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2024年3月31日 (日)

2024年復活徹夜祭@東京カテドラル

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御復活おめでとうございます。

東京カテドラルで行われた復活徹夜祭では、15名の方が洗礼を受けられました。またさらに7名が加わって堅信も行われました。おめでとうございます。今日から一緒に信仰の道を歩んで参りましょう

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以下、復活徹夜祭の説教原稿です。

聖土曜日復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月30日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

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暗闇は光によってのみ打ち払われます。復活讃歌の冒頭には「まばゆい光を浴びた大地よ、喜び踊れ。永遠の王の輝きは地を照らし、世界を覆う闇は消え失せた」と、闇を打ち払う光の輝きが記されています。

それほどの力強い光は、いったいどれほどの大きな光なのでしょうか。復活讃歌の終わりには「このろうそくが絶えず輝き、夜の暗闇が打ち払われますように」と歌われています。「このろうそく」とはどのろうそくでしょう。ここに輝いている復活のろうそくです。大きな光でしょうか。いや少しでも風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎です。弱々しい炎です。

復活讃歌は、「その光は星空に届き、沈むことを知らぬ明の星、キリストと一つに結ばれますように」と続いています。

天地創造を物語る創世記の冒頭で、神はまず「光あれ」と宣言し、混沌とした闇に秩序をもたらします。すなわち神こそは、世界を覆う闇を打ち払う希望の光であり、この世界に正しい秩序を与える世界の王であります。復活讃歌は、この小さな復活のろうそくの光が、世界を照らす希望の光である救い主、キリストと一つに結ばれる、神の存在の象徴であることを明確にします。わたしたちは今宵、暗闇の中に集まって、復活のろうそくに火がともされるのを目撃しました。闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持って輝きます。すなわちわたしたちは、復活のろうそくの小さな光をこの闇の中で体験することで、その光が一つになって結ばれる全能の神の光の輝きを体験しました。復活された主は、人類を覆う最も深い闇である死を打ち破り、新しいいのちへの希望を与え、混沌とした世界に新たな秩序を打ち立てられました。復活のろうそくにともされた炎は、死の闇を打ち破り、新しいいのちへと復活された主イエス・キリストの希望の光です。

暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しいいのちに招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることをわたしたちはあらためて思い起こします。

復活のロウソクにともされた小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられました。皆さんお一人お一人が手にする小さなろうそくに、小さな炎がともされていきました。

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「キリストの光」という呼びかけの声に、なんと応えたでしょうか。「神に感謝」です。何をわたしたちは感謝したのでしょう。それは、神から新しいいのちへの希望を与えられたことをあらためて実感しながら、神に感謝しました。ひとり一人のろうそくの炎は小さくとも、ここに集う多くの人のロウソクにそれが分け与えられ、全体として、聖堂を照らすに十分な光となりました。

わたしたちが成し遂げたいのはそれなのです。ひとり一人ができることには限界があり、一人で掲げることのできるいのちの希望の光は小さなものです。わたしたちの周りの闇は、その小さな炎で打ち払うには深すぎる。だからこそ、皆の小さな炎を一緒になって掲げたいのです。教会が、ともに歩むことを強調する理由はそこにあります。いま教会が歩んでいるシノドスの道の本質は、そこにあります。それぞれ掲げるろうそくは異なっているでしょう。炎の大きさも異なっているでしょう。皆が同じことをするのではありません。しかしそれぞれが勝手に小さな炎を掲げていては打ち払うことができないほど闇は深い。だから連帯のうちに、支え合い助け合いながら、共に光を掲げて歩むのです。教会は、いのちを生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではありません。希望と喜びの光を掲げることができなければ、教会ではありません。

主が復活されたその地、すなわち聖地で、いま多くのいのちが暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは三万人を超えるいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。いのちの希望がもたらされた聖地で、いったいどうしたらいのちの希望を取り戻すことができるのか、その道を世界は見いだせずにいます。今この瞬間も、いのちの危機に直面し、恐れと不安の中で絶望している多くのいのちがあることを考えると、暗澹たる思いがいたします。

ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争も、未だ終わりが見通せません。東京教区の姉妹教会であるミャンマーでも、平和を求めて声を上げる教会に、軍事政権側の武力を持った攻撃が続いているとミャンマーの教会関係者から状況が伝わってきます。

世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいます。教会は、いのちを生きる希望を掲げる存在であることを、改めてわたしたちの心に刻みましょう。

