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2024年2月24日 (土)

週刊大司教第157回:四旬節第二主日

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四旬節第二主日となりました。

昨日まで、バンコクではアジア司教協議会連盟(FABC)の年に一度の中央委員会が開催されていました。アジアの各国地域の司教協議会会長がメンバーで、今回は16名の会長司教が集まりました。私はFABCの事務局長を務めています。今回は役職者の選挙があり、来年2025年1月からの3年間の新しい指導体制が決まりました。現在のミャンマーのボ枢機卿様と交代して新しい会長にはインドはゴアのフィリッポ・ネリ・フェラオ枢機卿様、副会長に現在のスリランカのランジット枢機卿様に代わりフィリピンのカローカンのパブロ・ダビド司教様が選出され、事務局長は私が二期目に再選されました。FABCに関しては、別途記します。(下の写真、一列目中央の白いシャツがボ枢機卿、その向かって右がダビド司教、左がフェラオ枢機卿、さらにその左がボンベイのグラシアス枢機卿、その左隣がわたし)

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四旬節には、特に金曜日に十字架の道行きを行うことが勧められており、小教区でそのための時間が設けられているところも多くあろうかと思います。昨年の四旬節に、お一人でも、また自宅でも、十字架の道行きをするための手助けになればと、十字架の道行きのビデオを作成しました。最初に私の解説が少し入っています。本などなくても、画面に言葉で出てきますので、一緒に唱えていただけます。ご活用ください。こちらのリンク先の東京教区Youtubeチャンネルにあります

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第157回、四旬節第二主日メッセージ原稿です。

四旬節第二主日B
週刊大司教第157回
2024年2月25日

イエスの福音宣教は、旅路です。イエスは、一定の成果を手にし、安心と安全を得た地にとどまり続けることをよしとせず、福音を告げるために旅を続けます。その旅は、常に挑戦に満ちあふれていますが、臆することなく、イエスは福音をあかしし続けます。

マルコ福音は、その旅路を歩むイエスが、三人の弟子たちの前で光り輝く姿に変容した出来事を伝えています。神の栄光を目の当たりにし、

「これは私の愛する子、これに聞け」という神の声を耳にしたペトロは、その栄光の輝きの中に留まり続けることを望み、仮小屋を三つ建てることを提案します。しかしイエスは歩み続けます。

本日の第一朗読である創世記は、神からの試練の内にあるアブラハムが、神への信頼のうちに理解不可能な未知の領域に歩みを進める姿を記しています。イサクを献げるようにと言う、神からのいわば無理な要求です。アブラハムは、今の安定に留まることなく、神に従って前進することを選びます。アブラハムの人生は、安定に留まらず、常に挑戦しながら旅を続ける人生でした。その生き方を、神は高く評価しました。

信仰は、わたしたちに常なる挑戦へと旅立つことを求めます。

四旬節にあたり教皇フランシスコは、「荒れ野を通り、神はわたしたちを解放へと導かれる」というタイトルのメッセージを発表されています。

メッセージの中で教皇は、わたしたちが回心の道を歩み続けることを、荒れ野を旅したイスラエルの民になぞらえ、「希望を失い、荒れ果てた地にいるように人生をさまよい、ともに向かっているはずの約束の地が見えないとき」、民は元の奴隷状態を懐かしみ、前進するよりも過去に縛られ続けようとしたことを指摘します。

同じように、現代社会に生きているわたしたちも、「世界規模での兄弟愛の実現を目前にしながら、科学、技術、文化、法制度が、万人の尊厳を保証しうる水準にまで発展しながら、格差と紛争の闇を進んでいること」の理由は、罪の状態から解放されようとするよりも、「自由を犠牲にしてまでも、なじんでいるものの安心感に惹かれる」わたしたちの弱さであり、他者の叫びへの無関心であると指摘されています。

その上で教皇は、教会のシノドス的な姿を追求することは、「四旬節が共同体での決断の時でもあると示唆してくれます。個々人の日常を改め、地域の生活を変えうる、今の流れとは違う選択を大小さまざまに行う時です。購買の意識化、被造物のケア、社会から無視され見下げられている人たちの受け入れ、そうしたことを選択していくのです」とのべています。

わたしたちは安住を求めるのではなく、常に挑戦し続けながら前進を続ける神の民です。希望が見いだせないときにも、「奴隷状態から抜け出る勇気」をもって、歩み続けたいと思います。

