新年明けましておめでとうございます
皆さま、新年明けましておめでとうございます。
新しい年の始まりにあたり、皆さまの上に神様の豊かな祝福があるように、お祈りいたします。神の民の一員として、歩みを共にしてくださる皆さま、お一人お一人の上に、聖霊の導きと護り、祝福が豊かにありますように。
どうかこの一年も、シノドスの道を歩み続ける教会にあってそれぞれの場で福音をあかしされ、また教会のため、教皇様のため、教区のため、そして司教や司祭のために、お祈り続けてくださいますようにお願い申し上げます。同時に、一人でも多くの司祭や修道者が生み出されるように、召命のための祈りもどうかお願いいたします。
東京教区では、昨年12月16日にアンドレア補佐司教が誕生しました。アンドレア司教様には12月18日付けで、司教総代理に就任していただきました。今後、アンドレア司教様には総代理として、司祭団との窓口や小教区との窓口として、様々な役割を果たしていただきます。
これまで司教総代理を務められ教区のために司教を支え補佐してくださった稲川保明神父様に心から感謝いたします。稲川神父様には今後も、教区の法務代理として、また司教顧問のひとりとして、務めをお願いしています。
それでは2024年が、神の平和の実現する祝福に満ちた一年となりますように、祈り続けましょう。
以下、東京教区ニュースの新年号の冒頭に掲載してあります、年頭の司牧書簡の原稿を掲載いたします。
大司教司牧書簡
「つながり」の教会のために
2024年1月1日
東京大司教
タルチシオ 菊地 功はじめに
2017年12月に東京教区の司教として着座して以来、今年で7年目を迎えました。この間、様々な出来事がありましたが、わたしが牧者としての務めを果たすことができたのは、みなさんのお祈り、ご協力、そしてご支援のおかげです。東京教区の信徒のみなさん、修道者のみなさん、そして司祭団が、ともに歩んでくださったことを、こころから感謝しています。この7年間、わたしは「つながり」、あるいは「交わり」を大切にしようとしてきました。それは11年前の2015年に発表された教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』に触発されてのことです。
教皇様はこの文書で、いわゆる環境問題についての具体的な行動を求め、とりわけ「エコロジカルな回心」を求めておられます。しかし、よく読んでみると「つながっている」という表現が何度も登場します。「すべての被造物はつながっている」(42項)、「あらゆるものはつながっている」(117項)などです。
「関連」、「結びつき」、「つながり」、「統合的」といった、あるものとあるものを結びつけ、その関わりあいを示す言葉が回勅のキーワードとなっています。ですから回勅『ラウダート・シ』は環境問題に関する教会のメッセージにとどまるのではなく、現代社会が忘れている「つながり」をもう一度回復しようではないかという、信仰におけるメッセージともなっています。
わたしたちが洗礼の時にいただいた恵みをさらに豊かにするためには、「つながり」という視点からわたしたちの生き方と生活を見直す必要があります。
宣教司牧方針
2020年に『東京教区宣教司牧方針』を策定しました。これを策定するためには時間をかけ、広く皆さんから意見や活動の様子を教えていただきました。どの小教区共同体でも、それぞれの状況に応じて活動を工夫し、抱えている課題や困難に挑んでいる様子がよく分かりました。わたしは、こういった教会の生きている姿を、教区全体で分かち合いたいと考えました。また、同じような方向性を持っている活動や取り組みの「つながり」を作りたいとも考えました。一つひとつの行動は小さなものであっても、「つながり」を作ることで大きく、堅固なものになると信じているからです。また、教区全体の「つながり」の中で、皆でこころを一つにして祈ることは大切だと思ったからです。
そこで「つながり」を念頭に置いて、この『東京教区宣教司牧方針』を書きあげました。例えば、教区内のさまざまなグループがおこなっている「愛のわざ」が教区全体として統合できるようにと「教区カリタス」としてカリタス東京の設立を優先課題に盛り込みました。また、教区内の多くの外国籍の信徒の皆さんの「つながり」を強固なものとすることも記しました。孤立しがちなひとたち、とりわけ社会的弱者、社会的マイノリティーとの連携ができる小教区共同体となることを呼びかけました。さらには、長年の姉妹教会であり、現在も紛争の中で苦しんでいるミヤンマーの兄弟姉妹への援助もお願いしました。