戦地や紛争の地だけでなく、わたしたちの生きている現実の中ではどうでしょう。障害のある人たちや幼い子どもに暴力を加え、いのちを奪ってしまう。様々なハラスメントを通じて、人間の尊厳を奪い去る。多数とは異なる異質な存在だからと、その存在を否定する。暴力を受けているのは、神が賜物としてわたしたちに託されたいのちです。社会に蔓延するいのちへの価値観が、そういった行動に反映されています。この社会の中で、教会は小さいけれども希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。

今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にもあずかるのだと強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるため」に洗礼を受けるのだと指摘しています。洗礼を受けたわたしたちには、キリストとともに、新しいいのちの道を歩むという務めがあります。キリストと共に、そして皆と共に、支え合って歩みます。

主の死と復活にあずかるわたしたちに求められているのは、行動することです。前進することです。なにもせずに安住の地にとどまるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。そこには、ともに歩む仲間がいます。それぞれが自分の小さなろうそくの炎を掲げ、ともに歩むことで、世界を支配する暗闇を打ち払いましょう。

「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現のために、福音を告げしらせ、証しする道をともに歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

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2024年3月30日 (土)

2024年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

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聖金曜日、主の受難を黙想する日です。東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後7時から、関口教会と韓人教会の合同で、典礼が行われました。

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聖金曜日の典礼では、盛式共同祈願や十字架の崇敬の部分で、歌唱するところがあります。特に盛式共同祈願では、冒頭の祈りの意向を歌唱することになっています。司式する私はその後の祈りを唱えますので、どなたかに歌唱していただく必要があります。これを今年は協力司祭の金泌中(キム ピルジュン)神父様が歌われました。ソウル教区司祭のピルジュン神父様は、このたび2年間の日本語習得を終え、復活祭後に西千葉教会などで助任司祭として正式に任命されていますが、兼任する本郷教会のミサを担当して不在の天本主任司祭に代わって、堂々と歌唱されました。今夜の復活徹夜祭の復活讃歌も、ピルジュン神父様と伺っています。

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この祈願の歌唱部分は、簡単なように見えますが、歌うのは難しいのです。というのも、ミサの叙唱もそうですが、結構高めの音をキープして連続でタタタと歌い続けなくてはなりません。ちょっと気を抜くと、終わりの方の音程が見事に二度程度は落ちてしまい、多分終わりはレの音だと思いますが、それよりも遙かに下になって、落ち着きが悪くなり安いのです。伴奏なしで同じ音程で歌い続けるのは、楽なことではありません。

余談でした。以下、聖金曜日主の受難の説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月29日

「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」

イザヤの預言にそう記されていました。

聖金曜日、主の受難を記念する今日、わたしたちは、ともに歩み苦楽をともにしてきた弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ、孤独のうちに十字架上での死に至るまで、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスに心を馳せ、主とともに祈ります。

その苦しみはいったい誰のためだったのか。それを明確に示しているのが、預言者イザヤの言葉です。それはまさしく、わたしたちひとり一人の罪の結果でありました。

イザヤは「彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだ」と記しています。

今日は、主の苦しみこそは、わたしたちの救いのためのあがないの捧げものであったことを、思い起こす日です。一言も語らず、ただ無言のうちに、その姿を持って、わたしたちに神の愛の深さを示された事実を、かみしめる日です。主の十字架を目の当たりにして、ただただその愛といつくしみに心から感謝を捧げる日です。

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受難の朗読では、「イエスを知らない」と、三度にわたって言い張ったペトロの裏切りが記されています。福音はイエスがすでにペトロに告げていたとおり、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と事実だけを記して、ペトロの心持ちを記しません。しかしそのことが、ペトロの陥った後悔の思いの深さと絶望を、わたしたちに感じさせています。

すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべてのいのちを、ひとりたりとも見捨てることなく、永遠のいのちにおける救いへと招くために、わたしたちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。すべての人の罪科を担う神のいつくしみとゆるしです。わたしたちは、主の十字架を目の当たりにして感謝すると同時に、十字架が指し示すその希望と栄光を褒め称えます。

ですからこの裏切りという罪と、その後悔と絶望の淵にあったペトロが次に登場するのは、御復活の出来事の後です。三度にわたって主を知らないと主張し、裏切りの罪を犯したペトロを、十字架の出来事を間に挟んで、復活の栄光の証人とすることで、主の十字架が持っている意味を、福音は明確に示しています。それは神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光です。

わたしたちは、主の苦しみの旅路に心をあわせ、ともに歩むようにと招かれています。主の十字架は、わたしたちの信仰の原点です。そこにこそ神の愛といつくしみが目に見える形で示されています。そこにこそわたしたちの目指すべき希望と栄光が、目に見る形で示されています。わたしたちは、信仰の原点である十字架を高く掲げ、その意味を社会の中であかしするように招かれています。

