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2024年1月31日 (水)

ケルン教区とのパートナーシップが70周年です。

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東京教区とドイツのケルン教区の協力関係が、今年で70年となります。

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ケルン・デーミサ

1月最後の主日は、東京教区では「ケルン・デー」、ケルン教区では「トーキョー・デー」とされ、互いの教区のために祈りを捧げています。今年の東京カテドラルのミサには、折から東京を訪問されているアフリカはアンゴラのフアンボ教区のゼフェリーノ・マルティンス大司教様が一緒に参加してくださいました。

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また、東京教区のケルンとのパートナーシップの窓口を務める古市神父様も参加。さらにはケルン教区から訪日中のマリアンヌ・バウアーさん(ケルン大司教区青少年カテケージス・霊的指導担当 )が、ケルンのヴェルキ枢機卿様のメッセージを代読してくださいました。さらにこのミサには、ドイツ語共同体の代表や、ミャンマー共同体の代表も参加して、インターナショナルな雰囲気のミサとなりました。

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パートナーシップ70周年にあたっての巡礼

この70年を記念して、ローマとケルンへの巡礼旅行を企画しています。取り扱いは巡礼には定評のある阪急交通社。日程はこちらから、阪急交通社のサイトにつながります。円安のため、現時点では料金が以前と比較して高くなってしまっているのが残念です。もし参加を考えてくださる方がおられましたら、お早めに阪急交通社の担当にお問い合わせください。

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カトリック・スカウトのケルン派遣

なお、東京からはこの巡礼団の他に、カトリック・スカウトの代表団が、5月にケルンを訪問し、「アルテンベルグの光」の行事に参加することになっています。カトリック・スカウトの面々も、ケルン・デーのミサに参加してくださいました。「アルテンベルグの光」については、こちらのリンクから、東京教区ニュースの記事をご覧ください。

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以下、ケルン・デーミサの説教の原稿です。

年間第四主日ミサ説教
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年1月28日

1月の最終主日は、「世界こども助け合いの日」と定められています。今年は本日の日曜日が、「世界子ども助け合いの日」とされています。

以前は、「カトリック児童福祉の日」とも呼ばれ、ともすると大人が子どもたちの福祉について考える日であるかのように理解されていました。

しかしこの特別な祈願日は、「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定」され、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげる日であります。日本の教皇庁宣教事業の担当者である東京教区の門間神父様のメッセージによれば、「子どもは子どものために祈り、子どもは子どもに福音宣教し、子どもは子どもを助ける」というのがこの活動のモットーであり、今年の世界子ども助け合いの日のテーマは、「あなたはわたしのあいするこども」(マルコ1・11参照)とされています。イエスご自身に対して御父は「あなたはわたしの愛する子」と宣言されましたが、同じように神から愛されているすべての子どもたちが、主イエスに倣って、福音に学び、福音を告げ、互いに助け合う世界を生み出すものとなるように、今日祈りましょう。

さて東京教区にとって、1月最後の主日は「ケルン・デー」です。

東京教区にとって、ドイツのケルン教区との繋がりには歴史的な意味があり、また物質的な援助の関係にとどまらず、互いの霊的な成長のためにも重要なパートナーとして、ともに歩む関係になろうとしています。どうしても資金を援助する側と援助される側という関係にばかり目が行ってしまいますが、2022年9月末に来日されたケルン教区の司教総代理グィド・アスマン師をはじめとした代表団の方々と話し合ったとき、これからは単に金銭的な支援の関係だけでなく、互いの霊的な成長を目指してともに歩んでいきたいとの意向が示されました。ちょうどいま教会でしばしば聞かれる、シノドス的な歩みを共にする関係を構築しようという呼びかけです。

この二つの教会の歩みは、1954年、当時のケルン大司教区のフリングス枢機卿様が、戦後の霊的な復興を念頭においてケルン教区内の信徒に、苦しいときだからこそ積極的に困難の中にある隣人へ手を差し伸べようと呼びかけたことに始まります。自ら大きな犠牲をささげることこそが、苦しみから立ち上がり霊的に大きく成長する力を生み出すと考えたフリングス枢機卿様は、個人的に知り合いであった東京の土井枢機卿様と話し合い、具体的な行動として東京教区と友好関係を結び、東京の宣教活動と教会の戦後の復興のために援助を始められました。

自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする福音に基づく行動は、多くの人の心を動かし、東京にあってもその後、白柳枢機卿様の時代、1979年の友好25周年を契機として、ケルンと東京の両教区によるミャンマーの教会支援へと発展していきました。それ以来、わたしたちは毎年の「ケルン・デー」に、ケルン教区からいただいた豊かないつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して自らも愛の奉仕に身をささげることを心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげてきました。

わたしたちも、余裕があるから善意の行動をとるのではなく、苦しいからこそ、積極的に他者と連帯し支えるものであり続けたいと思います。またその行動を通じて、私たちと共におられる神の言葉を具体的にあかしするものであり続けたいと思います。

本日のマルコ福音は、イエスの言葉には、権威を感じさせる力があったと伝えています。「律法学者のようにではなく」と福音は記していますが、この言葉は何を象徴しているのでしょう。神の掟について学んだ知識を教える律法学者は、自らの権威ではなく神の権威によって解釈を教え指導する立場です。教え指導するという人間関係にあって、人間の弱さから解放されない律法学者は、いわばわたしたち人間の弱さと限界を象徴しています。時に自らの限界を認めず、謙遜さを失い、独断と偏見で判断し、あたかもすべての権威を持っているかのように他者に語り、行動するのがわたしたち人間です。律法学者は、時にすべての権威を自分が握っているかのような錯覚に基づく行動、すなわち、他者を裁く権能など持ち合わせていないはずなのに、罪を犯した人たちを裁いてしまい排除する行動をとってしまいます。わたしたちも、同じことです。簡単に他者を裁き、排除するのが弱いわたしたちたちです。しかしこのいのちを創造したわけでもないわたしたちには、他者を裁く権威はありません。

しかしイエスの言葉には力がありました。イエスの言葉によって汚れた霊が出て行くという事実を目の当たりにして、人々はイエスの教えは「権威ある新しい教えだ」と驚いたと福音に記されていました。イエスの言葉に力があったのは、それは神の真理の言葉であり、そしてイエスご自身が真理そのものであったからに他なりません。すべての権威は神にあります。完全完璧な立場からものを語り行動されるのが、神の子であるイエスです。だから人々は「権威ある新しい教え」とイエスの言葉に驚いたのです。

本日の第一朗読の申命記には、神の命じていない言葉を語る預言者は死に値すると、モーセが語ります。真理を身に帯びていない者の言葉には、権威はありません。

わたしたちは、どのような言葉を語っているでしょうか。自分勝手な思いや欲望を充足させる言葉ではなく、神によって生かされているという謙遜さのうちに自らの限界を認め、イエスが権威を持って示された真理を身に帯びた言葉を語るものでありたいと思います。

