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2023年12月30日 (土)

週刊大司教第149回:聖家族の主日

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2023年の最後の日は日曜日となり、教会はこの日、聖家族の主日を祝います。

一年の終わりにあたり、東京教区の皆さまに心から感謝申し上げます。皆さまのお祈りに支えられて、一年間、教区の司牧や運営にあたることができました。また今年は年末に、補佐司教が誕生しました。新しい年には、わたしとアンドレア司教様と一緒に、教区で働いてくださる司祭修道者、そして信徒のみなさんとともに、東京教区の宣教と司牧の一層の充実のために取り組んで参りたいと思います。この一年の皆さまのお祈りとご協力に感謝すると共に、新しい年、2024年にあっても、今年と同様に、霊的に歩みを共にしていただければと思います。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第149回、聖家族の主日のメッセージ原稿です。

聖家族の主日
週刊大司教第149回
2023年12月31日

2023年の最後の日は、日曜日となりました。この一年を締めくくる最後の日は、聖家族の主日です。わたしたちと共にいてくださる神は、人となられ、家族のうちに誕生されました。

教皇フランシスコは使徒的勧告「愛のよろこび」において、「ナザレの、人間の家庭へのみことばの受肉は、その新しさによって世界の歴史を揺り動かします(65)」と記しています。教皇様は、第二バチカン公会議の教会憲章が「家庭の教会」という言葉を使って信仰者の家庭に聖なる意味と価値があることを再確認し、「家庭が健全であることは、世界と教会の将来にとって、決定的に重要なことです(31)」と記します。

同時に教皇様は、そうは言いながらも、「今日の家庭の現実に、それが置かれているあらゆる複雑さを含め、光の面も影の面も見ています(32)」と記し、様々な危機に直面して崩壊している家庭の課題にも触れています。その上で教皇様は、「家庭が、いのちが生まれ、育まれる、いのちの聖域であるならば、そこが、いのちを否定し、破壊する場になってしまうという事態は、恐るべき矛盾である(83)」と強調されます。

いのちが否定され破壊される環境とは何でしょう。しばしば耳にする家庭内の暴力や虐待によって、子どもたちのいのちが危機にさらされている状況もその一つです。同時に教皇様は、移民や難民となること、戦争や紛争に巻き込まれること、貧困や劣悪な環境に放置されることも、家庭においていのちが否定され危機にさらす環境であることを指摘されます。わたしたちの国においても、様々な要因が複雑に絡み合う中で、家庭の崩壊や、家庭におけるいのちの危機が現実の課題として存在しています。

わたしたちには、いのちをコントロールする権利は与えられていません。それは、唯一、いのちの創造主である神の手の中にのみある権利です。

この一年を振り返るとき、世界各地では紛争状態の中でいのちが暴力的に奪われる状況が数多く見られ、その中で特に、大切にされ豊かに育まれなくてはならない子どもたちのいのちが暴力的に奪われる事態も発生しています。とりわけこの降誕祭の期間、わたしたちは神の言葉が人となられた聖地において、いのちを奪う暴力が吹き荒れていることを憂慮せざるを得ません。

また貧富の格差が拡大する中で、さらには環境が破壊される中で、家庭の存続が危うくなり、守られるべき幼子たちのいのちが危機に直面する事態も広く見られます。

一年を締めくくるこの日、神が人となられ、ナザレの聖家族のもとに誕生されたことを思い起こしましょう。その家庭でイエスが30年間、豊かに育まれたことを思い起こしましょう。いのちを否定し、破壊するあらゆる状況に、勇気を持って立ち向かうことができるように、聖霊の導きを願いましょう。 新しい年が、豊かに祝福された一年となりますように。

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2023年12月25日 (月)

主の降誕、おめでとうございます

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主の降誕、クリスマス、おめでとうございます。

暗闇の中で誕生した幼子は、闇に差し込む一筋の光です。その光はいのちを生きる希望の光です。ご自分の似姿として人を創造することで、神はわたしたちのいのちに尊厳を与えられました。そして幼子イエスとして誕生することで、その尊厳をさらに明確にされました。わたしたちには、この尊厳あるいのち、神が愛を込めて創造されたいのちを守る務めがあります。