教皇様は、「信仰と愛が希望に歩みを教え、希望が信仰と愛を引っぱっていくのです」と記されます。勇気を持ってともに歩み続けましょう。

 

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2024年2月17日 (土)

週刊大司教第156回:四旬節第一主日B

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今年は復活祭が3月の末日と、例年より早い暦となっているため、すでに四旬節が始まりました。先日の水曜、2月14日が灰の水曜日でした。2月18日の日曜日は、四旬節第一主日です。

四旬節は、信仰の道を歩んでいるものにとって、ふさわしく神の方向を向いて歩んでいるのかどうかを見つめ直す回心の時であり、同時に、復活徹夜祭での洗礼式を目指して、洗礼の準備を続けてきた方々が、個人の信仰における決断の最後の仕上げとして、教会共同体と歩みを共にし始める時でもあります。

多くの小教区で、四旬節第一主日に洗礼志願式が行われますが、これは洗礼への準備が、個人的で内面的な準備の段階から、共同体としての歩みに向けた公の準備の段階に移行したことを象徴しています。四旬節の間、教会共同体は、新しく共同体の一員となろうとしている人たちと、一緒に歩む道のりを開始します。信仰における仲間を迎え入れるプロセスが始まったと認識ください。

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この一週間、日本の司教団は定例司教総会を行いました。今回は、昨年12月に司教叙階されたアンドレア・レンボ司教様にとって、初めての司教総会でした。日本の司教全員が集まり、様々な課題について議論し、また共に学び合いました。議決などについては、今後、カトリック新聞などで広報されることになりますので、そちらをご覧ください。なおレンボ司教様は司教団の中で、司祭生涯養成委員会のメンバーとして関わってくださることになりました。わたしたち司教団のためにお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。

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先日の月曜日、2月12日午前中に、東京教区内で活動するカトリックスカウトが東京カテドラルに集まり、BP祭ミサが捧げられました。ミサは私が司式いたしました。久しぶりに聖マリア大聖堂に一杯のスカウトが集まり、互いの絆を確認しました。BP祭は、スカウト運動の創始者であるロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生を祝って、その誕生日が1857年2月22日であることから、それに近い日を選んで行われています。今年は5月に代表団がケルンを訪問することにもなっており、その方々へのエールも送られました。

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既報ですが、この東京のカトリック・スカウトの代表団は、ケルンでの「アルテンベルグの光」の行事に参加することになっています。「アルテンベルグの光」については、こちらのリンクから、東京教区ニュースの記事をご覧ください

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第156回、四旬節第一主日のメッセージ原稿です。

四旬節第一主日B
週刊大司教第156回
2024年2月18日

マルコ福音は、イエスの物語を、簡潔に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた話ではじめ、そして荒れ野における40日の試練の物語と続けています。この簡潔な荒れ野の試練の物語のなかで、福音は三つのことを伝えようとしています。

まず第一に、イエスは聖霊によって荒れ野へと送り出されました。荒れ野とは、普通で安全な生活を営むことが難しい場であります。いのちを危機に陥れるありとあらゆる困難が待ち構えていることが容易に想像できるにもかかわらず、イエスは聖霊の導きに身をゆだねました。聖霊の働きと導きに恐れることなく完全な信頼を寄せるイエスの姿勢が記されています。

そして第二に、40日にわたって荒れ野でサタンの誘惑を受けられたと記されています。逃げ出すことが出来たのかも知れません。しかし聖霊の働きと導きに完全に身をゆだねたイエスは、困難に直面しながらも、御父の計画に信頼し、その計画の実現のために配慮される御父への信頼のうちに、希望を見いだしていました。

三つ目として、イエスは荒れ野での試練の間、人の命を脅かす危険に取り囲まれながらも、天使たちに仕えられていたと記されています。すなわち困難に直面する中で、聖霊の働きと導きに身をゆだね、御父の計画に信頼を置くものは、神の愛に基づく配慮に完全に包み込まれ、それがために命の危険から守られることが記されています。

荒れ野での40日間の試練は、身体的な困難を乗り越えただけではなく、また心の誘惑に打ち勝っただけではなく、信仰、希望、愛を改めて見いだしそれを確信し、そこから力を得た体験です。信仰、希望、愛に確信を見いだしたとき、イエスは福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見いだしました。