命を奪う暴力的な言葉ではなく、命を生きる希望を生み出す言葉を語りたいと思います。暗闇を生み出す言葉ではなく、光を掲げる言葉を語りたいと思います。他者を裁き、排除する言葉ではなく、受け入れともに歩む言葉を語るものでありたいと思います。攻撃する言葉ではなく、思いやりのうちにケアする言葉を語るものでありたいと思います。

シノドスの道を歩み続ける教会は、互いの声に謙遜に耳を傾けるところからすべてを始めようとしています。聖霊の導きを一緒になって見いだすためには、自分の思いを主張するだけでなく、互いに心に響き合う神の声を反映に、真摯に耳を傾けることが必要です。その耳を傾けることには、実際に話を聞くことに始まり、お互いに思いやりケアし合うこと、すなわち互いのいのちを大切にしあうことも含まれています。わたしたちはひとりだけで生きていくことはできません。

本日、「ケルン・デー」と「世界子ども助け合いの日」を迎えているいま、わたしたちは福音の真理に基づいて語り行動された権威あるイエスの言葉に従い、苦しみのうちにあっても互いに助け合い、支え合って、共に道を歩み続ける、シノドス的な教会であることを心に誓いましょう。

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2024年1月27日 (土)

週刊大司教第153回:年間第四主日B

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今年の年間第四主日は一月の最後の後曜日となりました。東京教区にとっては「ケルン・デー」であり、教会全体にとっては「世界子ども助け合いの日」であります。

東京教区とケルン教区の友好関係は、今年で70年となります。それを記念した公式巡礼(4月にローマとケルンを巡る10日間)も企画され、さらにボーイスカウトの代表がケルンに招かれている企画もあります。東京教区とケルン教区の関係については、メッセージでも触れていますが、教区ホームページのこちらをご覧ください。(上の写真は、2018年12月にケルンを訪問した際、ケルン教区大司教のヴェルキ枢機卿様と)

また今年も、関口教会の第四主日午前10時の大司教司式ミサには、ドイツ語共同体や支援しているミャンマー共同体の方々も参加され、ケルン教区からも代表が参加します。また偶然ですが、私の長年の友人であるアフリカのアンゴラのフアンボ大司教区のゼッフェリーノ・マルティン大司教様が、ちょうど東京を訪問中で、この日のミサにご一緒いただけることになっています。その昔、私がまだガーナで働いていた当時、神学生だったゼッフェリーノ大司教様が、研修で、ガーナに来た頃からの知り合いです。一週間ほど滞在される予定です。アンゴラの教会のことも、どうぞ心に留めていただけると幸いです。

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今年10月に開催されるシノドスの第二会期に向けて、各国は5月15日までに報告書を提出するようにバチカンの事務局から要請されています。その第二会期に向けた日本における取り組みについて、司教協議会のシノドス特別チームが三つの提案をしていますので、それについては中央協議会のホームページのこちらをご覧ください

また1月25日に教皇様は、日本に駐在する新しい教皇大使を任命されました。新しい教皇大使はフランシスコ・エスカレンテ・モリーナ(Francisco Escalante MOLINA)大司教で、以前、参事官として数年間、日本に駐在されていた方です。詳しくはこちらをご覧ください

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第153回、年間第四主日のメッセージ原稿です。

年間第四主日B
週刊大司教第153回
2024年1月28日

イエスの言葉には、権威を感じさせる力があったと、マルコ福音は伝えています。「律法学者のようにではなく」と福音は記していますが、この言葉は何を象徴しているのでしょう。学んだ知識を教える律法学者は、自らの権威ではなく神の権威によって解釈を教える立場です。教え指導するという人間関係にあって、人間の弱さから解放されない律法学者は、いわばわたしたち人間の弱さと限界を象徴しています。時に自らの限界を認めず、謙遜さを失い、独断と偏見で判断し、あたかもすべての権威を持っているかのように他者に語り、行動するのがわたしたち人間です。

しかしイエスは真理そのものです。すべての権威は神にあります。完全完璧な立場からものを語り行動されるのが、神の子であるイエスです。だから人々は「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。そういえば本日の第一朗読の申命記には、神の命じていない言葉を語る預言者は死に値すると、モーセが語ります。真理を身に帯びていない者の言葉には、権威はありません。

わたしたちは、どのような言葉を語っているでしょうか。自分勝手な思いや欲望を充足させる言葉ではなく、神によって生かされているという謙遜さのうちに自らの限界を認め、イエスが権威を持って示された真理を身に帯びた言葉を語るものでありたいと思います。命を奪う暴力的な言葉ではなく、命を生きる希望を生み出す言葉を語りたいと思います。暗闇を生み出す言葉ではなく、光を掲げる言葉を語りたいと思います。他者を裁き、排除する言葉ではなく、受け入れともに歩む言葉を語るものでありたいと思います。攻撃する言葉ではなく、思いやりのうちにケアする言葉を語るものでありたいと思います。

1月の最終主日は、「世界こども助け合いの日」です。「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定」され、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげる日です。子どもたちの信仰における成長のために祈りましょう。

また東京教区にとっては、本日は「ケルン・デー」であります。

東京教区とケルン教区との歴史的な繋がりは、物質的な援助にとどまらず、互いの霊的な成長のためのパートナー関係です。この関係は,互いの教会が具体的に主の言葉を生きるようにと行動を促し、ミャンマーの教会への支援につながりました。

1954年、ケルン大司教区のフリングス枢機卿様は、戦後の霊的な復興を念頭に、自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする福音に基づく行動を提唱され、東京の支援に乗り出されました。わたしたちは毎年の「ケルン・デー」に、いただいたいつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身をささげることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげています。

私たちと共におられる神の言葉を具体的にあかしするキリスト者であり続けたいと思います。

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2024年1月23日 (火)

「カリタスのとサポートセンター」始動しています。

1月1日夕刻に発生した能登半島の地震は、時間が経過するとともに被害の全容が徐々に明らかになってきました。また発生から3週間がたち、当初から自衛隊や警察、消防などが中心となって取り組まれている緊急の援助活動に加えて、被災した方々への長期的な視点での支援に取り組む時期となりました。当初は緊急の避難所などに避難されている方々のこれからの生活や、家屋が被害にあわれた方々への支援、また地元での生活を整えていかれる過程など、様々な支援が不可欠になってきます。

東北での大震災でもそうでしたが、カトリック教会は地元にある存在として、また全世界に広がるネットワークの一員として、そういった段階で長期的な支援を続けていく存在でもあります。今回の災害で被害にあわれた方々の側面からの支援者として、長期的に歩みを共にしていくものでありたいと思います。

能登半島は名古屋教区の管轄ですので、名古屋教区が中心となり、司教団の緊急対応支援チーム(ERST)がお手伝いする形で、さらにカリタスジャパンも支援に加わり、これからの長期的な取り組みを進めていくことになっています。なお緊急対応支援チームの責任者とカリタスジャパンの責任者は、現在は新潟教区の成井司教様です。