暴力が荒れ狂う現代社会にあって、とりわけ戦争や紛争という力の暴力に巻き込まれ、いま、多くのいのちが危機に直面しています。いのちが守られないところに神の平和はありません。だからこそ、いま、希望の光が必要です。誕生した幼子が輝かせた、神のいのちの希望が必要です。

いのちへの暴力を捨て去り、神の平和が確立されるよう、クリスマスにあたって祈りましょう。

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2023年のクリスマス、12月24日の午後、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、主の降誕の夜半のミサとして三回のミサが捧げられました。夕方5時はアンドレア司教様、7時は天本神父様、そして9時をわたしが司式しました。そのミサもネット配信され、関口教会のYoutubeからご覧いただけます。

午後5時が一番たくさんの方に来ていただいたと思います。予備の椅子も出して、大聖堂は一杯でした。ミサにおいでになった、洗礼を受けておられない多くの方に、祝福と守りがありますように。すこしでも、神の愛が伝わったであろうと信じています。その愛を、社会の中で花開かせてください。

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以下、12月24日午後九時のミサの説教原稿です。

主の降誕(夜半)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年12月24日

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

お集まりの皆さん、主の降誕、おめでとうございます。

主イエスの誕生を記念し、救い主が人となられ、わたしたちのうちにお住みになられ、人としての時の流れの中での歩みを共にしてくださったことを喜び、感謝するこの降誕祭に、その出来事が起こった聖なる地で、一体何が起きているでしょうか。

神の御言葉が人となられ、平和の君がわたしたちと共にいてくださり、直接語りかけてくださったその聖なる地で、多くのいのちが暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは二万人に迫るいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。一体どうしたら長年にわたるこの対立が終結し、聖なるこの地に神の平和が訪れるのか、わたしたちにはその道すら見えません。そこには長い歴史的背景があり、その歴史の流れの中で培われた相互不信があり、同時に、世界の様々な国家がその背後でうごめき合っているのもよく知られています。簡単に解決策は見いだされないというのは誰しもが感じているところでありますが、しかし、あたかも暗闇に包まれているかのような聖なる地の現状を目の当たりにして、何もしないでいることもできません。

12月17日、教皇様はバチカンにおけるお告げの祈りの際に、前日16日にガザ地区の聖家族教会で二人の女性が射殺された事件について触れ、次のようにのべられています。

「狙撃兵によって、母と娘、ナヒダ・カリル・アントンさんと、娘のサマル・カマル・アントンさんが殺害され、他の人々は負傷しました。彼らは手洗いに行く途中でした。マザー・テレサの会の修道院では、発電機が破壊され、修道院は被害を受けました。「これがテロリズムだ。これが戦争なのだ」という人がいるかもしれません。そうです。これが戦争です。テロリズムです。だからこそ、聖書はこう強調するのです。「神は戦いを絶ち…弓を砕き、槍を折られる」(参照 詩編46,9)。平和のために主に祈りましょう」

2020年から3年以上にわたり、世界は感染症による大混乱の中にありました。一時は、多くの人が、いのちの危機を肌で感じ、実際にいのちを落とされた方も多数おられます

教皇フランシスコは、互いに連帯し支え合うことがこの危機から抜け出す唯一の道であることを、混乱がはじまった当初から繰り返し述べてこられました。

しかしこの3年間、世界で起こっているのは一体なんでしょう。それは互いに支え合い連帯することではありません。

その中でも一番大きな衝撃を与えたのは、ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争です。未だにその終結の道が見えません。クーデターが発生したミャンマーはどうでしょう。ミャンマーの教会は、長年にわたって東京教区とケルン教区が一緒になって支え連帯するパートナー教会です。そのミャンマーではいまに至るも平和の糸口が見いだせず、この数ヶ月は、平和を求めて声を上げる教会を敵対勢力に加担する者と見なして、軍事政権側による武力を持っての攻撃が起こり、多くのいのちが危機にさらされています。

