聖母の生きる姿勢に倣い、神の計画に身を委ね、ともに歩んでくださる主に信頼し、神のみ旨の実現のために尽くして参りましょう。

 

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2023年9月12日 (火)

セバスチャン西川哲彌師葬儀ミサ@東京カテドラル

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東京教区司祭セバスチャン西川哲彌神父様は、9月8日、聖マリアの誕生の祝日の早朝に帰天され、本日9月12日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、葬儀ミサを執り行いました。西川神父様の永遠の安息のために、お祈りくださったみなさん、ありがとうございます。

西川神父様は、ご存じの方は多いと思いますが、なかなかユニークな方で、面倒見が良く優しい反面、時には厳しく叱りつけることもありました。その評価は、それぞれの体験によって様々に分かれるところですが、以下の説教でも触れたように、病人訪問に足繁く通うなど、困難と孤独のうちにある人に徹底的に寄り添う方でもありました。

わたし自身はカリタスジャパンの委員会を通じて、司祭時代に知り合いましたが、その後、新潟の司教になってからは、西川神父様がしばしば秋田の聖体奉仕会を訪れマリア様に祈って行かれたことを存じ上げていました。祈るだけでなく、得意の大工仕事を披露されたり、様々なものを寄付して行かれました。

さらに東京の大司教になってからは、しばらく関口で一緒に生活をしていましたが、わたしが関口教会でミサをしたときには、必ず説教を褒めてくださる。褒めて育ててくださる方でありました。

1年半ほど前、司祭館で階段からの転落事故で一命を取り留めたものの意識が回復せず、1年半にわたる闘病生活の後に、帰天されました。

以下、葬儀ミサの説教原稿です。

セバスチャン西川哲彌師葬儀ミサ
2023年9月12日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

西川神父様、人生の最後の最後に、苦しみのうちにじっと耐え忍び、よく頑張りました。御父の元で、すべての苦しみから解き放たれて、愛といつくしみの光に包まれて、休まれますように。

2022年2月26日の早朝、清瀬教会の朝ミサに出てこられないことから、司祭館を訪ねた信徒の方によって、倒れているのを発見されました。朝、新聞を取りに行った帰りに、階段で転落したものとみられます。即座に病院に運ばれ、手術を受け一命は取り留めたものの、意識は戻りませんでした。その後、ベトレヘムの園病院に転院され、シスター方を始め医療スタッフの手厚い看護の中、一時は意識が戻るのではないかという期待もありましたが、それもかなわず、9月8日、聖マリアの誕生の祝日の早朝、80歳の人生を終えられました。

感染症の状況の中、病院では面会もままならず、わたしも7月11日に、許可をいただき、15分だけ面会し、病者の塗油を授けることができました。手を握ると、確かに目が動いて、誰かが来ているとわかっているのではないかと感じました。しかし残念ながら最後の日まで意識は回復することなく、1年半に及ぶ闘病の末、御父の元へ旅立って行かれました。西川神父様。本当によく頑張りました。

司祭は叙階式の時に、司教からいくつかの質問を受けます。「福音をのべ伝え、カトリックの信仰を表すことによって、神のことばに奉仕する務めを誠実に果たしますか」と問われて、「はい、果たします」と力強く応えます。また、「教会共同体の助けのもとに、貧しい人、苦しむ人、助けを必要とするすべての人に、主の名において、神のいつくしみを示しますか」と問われて、「はい、示します」と約束いたします。

1976年11月3日に、このカテドラルで司祭叙階を受けた西川哲彌神父様も、その日同じように力強く約束されたことだと思います。そしてそれから50年近くにわたる西川神父様の司祭人生は、まさしくその約束を具体的に生きる人生であったと思います。

今日、西川神父様とのお別れのためにお集まりの皆様は、わたし以上にたくさんの思い出をお持ちだと思います。司祭に叙階された後に、高円寺教会の助任にはじまり、清瀬教会に至るまで、10近い小教区で司牧にあたられましたので、そこで、その「とき」に出会い、時間をともにし、様々な交わりのあった方々は大勢おられることと思います。限りなく優しく、思いやりにあふれる司祭である反面、時に厳しく叱りつけることなどもありましたから、その思いではそれぞれユニークでバラエティに富んでいることと思います。

わたし自身は司教になる前、もう20数年以上前にカリタスジャパンの援助秘書をしていた時代、東京教区のカリタス担当者であった西川神父様と、会議の席で初めてお会いしました。独特の雰囲気に圧倒されましたが、その頃からよく声をかけていただくようになりました。