その活動の現地での拠点として、カトリック金沢教会に「カリタスのとサポートセンター」が立ち上がりました。センター長は名古屋教区の片岡義博神父様です。

また同サポートセンターのブログも開設され、逐次、現地からの情報が提供されていくことになると思います。センター長の片岡神父様のメッセージビデオが公開されていますので、ぜひご覧ください。長期的な支援が不可欠です。数年に及ぶかもしれません。様々な形で、応援し、また祈り続けたいと思います。できることは様々です。

今すぐ何かをしなくてはとお考えの方も多いことと思います。支援活動の初期は、現場も混乱します。息の長い支援が必要になります。現地の状況にもよく目と耳を向け、長期的に考えてまいりましょう。

なにも皆が同じことをする必要はありません。それぞれのできることに忠実であることで、教会全体がともに歩む存在であり続けましょう。ぜひ、片岡神父様のメッセージに耳を傾けてください。

募金についてのお知らせも、のとセンのブログをご覧ください。名古屋教区で受け付ける募金は「教会関連施設とその被災者、および地域被災者支援」のためです。カリタスジャパンへの募金は、教会内外を問わず「カリタスのとサポートセンターを中心とした地域の被災者支援」のためです。

カリタスのとサポートセンターのブログはこちらです

また中央協議会のホームページでの特集ページはこちらです

以下は片岡神父様のメッセージビデオです。

 

 

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2024年1月20日 (土)

週刊大司教第152回:年間第三主日

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今日のメッセージでも触れていますが、年間第三主日は、神のことばの主日です。

中央協議会のホームページには、次のように解説が掲載されています。なお、こちらのリンク先の解説のページの下部にあるリンクから、教皇様の文書「アペルイット・イリス」をダウンロードして読むこともできます。

『教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』を、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布して、年間第三主日を「神のことばの主日」と名付け、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」ことを宣言されました。また、「神のことばの主日」は、キリスト教一致祈禱週間(毎年1月18日~25日)とも重なり、「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる」よう、エキュメニカルな意味を深めるものでもあります』

またこの解説にも触れられているとおり、1月18日から25日は、キリスト教一致祈祷週間です。今年のテーマは、ルカ福音10章27節から「あなたの神である種を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とされ、日本キリスト教協議会とカトリック中央協議会でともに準備した文書では、今年は特に、アフリカ西部のブルキナファソ(ガーナのすぐ北です)の教会に思いを馳せて祈りを捧げることが勧められています。今年は久しぶりに、東京での合同の一致祈祷会がカテドラルで開催されます。詳細はこちらのリンクへ。参加は自由ですので、多くの皆さんの参加をお待ちしております。東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で、1月21日の午後2時からです。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第152回、年間第三主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第152回
2024年1月21日

「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」

マルコ福音の冒頭には、馬小屋でのイエスの誕生の物語は記されていません。マルコはイエスの物語を、洗礼者ヨハネの出現を預言したイザヤの言葉、「荒れ野で叫ぶものの声がする」をもって始めています。さらにその直後にイエスの洗礼について記し、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という神のことばを記します。その直後にマルコ福音は、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と記しています。

すなわち、マルコ福音はその冒頭から、この世界に響き渡る声こそが神の意志を告げる声であり、イエスこそはその神のことばの受肉であって、その本性からして福音そのものであり、福音をのべ伝えることこそがイエスの人生そのものであることを明確にします。

ですから、イエスと弟子たちとの歩みは、議論や対話のうちに始まったのではなく、神ご自身からの一方的な宣言によって始まります。信仰はわたしたちの選択なのではなく、神からの一方的な呼びかけによって成り立っています。人間の都合から言えば、その場ですべてを捨てて従うことなど、とんでもないことです。この世の常識に従うなら、よく話し合って納得してから従うのかどうかを決めたいところです。しかしイエスはなんとも身勝手に、神の意志を言葉として発してこられます。一方的に呼びかけてこられます。同じ呼びかけは、日々わたしたちに対しても聖書のみ言葉の朗読を通じて行われています。その呼びかけに、わたしたちは応えているでしょうか。

教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。今年は1月21日が、「神のことばの主日」であります。教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちとともにとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しています(80)。

教皇は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘します。

第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。

それぞれの生きる場で、神のことばをあかしして生きるように、招かれているわたしたちは、日頃から、また典礼祭儀において、神のことばに耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心にそれを刻み込んであかしするものでありたいと思います。

 

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2024年1月13日 (土)

週刊大司教第151回:年間第二主日

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元旦に発生した能登半島を中心とする大地震は、時間が経過するにつれて、その被害の甚大さが明らかになりつつあります。

被災された多くの皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

カトリック教会は、被災地を管轄する名古屋教区と、カリタスジャパンの連携の中で、被災地の支援に当たって参ります。またその活動にあっては、東日本大震災の教訓を元に設置された司教協議会の緊急対応支援チーム(ERST)が名古屋教区が金沢に設置する拠点と協力して、支援活動の調整にあたります。今後の対応についての報告が、中央協議会のこちらに掲載されていますので、ご覧ください。司教協議会としては、1月11日に開催された常任司教委員会で、名古屋教区の松浦司教様とカリタスジャパンの責任者である成井司教様から直接説明を受け、今後もできる限りの支援をしていくことで合意しています。

1月14日は、アンドレア司教様が、司教叙階後に初めて堅信式を行う日となります。市川教会で行われる京葉宣教協力体の堅信式です。堅信を受けられる皆さま、おめでとうございます。

毎年1月18日から25日まではキリスト教一致祈祷週間とされています。今年の東京における集会は1月21日日曜日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で行われます。コロナ禍でオンラインが続いていましたが、久しぶりに実際に集まってお祈りができるようになりました。今ある教会を解体して組織として全く新たな一つの教会とすることは即座に可能ではありませんが、同じ主に従うものとして、互いの壁を乗り越え、耳を傾けあい、協力しあいながら、共に福音の実現のための道を歩むことは不可能ではありません。一致の理想の道を諦めることなく、ともに歩んでいきたいと思います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第151回、年間第二主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第151回
2024年1月14日

主の神殿で寝ていた少年サムエルに、主は直接声をかけ呼び出されます。

サムエル記は、少年サムエルがたびたび神からの呼びかけを受けた話を記し、それに対して祭司エリが、「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と応えるようにと指示をした話を記します。謙遜に耳を傾けたときにはじめて、神の声がサムエルの心の耳に到達しました。

教会がいまともに歩んでいるシノドスの道も、同じことを求めています。霊的な会話という分かち合いの中で、互いに語る言葉に耳を傾け、議論することなくその言葉を心に留め、さらに耳を傾けて祈るときに、初めて聖霊の導きを見いだす準備ができる。決して、おまえはどうしてそんなことを語るのだと議論することではなく、耳を傾けるところからすべては始まります。

インターネットが普及した現在、わたしたちはその中で、耳を傾けることよりも、議論し、論破することに快感を感じてしまっているのではないでしょうか。そこに神の声は響いているのでしょうか。

「来なさい。そうすれば分かる」とイエスに呼びかけられたヨハネの二人の弟子も、納得できる証拠を求め徹底的にイエスと議論したからではなく、イエスの存在とその語る言葉を心に響かせたからこそ、イエスがメシアであることを確信しました。だからこそ福音は、「どこにイエスが泊まっておられるかを見た」と記し、徹底的に議論したとは記しません。サムエルの「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と言う態度に通じる謙遜さです。