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十字架の傍らには聖母が佇まれていました。十字架の上で苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母の姿は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に答えたときに始まって、すべてを主の計画に委ね、主とともに歩み続け、主と一致した生き方を、聖母が教会に模範として示し続けていることを明白にします。

主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母と愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架のあかしを受け継ぎ、復活の栄光を目指して希望を掲げながら、共に歩み続けます。

昨年2023年10月27日の夕刻、ちょうど開催されていたシノドス第一会期の参加者を、わたしもそこにいましたが、聖ペトロ大聖堂に招いて、教皇様は世界の平和のためのロザリオの祈りを捧げられました。その祈りの中で、教皇様は、次のように聖母に呼びかけられました。

「聖母よ、いまは暗闇の時です。この暗闇の時に、わたしたちはあなたを見つめます。・・・カルワリオにおいて、剣が母の心を貫きました。しかしその謙遜さと力強さで、悲しみの闇にあっても、復活の希望を燃やし続けました。・・・あなたの呼びかけに耳を塞ぎ続けるわたしたちを、あなたは愛のうちに、見捨てることはありません。聖母よ、あなたの手でわたしたちを回心へと導いてください。再び神を最優先とすることができるように。教会の一致を保つことができるように。世界に一致を生み出すものとなることができるように。」

イザヤの預言にあったように、「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった」存在です。その散らされた民を、聖霊の導きの識別のうちに、神の民として再び一致へと導こうとするのが、いまわたしたちが歩んでいるシノドスの道であり、その道を歩む模範は聖母マリアです。わたしたちが身勝手にそれぞれの道を歩もうとするとき、わたしたちは主の十字架にその罪をさらに負わせ続けています。聖母に倣い、勇気を持って神の導きに身を委ね、一致のうちに神の民として神に向かって歩み続けるものでありたいと思います。栄光と希望の十字架の証し人であり続けたいと思います。

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2024年3月29日 (金)

2024年聖木曜日、主の晩餐のミサ@東京カテドラル

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聖木曜日、主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、アンドレア司教様と共に捧げました。

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ミサは、同じ聖マリア大聖堂に所在する関口教会と韓人教会の合同で行われました。

ミサ後にご聖体は、大聖堂向かって左にあるマリア祭壇に安置されました。主の晩餐のミサは沈黙のうちに終わり、聖堂内の装飾は、祭壇の上を含めすべて取り払われます。聖金曜日の主の受難の典礼は、始めも終わりも沈黙で行われ、そのまま暗闇の沈黙で始まる復活徹夜祭につながります。ですから、聖なる三日間は一つにつながった典礼のうちに過ごすときです。

以下、ミサの説教原稿です。

聖木曜日主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

わたしたちは、主イエスご自身によって食事の席に招かれている弟子の共同体です。教会がシノドスの道、すなわちともに歩む道をたどっているのは、教会が本質的に共同体であるからに他なりません。わたしたちはひとりで勝手に独自の信仰を深め歩む存在ではなく、互いに助け合いながら、共に聖霊に導かれて歩みを続ける神の民であります。わたしたちにそのことを明確に示しているのは、最後の晩餐において示された、主御自身の具体的な業による模範です。

最後の晩餐の席で主イエスは立ち上がり、弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音に記されています。弟子たちの足を洗い終えたイエスは、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗いあわなければならない」と言われたと記されています。

自分の足を洗うのではありません。自分と親しい人の足を洗うのではありません。自分が好ましいと思う人の足を洗うのではありません。「互いに足を洗いあわなければならない」と、主は弟子たちに命じます。共同体の属するすべての人に対して、わたしたちはそれぞれが、互いの足を洗うために、その前で身を深くかがめなくてはなりません。共同体のすべてのものが、互いに、相手の前に頭を垂れて、低いところに身をかがめて、互いに足を洗うようにと主は命じます。身をかがめて互いの足を洗うために、自分自身を全くの無防備な状態にせよと主は命じます。互いにすべてを相手に委ねる姿勢をとるようにと主は命じています。

ひとりでは、互いに足を洗うことはできません。自分の親しい人だけでは、互いに足を洗うことにはなりません。

ですから、教会共同体が、自分ひとりで歩むものではなく、また親しい人だけで歩むものではなく、それよりもすべての人と互いに支え合いながら、祈りあいながら、聖霊の導きを識別しながら、ともに歩む教会であることは、この最後の晩餐の時の主御自身の模範によって、定められたことです。すなわち、シノドス的な教会であること、シノドスの道を歩むことは、何か新しいアイディアなのではなくて、そもそも教会のはじめから当然のように内包している、教会の根本的な性格です。