四旬節は、わたしたちが信仰の原点を見つめ直し、いつくしみに満ちあふれた御父の懐にあらためて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。わたしたちも、信仰、希望、愛に生きている自分の信仰を見つめ直すことで、神のあふれんばかりの愛といつくしみのうちに生かされていることを改めて確信し、その確信に基づいて、この世界で福音をのべ伝えるためのふさわしい「時」を見いだすよう招かれています。

そのために教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行いで、自分の信仰の振り返りをするように呼びかけています。また四旬節におこなわれる献金は、特に教会共同体の愛の業を目に見えるものとする象徴です。日本の教会では、四旬節の献金はカリタスジャパンに送られ、国内外の愛といつくしみのための業に使われていきます。

みなさん、この四十日の期間、互いに支え合う心をもって、愛の業のあかしの内に歩み続けましょう。わたしたちの信仰は知識だけで終わるものではありません。

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2024年2月10日 (土)

週刊大司教第155回:年間第6主日B


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メッセージでも触れていますが、2月11日はルルドの聖母の日であり、世界病者の日でもあります。

教皇様はこの日にあたり、世界病者の日のメッセージを発表されています。こちらをご覧ください

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、2月11日の午後2時から、カリタス東京が主催して、世界病者の日のミサが捧げられます。今年の司式は、アンドレア補佐司教様です。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第155回目のメッセージ原稿です。

年間第六主日B
週刊大司教第155回
2024年2月11日
世界病者の日

マルコ福音は、重い皮膚病を患っている人の、「御心ならば、私を清くすることがおできになります」という叫びに対して、イエスが「深く憐れんで」、奇跡的に病気を治癒した物語を記しています。

よく知られているように、このイエスの心持ち、すなわちここで使われる「深く憐れんで」という言葉の原語は、「はらわたが激しく動かされるさまをあらわす語」であります。つまり、病気であることだけではなくそれに伴って社会の中で周辺部に追いやられその存在すら否定されている人に対するイエスの深いあわれみといつくしみの心がこの言葉で明らかにされています。

主イエスによる病者のいやしは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その出来事が神の栄光を現していることは忘れてはなりません。しかし、同時に、さまざまな苦しみから救い出された人の立場になってみれば、それは人と人との繋がりから排除されてしまったいのちを、いやし、慰め、絆を回復し、生きる希望を生み出した業でもあります。孤独の中に取り残され孤立し、暗闇の中で不安におののくいのちに、歩むべき道を見いだす光を照らし、そのいのちの尊厳を回復する業であります。神が与えられた最高の賜物であるいのちの尊厳を明らかにしている、まさしく神の栄光を現し、神のいつくしみと愛を明確にする業であります。

今年の年間第六主日は、世界病者の日であります。1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた奇跡的出来事を記念する日です。聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。わき出る水は、ルルドの地で、また世界各地で病気の治癒の奇跡を起こすことがありますが、それ以上に、病気によって希望を失った多くの人たちに、いのちを生きる希望と勇気を生み出す源となっています。

この日を世界病者の日と定められた教皇聖ヨハネパウロ2世は、病気で苦しんでいる人たちのために祈りをささげるように招くと共に、医療を通じて社会に貢献しようとする多くの医療関係者や病院スタッフ、介護の職員など、いのちを守るために尽くすかたがたの働きに感謝し、彼らのためにも祈る日とすることを呼びかけました。この二つの意向を忘れないようにいたしましょう。

今年の世界病者の日のメッセージにおいて教皇フランシスコは創世記に記された「人が独りでいるのはよくない」という言葉を取り上げ、「関係性をいやすことで、病者をいやす」をテーマとされました。

メッセージで教皇は、「孤立することによって、存在の意味を見失い、愛の喜びを奪われ、人生のあらゆる難局で、押しつぶされそうな孤独を味わうことになる」と指摘し、その上で、「病者のケアとは、何よりその人の関係性、つまり神とのかかわり、他者――家族、友人、医療従事者――とのかかわり、被造物とのかかわり、自分自身とのかかわり、そうしたすべての関係をケアすること」なのだと強調されます。病気に苦しむ人の叫びを耳にして深く憐れまれたイエスに倣い、わたしたちも、イエスのいつくしみ深いまなざしを自分のものとするように、務めたいと思います。

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2024年2月 8日 (木)

2月8日は聖ジョゼッピーナ・バキータの祝日

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2月8日は、聖ジョゼッピーナ・バキータの祝日です。

以下、2021年2月7日の「司教の日記」に記したことの再録ですが、最後に、今年、2024年2月8日のタリタクム主催の祈りの集いについてのお知らせも記しています。そちらも是非ご覧ください。

