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2024年1月13日 (土)

ご公現の主日@東金教会

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1月7日の主のご公現の主日は、午前中に、千葉県の東金教会を訪問し、一緒にミサを捧げてきました。

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60名ほどが集まり、小さな聖堂は一杯でした。ミサ中、リードして聖歌を歌うお二人がとても上手で、特に男性は朗々とした声で歌われ、のど自慢にでも出たら良いのではないかと思わせる声量と技量でした。ミサ後の茶話会でお聞きしたら、なんとすでにNHKののど自慢で、合格の鐘を鳴らした経験の持ち主でした。

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ミサがおわってから、主任の小沢神父様のリクエストで、30分ほど、シノドスについてお話をさせていただき、その後、皆さんで会場を移動して聖堂裏のホールで茶話会となりました。

今年は、すでに1月1日の夕刻、習志野教会でベトナム人の方々と正月のミサを一緒に祝い、そして1月7日には東金教会と、司牧訪問で一年を始めることができました。お呼びくださった、習志野教会のディン神父様、東金教会の小沢神父様、ありがとうございます。皆さんのこの一年の上に、豊かな祝福をお祈りいたします。

以下、東金教会でのミサ説教の録音を起こした原稿です。

主の公現ミサ
東金教会
2024年1月7日

今年の始まりには、1月1日の夕方に大きな地震が起こり、百人を越す方々が亡くなられました。今の時点では被害の全容は明らかではありませんし、一週間経った今日も緊急の救援活動が続いていますので、これからも被害の大きさは、更に拡大するかもしれません。

ご存じのように、石川県は名古屋教区です。能登半島の輪島の街は、かなり被害が大きいと聞いています。七尾教会の建物は大丈夫だったようです。今日の日曜日は、名古屋教区の松浦司教様とカリタスジャパンを担当している新潟の成井司教様はじめ、錦秋支援のための方々が七尾でミサを捧げ、その後できれば輪島まで行き、被害の状況を確認すると報告をいただいています。
日本のカトリックの司教団には、カリタスジャパン以外に、災害が起こったときの緊急対応支援チーム(ERST)があり、全国に何人かのメンバーを常時任命しています。東北の大震災の教訓として設置されました。そのうちの数名が司教様たちと一緒に出掛けて行き、現地の状況を見て、また今週以降、どういう形で支援することができるかを考え、教会全体のお願いすることになっています。

もちろん、日本では災害が起こると、自衛隊と警察と消防があっという間に動員され、緊急災害の救援にあたります。問題は緊急の段階が終わったそのあとです。一週間、二週間、三週間と時間が経過すると、そうした当初の緊急事態が終わり、自衛隊や警察、消防も引き上げ始めます。そのあと、この被害を受けた方々を、どういった形で支えていけるのかという段階で、いわゆる民間のNGOの出番になります。

そうすると教会にも、対応するべきこと、やることがたくさん出てきます。2011年の東日本大震災のときもそうでした。緊急事態の最初の段階が終わった後に、被災地に生きていく方々と、どのような形で一緒に復興の道を歩んでいくのか。つまり共に歩むということの大切さが身にしみて感じられる段階に入っていくのです。

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ちょうどいま教会は、「シノドス」の道をともに歩んでいます。共に歩んで行く教会とはどのような教会なのかということをテーマとして、みなで考えて道を見いだすことを教皇様は世界の教会に呼びかけています。

シノドスの第一会期の会議が去年の10月にローマで行われ、それにわたしも日本の代表として参加してきました。今年の12月に第二回目の会議が行われることになっています。いま教会は、共に歩む、一緒に歩んで行く共同体なのだということを、とても重要視しています。みなに一緒に歩いて行きましょう、と呼びかけています。

その一緒に歩くというのはいったいどういうことなのか。ただ単に道を一緒にぶらぶら歩いて行くということではなく、もっと違うことを求めているんですね。

それは、たとえばこの間、12月16日にアンドレア補佐司教様の司教叙階式がありました。参加されたミャンマーの司教様が、叙階式の後でわたしに話してくださったことがあります。東京教区はケルン教区と一緒に、長年にわたってミャンマーの教会を支援してきました。ミャンマーに神学校を建てたり、神学生のための養成費を出したりしています。そのために、ミャンマーからお一人、司教様が叙階式に参加されるために来日されました。教会はミャンマーの軍政に対して反対の声をあげ、平和を確立するように呼びかけているのですが、それが反政府活動だとして攻撃されています。そのために教会がある町が空爆を受け、信者さんの中にも被害を受けている方がいますし、教会もいくつも破壊をされているという状況の中にあります。

そういった事情をいろいろと伺いましたが、そのお話の中で一番印象的なことは、「わたしたちの国のことが忘れられてしまっている」という言葉でした。

「今は、ウクライナやガザなど、世界中のさまざまなところで戦争や紛争が起こっている。そちらの注目が集まって、わたしたちの国のことが忘れられてしまっている」ということを、盛んに訴えられました。「ですから、司教さん。日本の教会の人たちに、どうか忘れないで下さいと伝えてほしい」とおっしゃっていたんです。