東京に来てからは、西川神父様は関口の主任でしたので、毎日の朝食にはじまって、生活を一緒にする機会がありました。様々な思い出がある中で、心に残っていることは、説教を必ず褒めてくださったことと、どんな遠くであっても、病人を訪問することを大切にされていたことでありました。時に、車に乗って何時間もかかる遠方まで、病人訪問に出かけておいででした。

マタイの福音にある、あの羊と山羊を分ける話の、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。・・・わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主の言葉にあるように、人生を終えて、主の御前に立つ西川神父様に、主御自身がその労をねぎらっておられることだと確信します。

司祭としての人生の中で、西川神父様は、困難に直面する人たち、孤独にある人たちのもとを訪ね、そこで主御自身と出会った来られてのだと思います。

わたしたちは信じています。イエスはキリストです。すべての人をその懐における安息と永遠のいのちに招かれる救い主です。わたしたちは、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉を信じています。イエスをキリストと信じるわたしたちには、すべての人がその救いに与ることができるように、神の愛といつくしみ、あわれみを、ひとりでも多くの人に伝え分け与える使命があります。そのために、わたしたち自身の言葉と行いを持って、主との出会いの機会を生み出していかなくてはなりません。

2019年11月に東京で、東北の大震災の被災者とお会いになった教皇様は、「町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と、人と人との交わりの重要性を強調されました。

暗闇に輝く希望の光は、互いに助け合う人との出会いから生まれ、連帯を通じて強められます。しかし残念ながら、実際の世界ではその連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、この歴史に残る困難の中で、暴力がいのちを危機にさらしています。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。わたしたちには互いに助け合うものとして、多くの人との出会いが必要です。その出会いの中での支え合いが必要です。西川神父様は、司祭としての人生を歩みながら、その人と人との出会いの機会を生み出し続けてこられました。それを通じて、多くの人が、主イエスご自身と出会う機会を生み出してこられました。

2013年11月の教区ニュースでのインタビューに、西川神父様のこういう言葉が記されていました。
 「司祭叙階までの歩みを振り返ると、ダメな自分ばかりです。ダメな自分の根は、意固地さだったり、コンプレックスだったり、照れ隠しだったりするわけです。自分自身だけを見るとどうしようもない存在です。しかし、そんな自分がイエスを背負っている、自分の背中にイエスがいる、背中にいるイエスがダメな自分を生かしてくれるという、叙階の秘跡の持つ偉大な神秘を噛みしめました」

西川神父様は、毎日、その背中にいつくしみそのものであるイエスを背負って生き続けてこられました。いま御父の御許で、その背中におられるイエスが、西川神父様を後ろから抱きかかえ、すべての苦しみから解き放ってくださっていると、信じます。西川神父様が永遠の安息に与ることができますように。

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2023年9月 9日 (土)

週刊大司教第141回:年間第23主日

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年間第23主日となりました。この数日、台風の影響を大きく受けた地域があります。東京教区でも千葉県内で大雨が降り、教会がある地域でも大きな影響があった模様です。今の段階では、教会自体の被害の報告はありませんが、今回の台風に伴う大雨で被害を受けられた皆様にお見舞い申し上げます。

東京教区では、先週の森司教様に続いて、9月8日の早朝にセバスチャン西川哲彌神父様が、80歳で帰天されました。1年半ほど前、清瀬教会の主任をされていたときに階段から転落されて、その後、入院生活を送っておられました。葬儀ミサは9月12日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行います。西川神父様の永遠の安息をお祈りください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第141回、年間第23主日のメッセージ原稿です。

年間第23主日A
週刊大司教第141回
2023年9月10日

わたしたちは、人生の旅路の中で、決して一人で置き去りにされることはありません。わたしたちは、「世の終わりまでともにいる」と約束された主が、常に歩みをともにしてくださると信じています。

その主は、わたしたちを共同体へとつないでくださいました。実際に手をつないで歩んでいるわけではなく、実際の人生の旅路では、物理的に一人で歩みを進めることもあるでしょう。しかしわたしたちは、主の名の下に集められた共同体に、信仰の絆で常につながっています。