数日前にこの聖堂で行われた東京教区の新しい補佐司教であるアンドレア司教様の叙階式には、ミャンマーの司教様たちを代表して、レイモンド司教様がおいでになっておられました。司教様とゆっくり話をする時間があり、ミャンマーの現状をいろいろとお聞きしました。軍隊は目に見えないが、空爆によって多くのいのちが危機にさらされている状況をお話くださった後に、司教様は「世界ではいろいろ起こっているけれど、わたしたちを忘れないでください」と強調されました。

その存在を忘れさられ、孤独のうちに取り残されるとき、人はいのちを生きる希望を失います。世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいる、その声が耳に響いてくるように感じました。

教会は、人間のいのちは神からの賜物であると信じています。聖書の冒頭、創世記に記された天地創造の物語から、人のいのちには神の似姿としての尊厳があり、またそれは「互いに助け合う者」として創造されたと信じています。そうであるならば教会は、神からの賜物であるいのちを守り抜く存在として、社会の中で率先して共に歩む存在でありたいと思います。暴力を持っていのちを危機にさらす紛争が勃発する社会に対して、互いの尊厳をまもり、違いを尊重し、弱い存在を支え、声なき声に耳を傾け、誰ひとりとして排除されることなく、忘れ去られることのない世界を実現するために、共に歩みを続ける教会でありたいと思います。

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10月4日に発表された環境に関する文書「ラウダーテ・デウム」の終わりに、教皇フランシスコは、「人間は、神に代わる存在になろうとするとき、自分自身の最悪の敵になる」と記しています。この世の権力に溺れ、神の存在を忘れたとき、その自分自身の選択が、結局のところ自らのいのちを危機にさらすような状況を招くのだと、教皇フランシスコは指摘されてます。

その上で教皇は、「本物の信仰は、人間の心を強めるばかりでなく、生き方を変え、わたしたちの目標を変え、他者への関わりや全被造界との関わりを照らし導いてくれることを、わたしたちは知っている」と記します(61)。暴力による対立ではなくて、連帯における支え合いを実現するためにも、わたしたちは生き方を大きく変える必要があります。それを心を回すと書いて、回心といいます。

わたしたちには、希望の光が必要です。暗闇を照らす光が必要です。その光に導かれるためには、謙遜になり、神の御手にすべてを委ねる勇気が必要です。そのためにもわたしたちの心を回し、神に向かおうとする努力、回心が必要です。

回心をするために、心に言い聞かせましょう。誕生された幼子が主イエスとしてその模範を示されたように、誰かを裁いたり、排除したり、いのちに対する暴力を働くのではなく、いつくしみと愛を持って互いに支え合い、慰め合い、歩みを共にしましょう。誕生された幼子は、暗闇に輝く光です。その光は、喜びと希望を生み出す光です。その光はわたしたちを、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会い」へと導いてくれる光です。この輝く光には、いのちの希望があります。なぜならばこの輝く光は、いのちそのものであり、いのちを賜物として創造された神の愛といつくしみそのものであり、わたしたちを包み込む神のことばそのものであります。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

飼い葉桶に寝かされた幼子の前に佇み、その小さないのちに込められた神の愛といつくしみに思いを馳せましょう。賜物であるいのちには希望があります。喜びがあります。その希望と喜びを、多くの人たちに分け与えてまいりましょう。

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2023年12月23日 (土)

週刊大司教第148回:待降節第四主日B

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まもなく降誕祭です。

今年は待降節第四主日が12月24日のため、待降節第四週は一日しかありません。典礼の暦上、日没後は翌日ですから、24日の夜に主の降誕をお祝いします。

寒い毎日が続いており、わたしも司教叙階式あたりから喉の調子を崩し、今週は体調不良が続いていました。明日、24日の東京カテドラル聖マリア大聖堂は、午後5時がアンドレア・レンボ司教様司式、午後7時が天本神父様司式、午後9時が大司教司式ミサとなります。なおこの日、カテドラル構内は駐車ができませんので、公共交通機関でおいでください。有楽町線江戸川橋、または護国寺、山手線目白駅からバスで椿山荘前まで15分ほどです。

