主の降誕、クリスマス、おめでとうございます。
暗闇の中で誕生した幼子は、闇に差し込む一筋の光です。その光はいのちを生きる希望の光です。ご自分の似姿として人を創造することで、神はわたしたちのいのちに尊厳を与えられました。そして幼子イエスとして誕生することで、その尊厳をさらに明確にされました。わたしたちには、この尊厳あるいのち、神が愛を込めて創造されたいのちを守る務めがあります。
暴力が荒れ狂う現代社会にあって、とりわけ戦争や紛争という力の暴力に巻き込まれ、いま、多くのいのちが危機に直面しています。いのちが守られないところに神の平和はありません。だからこそ、いま、希望の光が必要です。誕生した幼子が輝かせた、神のいのちの希望が必要です。
いのちへの暴力を捨て去り、神の平和が確立されるよう、クリスマスにあたって祈りましょう。
2023年のクリスマス、12月24日の午後、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、主の降誕の夜半のミサとして三回のミサが捧げられました。夕方5時はアンドレア司教様、7時は天本神父様、そして9時をわたしが司式しました。そのミサもネット配信され、関口教会のYoutubeからご覧いただけます。
午後5時が一番たくさんの方に来ていただいたと思います。予備の椅子も出して、大聖堂は一杯でした。ミサにおいでになった、洗礼を受けておられない多くの方に、祝福と守りがありますように。すこしでも、神の愛が伝わったであろうと信じています。その愛を、社会の中で花開かせてください。
以下、12月24日午後九時のミサの説教原稿です。
主の降誕(夜半)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年12月24日
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」
お集まりの皆さん、主の降誕、おめでとうございます。
主イエスの誕生を記念し、救い主が人となられ、わたしたちのうちにお住みになられ、人としての時の流れの中での歩みを共にしてくださったことを喜び、感謝するこの降誕祭に、その出来事が起こった聖なる地で、一体何が起きているでしょうか。
神の御言葉が人となられ、平和の君がわたしたちと共にいてくださり、直接語りかけてくださったその聖なる地で、多くのいのちが暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは二万人に迫るいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。一体どうしたら長年にわたるこの対立が終結し、聖なるこの地に神の平和が訪れるのか、わたしたちにはその道すら見えません。そこには長い歴史的背景があり、その歴史の流れの中で培われた相互不信があり、同時に、世界の様々な国家がその背後でうごめき合っているのもよく知られています。簡単に解決策は見いだされないというのは誰しもが感じているところでありますが、しかし、あたかも暗闇に包まれているかのような聖なる地の現状を目の当たりにして、何もしないでいることもできません。
12月17日、教皇様はバチカンにおけるお告げの祈りの際に、前日16日にガザ地区の聖家族教会で二人の女性が射殺された事件について触れ、次のようにのべられています。
「狙撃兵によって、母と娘、ナヒダ・カリル・アントンさんと、娘のサマル・カマル・アントンさんが殺害され、他の人々は負傷しました。彼らは手洗いに行く途中でした。マザー・テレサの会の修道院では、発電機が破壊され、修道院は被害を受けました。「これがテロリズムだ。これが戦争なのだ」という人がいるかもしれません。そうです。これが戦争です。テロリズムです。だからこそ、聖書はこう強調するのです。「神は戦いを絶ち…弓を砕き、槍を折られる」(参照 詩編46,9)。平和のために主に祈りましょう」
2020年から3年以上にわたり、世界は感染症による大混乱の中にありました。一時は、多くの人が、いのちの危機を肌で感じ、実際にいのちを落とされた方も多数おられます
教皇フランシスコは、互いに連帯し支え合うことがこの危機から抜け出す唯一の道であることを、混乱がはじまった当初から繰り返し述べてこられました。
しかしこの3年間、世界で起こっているのは一体なんでしょう。それは互いに支え合い連帯することではありません。
その中でも一番大きな衝撃を与えたのは、ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争です。未だにその終結の道が見えません。クーデターが発生したミャンマーはどうでしょう。ミャンマーの教会は、長年にわたって東京教区とケルン教区が一緒になって支え連帯するパートナー教会です。そのミャンマーではいまに至るも平和の糸口が見いだせず、この数ヶ月は、平和を求めて声を上げる教会を敵対勢力に加担する者と見なして、軍事政権側による武力を持っての攻撃が起こり、多くのいのちが危機にさらされています。
数日前にこの聖堂で行われた東京教区の新しい補佐司教であるアンドレア司教様の叙階式には、ミャンマーの司教様たちを代表して、レイモンド司教様がおいでになっておられました。司教様とゆっくり話をする時間があり、ミャンマーの現状をいろいろとお聞きしました。軍隊は目に見えないが、空爆によって多くのいのちが危機にさらされている状況をお話くださった後に、司教様は「世界ではいろいろ起こっているけれど、わたしたちを忘れないでください」と強調されました。
その存在を忘れさられ、孤独のうちに取り残されるとき、人はいのちを生きる希望を失います。世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいる、その声が耳に響いてくるように感じました。
教会は、人間のいのちは神からの賜物であると信じています。聖書の冒頭、創世記に記された天地創造の物語から、人のいのちには神の似姿としての尊厳があり、またそれは「互いに助け合う者」として創造されたと信じています。そうであるならば教会は、神からの賜物であるいのちを守り抜く存在として、社会の中で率先して共に歩む存在でありたいと思います。暴力を持っていのちを危機にさらす紛争が勃発する社会に対して、互いの尊厳をまもり、違いを尊重し、弱い存在を支え、声なき声に耳を傾け、誰ひとりとして排除されることなく、忘れ去られることのない世界を実現するために、共に歩みを続ける教会でありたいと思います。
10月4日に発表された環境に関する文書「ラウダーテ・デウム」の終わりに、教皇フランシスコは、「人間は、神に代わる存在になろうとするとき、自分自身の最悪の敵になる」と記しています。この世の権力に溺れ、神の存在を忘れたとき、その自分自身の選択が、結局のところ自らのいのちを危機にさらすような状況を招くのだと、教皇フランシスコは指摘されてます。
その上で教皇は、「本物の信仰は、人間の心を強めるばかりでなく、生き方を変え、わたしたちの目標を変え、他者への関わりや全被造界との関わりを照らし導いてくれることを、わたしたちは知っている」と記します(61)。暴力による対立ではなくて、連帯における支え合いを実現するためにも、わたしたちは生き方を大きく変える必要があります。それを心を回すと書いて、回心といいます。
わたしたちには、希望の光が必要です。暗闇を照らす光が必要です。その光に導かれるためには、謙遜になり、神の御手にすべてを委ねる勇気が必要です。そのためにもわたしたちの心を回し、神に向かおうとする努力、回心が必要です。
回心をするために、心に言い聞かせましょう。誕生された幼子が主イエスとしてその模範を示されたように、誰かを裁いたり、排除したり、いのちに対する暴力を働くのではなく、いつくしみと愛を持って互いに支え合い、慰め合い、歩みを共にしましょう。誕生された幼子は、暗闇に輝く光です。その光は、喜びと希望を生み出す光です。その光はわたしたちを、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会い」へと導いてくれる光です。この輝く光には、いのちの希望があります。なぜならばこの輝く光は、いのちそのものであり、いのちを賜物として創造された神の愛といつくしみそのものであり、わたしたちを包み込む神のことばそのものであります。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」
飼い葉桶に寝かされた幼子の前に佇み、その小さないのちに込められた神の愛といつくしみに思いを馳せましょう。賜物であるいのちには希望があります。喜びがあります。その希望と喜びを、多くの人たちに分け与えてまいりましょう。