今年の世界平和の日に当たり、教皇様は視点を大きく変え、「AIと平和」というメッセージを発表されました。それは尊厳ある人間と、その人間が生み出した技術を対比させるなかで、人間とは一体何者であるのかを改めて見つめ直そうという呼びかけです。

教皇様は、「死ぬことを免れえない人間が、あらゆる限界をテクノロジーによって突破しようと考えれば、すべてを支配しようという考えに取りつかれ、自己を制御できなくなる危険があります。・・・被造物として、人間には限界があると認識しそれを受け入れることは、充満に至るため、さらにいえば贈り物として充足を受け取るために、欠いてはならない条件です」と記して、自らが生み出した技術に過信し、逆にそれに支配されることのないようにと警告されています。

「どうぞお話しください。しもべは聞いております」という、謙遜な態度で、他者の声に、そして神の声に耳を傾けて参りましょう。

 

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ご公現の主日@東金教会

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1月7日の主のご公現の主日は、午前中に、千葉県の東金教会を訪問し、一緒にミサを捧げてきました。

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60名ほどが集まり、小さな聖堂は一杯でした。ミサ中、リードして聖歌を歌うお二人がとても上手で、特に男性は朗々とした声で歌われ、のど自慢にでも出たら良いのではないかと思わせる声量と技量でした。ミサ後の茶話会でお聞きしたら、なんとすでにNHKののど自慢で、合格の鐘を鳴らした経験の持ち主でした。

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ミサがおわってから、主任の小沢神父様のリクエストで、30分ほど、シノドスについてお話をさせていただき、その後、皆さんで会場を移動して聖堂裏のホールで茶話会となりました。

今年は、すでに1月1日の夕刻、習志野教会でベトナム人の方々と正月のミサを一緒に祝い、そして1月7日には東金教会と、司牧訪問で一年を始めることができました。お呼びくださった、習志野教会のディン神父様、東金教会の小沢神父様、ありがとうございます。皆さんのこの一年の上に、豊かな祝福をお祈りいたします。

以下、東金教会でのミサ説教の録音を起こした原稿です。

主の公現ミサ
東金教会
2024年1月7日

今年の始まりには、1月1日の夕方に大きな地震が起こり、百人を越す方々が亡くなられました。今の時点では被害の全容は明らかではありませんし、一週間経った今日も緊急の救援活動が続いていますので、これからも被害の大きさは、更に拡大するかもしれません。

ご存じのように、石川県は名古屋教区です。能登半島の輪島の街は、かなり被害が大きいと聞いています。七尾教会の建物は大丈夫だったようです。今日の日曜日は、名古屋教区の松浦司教様とカリタスジャパンを担当している新潟の成井司教様はじめ、錦秋支援のための方々が七尾でミサを捧げ、その後できれば輪島まで行き、被害の状況を確認すると報告をいただいています。
日本のカトリックの司教団には、カリタスジャパン以外に、災害が起こったときの緊急対応支援チーム(ERST)があり、全国に何人かのメンバーを常時任命しています。東北の大震災の教訓として設置されました。そのうちの数名が司教様たちと一緒に出掛けて行き、現地の状況を見て、また今週以降、どういう形で支援することができるかを考え、教会全体のお願いすることになっています。

もちろん、日本では災害が起こると、自衛隊と警察と消防があっという間に動員され、緊急災害の救援にあたります。問題は緊急の段階が終わったそのあとです。一週間、二週間、三週間と時間が経過すると、そうした当初の緊急事態が終わり、自衛隊や警察、消防も引き上げ始めます。そのあと、この被害を受けた方々を、どういった形で支えていけるのかという段階で、いわゆる民間のNGOの出番になります。

そうすると教会にも、対応するべきこと、やることがたくさん出てきます。2011年の東日本大震災のときもそうでした。緊急事態の最初の段階が終わった後に、被災地に生きていく方々と、どのような形で一緒に復興の道を歩んでいくのか。つまり共に歩むということの大切さが身にしみて感じられる段階に入っていくのです。

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ちょうどいま教会は、「シノドス」の道をともに歩んでいます。共に歩んで行く教会とはどのような教会なのかということをテーマとして、みなで考えて道を見いだすことを教皇様は世界の教会に呼びかけています。

シノドスの第一会期の会議が去年の10月にローマで行われ、それにわたしも日本の代表として参加してきました。今年の12月に第二回目の会議が行われることになっています。いま教会は、共に歩む、一緒に歩んで行く共同体なのだということを、とても重要視しています。みなに一緒に歩いて行きましょう、と呼びかけています。

その一緒に歩くというのはいったいどういうことなのか。ただ単に道を一緒にぶらぶら歩いて行くということではなく、もっと違うことを求めているんですね。

それは、たとえばこの間、12月16日にアンドレア補佐司教様の司教叙階式がありました。参加されたミャンマーの司教様が、叙階式の後でわたしに話してくださったことがあります。東京教区はケルン教区と一緒に、長年にわたってミャンマーの教会を支援してきました。ミャンマーに神学校を建てたり、神学生のための養成費を出したりしています。そのために、ミャンマーからお一人、司教様が叙階式に参加されるために来日されました。教会はミャンマーの軍政に対して反対の声をあげ、平和を確立するように呼びかけているのですが、それが反政府活動だとして攻撃されています。そのために教会がある町が空爆を受け、信者さんの中にも被害を受けている方がいますし、教会もいくつも破壊をされているという状況の中にあります。

そういった事情をいろいろと伺いましたが、そのお話の中で一番印象的なことは、「わたしたちの国のことが忘れられてしまっている」という言葉でした。

「今は、ウクライナやガザなど、世界中のさまざまなところで戦争や紛争が起こっている。そちらの注目が集まって、わたしたちの国のことが忘れられてしまっている」ということを、盛んに訴えられました。「ですから、司教さん。日本の教会の人たちに、どうか忘れないで下さいと伝えてほしい」とおっしゃっていたんです。

実は、この「忘れないでほしい」という叫びは、いろんな災害や、紛争、戦争、混乱など、いのちに関わる様々なことが起こっている現場に出かけて行くと、どこででも、現地にいる人たちが必ず口にする言葉です。「忘れないで下さい」、「わたしたちのことを忘れないで下さい」と。忘れられることほど、生きる希望を奪い去ることはありません。自分たちが困難に直面しているときに、誰かが心配してくれている、誰かが自分たちのことを心にかけていてくれるという確信は、生きる希望を生み出しますよね。反対に、忘れられたということを思い知らされたとき、人は絶望に陥るんです。そして、生きる希望を失っていく。

