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2023年9月16日 (土)

秋田の聖母の日@聖体奉仕会

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久しぶりに、秋田の聖体奉仕会修道院を会場に、秋田の聖母の日が行われ、東京から出発した17名ほどの巡礼団とともに、参加してきました。今回は、地元の成井司教様を始め、大阪の酒井司教様とわたしの三名の司教と、秋田地区などで働く司祭6名が参加して、一般の参加者も150名を超えていました。久しぶりに集まって祈りを捧げることができて、感謝です。

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この秋田の聖母の日が始まったきっかけは、2013年10月に、ローマ教区が主催して世界各地の聖母巡礼所を中継で結んだロザリオの祈りに参加したことでした。当時のことはこちらに記してありますし、当時のビデオもまだ見られますので、ご覧ください。リンク先の当時の司教の日記の一番下にビデオが貼り付けてあります。(ビデオ内で秋田が登場するのは、1時間55分あたりです)10月12日の夜に始まり、時差の関係で徹夜で祈りをささげ、翌日のミサで締めくくった集まりには、海外も含め各地から多くの方が参加されました。当時の日記には、事前申し込みは800人ほどでしたが、当日はそれ以上に人が聖体奉仕会に集まったと記されています。

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この行事に触発されて、翌年2014年から、9月14日の十字架称賛と15日の悲しみの聖母の両日、聖体奉仕会で「秋田の聖母の日」と名付けた祈りの集いを開催してきました。それ以来、毎年、国内外から、多くの方が参加してくださっています。また秋田地区の神言会司祭団も、協力してくださっています。わたしは17年に新潟教区から東京教区に移っても、毎年この行事には参加しておりましたし、それに併せて巡礼も行ってきました。

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残念ながら感染症の状況のため、2019年の集まりを最後に、オンラインでの開催が続いてきましたが、今年は久しぶりに集まることができました。十字架の道行きは個別に行われ、東京発の巡礼団も午前中にゆっくりと庭での十字架の道行きをすることができました。そして皆で集まってのロザリオの祈りでは、酒井司教様が講話をしてくださり、聖体礼拝では成井司教様の講話、そして悲しみの聖母の祝日ミサはわたしが司式させていただきました。

15日の夜は、羽田空港で雷雨があったようで、秋田便が欠航となり、東京から出発した巡礼団は慌てましたが、企画した信徒の旅行社パラダイスの豊富な危機経験と聖体奉仕会の助力のおかげで、秋田市内に宿を確保でき、巡礼団も無事に翌朝東京へ向かいました。

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みなさんご苦労様でした。企画運営してくださったみなさん、ありがとう。参加してくださったみなさん、感謝します。

以下、ミサでのわたしの説教の原稿です。なお前日、十字架賞賛の祝日のミサでの説教は、原稿はありません。

秋田の聖母の日
2023年9月15日
聖体奉仕会聖堂

3年以上に及ぶ感染症による混乱の中、目に見えないウィルスと対峙してきたわたしたちは、これから先に一体どんな未来が待ち受けているのかという、これまでであれば抱くことのなかったような先行きの見通せない不安の闇に引きずり込まれ、まるでその暗闇の中を手探りで歩いているような状況が続きました。具体的に目に見える危険が迫っているのであれば、様々に対処する方法も考えられて心の安心を得ることもできるのでしょうが、目に見えない存在がどのような影響を具体的に及ぼすかが良くわからないという状況は、わたしたちを疑心暗鬼の闇に引きずり込みました。 この秋田での、恒例となっていた秋田の聖母の日の巡礼も、そのような状況の中で集まることができず、開催することが難しい状態が続いていました。今年、こうやってみなさんと一緒にこの聖堂に再び集まり、聖母マリアの生きる姿勢に倣い、その霊性に学び、聖母の取り次ぎを求めてともに祈ることができるようになったことは、大変喜ばしいことだと思います。

みなさん、聖母とともに、ともに祈りを捧げるために、この秋田の地まで、良くおいでくださいました。

今年はさらに、夏の大雨もあり、秋田市内では聖霊高校なども洪水の被害に遭い、聖体奉仕会の近くでは土砂崩れも起こりました。大きな災害に見舞われ、まだまだ普段の生活を取り戻すには時間がかかる状況の中、今年の秋田の聖母の日を、予定通りに開催するために奔走してくださった聖体奉仕会のみなさんと協力者のみなさんに、心から感謝申し上げます。