実は、この「忘れないでほしい」という叫びは、いろんな災害や、紛争、戦争、混乱など、いのちに関わる様々なことが起こっている現場に出かけて行くと、どこででも、現地にいる人たちが必ず口にする言葉です。「忘れないで下さい」、「わたしたちのことを忘れないで下さい」と。忘れられることほど、生きる希望を奪い去ることはありません。自分たちが困難に直面しているときに、誰かが心配してくれている、誰かが自分たちのことを心にかけていてくれるという確信は、生きる希望を生み出しますよね。反対に、忘れられたということを思い知らされたとき、人は絶望に陥るんです。そして、生きる希望を失っていく。

ですから、災害の被害を受けられた方と共に歩み続けるという姿勢の根本には、忘れないでいるということがあるのだと思います。

わたしたち日本の教会は、東北の地で2011年から十年以上にわたり、東日本大震災の被災地を支えてきました。それはただ単に、お金を送ったとか、人を送ったということではなく、被害を受けられた方たちと、忘れず共にいる、忘れずにいるということを、ともに歩む姿勢を持って実践してきたことだと思います。NGOや様々な団体が、資金を注ぎ込んでいろんなものを建てたり、いろんなプログラムを始めたりしました。それも必要なことです。でも、カトリック教会がずっとそこで地道にやってきたのは、皆さんのことを忘れていませんよ、日本の教会は東北の震災の被災者の人たちを忘れませんよということを、自分たちの存在を持ってあかしすることでした。

いま、教会が呼びかけているシノドスの歩みは、まさしくこの経験、東日本大震災から始まった十年以上の経験と重なっているように思います。つまり日本の教会は、すでにシノドス的な歩みを実践してきただのです。

ですからそれをいま、同じように災害の被害に直面している能登半島の方々と共に、忘れずに、支えていくということを、心がけていきたいと思います。

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そのような中で、今日は主のご公現の主日です。三人の博士が聖家族を尋ねて来て、幼子イエスに贈り物を捧げたという話が読まれます。今日の主日でクリスマスから続いている降誕祭は締めくくりとなり、降誕祭のお祝いが終わります。

このご公現のお祝いというのは、ベツレヘムで、集まって来た羊飼いたちにイエスが誕生したことが告げられた、それは単にイスラエルの民に限定された喜びなのではなく、ただ単に、イスラエルという限定された地域だけでの喜びではなく、三人の博士が東方からやってきたという話を通じて、世界に向けた喜びなのだと再確認するお祝いです。世界に向けて人類全体の救い主の誕生を告げる大きな出来事なのだということを象徴するために、東方からやって来た、つまりユダヤ人でもイスラエルの人でもない他の国から、三人の博士が贈り物を持ってきた話が降誕祭の終わりに読まれます。世界に向けて、ここに神が産まれたのだと。ここに、神の言葉が人間となって、いま誕生したんだということを、世界に向かって告げたということです。救い主は、誰か特定の人たちだけの救い主ではなくて、世界の救い主なんだということを告げたというのが、この公現の主日の大きな意味です。

昨年の10月からです。その幼子が誕生したあの聖地で、本当に考えられないような残酷な、暴力的な方法で人の命が奪われている。いまはこういう時代ですから、インターネットやテレビなどで映像を見ることができますね。子供たちが、いともあっけなくいのちを奪われていく。一般の市民が、あっという間に戦いに巻き込まれていくのです。

そこには、様々な理由が背後にあります。当事者たちはみな様々な理由を述べ立てます。これこれこういう理由で攻撃するんだ、こういう理由があるから反撃するんだということを、盛んに言いながら、自分の正当性を強調します。ところがその正当化のために普通に生活している人たちが、いのちの危険に直面している。暴力的にいのちを奪われている。 

神が、人間のいのちとして誕生した。そして、それを世界に向けて告げたこの地で、いのちを暴力的に奪うということがいま、平然と行われているということは、本当に、怒りを超えて嘆かわしいことです。悲しいことだから、特にこのクリスマスの時期に平然と暴力が行使されているということに対して、ただ単にやめてくれというだけでなく、これは我々キリスト教徒からすれば、神に対する冒涜です。キリストが誕生したその地で、しかもそれを祝っている、まさしくこのときに、いのちを奪うような暴力を平然としていることは、いのちを創造されひとりひとりを愛される神に対する冒涜です。

世界中で、イスラエルやガザだけでなく、世界中で、いのちを暴力的に奪うということが平然と行われている。それは神に対する攻撃であり、いのちを創造された神に対する冒涜なのだということを、わたしたちは力強く伝えていかなければなりません。それはガザでも、ウクライナでも、ミャンマーでも、世界のいたるところで、いのちが暴力によって、つまり、人間の身勝手さによって奪われてしまっているという事実に、わたしたちは眼をつむっていてはいけないということでもあります。

神が人のいのちとして誕生し、それが救い主だということが、世界中に向けて告げられたこの公現の主日。是非ともわたしたちは、そのいのちを大切にする、いのちを護るんだ、それを最優先にするんだということを、わたしたち一人ひとりに与えられたいのちを、大切にするということを、こころに誓って広く告げ知らせていきたいと思います。

 

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