ですから、災害の被害を受けられた方と共に歩み続けるという姿勢の根本には、忘れないでいるということがあるのだと思います。

わたしたち日本の教会は、東北の地で2011年から十年以上にわたり、東日本大震災の被災地を支えてきました。それはただ単に、お金を送ったとか、人を送ったということではなく、被害を受けられた方たちと、忘れず共にいる、忘れずにいるということを、ともに歩む姿勢を持って実践してきたことだと思います。NGOや様々な団体が、資金を注ぎ込んでいろんなものを建てたり、いろんなプログラムを始めたりしました。それも必要なことです。でも、カトリック教会がずっとそこで地道にやってきたのは、皆さんのことを忘れていませんよ、日本の教会は東北の震災の被災者の人たちを忘れませんよということを、自分たちの存在を持ってあかしすることでした。

いま、教会が呼びかけているシノドスの歩みは、まさしくこの経験、東日本大震災から始まった十年以上の経験と重なっているように思います。つまり日本の教会は、すでにシノドス的な歩みを実践してきただのです。

ですからそれをいま、同じように災害の被害に直面している能登半島の方々と共に、忘れずに、支えていくということを、心がけていきたいと思います。

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そのような中で、今日は主のご公現の主日です。三人の博士が聖家族を尋ねて来て、幼子イエスに贈り物を捧げたという話が読まれます。今日の主日でクリスマスから続いている降誕祭は締めくくりとなり、降誕祭のお祝いが終わります。

このご公現のお祝いというのは、ベツレヘムで、集まって来た羊飼いたちにイエスが誕生したことが告げられた、それは単にイスラエルの民に限定された喜びなのではなく、ただ単に、イスラエルという限定された地域だけでの喜びではなく、三人の博士が東方からやってきたという話を通じて、世界に向けた喜びなのだと再確認するお祝いです。世界に向けて人類全体の救い主の誕生を告げる大きな出来事なのだということを象徴するために、東方からやって来た、つまりユダヤ人でもイスラエルの人でもない他の国から、三人の博士が贈り物を持ってきた話が降誕祭の終わりに読まれます。世界に向けて、ここに神が産まれたのだと。ここに、神の言葉が人間となって、いま誕生したんだということを、世界に向かって告げたということです。救い主は、誰か特定の人たちだけの救い主ではなくて、世界の救い主なんだということを告げたというのが、この公現の主日の大きな意味です。

昨年の10月からです。その幼子が誕生したあの聖地で、本当に考えられないような残酷な、暴力的な方法で人の命が奪われている。いまはこういう時代ですから、インターネットやテレビなどで映像を見ることができますね。子供たちが、いともあっけなくいのちを奪われていく。一般の市民が、あっという間に戦いに巻き込まれていくのです。

そこには、様々な理由が背後にあります。当事者たちはみな様々な理由を述べ立てます。これこれこういう理由で攻撃するんだ、こういう理由があるから反撃するんだということを、盛んに言いながら、自分の正当性を強調します。ところがその正当化のために普通に生活している人たちが、いのちの危険に直面している。暴力的にいのちを奪われている。 

神が、人間のいのちとして誕生した。そして、それを世界に向けて告げたこの地で、いのちを暴力的に奪うということがいま、平然と行われているということは、本当に、怒りを超えて嘆かわしいことです。悲しいことだから、特にこのクリスマスの時期に平然と暴力が行使されているということに対して、ただ単にやめてくれというだけでなく、これは我々キリスト教徒からすれば、神に対する冒涜です。キリストが誕生したその地で、しかもそれを祝っている、まさしくこのときに、いのちを奪うような暴力を平然としていることは、いのちを創造されひとりひとりを愛される神に対する冒涜です。

世界中で、イスラエルやガザだけでなく、世界中で、いのちを暴力的に奪うということが平然と行われている。それは神に対する攻撃であり、いのちを創造された神に対する冒涜なのだということを、わたしたちは力強く伝えていかなければなりません。それはガザでも、ウクライナでも、ミャンマーでも、世界のいたるところで、いのちが暴力によって、つまり、人間の身勝手さによって奪われてしまっているという事実に、わたしたちは眼をつむっていてはいけないということでもあります。

神が人のいのちとして誕生し、それが救い主だということが、世界中に向けて告げられたこの公現の主日。是非ともわたしたちは、そのいのちを大切にする、いのちを護るんだ、それを最優先にするんだということを、わたしたち一人ひとりに与えられたいのちを、大切にするということを、こころに誓って広く告げ知らせていきたいと思います。

 

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2024年1月 6日 (土)

週刊大司教第150回:主の公現の主日

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一年の始まりに能登半島を中心とした地震が起こり、また航空機の事故もありました。この事態に巻き込まれた多くの方々にお見舞い申し上げます。また亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。

教皇様からは、国務長官名でお見舞いの電報が届きまた水曜日の謁見でも、教皇様ご自身からのお見舞いの言葉と祈りの呼びかけがありました。教皇様に感謝いたします。

能登半島は名古屋教区に属しています。時間とともに、全体の被害状況が明らかになりつつありますが、教会の施設も被害を受けていると報告されています。名古屋教区を中心に、司教団の緊急支援チーム、そしてカリタスジャパンが連携して、今後の救援事業にあたっていくことになります。具体的な対応については、今後、中央協議会のホームページやカリタスジャパンのホームページから報告があることと思います。名古屋教区からの報告は、こちらのリンクです

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第150回目のメッセージ原稿です。

主の公現の主日
週刊大司教第150回
2024年1月07日

新しい年がはじまりました。この一年が神の平和が支配するときとなりますように祈ります。

教皇フランシスコが「ラウダーテ・デウム」に記すように、一人でも多くの人が「わたしたちの住まいである世界との和解のこの旅路に加わり、それぞれ固有の貢献で世界をより美しく」する務めに目覚める年となりますように。

占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。救い主の誕生の告知とは、本来であれば喜びを持って迎えられたことでしょう。しかしこの世の王として人々を支配しているヘロデにとっては、自らの立場を危うくする脅威でしかありません。神の支配が実現することで、自分は権力を失うことになるのです。この世界で権勢を誇り権力の行使を謳歌する者は、真の世界の王である神の支配の実現の可能性を耳にして、喜びではなく不安しか感じることができません。真理の前では、自らの不遜さが明らかになってしまうからに他なりません。

「ラウダーテ・デウム」の終わりに、教皇フランシスコは、「人間は、神に代わる存在になろうとするとき、自分自身の最悪の敵になる」と記しています。この世の権力に溺れ、神の存在を忘れたとき、その自分自身の選択が、結局のところ自らのいのちを危機にさらすような状況を招くのだと、教皇フランシスコは、共通の家を守るための環境問題への取り組みを先送りしようとする人類の怠慢を指摘してやみません。

教皇は、「本物の信仰は、人間の心を強めるばかりでなく、生き方を変え、わたしたちの目標を変え、他者への関わりや全被造界との関わりを照らし導いてくれることを、わたしたちは知っている」と記します(61)。

占星術の学者たちは、旅路の困難を乗り越え、光に導かれて、救い主のもとにたどり着き、宝物をささげました。闇のなかにあって、輝く光こそが希望を示していることを確信した学者たちは、すべてを神にささげて神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従って行動していきます。

神の光に、すなわち本物の信仰に導かれたとき、占星術の学者たちは生き方を変え、導きに従うことで、真理の光へと到達しました。

教会は、暗闇に光として輝く人となられた「神の言」の導きに身を委ね、常に変化を恐れることなく挑戦を続ける、光をあかしする存在であり続けたいと思います。

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2024年1月 2日 (火)

能登半島を中心に発生した地震

The area facing to Japan Sea or Hokuriku Area of Nagoya Diocese especially Wajima area in Noto Peninsula were hit by strong earthquake in the evening on 1st January 2024. As usually in the case of earthquake in Japan, an island country sorrounded by sea, Tsunami  also hit the area but the damage of Tsunami was reratively small this time.