聖人は、1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれました。

聖人はカノッサ修道会の会員でした。同会のホームページにはこう記されています。(写真はカノッサ修道会ホームページより)

「バキータは男3人、女3人の6人兄弟でした。お姉さんは1874年、奴隷商人たちにさらわれました。バキータは7歳のころ2人のアラビア人にさらわれました。1ヵ月間監禁され、その後、奴隷商人に売り飛ばされます。ありったけの力をしぼって脱走を試みましたが、羊飼いにつかまり、間もなく、冷酷な顔立ちのアラビア人に売り払われます。その後、奴隷商人に売り払われます」

その後、様々な過酷な体験を経て、イタリアにおいて1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。同修道会のホームページに聖バキータの次の言葉が紹介されていました。

「人々は私の過去の話を聞くと、「かわいそう!かわいそう!」と言います。でも、もっとかわいそうなのは神を知らない人です。私を誘拐し、ひどく苦しめた人に出会ったら、跪いて接吻するでしょう。あのことがなかったら、私は今、キリスト者でも修道女でもないからです」

聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間的な尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために、教皇様は祈ること、その事実を知ること、そして行動するようにと、2015年の世界平和の日のメッセージで呼びかけられました

2015年のメッセージで、教皇様はこう述べておられます。

「国際社会があらゆる形の奴隷制を終わらせるために数々の条約を採択し、その問題に対するさまざまな政策を行っているにもかかわらず、何百万もの人々、子どもやあらゆる年代の男女が、現在でも自由を奪われ、奴隷のような状態で生きるよう強いられています」

その上で教皇様は、こう指摘します。

「過去と同様、現在においても、奴隷状態の根本には、人を物のように扱うことが許されるという人間の考えがあります。罪が人の心を堕落させ、創造主や隣人から遠ざけるとき、隣人は、もはや同じ尊厳をもつ人、人間性を共有する兄弟姉妹としてではなく、物として考えられてしまいます。神の似姿として神にかたどって造られた人間が、抑圧、裏切り、または身体的・心理的な拘束によって、自由を奪われ、売られ、他の人の所有物にされます。彼らは目的のための手段として扱われているのです」

人身売買・人身取引や奴隷などという言葉を聞くと、現代の日本社会とは関係の無い話のように感じてしまうのかもしれません。実際は,そうなのではありません。一般に「人身取引議定書」と呼ばれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性および児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には,次のような定義が掲載されています。

「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」
(同議定書第3条(a))

すなわち、売春を強制されたり、安価な労働力として,自己の意思に反して、人間の尊厳が守られないような状況下で労働に服させられている人たちの存在は、わたしたちの国でも無関係なことではありません。

以上、21年の引用です。今年、2024年2月8日にも、人身取引の廃絶を目指して、世界的な祈りのリレーがオンラインで開催される予定です。主催はタリタクム。

 女子修道会の国際総長会議(UISG)は、2月8日を「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」と定めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としていますが、それを実行するのがタリタクム。タリタクム(Talita Kum)は、修道会総長会議と連携し国際総長会議のプログラムのひとつで、人身取引の撲滅に取り組む奉献生活者の国際ネットワークです。日本でも活動しています。

本日の夕方に、オンラインで祈りの集いが行われるとのことです。詳しくはこちらのページをご覧ください。日本カトリック難民移住移動者委員会のホームページにあるお知らせです

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2024年2月 7日 (水)

2024年日本26聖人殉教祭@本所教会

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墨田区にある本所教会では、長年にわたって2月の最初の主日に、日本26聖人を記念し、殉教祭が行われてきました。かつては一日がかりの大きなイベントで、ミサや講演会の他、一日の締めくくりには聖体礼拝も行われていました。

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本所教会は、東京での4番目の教会として1880年(明治13年)の4月に聖堂が設けられ、そのときに「日本26聖人殉教者」に捧げられました。聖堂は度重なる火事や災害や空襲で焼失しましたが、現在の聖堂は1951年に、当時の主任司祭であった下山神父様によって建設されたものです。ちょうど私が神学生であった頃、70年代ですが、下山神父様は神言会の神学生養成を支援しておられ、その感謝も込めて、名古屋の神言会神学生はこの殉教祭に参加し、音楽を奏でたりしたものでした。