毎年、この時期になると、フィリピンではSimbang Gabiと呼ばれる、クリスマスに向けたノベナ(9日間の祈り)のミサが捧げられると言います。フィリピンでは早朝に行われているのだそうです。東京でもこのミサが、フィリピン出身お方が多い地域で捧げられています。日本の社会事情を考慮して、このミサは夕方に行われるところが多いと聞いています。わたしも毎年、そのうちの一つである目黒教会捧げられるミサの一回を担当させていただいています。例年は最初の日のミサを司式することが多かったのですが、今年は補佐司教の叙階式日程などもあり、12月20日の夜7時からのミサを司式いたしました(冒頭の写真)。ミサは英語です。音楽担当の奉仕者の方も素晴らしい歌を聴かせてくださり、そのほか司会、朗読や侍者など、多くの奉仕者の方の協力でミサは成り立っています。これからも続けられることを願うと共に、日本の教会でも同じように、降誕祭前の9日間の祈りのミサを、日本なりに捧げることができれば良いと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第148回、待降節第四主日のメッセージ原稿です。

待降節第四主日B
週刊大司教第148回
2023年12月24日

まもなく主の降誕のお祝いです。今年は24日が日曜となったため、待降節第四週は一日で終わってしまいます。今日の福音は、天使によるお告げの部分ですが、神の一人子が人となりわたしたちと共にいてくださるためには、聖母の強い信仰と謙遜さが不可欠であったことを教え、またわたしたちがそれに倣うようにと勧めています。

マリアは「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という言葉を持って、神の母となりました。天使ガブリエルからのお告げに対して、マリアは「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と言う、強い否定の言葉を口にします。そこにはこの理不尽な出来事に対するマリアの困惑の度合いが感じられます。しかしマリアは、「神に出来ないことはなに一つない」と言う天使の言葉に信頼を置き、神の計画にその人生をゆだねることを決意します。

聖母マリアの決断は、この世界を支配しているのは人間ではなくて、世界を創造された神であるという、明確な謙遜の態度と信仰における確信に基づいています。

この世界を支配しているのは一体誰なのか。現代社会は大きな思い違いをしています。世界を支配するのは人間の知恵と知識ではなく、創造主である神であり、わたしたちは常にその計画の中で生かされているのだという事実を忘れ、あたかもこの世界のオーナーであるかのように振る舞っています。その結末が環境の破壊であり、いのちへの暴力的な攻撃です。聖母マリアがお告げを受けたその地、聖地は、いま暴力によって支配され、神の賜物であるいのちが暴力的に奪われる不正義が横行しています。その世界に対して、聖母マリアはご自分の人生を通じて、この世界を支配するのは創造主である神であることを明確に宣言しています。

聖母マリアに倣い、神の計画の実現のために身を委ね、その実現のために行動することが、わたしたちには求められています。それはわたしたちも聖母マリアのように、「神に出来ないことは何一つない」という信仰に生きているからに他なりません。平和を諦めてはなりません。

聖母マリアがその胎にイエスを宿したように、教会も、主ご自身が「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と言われた約束を信じ、教会にキリストが共におられ、歩みを共にしておられることを信じています。

 

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2023年12月16日 (土)

週刊大司教第147回:待降節第三主日B

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12月16日はアンドレア司教様の司教叙階記念日となりましたが、同時にわたし自身にとっても、2017年に東京大司教として着座した記念日です。どうか、わたしたち東京教区の司教がふさわしく務めを果たすことができるよう、お祈りくださいますようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第147回、待降節第三主日メッセージ原稿です。