The quake also affected part of Niigata Diocese.

Real damage of the area is not yet clear but according to the news reports, there are number of casualties and a lot of houses are damaged. According to Bishop Narui of Niigata, there is no report of damage over Church facilities in Niigata. We still do not know about these in Nagoya Diocese.

Our prayers for victims. Catholic Church will do our best to be with people affected and continue our support.

The Bishops Conference of Japan's ERST (Emergency Response Support Team) together with Caritas Japan, both Bishop Narui of Niigata is in charge, are assessing the damage right now with Bishop of Nagoya and will be discussing possible response of the Church.

Our response will be announced through website of Bishops Conference and/or Caritas Japan.


1月1日の夕刻、能登半島を中心に大きな地震が発生しました。一夜明けて、現地の状況が報道されています。被害を受けられた皆さまに心からお見舞い申し上げます。被害は名古屋教区と、新潟教区に及んでいます。新潟教区の成井司教様からは、新潟県内の教会施設の被害はないとのことです。名古屋教区はまだ情報がわたしの所には来ていません。

司教団のERST(緊急対応支援チーム)はカリタスジャパンと共に(どちらも新潟の成井司教様が担当です)、名古屋教区と連携の上、現地の状況確認をすすめ、今後、教会としての対応を決めていくことになっています。司教団のERSTなどの災害対応は、2011年の東日本大震災を教訓に、緊急対応のために設置されたものです。

詳細は、今後、中央協議会、またはカリタスジャパンなどから発信されることになります。

 

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2024年1月 1日 (月)

神の母聖マリア:世界平和の日

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新年1月1日は、教会にとって神の母聖マリアの祝日であると共に、世界平和の日でもあります。

一年の初めにあって、聖母マリアの取り次ぎのうちに、神の平和が実現するように、祈り続けたいと思います。

以下、1月1日午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げたミサの、説教原稿です

神の母聖マリア(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年1月1日

お集まりの皆さん、新年明けましておめでとうございます。

主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念する私たちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

闇にさまよう人間を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画。それが実現するためには、「お言葉通りにこの身になりますように」という、聖マリアの人生をかけた決断が必要でした。その言葉こそは、神の計画に対する聖マリアの絶対的な信頼を象徴し、神の御手に身をすべて任せる、聖マリアの完全な謙遜を現すものでもありました。

もちろん神の計画にすべてを委ねる人生は、単に栄光ある道なのではなく、大きな困難を伴う茨の道を歩むことでもありました。聖マリアの人生は、救い主であるイエスの苦しみととともに歩んだ人生でありました。ともに歩むことは決して楽なことではなく、決断と忍耐を要することであると、イエスの十字架での受難に至る苦しみの道をともに歩まれた聖母の人生がわたしたちに教えています。

教会はいま、シノドスの道を歩むことの重要さを強調しています。聖霊の導きを識別し続けながらともに歩むこの道のりは、簡単な道ではありません。時間と手間のかかることでもあり、まずもって忍耐を必要とします。同時にそこで見いだされる神の計画の道は、常に安楽の道であるとも限りません。なぜならば、神の救いの計画の中心には常に十字架の苦しみが存在しているからです。シノドスの道をともに歩むことで、わたしたちは様々な困難に直面することでしょう。様々な意見の対立に翻弄されるでしょう。常識の壁が立ちはだかることでしょう。決断の及ぼす影響を考え、たじろいでしまうのかもしれません。そのときこそ、わたしたちは聖母マリアの人生を振り返り、主イエスとともに歩まれた聖母の信仰の深さと謙遜の強さに倣い、支え合いながらともに歩む道で前進を続けたいと思います。

主の降誕を祝うこの季節に、主が誕生した聖なる地では、賜物として与えられたいのちが暴力的に奪われる事態が続いてきました。わたしたちはあらためて、いのちが神からの賜物であり、その尊厳は徹底的に守られなくてはならないことを強調し、いのちを暴力を持って奪うことは許されないことだと主張し続けたいと思います。平和がこの世界を支配するように、祈り続け、声を上げ続けたいと思います。聖地における混乱と暴力的行動が収まり、いのちの尊厳が守られることを心から祈ります。

またコロナ禍の中ではじまって、未だ終わりの見えないウクライナでの戦争が、何らかの解決の道を見いだすことができるように心から祈ります。東京教区の姉妹教会であるミャンマーの方々は、いまこのときも、自分たちの存在を忘れてくれるなと、わたしたちに呼びかけます。ミャンマーの平和の確立のためにも心から祈り続けます。

イエスが背負われた十字架、イエスがそのいのちをささげられた十字架、それは、私たち人類が、神からの愛に背いて犯し続ける数限りない罪の結果です。私たちは、まるで主の十字架における苦しみと自己犠牲が、2000年前のあの日に終わってしまい、すべてが許されたかのような傲慢さで、今日もまた罪を犯し続けています。その中でも、賜物として神が与えてくださったいのち、神の似姿としての尊厳を与えられたいのちを、人間自身の暴力を持って奪うことほど大きな罪はありません。

十字架の上で私たちの罪を背負い苦しまれた主イエスの傍らで、御子の苦しみをともにしながら立ち尽くす聖母マリアとともに、教会は、現代社会の直中にあって、人類が犯し続ける数々の罪を悲しみのうちに見つめながら、祈りのうちに立ち尽くしています。ゆるしを求めて立ち尽くしています。平和を求めて立ち尽くしています。

神の平和を実現するためには、単にきれいな言葉を並べ立てるだけでは足りません。そこには必ずや困難や苦しみが伴います。イエスの背負われる十字架の重さを、聖母とともにわたしたちも背負わない限り、神の秩序は完成に至ることがないからです。

教皇パウロ6世は、「平和の女王を通じて」、平和を神に祈り求める日として、この日を世界平和の日と定められています。新しい年、2024年がはじまった今日、わたしたちはあらためて信仰のうちに、平和の実現を求めて声を上げましょう。平和の実現のために苦労をしましょう。わたしたちの信仰の実践が、神の秩序の実現、すなわち神の平和の確立につながるように、務めていきましょう。

東京教区ニュースの冒頭に司牧書簡を掲載いたしました。東京の大司教として、皆さんと一緒に、この一年をどのように生きるのかの呼びかけです。

東京教区の大司教として2017年12月に着座してから6年が過ぎましたが、このあいだ、わたしは「つながり」、あるいは「交わり」を大切にしようと、様々な形を持って呼びかけてきました。それは2015年に教皇フランシスコが発表された回勅「ラウダート・シ」に触発されてのことです。