すべては「つながり」という視点からです。教会においては、誰も一人で孤立して活動することはあり得ません。時間と空間を超えてつながっているのが、教会共同体です。2020年は新型コロナウイルス感染症の蔓延による、いわゆる「コロナ禍」が始まった年でした。パンデミックに影響され「つながり」が薄らぎつつある社会にあって、わたしたちの教区は神と人と、人と人の「つながり」を大切にするようにと努めてきました。『東京教区宣教司牧方針』をもう一度見直してみると、三分の二以上の項目において、この四年間で何らかの進展が見られます。特に、カリタス東京と教区カテキスタ制度の活動は目覚ましいものがあります。ここに関わってくださった方々に改めてお礼を申し上げます。
現代社会と教会
現代社会は「無関心」、「使い捨て」、「対立の文化」が顕著に見られます。個人を重視するあまり、逆に隣人への「無関心」が生まれます。自分の生活に精一杯で、他人に対してこころを砕くことが忘れられています。大量消費が経済の基調となっていますから「使い捨て」は当然なことです。使い捨てて、新しいものを購入するからです。物事の評価は役に立つか否かが基準となりますから、人間ですらも使い捨てられるようになります。人の集まりは分断されて「対立の文化」が生じます。生活の格差、経済の格差が生じて、格差の上にいる人々と下にいる人々は決して交わることはありません。このような現代社会にあっては、「わたしたち」という共同体の意識は生まれてきません。なぜなら「わたし」が世界の中心だからです。当然、「ともに」という思いも生まれません。「つながり」がないからです。
いつの間にか、こういった社会の風潮に教会も流されているように感じます。人と人との「つながり」が希薄になるということは、わたしたちキリスト信者の神との「つながり」にも影響をおよぼします。もしわたしたちが神との親密さを生きれば、当然、隣人との親密さも生きるようになるはずです。なぜならば、聖霊は「つながり」において働かれるからです。すなわち「つながり」は愛の働きなのです。神との交わりを生きようとするとき、当然、人との交わりはないがしろにはできません。どちらも愛の介在があるからです。
しかし、毎週のように主日のミサに通いながらも、普段の生活では「無関心」、「使い捨て」、「対立の文化」を生きているのであれば、それは主イエスのみ心を生きたことにはならないでしょう。
ですから、わたしたちには『ラウダート・シ』が示すように統合的な回心が必要になります。生活のあり方、生き方のすべてを見直す回心が必要です
ケアする教会
ここで「ケア」という言葉に思いをはせてください。もともとは「お世話する」という意味ですが、現在、いろいろな分野で使われるようになりました。そして、教皇の文書でもよく使われています。「お世話」、「気づかい」、「配慮」、「他者への寄り添い」、「関わり」などと言い換えることができます。社会科学の分野では、この言葉の翻訳の難しさが指摘されています。そのため日本語に直さずに「ケア」とそのまま使うようになりました。「ケア」は人と人との「つながり」を表す言葉です。そして、「ケア」する者とされる者という上下関係の意味はありません。むしろ兄弟姉妹として、お世話し、気づかい、配慮し、寄り添うのが「ケア」です。
「ケア」はお互いを大切にし、お互いに耳を傾け、向き合い、対話することを目指します。言い換えれば「ともに歩む」ことです。
教会はケアの場所です。人と人との「つながり」を大切にするからです。誰も排除されず、相手の言葉を聞きとり、違う立場の人と向き合い、対話を重ねていきます。そして、神から造られたものであることを、ともに喜び、感謝します。
ケアする教会の中心には、いつも聖体祭儀、すなわちミサがあります。ご聖体のイエスは、わたしたちのお世話のため、わたしたちに気づかうため、わたしたちに寄り添うために、小さなホスチアの形になってわたしたちのこころに来てくださるからです。ご聖体のあるところには、「ケア」する主ご自身が、いつも共におられます。
いくつかの勧め
『東京教区宣教司牧方針』を実行するために、そして、「つながり」を大切にするために、わたしは東京教区の牧者として、次の四つの点を呼びかけます。1. ミサを大切にしましょう。