この3年間のコロナ禍の間、感染対策のために離ればなれにならざるを得ない事態が続いていたとき、わたしたちは普及したインターネットによって、互いにつながっているという感覚を持つことができました。わたしたちの信仰の絆は、インターネットの絆以上の存在です。その絆は、神の与えた掟によって結び合わされているからです。パウロはローマ人の手紙に、「どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます」と記しています。その相互の愛の絆によって、わたしたちは物理的に離れていてもつながっており、世界中の兄弟姉妹とともに、一つの共同体を作り上げています。

主の名によって集められたその共同体には、主御自身が常に存在されます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。

この主御自身の存在によって結び合わされたわたしたちは、感謝の祭儀に与ることで、朗読される御言葉のうちに現存される主と出会い、ご聖体の秘跡のうちに現存される主をいただきます。

わたしたちを結び合わせる掟の中心にある「隣人愛」とは一体何なのでしょうか。「自分のように愛する」」とは一体どういうことでしょう。それはただひたするに優しくすることでもなければ、自分の思いを押しつけることでもありません。それは、自分自身が生きて行くことを肯定しているのと同じように、交わる他者がいのちを生きていくことを肯定する態度であります。生きるための希望は、互いに支え合う交わりの絆を確認するところから生み出されます。すなわち連帯こそが、生きる希望を生み出します。そこに隣人愛の根本があります。

常にともにいてくださる主イエスこそ、わたしたちがいのちを生きようとする思いを肯定し、支えてくださる方です。わたしたちがいのちを豊かに生きる希望を生み出すことができるようにと、道をともに歩まれる方です。その愛をわたしたちは心にいただき、主と一致しながら、さらに愛の絆を多くの人へと広げて参りましょう。

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2023年9月 2日 (土)

訃報:パウロ森一弘司教様

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東京教区の補佐司教を務められたパウロ森一弘司教様が、9月2日土曜日の早朝、84歳の生涯を閉じられました。1985年から2000年まで、白柳枢機卿様が教区大司教であった時代に補佐司教を務められ、また中央協議会でも活躍されました。引退後は、長年にわたって真生会館で活動を続けられ、また全国の修道会や、学校の先生方の研修会などに精力的に取り組まれ、つい数日前にも、先生方の研修会でお話になっている写真が参加者のFBに掲載されていました。お祈りください。

葬儀ミサは、以下の東京教区の訃報にある通り、9月5日お昼から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。

訃  報

パウロ森一弘名誉司教が、9月2日(土)午前3時39分、上部消化管出血のために、東京逓信病院(飯田橋)にて帰天されました。享年84歳でした。どうぞお祈りください。

葬儀ミサ・告別式の日程は以下のとおりです。

パウロ 森一弘名誉司教 葬儀ミサ・告別式
日時:9月5日(火)12:00
場所:東京カテドラル聖マリア大聖堂
司式:タルチシオ菊地 功 大司教

*共同司式される司祭はアルバ、ストラ(白)をお持ちください。
*参列者の人数によっては、聖堂へのご入場をご遠慮いただく場合がございます。ご理解のほどよろしくお願いいたします。

【略歴】
1938年10月12日      神奈川県横浜市に生まれる。
1954年 4月 3日      栄光学園聖堂にて受洗
1967年3月11日      司祭叙階(ローマにて)
1977年8月~1981年3月   関口教会助任
1981年4月~1985年1月   関口教会主任
1984年12月3日      東京教区補佐司教任命
1985年2月23日      司教叙階
2000年5月13日      東京教区補佐司教退任
2023年9月2 日       帰天

役職等
1985年11月~2021年6月  真生会館理事長

東京教区 事務局長
浦野 雄二

 

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週刊大司教第140回:年間第22主日A

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早いもので、9月となってしまいましたが、まだまだ暑さは続いています。

9月1日から10月4日までは、教皇様が「ラウダート・シ」の呼びかけに基づいて定めた「被造物の季節」であり、日本の教会はさらに広げて「すべてのいのちを守る月間」としています。教皇様は、今年の被造物の季節の終わりにあたる10月4日、アシジのフランシスコの祝日に、新たなインテグラルエコロジーについての文書を発表される予定だと伺っています。

日本の司教団も、全教会レベルで教皇様の呼びかけに応え、霊的な視点からインテグラルエコロジーの課題に向き合うために、司教協議会にラウダート・シ・デスクを開設し、新潟教区の成井司教様を責任者に任命して、様々な取り組みを始めています。成井司教様の呼びかけを含め、ラウダート・シ・デスクについて、また今年のすべてのいのちを守る月間の取り組みについては、こちらのホームページをご覧ください