先の見通せない不安の暗闇ということを考えるとき、聖母マリアご自身が、まさしくそういった不安に囲まれて人生を歩まれたことを思い起こさざるを得ません。

ルカ福音には、シメオンがマリアに語った言葉が記されていました。シメオンはその中で、幼子イエスについて、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と宣言します。天使のお告げを受け、救い主の母となることを知らされ、その驚きの告知を謙遜の心で、「お言葉通り、この身になりますように」と受け入れたマリアは、あらためてシメオンの口を通じて、まさしくその幼子こそが神の救いそのものであることを告知されます。この知らせに対するマリアとヨセフの素直な驚きを、「幼子について言われたことに驚いていた」と福音は記しています。

そしてマリアに対してシメオンは、その驚きにさらに追い打ちをかけるように、イエスの将来について「反対を受けるしるしと定められています」と驚きの事実を告げ、加えて「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と、マリア自身も苦しみの道を歩むことになる事実が告げられます。

この驚くべき告知の連続は、それこそマリアにとって、先行きの見えない大きな不安の闇となって襲いかかったことでしょう。しかしそれに立ち向かわれたマリアは聖母となりました。

聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

そこには、先行きが見えない不安による疑心暗鬼の闇に引きずり込まれる誘惑もあったことでしょう。イエスの弟子たちがそうであったように、苦しみの道を否定しようとする誘惑もあったことでしょう。そのようなことはあり得ませんと、反論したくなる誘惑もあったことでしょう。

それらはまさしく、イエスご自身がペトロを叱責された、「サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉に明らかなように、神の計画を無にしようとする悪の誘惑です。

聖母マリアは、しかしその誘惑と不安に立ち向かわれました。神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる方々との連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。

今日の福音は、聖母がその苦しみの道を一人孤独に歩んでいたのではないことを明確にします。そこにはシメオンのように、神の計画を知り、その神の計画に身を委ねるようにと励ます具体的な存在がありました。そしてもちろん天使のお告げの言葉、すなわち「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」、そして「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」というお告げの言葉における約束は、聖母にとって、救い主ご自身が常に道をともに歩んでくださるという確信を与えました。神のみ旨を識別しながら、ともに歩む信仰の道。まさしくいま教会が歩んでいるシノドスの道を最初に歩まれたのは、聖母マリアであります。

わたしたちが、感染症などの困難に直面し、怖じ気づき、疑心暗鬼の心が自己保身に走らせ、利己的な心は他者の必要に目をつぶらせ、心を安定させるために異質な存在を排除しようとするとき、聖母の生きる姿を思い起こさないわけにはいきません。わたしたちの信仰は、神の計画に信頼し、互いに助け合い、ともに歩んでくださる主に信頼しながら謙遜に身を委ねる信仰です。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりで、聖母マリアについて語っています。教皇は、「マリアは、福音を述べ伝える教会の母です」と記しています。

教皇は聖母の生きる姿勢を、「常に気をくばる友」、「あらゆる苦しみを理解される方」、「正義を生み出すまで産みの苦しみを味わうすべての民の希望のしるし」、「人に手を貸すために自分の村から急いで出かける方」などと記して、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と述べておられます。

この混乱の時代、聖母の生きる姿勢に倣い、さまざまに飛び交う言葉に踊らされることなく、神が望まれる世界の実現の道を見極めるために、祈りと黙想のうちに賢明な識別をすることができるように、聖霊の導きを祈り、またその導きに従う勇気を祈り願いたいと思います。

この先行きの読めない不安な時代に、そして連帯と助け合いが必要なこの時代に、あたかもそれに逆らうかのように、尊い賜物であるいのちをないがしろにするように、例えばウクライナでは戦争が続いています。世界各地で、いのちを危機に直面させるような状況が続いています。

神の母である聖母マリアは、信仰に生きるわたしたちすべての母でもあります。聖母は、いのちをないがしろにすることやいのちに対する攻撃をすることではなく、その尊厳を守り、育み、始まりから終わりまで徹底的にいのちを守り、神のみ旨に生き続けることの重要さをその姿で示しています。この困難な時代に生きているからこそ、聖母の生きる姿勢に倣い、神の計画に身を委ね、ともに歩んでくださる主に信頼し、神のみ旨の実現のために尽くして参りましょう。

 

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