待降節第三主日B
週刊大司教第147回
2023年12月17日

待降節の後半は、主の降誕を待ち望む準備の時期に当てられます。主の降誕の出来事を黙想するとき、どうしてもわたしたちは、10月頃からはじまった聖地での暴力的な混乱を思わずにはいられません。

今年の10月頃から始まったイスラエルによるガザ攻撃は、「聖地」の現実を象徴しており、それは偶発的出来事ではなく、長い歴史を背負った人類の悲劇の一つであり、いくたびも繰り返されてきた悲劇でもあります。

神の言葉が人となられ、人間のいのちの尊厳を神があらためて示されたその地において、いのちを暴力的に奪い合う紛争は、どのような理由があっても正当化することはできません。あらためて、いのちを守ることを優先するように呼びかけたいと思います。

聖地の混乱の原因に関して、忘れられない体験があります。カリタスジャパンの視察でエルサレムを初めて訪れた2000年7月末のことでした。イスラエルが管理する西エルサレムで、パレスチナ人の知人が、「是非とも見せたいものがある」と、ある一軒の家に連れて行ってくれました。その家の住人に声をかけるでもなく庭まで入り込み、一本の木を指さし、「この木は、わたしの父親が生まれた記念に、祖父母が植えた木だ。ここは私たちの家だったんだ。1947年以前に戻らない限り、何も解決しない」とつぶやかれました。

1947年11月29日、国連総会はパレスチナの分割を決議し、そして1948年のイスラエル建国、さらにはそれに引き続いた第一次中東戦争。その混乱の中で、当時70万人に及ぶパレスチナ人が住む家を失い難民となったと記録されています。現在のパレスチナ難民の始まりでした。知人の父親もその一人でありました。

イエス・キリストの誕生という、いのちの尊さに思いをはせるこの時期、「聖地」を支配するのがいのちを奪う暴力であることほど、悲劇的なことはありません。

神のひとり子であるイエスは、常にわたしたちと共におられる神、インマヌエルであります。その共におられるイエスは、神の「ことば」そのものであります。人となられた神のことばは、闇の中を歩む民を照らす希望の光です。生きる希望を生み出す存在です。その光は、神のいつくしみそのものでもあります。

福音は、洗礼者ヨハネが、その光の先駆者として、光をあかしするために使わされたと記します。「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫ぶ声であると記します。今こそ、洗礼者ヨハネの存在が必要です。暗闇にあって輝くいのちの光をあかしし、進むべき道を指し示す声となる先駆者ヨハネが必要です。ヨハネは、わたしたちではないでしょうか。

 

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アンドレア・レンボ司教様叙階式

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東京教区の補佐司教として教皇様から任命されていたアンドレア・レンボ司教様の司教叙階式は、本日12月16日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われました。

叙階式には、日本の司教団全員に加え、姉妹教会であるミャンマーのバモー(Banmaw)教区からレイモンド司教様もおいでくださいました。またイタリアからは、アンドレア司教様のご家族と出身小教区の主任司祭もおいでになりました。

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アンドレア司教様、おめでとうございます。そしてこれから一緒に働いていきましょう。

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以下、叙階式ミサの説教原稿です。

アンドレア・レンボ補佐司教様司教叙階式ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年12月16日

「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」

ヨハネ福音に記されたこの主イエスの言葉は、このたび東京教区の補佐司教として任命され、本日司教としての叙階を受けられるアンドレア・レンボ司教様のモットーが取られた言葉です。それは、今の時代を生きるわたしたちすべてが耳を傾けなくてはならない、神ご自身の叫びともいえる願いが込められている言葉です。

わたし自身が大司教として東京教区に着座したのは、ちょうど6年前の今日でした。東京都と千葉県を管轄するこの教区には、全体で二千万人を超える方々が居住され、世界各地から来られた外国籍の方も大勢おられます。その中で信徒の数は9万人ほどですから、すなわちまだまだするべきことは数え切れないほどあります。教会として向き合わなくてはならない社会的課題も多々あります。これまでも教区の信徒の皆さん、修道者の皆さん、そして司祭団が、それぞれの場でできる限りのことに挑戦し、福音をあかしするための努力を積み重ねてきました。しかし、するべきことはまだ残されています。