この文書はいわゆる環境問題や気候変動について語っている文書と片付けられるきらいがありますが、実際にはわたしたちに信仰における回心と具体的な生活における回心を呼びかける文書でもあります。

この文書には、よく読んでみると「つながっている」という表現が何度も登場します。回勅「ラウダート・シ」は、わたしたちが生きている現代社会が忘れてしまった「つながり」をもう一度回復しようと呼びかけます。具体的な回心の呼びかけです。

わたしたちが洗礼の時にいただいた恵みをさらに豊かにするため、「つながり」という視点からわたしたちの生き方と生活を見直す必要があります。そのつながりを具体的に表す言葉として、教会で近頃よく聴かれるのは、「ケア」という言葉であります。兄弟姉妹として、お世話し、気づかい、配慮し、寄り添うという意味での「ケア」です。「ケア」はお互いを大切にし、お互いに耳を傾け、向き合い、対話することを目指します。言い換えれば「ともに歩む」ことです。すなわち、シノドスの道を歩むこととは、互いを大切にすること、支え合うことですから、「ケア」の文化を深めていくことでもあります。

教会はケアの場所です。人と人との「つながり」を大切にするからです。誰も排除されず、相手の言葉を聞きとり、違う立場の人と向き合い、対話を重ね、そして一緒になって神様を賛美し感謝します。聖母マリアの人生も、まさしく寄り添って歩む「ケア」の文化を生きた人生です

世界中に暴力が満ちあふれているいま、必要なのは、「ケア」の文化を確立することです。そのためにも教会はその働きを具体化する場として役割を果たしていきたいと思います。互いへの思いやり、いたわり、迎え入れる態度、耳を傾ける態度は、ですから福音宣教の態度です。

世界に神の平和が確立するために、まず足もとから、自分のいる教会共同体から、互いに助け合う「ケア」の共同体を生み出し、聖母マリアと共にこの一年、福音をあかしして歩みましょう。

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新年明けましておめでとうございます

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皆さま、新年明けましておめでとうございます。

新しい年の始まりにあたり、皆さまの上に神様の豊かな祝福があるように、お祈りいたします。神の民の一員として、歩みを共にしてくださる皆さま、お一人お一人の上に、聖霊の導きと護り、祝福が豊かにありますように。

どうかこの一年も、シノドスの道を歩み続ける教会にあってそれぞれの場で福音をあかしされ、また教会のため、教皇様のため、教区のため、そして司教や司祭のために、お祈り続けてくださいますようにお願い申し上げます。同時に、一人でも多くの司祭や修道者が生み出されるように、召命のための祈りもどうかお願いいたします。

東京教区では、昨年12月16日にアンドレア補佐司教が誕生しました。アンドレア司教様には12月18日付けで、司教総代理に就任していただきました。今後、アンドレア司教様には総代理として、司祭団との窓口や小教区との窓口として、様々な役割を果たしていただきます。

これまで司教総代理を務められ教区のために司教を支え補佐してくださった稲川保明神父様に心から感謝いたします。稲川神父様には今後も、教区の法務代理として、また司教顧問のひとりとして、務めをお願いしています。

それでは2024年が、神の平和の実現する祝福に満ちた一年となりますように、祈り続けましょう。

以下、東京教区ニュースの新年号の冒頭に掲載してあります、年頭の司牧書簡の原稿を掲載いたします。

大司教司牧書簡
「つながり」の教会のために
2024年1月1日
東京大司教
タルチシオ 菊地 功

はじめに
2017年12月に東京教区の司教として着座して以来、今年で7年目を迎えました。この間、様々な出来事がありましたが、わたしが牧者としての務めを果たすことができたのは、みなさんのお祈り、ご協力、そしてご支援のおかげです。東京教区の信徒のみなさん、修道者のみなさん、そして司祭団が、ともに歩んでくださったことを、こころから感謝しています。

この7年間、わたしは「つながり」、あるいは「交わり」を大切にしようとしてきました。それは11年前の2015年に発表された教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』に触発されてのことです。

教皇様はこの文書で、いわゆる環境問題についての具体的な行動を求め、とりわけ「エコロジカルな回心」を求めておられます。しかし、よく読んでみると「つながっている」という表現が何度も登場します。「すべての被造物はつながっている」(42項)、「あらゆるものはつながっている」(117項)などです。

「関連」、「結びつき」、「つながり」、「統合的」といった、あるものとあるものを結びつけ、その関わりあいを示す言葉が回勅のキーワードとなっています。ですから回勅『ラウダート・シ』は環境問題に関する教会のメッセージにとどまるのではなく、現代社会が忘れている「つながり」をもう一度回復しようではないかという、信仰におけるメッセージともなっています。

わたしたちが洗礼の時にいただいた恵みをさらに豊かにするためには、「つながり」という視点からわたしたちの生き方と生活を見直す必要があります。

宣教司牧方針
2020年に『東京教区宣教司牧方針』を策定しました。これを策定するためには時間をかけ、広く皆さんから意見や活動の様子を教えていただきました。どの小教区共同体でも、それぞれの状況に応じて活動を工夫し、抱えている課題や困難に挑んでいる様子がよく分かりました。

わたしは、こういった教会の生きている姿を、教区全体で分かち合いたいと考えました。また、同じような方向性を持っている活動や取り組みの「つながり」を作りたいとも考えました。一つひとつの行動は小さなものであっても、「つながり」を作ることで大きく、堅固なものになると信じているからです。また、教区全体の「つながり」の中で、皆でこころを一つにして祈ることは大切だと思ったからです。

そこで「つながり」を念頭に置いて、この『東京教区宣教司牧方針』を書きあげました。例えば、教区内のさまざまなグループがおこなっている「愛のわざ」が教区全体として統合できるようにと「教区カリタス」としてカリタス東京の設立を優先課題に盛り込みました。また、教区内の多くの外国籍の信徒の皆さんの「つながり」を強固なものとすることも記しました。孤立しがちなひとたち、とりわけ社会的弱者、社会的マイノリティーとの連携ができる小教区共同体となることを呼びかけました。さらには、長年の姉妹教会であり、現在も紛争の中で苦しんでいるミヤンマーの兄弟姉妹への援助もお願いしました。

すべては「つながり」という視点からです。教会においては、誰も一人で孤立して活動することはあり得ません。時間と空間を超えてつながっているのが、教会共同体です。2020年は新型コロナウイルス感染症の蔓延による、いわゆる「コロナ禍」が始まった年でした。パンデミックに影響され「つながり」が薄らぎつつある社会にあって、わたしたちの教区は神と人と、人と人の「つながり」を大切にするようにと努めてきました。『東京教区宣教司牧方針』をもう一度見直してみると、三分の二以上の項目において、この四年間で何らかの進展が見られます。特に、カリタス東京と教区カテキスタ制度の活動は目覚ましいものがあります。ここに関わってくださった方々に改めてお礼を申し上げます。