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福音は、「わたしがあなた方にしたように、あなた方もするようにと、模範を示したのである」という主イエスの言葉を記しています。ですからわたしたちは、互いに助け合いながら、互いに身を委ねながら、ともに歩む共同体でなくてはなりません。

主の晩餐に招かれたわたしたちを、集められた多くの人を、一つに結び合わせているのは、ご聖体のうちに現存される主御自身です。その夜、パンをとり祈りを捧げ裂いて弟子に与えられた主は、「これはあなた方のための私の体である」といわれながら、聖体の秘跡を制定されました。すなわちご聖体は、それを与えられた「わたしたちのため」の主の現存です。わたしたちのための主の体。その主の体は、わたしたちを一致させる主の現存です。

第二バチカン公会議の教会憲章には、「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(教会憲章11)」と記されています。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」で聖アウグスチヌスの言葉を引用しながら、「主なるキリストは・・・ご自分の食卓にわたしたちの平和と一致の神秘をささげます。一致のきずなを保つことなしにこの一致の神秘を受ける者は、神秘を自分の救いのために受けることができません」(40)とまで指摘しています。

わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、その一致のうちに互いにいのちを分かち合い、互いに愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。わたしたちは、その一致を、具体的に社会の中であかしする共同体となるようにと、主から命じられています。ご聖体をいただくわたしたちひとりひとりの責務です。

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教皇ヨハネパウロ二世は、同じ回勅で、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。わたしたちは、いのちを生かし、互いを共同体の交わりへと招き、一致のうちに互いに支え合い仕え合う共同体の姿を通じて、いのちのパンにおける交わりへとひとりでも多くの人が招かれるように努めなくてはなりません。

わたしたちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡によって生み出される絆において、共同体でともに一致しています。

御聖体において現存する主における一致へと招かれているわたしたちは、パウロが述べるように、「このパンを食べこの杯を飲む度ごとに、主が来られるときまで、主の死を告げしらせる」務めがあります。わたしたちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の願いを同じように受け継ぎ、それをこの世界において告げしらせていかなくてはなりません。世界に向かって福音を宣教する務めを、わたしたち一人ひとりが受け継いでいくことが求められています。主の生きる姿勢に倣って、互いに支え合い、互いに身をかがめ、足を洗いあう姿勢で生きることを求められています。

教皇フランシスコは、回勅「兄弟のみなさん」の中に、こう記しています。

「兄弟的無償性を生きない人は、自身を強欲な商人に変え、自分が与えるものとその見返りに得るものをいつも量っています。対して神は、無償で与えてくださいます。忠実ではないものさえも助けるほどにです。・・・わたしたちは無償でいのちを受けました。いのちを得るのに支払いはしていません。だからわたしたちは皆、何ら期待せず、与えることができるのです。助ける相手に見返りを求めることなく、良いことができるのです(140)」

わたしたちは神からの無償の愛のうちに、主の晩餐に招かれています。主御自身である聖体の秘跡のうちに共同体の交わりの中で歩むようにと、招かれています。幾たびも裏切り続けているにもかかわらず、不忠実なわたしたちを主は、幾たびも幾たびも交わりへと招いてくださっています。今日もまた、その最初の招きである主の晩餐を記念するわたしたちの真ん中に立ち、わたしたちを、互いに支えあうものとなるように招いておられます。

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2024年3月28日 (木)

2024年聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日の本日、午前10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサが行われました。

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学校や特別な業務などがある場合を除いて、教区内の司牧活動で働く司祭は、すべて司教とミサを共にして、叙階の誓いを更新することが求められています。本日のミサには、事前の想定以上に、100名を優に超える司祭が共同司式に参加し、司祭叙階の誓いを更新して行かれました。

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また、ミサのはじめには、サレジオ会の深川信一神学生の祭壇奉仕者選任式と、東京教区の今井克明神学生の助祭・司祭候補者認定式も行われました。また先日、アンドレア司教様から助祭に叙階されたばかりのイエズス会のムカディ助祭(コンゴ出身)が、ミサのために奉仕してくださいました。

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下にビデオも張りますが、本日は私の声の調子が思わしくなく、残念ながら高い音が出ていない調子外れになってしまっています。