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さて、今年の殉教祭は2月の最初の日曜である2月4日でしたが、珍しく雨模様。少々肌寒い中捧げられたミサは、式文にラテン語も混じり、ミサ曲などもグレゴリアン。ミサ後には、シノドスについて30分ほどお話をさせていただき、その後、信徒会館で茶話会となりました。

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以下、当日のミサ説教の録音を起こした原稿です。

カトリック本所教会 日本二十六聖人殉教者祭
2024年02月04日

この数日、アフリカから友人の大司教さんが東京を訪問してくださっていて、本当は今日、一緒に来ようと思ったのですが、他の教会に呼ばれてしまいました。

アンゴラという国の、大司教様です。同じ、神言会という修道会の会員で、ちょうどわたしが昔、ガーナという国で働いていた頃、神学生としてアンゴラから送られてきて、1年間だけでしたが一緒にいたことがありました。彼はそのあとアンゴラで司教になり、今はウアンボという教区の大司教を務めておられます。

アンゴラという国は、元々ポルトガルの植民地でしたので、人口の半分くらいはカトリック信者です。ですから彼の教区も、百万人を超える信徒がいる大きな教区で、今では、神学校にも修道院にも、志願者が溢れているのだそうです。

先週の日曜日、関口教会で一緒にミサをしたあと、私の車に乗せて練馬の東京カトリック神学院へ行きました。彼は神学校を見て、「立派な建物ですね。」と。たしかに立派な建物ですし、ついこの間、増築をして部屋を増やしたばかりです。「神学生は何人いるんですか?」と聞かれたので、「二十人ちょっとくらいですかね」と答えました。「それは東京教区の神学生ですか?」と聞くので、「いやいや、東京教区には一人しかいません。あとはほぼ全国の教区の神学生で、これですべてです。日本の教会の神学生は、この二十数人と福岡のあと少しで、それですべてです。」とお話ししたら、とても驚かれました。

驚かれますよ。当然。ご自分のところは、神学校から人が溢れるくらい志願者がいる国ですからね。非常に驚かれ、同時に、その大司教さんは、「日本の教会、大丈夫ですか?」と心配をしてくれました。

たしかに今は、少子高齢化が激しく進んでいる日本です。勢いに満ち溢れているアフリカの教会の現状から見れば、日本の教会は衰退していきそうで、将来がとても心配に感じられたと思われます。

わたし自身もこの数年、東京教区にやって来てから、司祭の高齢化など、心配なことはあります。特に顕著なのは、女子の修道会、修道院の閉鎖が、相次ぎ、司祭不在の教会も、いまは増えていますね。この現状をみると、本当に大丈夫かなと、これから先が心配になりますよね。

でも、よく考えてみたら、教会は人間のわざではないのです。教会は神のわざのうちにある存在、神によって建てられている存在なので、本来は、我々がそこまで心配しなくても神様が心配してくれるもの。ですから、正直に言えば、わたし自身はそれほど心配をしていないのです。

第二バチカン公会議のあとに、パウロ六世教皇が、使徒的勧告の「福音宣教」という文書を書いておられました。そこには、「たとえわたしたちが福音をのべ伝えなくとも、人間は神のあわれみによって、何らかの方法で救われる可能性があります」と、つまり、わたしたちが福音を宣べ伝えなくても、神様は何らかの方法で人を救うでしょうと書いてあるんですね。

さっき福音朗読で耳にした、「全世界にいってすべての人に洗礼を授けなさい」という主御自身から弟子たちへの福音宣教の命令が書いてあったわけですけれども、じゃあ、わたしたちは何もしなくていいのでしょうか。

教皇パウロ六世は、そのあとにこう続けているのです。
「しかし、もしわたしたちが、怠りや恐れ、また恥、あるいは間違った説などによって、福音を宣べ伝えることを怠るならば、果たしてわたしたちは救われるでしょうか。もしわたしたちが宣教しないならば、福音の種が宣教者の声を通して実を結ぶことを望まれる神の呼びかけに、背くことになるからです。」

つまり、わたしたちが何もしなくても、確かに神様はご自分だけがご存じの方法で何とか人間を救おうとなさるでしょう。でもわたしたちは、すでに、あの福音宣教の命令、弟子たちがイエスから直接受けた、あの福音宣教の命令を受け継いで、洗礼を受け、この教会共同体に集っているのです。