6年の大司教としての務めの中で実感しているのは、信徒のみなさんとともに、修道者のみなさんとともに、そして司祭団と共に、先頭に立って歩みを共にする立場を、一人で背負うには、わたしの力では十分ではないということでありました。東京の大司教として着座してしばらくしてから、その時々の教皇大使を通じて、聖座に補佐司教の任命をお願いして参りましたが、正直に言ってやっとの事で、教皇様からアンドレア・レンボ司教様が任命されました。多くの皆さまに、補佐司教誕生のためにお祈りをお願いしてきたところですが、ふさわしい人物が任命されることになったのも、皆さまのお祈りのおかげです。心から感謝いたします。

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教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的勧告「神の民の牧者」の冒頭部分に、「世に向けて希望を告げ知らせることは、すべての司教の務めです」と記しておられます(3)。その上で教皇は、「司教は特別な意味で、希望を預言する者、希望をあかしする者、そして希望に仕えるものであることをその務めとしています」と記しています。

まもなく主の降誕を迎えようと準備を進めるこの待降節に、神の御言葉が人となられ、平和の君が誕生してわたしたちと共にいてくださり、わたしたちに直接語りかけてくださったその地、すなわち聖地で、いま一体何が起きているでしょう。すでにガザでは二万人に迫るいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。一体どうしたら長年にわたるこの対立が終結し、聖なるこの地に神の平和が訪れるのか、わたしたちにはその道すら見えません。あたかも聖なる地は、暗闇に包まれているかのようです。

わたしたちは、2020年から3年以上にわたって、世界的なパンデミックの中にあって、いのちの危機を肌で感じました。教皇フランシスコはパンデミックの当初から、互いに連帯し支え合うことがこの危機から抜け出す唯一の道であることを繰り返し述べてこられました。しかしわたしたちの眼前で展開してきたのは、連帯や支え合いではありません。ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争は、未だに終わりが見えません。クーデターが発生したミャンマーは、東京教区の姉妹教会ですが、そのミャンマーでは平和の糸口が見いだせず、この数ヶ月は、平和を求めて声を上げる教会に対して、武力を持っての攻撃が起こり、いのちが危機にさらされています。

具体的な闘いがなかったとしても、パンデミックによってもたらされた暗闇の不安や、実際の戦争状態がもたらす大きな不安、さらにはそれに伴う経済の混乱が、多くの人がまず自分の身を守ることを最優先に選択するようにさせています。もちろん自分を守ることは必要ですが、それが、パンデミック以前から教皇フランシスコが指摘されていた「無関心のグローバル化」と結びついたとき、社会全体を異質な存在を排除する排他的な世界へと変貌させていきました。

希望はいったいどこにあるのでしょう。神の平和は実現しないのでしょうか。

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教会はいまシノドスの道を歩み続けています。その歩みとは、去る10月の第一会期中にシノドス参加者から教会全体に向けて出された書簡「神の民への手紙」に記されているとおり、「すべての神の民に開かれ、誰一人排除されることなく、聖霊の導きのもと、イエス・キリストに従う宣教する弟子として「ともに旅する」ことへと向かう歩み」であります。そのためにも、共同体の交わりの中で、互いに耳を傾け合うこと、とりわけ、社会全体を支配する大きな声にかき消されそうになる小さな声に耳を傾け、支え、ともに歩もうとすることこそが、いのちを守る最も大切な道であると、教皇様もしばしば繰り返してこられました。

教会は、賜物であるいのちを守り抜く存在として、社会の中で率先して共に歩む存在でありたいと思います。暴力を持っていのちを危機にさらす社会の中で、互いの違いを尊重し、弱い存在を支え、支え合いながら、全体として前に向かって歩む教会でありたいと思います。