教皇様は8月31日から9月4日までの日程で、モンゴルを訪問されています。モンゴルは、日本からは遠いようで、しかし割と近い国であり、また相撲界などでモンゴル出身者が活躍されています。地政学的には、ロシアと中国に挟まれた地でもあり、この時期、教皇様がモンゴルの地からどういった発信をされるのかが注目されています。教皇様の訪問の日程などは、こちらのバチカンニュースをご覧ください

9月1日は関東大震災の発生から100年の節目となりました。当時亡くなられた多くの方々の永遠の安息を改めて祈るとともに、教会でもいつ発生してもおかしきないと言われている大きな災害への対応を改めて心しておきたいと思います。いつ起きるのかわからないのが災害です。東京教区にも災害対応チームがありますが、平時から少しづつ備えを進めていかなくてはなりません。ご協力ください。

また災害などの緊急事態が発生し、パニック状態になるとき、もちろんそこにはヒロイックな助け合いの出来事もあるでしょうが、同時に、先行きの見えない不安が生み出す疑心暗鬼と、心に潜む利己的な指向性が、自らの保身へと人を向かわせるとき、時に流言飛語に踊らされて暴力的な行為を生み出すことがあります。関東大震災の時にも、そのようなパニック状態の中で、朝鮮半島を始め他の地域出身の人たちへの暴力的な行動があったことは当時の裁判などの記録に残されており、人間の負の側面の表れとして、残念で悲しい出来事でありました。パニックになったときにこそ、互いに連帯して助け合う世界を実現しようとすることが、神の賜物である生命を守ることにつながります。歴史の中には、世界各地で、災害や戦争などのパニック状態が、人を暴力的な排除差別の行動に駆り立てる事例が記されています。同じことを繰り返してはなりません。そういった排除差別的暴力によって生命を奪われた多くの方々のために、心から祈り、同じ過ちを繰り返すことのないように学びを深め、互いに助け合うことを心に誓いたいと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第140回、年間第22主日メッセージの原稿です。

年間第22主日A
週刊大司教第140回
2023年9月03日

今年の夏は、例年以上の早くから台風の影響があり、特にお盆の帰省時期に台風が重なって交通機関に影響が出たりしました。まだ台風シーズンは終わっていませんから今後どうなるか想像もできませんが、これまでのこの夏の洪水や土砂災害の被害を受けられた方々には、心よりお見舞い申し上げます。

線状降水帯という言葉も、少し前までは集中豪雨などと言っていましたが、だんだんと耳に慣れてきました。わたしは30年くらい前に、赤道直下のアフリカのガーナで働いていましたが、日本で言う夏はちょうどガーナでは雨期でありました。雨期と言っても朝から晩まで降っていることはなく、午後2時過ぎくらいから、やにわに雲が沸き立ち、すさまじいスコールが降ったり風が吹き荒れたりしたものです。確かにこの数年、日本の気候は荒々しくなり、まるでかつてのアフリカのような気候になりました。いわゆる温暖化による気候変動の結果、なのでしょう。

気候変動の様々な影響が語られ、その原因が様々に取り沙汰される中で、2015年、教皇フランシスコは「ラウダート・シ」という文書を発表されました。この文書の副題は、「ともに暮らす家を大切に」とされています。広く環境問題に取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託された自然界を、養い育てる責務を果たすことにつながり、それは信仰上の責務でもあると強調されました。

教皇様は、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」とさだめ、日本では9月の第一の日曜日にこの祈願日を定めています。またアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の期間として、「被造物の季節」と定められました。

ここで教皇フランシスコが強調されるエコロジーへの配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めようとかいう単独の課題にとどまりません。「ラウダート・シ」の副題が示すように、課題は「ともに暮らす家を大切に」することです。それは、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に、ひとり一人が真摯に向き合うことに他なりません。

日本の教会は同じ期間を、さらに視点を広げて、「すべてのいのちを守る月間」として、司教団のラウダート・シ・デスクが、様々な活動を呼びかけています。

環境への配慮をすることは、いまわたしたちが享受している生活を変えていくことを意味しているため、容易なことではありません。しかし、神がこの世界を創造し守り育み管理するようにとわたしたちに託した意図を考えれば、福音にあったように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」とわたしたちも主から叱責されるものであるのは間違いありません。

主イエスが、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」といわれるとき、それは苦行を強いているのではなく、神様の計画を最優先に考えて、人間の都合を捨て去るように求めておられるに違いありません。

 

 

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