ですから、わたしたち一人ひとりには、あの弟子たちに与えられた福音宣教命令が引き継がれているのです。神はわたしたちに、わたしたちの声を通して福音の種が、この世界で実を結ぶことを望まれている。その神の命令に背いてでも、神様が勝手にしてくださいと言っていていいのかということが、このパウロ六世の福音宣教という文章の中に、しっかりと記されています。

その考えに従って、第二バチカン公会議以降、いまに至るまで、教会はさまざまな改革を成し遂げようと努力してきました。いろんなことをしてきました。それぞれの時代に見合った形で、どうやったらこの福音の種が社会の中で現実のものとなっていくのか、その方法を見極めようと努力して来ました。

ただ、人間の考えは神様の考えに比べれば完全に浅はかですから、人間の考えだけに基づいて失敗したことは沢山あります。しかし、神様の考えている通りにできて成功したことも沢山あると思います。人間は限界のある存在ですから、失敗もすれば成功もします。でも、できる限り成功したいですよね。神様が考えている通りに、何とか福音がこの社会の中で実現するように働きたいですよね。そのために、神様が一体何を求めておられるのか、神様がわたしたちをどこに導こうとしているのかを知らなければ、人間的な考えで動いてしまいます。

そのあたりが、いま教皇フランシスコが、シノドスのためのシノドスを開いて、教会はシノドス的でなければならないということを強調している、一番の理由なんです。

1965年に閉幕した第二バチカン公会議以降、教会は、神様の声に耳を傾け、神様が望んでいることを実現するための教会になろうとさまざまなことしてきたけれども、いま振り返ってみると、根本がまだしっかりとできあがっていない。その一番の根本とは、それは、神様の声をしっかりと、みんなで聴くこと。一部の人だけでなくて、みんなで耳を傾け、教会共同体全体として、神様に導かれる教会はどこへ進んでいったらよいのかということを、しっかりと見極めることです。それを識別をすることといいます。その根本がしっかりと確立していなければ、失敗を重ねるだけなのだということに気が付かれて、教皇フランシスコは、シノドスの道を共に歩もうと呼びかけておられます。

それはどこから始まっているかというと、小教区からです。小教区の共同体から始まり、教区、そして全国、そして全世界の教会。この小教区の共同体のあり方が変わっていかなければ、教会全体は変わっていかない。いくらローマの改革をし、バチカンの改革をして、司教協議会などでいろいろ話しても、小教区の教会共同体が変わっていかなければ、何も成し遂げることはできない。だから、小教区の教会共同体で、共にシノドスの道を歩むということを考えてほしい。それが、教皇様の願いです。

それは、簡単に達成できることではありせん。簡単でお手軽な方法はないのです。では、どうするのか。

去年の10月のバチカンで開催されたシノドス第一会期の総会のとき、教皇様は度々会場に現れて、我々に何回も、何回も同じことを語りかけられました。それは、「ここにいるみなさん、あなたがたの好き嫌いを聞きたいのではありません。聖霊が主役なんです。」それを何度も、何度も繰り返されました。そのシノドスの道が、成功するかしないか、つまり教会共同体が変わっていくことができるか否かは、まさしく、わたしたちの好き嫌いではなくて、主役としての聖霊が本当に働く教会共同体なのかどうか、そこにすべてがかかっているのです。

今日、わたしたちが記念している、この二十六人の聖なる殉教者たちは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」という、パウロのガラテアの教会に宛てられた手紙の、あの言葉を、その人生をもって証しして生き抜いた人たちです。つまり、聖霊が彼らの人生の主役です。聖霊にすべてを任せて、それを生き抜いたのが、あの殉教者たちです。

ですから、十字架につけられて亡くなっていった、そのヒロイックな選択と行動自体にも大きな意味がありますが、それ以上に、そこに至るまでのこの聖人たちの人生のありようにも大きな意味があります。それがいかに、聖霊に導かれ、キリストを中心にし、わたしのうちに生きている神を、現実に社会の中で生き、証しをしていったかという、その人生に大きな意味があると思います。

二十六人の聖なる殉教者たちは、福音に従い信仰に生きるということが、その命を失うこと以上に価値あることなのだと証しされました。それは、わたしたちも倣うことができる生き方であります。いまのこの日本の社会の中で、信仰をもっているがために十字架につけられることや、実際に命を奪われることはないと思いますが、この社会の中で福音に従って生きることは容易なことではありません。独りでは難しいのです。ですから、教会共同体で共に歩み、共に福音を証ししていく、このシノドスの道が不可欠なのではないでしょうか。