第二バチカン公会議は、教会とは、神との交わりと全人類の一致を目に見える形で表す存在として、世の光、地の塩として、いのちと希望をもたらすためにこの世界に派遣されている神の民であると強調しています。わたしたちは一緒になって旅を続ける一つの民であり、その中心には主ご自身が常におられます。主とともに歩む神の民は、人類の一致の見えるしるしとして、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。

教皇フランシスコは2019年11月23日夜、東京の教皇庁大使館でわたしたち日本の司教団と一時を共にされ、わたしたち司教団にこう呼びかけられました

「司教とは、主によってその民の中から呼び出され、すべてのいのちを守ることのできる牧者として民に渡される者です。このことは、わたしたちが目指すべき現場をある程度決定してくれます。すべてのいのちを守るとは、まず、じっと見つめるまなざしをもつことです。それによって、神からゆだねられたすべての民のいのちを愛することができ、まさにその民に神から受けたたまものを見いだすのです」

アンドレア司教様、ともに歩むために、そして神の平和を確立するために、率先して愛を告げる牧者となられますように。支配する者ではなく、みなに仕える者として、歩みを共にする牧者でありますように。声なき声に率先して耳を傾け、社会のただ中で、「希望を預言する者、希望をあかしする者、そして希望に仕えるもの」でありますように。

新しく誕生する司教様の上に、いつくしみ深い神様の豊かな祝福と聖霊による導きが常にあるように、みなで共に祈り続けましょう。

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2023年12月 9日 (土)

週刊大司教第146回:待降節第二主日B

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待降節の第二主日となりました。

来週の土曜日には、東京教区に補佐司教が誕生します。ちょうど12月14日と15日には全国の司教が集まっての司教総会と研修会が東京で開催されますので、その翌日となる司教叙階式には、全国の司教様方が参加してくださる予定です。アンドレア・レンボ司教様のこれ方の働きのために、お祈りをお願いいたします。今後、わたしとアンドレア司教様とで行事などは分担していくことになります。その意味で、わたしにとっては、これまでしばしばあった、午前と午後の堅信式のダブルヘッダーはなくせるかと期待しています。なお東京教区の小教区にあっては、基本的に小教区からのリクエストに応じて訪問のスケジュールを組んでいきますので、主任司祭と小教区の役員の方などと相談の上、主任司祭から教区本部の司教秘書にご相談いただきますようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第146回、待降節第二主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第146回
2023年12月10日

いまこの世界に、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」と声をあげる預言者は存在しているでしょうか。世界を支配する神の招きに応え、神が与える使命に徹底的に生きる存在はどこにあるのでしょうか。

教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」の終わりに、「教会が目指しているのは、地上の権力者に対抗することではなく、むしろ『現代世界へ、信仰、希望、愛をあかしするために・・・開かれた、これこそが教会である家庭の中の家庭』として自らを示すことです」と記しています。(276)

その上で教皇は、「わたしたちは、仕える教会、家から出て行く、聖堂から出て行く、香部屋から出て行く教会になりたいのです。いのちに寄り添い、希望を支え、一致のしるしとなるために、橋を架け、壁を壊し、和解の種をまくためにです」と、教会が現代社会にあって、福音を目に見える形であかしすることの重要性を強調されています。

教会は神の民であるとする第二バチカン公会議の教会憲章は、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、特に信仰と愛の生活を通してキリストについて生きたあかしを広め、賛美の供え物、すなわち神の名を称える唇の果実を神に捧げることによって行われる(12)」としるし、現代社会にあって、教会が預言者的役割を果たしていくことの必然性を記しています。そしてわたしたちは、その神の民を形作る一員です。わたしたちひとり一人には、洗礼者ヨハネに倣って、荒れ野で声を上げる務めがあります。

教皇フランシスコは、聖性の道への招きは、特別な人だけへの呼びかけではなくすべてのキリスト者に向けられた呼びかけであることを強調されますが、同時に「教会が必要とするのは・・・まことのいのちを伝えることに燃えて献身する、熱い宣教者だ(138)」と記して、司祭や修道者の聖性の模範が信徒に先立つものとして重要であることも指摘されています。