現代社会と教会
現代社会は「無関心」、「使い捨て」、「対立の文化」が顕著に見られます。個人を重視するあまり、逆に隣人への「無関心」が生まれます。自分の生活に精一杯で、他人に対してこころを砕くことが忘れられています。大量消費が経済の基調となっていますから「使い捨て」は当然なことです。使い捨てて、新しいものを購入するからです。物事の評価は役に立つか否かが基準となりますから、人間ですらも使い捨てられるようになります。人の集まりは分断されて「対立の文化」が生じます。生活の格差、経済の格差が生じて、格差の上にいる人々と下にいる人々は決して交わることはありません。

このような現代社会にあっては、「わたしたち」という共同体の意識は生まれてきません。なぜなら「わたし」が世界の中心だからです。当然、「ともに」という思いも生まれません。「つながり」がないからです。

いつの間にか、こういった社会の風潮に教会も流されているように感じます。人と人との「つながり」が希薄になるということは、わたしたちキリスト信者の神との「つながり」にも影響をおよぼします。もしわたしたちが神との親密さを生きれば、当然、隣人との親密さも生きるようになるはずです。なぜならば、聖霊は「つながり」において働かれるからです。すなわち「つながり」は愛の働きなのです。神との交わりを生きようとするとき、当然、人との交わりはないがしろにはできません。どちらも愛の介在があるからです。

しかし、毎週のように主日のミサに通いながらも、普段の生活では「無関心」、「使い捨て」、「対立の文化」を生きているのであれば、それは主イエスのみ心を生きたことにはならないでしょう。

ですから、わたしたちには『ラウダート・シ』が示すように統合的な回心が必要になります。生活のあり方、生き方のすべてを見直す回心が必要です

ケアする教会
ここで「ケア」という言葉に思いをはせてください。もともとは「お世話する」という意味ですが、現在、いろいろな分野で使われるようになりました。そして、教皇の文書でもよく使われています。「お世話」、「気づかい」、「配慮」、「他者への寄り添い」、「関わり」などと言い換えることができます。社会科学の分野では、この言葉の翻訳の難しさが指摘されています。そのため日本語に直さずに「ケア」とそのまま使うようになりました。

「ケア」は人と人との「つながり」を表す言葉です。そして、「ケア」する者とされる者という上下関係の意味はありません。むしろ兄弟姉妹として、お世話し、気づかい、配慮し、寄り添うのが「ケア」です。

「ケア」はお互いを大切にし、お互いに耳を傾け、向き合い、対話することを目指します。言い換えれば「ともに歩む」ことです。

教会はケアの場所です。人と人との「つながり」を大切にするからです。誰も排除されず、相手の言葉を聞きとり、違う立場の人と向き合い、対話を重ねていきます。そして、神から造られたものであることを、ともに喜び、感謝します。

ケアする教会の中心には、いつも聖体祭儀、すなわちミサがあります。ご聖体のイエスは、わたしたちのお世話のため、わたしたちに気づかうため、わたしたちに寄り添うために、小さなホスチアの形になってわたしたちのこころに来てくださるからです。ご聖体のあるところには、「ケア」する主ご自身が、いつも共におられます。

いくつかの勧め
『東京教区宣教司牧方針』を実行するために、そして、「つながり」を大切にするために、わたしは東京教区の牧者として、次の四つの点を呼びかけます。

1. ミサを大切にしましょう。
ミサは「ともに祝うキリストの過越の記念」です。近年の個人主義的な生き方が尊ばれる風潮にあっても、教会はともに集うことを大切にします。ミサを通じて神さまと出会い、人と出会うのです。ミサなしの教会は考えられません。

キリスト信者としての生活にミサ、とりわけ主日のミサを中心に据えることを重要視しないことは考えられません。主日にはできるだけミサに参加してください。できるだけ定期的にミサに参加してください。

御聖体の神秘は、わたしたちの想像をはるかに超えるものです。できるだけ頻繁にミサに参加して、神との「つながり」、隣人との「つながり」を深く味わっていただきたいものです。

残念なことに司祭の高齢化と召命の減少のため、小教区の中には司祭が兼任となるところも増えつつあります。教区としてはできる限りミサが行えるように、小教区司牧以外の使徒職に携わる司祭の応援も得て、ミサが継続できるように努力をして参ります。

2. お互いに受け入れましょう。
ケアする教会では誰も排斥されてはなりません。幼児、子ども、青年、大人、高齢者、障碍者、外国籍の人、社会の中で異質と見なされる存在などなど。共同体から退けられる可能性はだれにでもあります。大多数にとって異質だと見なされたとき、排除や排斥が正当化されてしまいがちです。異なる存在に目をふさぎ、自分たちだけの都合のよい集いになってはなりません。

教会は、貧しい者のための教会です。低迷するいまの日本の社会にとって、貧しい者とはわたしたち一人ひとりのことをも指しているのかもしれません。教会にある豊かな「つながり」のおかげでわたしたちは貧しくとも、ともに歩んでいけるのです。この豊かな「つながり」に、一人でも多くの人を招き入れましょう。

3. 「分かちあい」を目指しましょう。
ケアする教会は、ともに歩む教会です。それは、聞く教会であり、分かち合う教会でもあります。一人ひとりが考えたこと、感じたことを分かち合う時、大きな実りを共同体にもたらすはずです。

少数の人の声に従っていくのではなく、互いに耳を傾け合い、互いの声を聞きながら、多数決での結論を急がずに、ともに祈って聖霊の導きを見いだしながら、共同体のために何かを決定していく姿は教会ならではのものです。それこそが「シノドス的な教会」と言えるでしょう。

4. 宣教する教会となりましょう。
「ケア」は人との「つながり」を表します。家庭で、地域で、職場で、わたしたちは隣人との関わりを生きます。十字架上で「自分のいのちをささげるまでにケア」なさったイエスのように生きたとき、人々はそこに神の姿を見いだすのです。わたしたちは「ケア」を通じて、福音宣教をしているのです。自分のために生きるのではなく、惜しみなく隣人に自分自身を与え尽くすような生き方を目指していきましょう。

おわりに
昨年の終わりに、わたしたちの教区に新しい補佐司教が誕生しました。みなさんのお祈りのおかげで、主は、新しい牧者をわたしたちのもとに送ってくださいました。アンドレア・レンボ補佐司教が主から委ねられた牧者の務めを力強く果たすことができるようにと、これからもお祈りください。

東京教区の牧者として着座して6年、多くの方々に支えられて過ごせたことに感謝しています。教区の長い歴史の中に、わたしもつながっていることに感謝しています。またその責務の重大さに、いつもこころを震わせています。しかし、帰天された先輩の司教さま方と司祭の方々が天国から見守ってくださっているおかげで、主から課せられた牧者の務めを果たすことができています。

社会の厳しい現実にみなさんと一緒に向き合い、担い合えるのは大きな喜びです。このように共同で責任を担うことで、将来に向けた歩みを少しずつ進めることが可能になります。これこそが、カトリック教会が求めている「ともに歩む」教会の姿です。みなさんと一緒に、聖霊がわたしたちの教区に求めている道を祈りの中で識別していきましょう。

 

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