これからも、教皇様が「シノドスの道」と言われ、わたしたちに呼びかけておられることを、時間をかけて少しずつ学んでいきたいと思います。わたしたち自身も、パウロの言葉の通り、「生きているのは、もはやわたしたちではありません。キリストがわたしたちのうちに生きておられるのです。」と、勇気をもって語ることができる、そういう人生を歩んでいくことを望みます。

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2024年2月 3日 (土)

週刊大司教第154回:年間第五主日B

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年の初めは普段以上に時間が早く過ぎ去る気がいたします。年度末ということもあるのでしょうが、あっという間に三ヶ月が終わって、呆然とすることがしばしばです。今年はご復活が三月の末日となっていますから、すでにあと数日で四旬節となります。いつにも増して、典礼の暦が早く進む年になりそうですが、ここは心を落ち着けて、霊的にはじっくりと歩むときとしたいと思います。

千葉県の白子にある十字架のイエス・ベネディクト修道院で、シスター・マリア・ファウスティナ小林清美さんが、2月2日、主の奉献の祝日に終生誓願を宣立されました。訪日中のアンゴラのゼフェリーノ大司教様他、チャプレンの野口神父様、西千葉・千葉寺・茂原の福島神父様、小田神父様が参加しました。おめでとうございます。

こちらのリンク記事は2年前に、茂原教会訪問後に修道院を初めて訪問させていただいたときの日記です。九十九里浜のすぐそばです。この修道会の特筆ずるべき特徴については、このリンク先の2022年の日記の後半をご一読ください。下の写真、わたしとゼッフェリーノ大司教のあいだがシスター・マリア・ファウスティナ小林、写真の右端が院長様。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第154回、年間第5主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第154回
2024年2月04日

マルコ福音は、カファルナウムで福音を告げるイエスの姿を描いています。「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」イエスは、権威のある言葉を語り、人々が驚くような業を行います。弟子となったシモンのしゅうとめの熱をさらせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取り憑かれた人が癒やしを求めてイエスのもとに集まってきた様子が描かれています。

もちろん病気の癒やしという出来事自体は奇跡であり、驚くべき出来事ですが、それ以上に、人生の中で困難を抱え、絶望に打ちひしがれている人たちが、イエスのもとで安らぎを得、生きる希望を見いだしたことにこそ、重要な意味があると思います。権威あるイエスの姿は、同時に愛といつくしみに満ちあふれた姿でもありました。

押し寄せてくる人生における困難を抱えた人たちを目の当たりにしたとき、イエスはそれを放置することはできなかった。いのちをより良く生きることを阻んでいる悪によってとらわれの身にある人たちを、その束縛から解放されました。

パウロはコリントの教会への手紙に、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」と記し、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と宣言しています。

パウロの宣教への姿勢は、イエスと全く同じように、上からの目線で教え導いてやろうという態度ではなく、困難を抱え希望を失っている人たちと同じ地平に立ち、全力を尽くして神の救いの希望に与ることが出来るようにと、束縛から解放しようとする、手を差し伸べる姿勢です。

だからこそイエスもパウロも、一つのところに留まって褒め称えられるのではなく、ひとりでも多くの人に生きる希望を生み出すために、全力を尽くして出向いて行かれます。教皇フランシスコが、教会は「出向いていく教会であれ」と呼びかけるゆえんです。そのイエスの姿に倣って、わたしたちも神の愛といつくしみを伝え、希望を生み出し続けるものでありたいと思います。

2月5日月曜日は、日本26聖殉教者の記念日に当たります。自分の十字架を背負ってついてきなさいと呼びかけられたイエスに忠実に生きることによって、主ご自身の受難と死という贖いの業に与り、それを通じていのちの福音を身をもってあかしされた聖人たちです。

聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。イエスの福音にこそ、すべてを賭して生き抜く価値があることを、大勢の眼前であかしされた方々です。すべてを投げ打ってさえも守らなくてはならない価値が、いのちの福音にあることをあかしされた方々です。

わたしたちはその、すべてを賭してさえも守り抜かなくてはいけない福音に生きるようにと、聖なる殉教者たちによって招かれています。全力を尽くして、絶望のうちにある人たちの元に駆け寄り、困難を生み出す悪の束縛から解き放ち、喜びと希望を生み出すために、出向いていく教会でありたいと思います。

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