ミサは「ともに祝うキリストの過越の記念」です。近年の個人主義的な生き方が尊ばれる風潮にあっても、教会はともに集うことを大切にします。ミサを通じて神さまと出会い、人と出会うのです。ミサなしの教会は考えられません。キリスト信者としての生活にミサ、とりわけ主日のミサを中心に据えることを重要視しないことは考えられません。主日にはできるだけミサに参加してください。できるだけ定期的にミサに参加してください。
御聖体の神秘は、わたしたちの想像をはるかに超えるものです。できるだけ頻繁にミサに参加して、神との「つながり」、隣人との「つながり」を深く味わっていただきたいものです。
残念なことに司祭の高齢化と召命の減少のため、小教区の中には司祭が兼任となるところも増えつつあります。教区としてはできる限りミサが行えるように、小教区司牧以外の使徒職に携わる司祭の応援も得て、ミサが継続できるように努力をして参ります。
2. お互いに受け入れましょう。
ケアする教会では誰も排斥されてはなりません。幼児、子ども、青年、大人、高齢者、障碍者、外国籍の人、社会の中で異質と見なされる存在などなど。共同体から退けられる可能性はだれにでもあります。大多数にとって異質だと見なされたとき、排除や排斥が正当化されてしまいがちです。異なる存在に目をふさぎ、自分たちだけの都合のよい集いになってはなりません。教会は、貧しい者のための教会です。低迷するいまの日本の社会にとって、貧しい者とはわたしたち一人ひとりのことをも指しているのかもしれません。教会にある豊かな「つながり」のおかげでわたしたちは貧しくとも、ともに歩んでいけるのです。この豊かな「つながり」に、一人でも多くの人を招き入れましょう。
3. 「分かちあい」を目指しましょう。
ケアする教会は、ともに歩む教会です。それは、聞く教会であり、分かち合う教会でもあります。一人ひとりが考えたこと、感じたことを分かち合う時、大きな実りを共同体にもたらすはずです。少数の人の声に従っていくのではなく、互いに耳を傾け合い、互いの声を聞きながら、多数決での結論を急がずに、ともに祈って聖霊の導きを見いだしながら、共同体のために何かを決定していく姿は教会ならではのものです。それこそが「シノドス的な教会」と言えるでしょう。
4. 宣教する教会となりましょう。
「ケア」は人との「つながり」を表します。家庭で、地域で、職場で、わたしたちは隣人との関わりを生きます。十字架上で「自分のいのちをささげるまでにケア」なさったイエスのように生きたとき、人々はそこに神の姿を見いだすのです。わたしたちは「ケア」を通じて、福音宣教をしているのです。自分のために生きるのではなく、惜しみなく隣人に自分自身を与え尽くすような生き方を目指していきましょう。おわりに
昨年の終わりに、わたしたちの教区に新しい補佐司教が誕生しました。みなさんのお祈りのおかげで、主は、新しい牧者をわたしたちのもとに送ってくださいました。アンドレア・レンボ補佐司教が主から委ねられた牧者の務めを力強く果たすことができるようにと、これからもお祈りください。東京教区の牧者として着座して6年、多くの方々に支えられて過ごせたことに感謝しています。教区の長い歴史の中に、わたしもつながっていることに感謝しています。またその責務の重大さに、いつもこころを震わせています。しかし、帰天された先輩の司教さま方と司祭の方々が天国から見守ってくださっているおかげで、主から課せられた牧者の務めを果たすことができています。
社会の厳しい現実にみなさんと一緒に向き合い、担い合えるのは大きな喜びです。このように共同で責任を担うことで、将来に向けた歩みを少しずつ進めることが可能になります。これこそが、カトリック教会が求めている「ともに歩む」教会の姿です。みなさんと一緒に、聖霊がわたしたちの教区に求めている道を祈りの中で識別していきましょう。
| 固定リンク | 12
「司教の日記」カテゴリの記事
- この20年に感謝します(2024.09.20)
- 八王子方面から二つの慶事(2024.06.04)
- 先週末から今日にかけて:カノッサ修道会、そして国際カリタス(2024.05.17)
- 教皇様にお会いしました(2024.03.19)
- 新年明けましておめでとうございます(2024.01.01)