教会は、聖性の道を歩む模範となる司祭や修道者を必要としています。洗礼者ヨハネのように、勇気を持って先頭に立ち、信仰における正論を声を上げてあかしするリーダーとしての司祭や修道者が必要です。

わたしたちは現代社会にあって、荒れ野の声となる務めを自らに再確認すると共に、率先して神の民を率いる司祭・修道者が誕生するように、祈り続けていきたいと思います。

 

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2023年12月 2日 (土)

週刊大司教第145回:待降節第一主日B

2023dec2

しばらくお休みさせていただいておりました週刊大司教を、待降節第一主日から再開いたします。

この間、東京教区ホームページに公示させていただいたとおり、11月8日、東京教区司祭が覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕され、さらに11 月29 日に、同東京教区司祭は覚醒剤取締法違反について処分保留のまま、別件の麻薬特例法違反の容疑で再逮捕されました。まだ捜査段階であり、逮捕容疑の詳細も詳らかではないため、詳細については現段階では逮捕の事実以上にお知らせできることがありません。教区司祭が法令違反を持って逮捕されるという事態をおもく受け止め、適正な捜査によって真相が明らかにされることを信じながら、捜査に全面的に協力して参ります。皆さまにご心配とご迷惑をおかけする事態となり、大変申し訳なく思っております。心よりお詫び申し上げます。今後、詳細が明らかにされた段階で、随時改めて皆さまにもお知らせして参ります。

以下、本日午後6時公開の、週刊大司教第145回のメッセージ原稿です。

待降節第一主日B
週刊大司教第145回
2023年12月03日

わたしたちのうちで誰ひとりとして、人生の終わりを免れるものはいません。それぞれの人生を、それぞれに与えられた時間の中で生きるとしても、必ず終わりがやってきます。

限りがある時間を生きていることをよく知っているにもかかわらず、わたしたちには対処するには困難がつきまといそうな問題への対処を先延ばしにしようとする傾向があります。しばしば、時間が解決してくれるなどと言って、将来の世代へと負の遺産を残してしまってはいないでしょうか。

教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」において、「もはや、世代間の連帯から離れて持続可能な発展を語ることは出来ません」と指摘されました。(159)

教皇はより良い世界を実現するためには、いま良ければそれでかまわないという刹那的な自己中心の考え方だけではなく、共通善に基づいて、将来世代への何を残していくのかという責任も視野に入れなくてはならないと、次のように指摘されます。

「わたしたちがいただいたこの世界は後続世代にも属するものゆえに、世代間の連帯は、任意の選択ではなく、むしろ正義の根本問題なのです。」(159)

わたしたちは、どのような世界を後世に残していこうとしているのでしょう。将来の世代との連帯という視点で考えたことがあるでしょうか。この課題に取り組むことは、いまの世界で生きる意味をあらためて問い直すことを意味しています。楽なことではありません。

2015年に「ラウダート・シ」を発表されて以来、教皇様は地球温暖化の問題や気候変動の問題に発言を繰り返してきました。しかし取り組みを先送りしようとする世界の動きに業を煮やし、この10月4日に「Laudate Deum(主を称えよ)」を発表され、具体的な取り組みの必要性と、政治に対する積極的な提言の必要性を強調されました。その上で、教皇様は、ドバイで開催される国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)に自ら出席されることを決意されました。

「目を覚ましていなさい」と言う主の呼びかけは、未来を見据えて、今を生きるわたしたちが、将来世代との連帯の中で、被造物の管理を任された僕としての責任ある行動をとることも求める呼びかけです。教皇様と共に地道に、連帯の必要性を呼びかけ、また自らも行動し続けたいと思います。

教会は12月の最初の主日を、宣教地召命促進の日と定めています。

この日わたしたちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。

もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派ですが、アジアのほぼ全体がいまでも宣教地です。その意味でも、日本を始めアジアにおける福音宣教を推進するために、さらに多くの働き手の存在は不可欠です。皆さまのお祈りをお願いいたします。

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