以下、本日のミサ説教の原稿です。

聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

教会共同体は、常に聖霊によって導かれ、常に刷新されながら時の流れの道を前進し続けています。教会は、常に古い存在であるけれど、同時に常に新しい存在でもあります。

ガリラヤ湖のほとりで弟子たちを招かれたイエスの呼びかけのことばによって共同体が生まれ、弟子たちと共にした最後の晩餐でご聖体の秘跡を制定され、十字架における受難と死を通じて御復活の栄光を現し、五旬祭の日、人々を恐れ隠れていた弟子たちに聖霊が降り、その出来事を通じて福音を世界各地へと告知する教会が誕生した。教会は、2000年ほど前に起こったこれらの出来事に根ざしています。その意味で、教会は常に古い存在です。しかし同時に、聖霊降臨のその日から、教会は常に聖霊の導きによって先へ先へと、時の流れの中で新たにされながら、前進を続けてきました。その意味で、教会は常に新しい存在です。常に刷新されながら前進する教会です。

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2020年から続いた世界的なパンデミックは、社会に、そして教会にも大きな負の影響を残しました。教皇様は今年の2月11日、2025年の聖年の開催を新福音化推進評議会議長フィジケラ大司教に宛てた書簡を発表されました。その中で教皇様はこの数年を振り返って、「孤独死という悲劇、存在の不確かさ、はかなさを見せつけられたことに加え、わたしたちの生き方も変えられてしまった」と指摘され、その上で、「わたしたちは、与えられた希望の炎を燃やし続け、すべての人に、開かれた精神、信頼する心、広い視野をもって未来を見つめる力と確信を回復させるため、全力を尽くさなければなりません」と呼びかけておられます。

教皇様は2025年の聖年が、「わたしたち全員が緊急性を感じている新たな再生のしるしとして、希望と自信に満ちたムードを再構築するために、大いに助けとなるでしょう」と指摘され、そういったことを踏まえた上で、聖年のテーマを、「希望の巡礼者」と定めておられます。

教皇様は2024年を祈りのうちに聖年に向けての準備を進めるときとするように求められ、その中でも特に、「この数十年間の教導権とともに、聖なる神の民を方向づけ、導き続け、すべての人に喜びに満ちた福音を告げ知らせるという使命を発展させる」ために、第二バチカン公会議の四つの憲章を学び直すことを求めておられます。教会全体が巡礼者として「多様性の調和の中で一致して」シノドスの道を歩むことが、「教会が従うよう求められている共通の道」を明らかにすると、教皇様は指摘されます。

現代世界憲章には、「神の民は、世界を満たす主の霊によって導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、展望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようと努める(11)」と記されています。ですから、時のしるしを読み取ることは、教会共同体にとって忘れることのできない責務です。

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とはいえ、常に新しくされて前進し続ける教会共同体というのは威勢の良い響きですが、日本の教会の現実はどうでしょうか。昨年、日本の教会の教区数は、16から15に減りました。全国各地で信徒数の減少や司祭不足から、小教区の統廃合が聞かれるようになりました。二つあった神学院も、今年から東京に一本化されます。修道院の閉鎖は相次いでいます。もちろん日本の社会全体が少子高齢化の影響で縮小減速傾向にあるのですから、教会もその影響を受けるのは当然ですが、マイナスのイメージが顕著です。

パウロ6世の使徒的勧告「福音宣教」に、「たとえわたしたちが福音をのべ伝えなくとも、人間は神のあわれみによって、何らかの方法で救われる可能性があります」(80)と記されています。

救いのわざは、人間のわざではなくて、神様のご計画のもとにあるので、わたしたちは何も心配する必要はないのかもしれません。しかし問題はそこではありません。「福音宣教」の続きには、「しかし、もしわたしたちが、怠りや恐れ、また恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、果たしてわたしたちは救われるでしょうか」(80)と記されています。

わたしたちはネガティブな現実の前で嘆いて後ろを振り返るのではなく、前を向いて前進を続ける必要があります。なんとしてでも福音を一人でも多くの人に伝えようと様々な手を尽くされる御父の熱意を、具体的に実行するのは、わたしたちの務めです。ですから教会は、福音宣教を「目的」としているのではなくて、福音宣教こそが教会がこの世界に存在する「理由」そのものです。

わたしたちは教会共同体として存在している限り、福音を告げ、多くの人を救いに招くのが当然であって、それはわたしたちにとって副次的な存在理由ではありません。福音宣教はわたしたちの、この世界における根本的な存在理由です。

教皇フランシスコの「福音の喜び」には、「人々との現実の出会いを失って、人間よりも組織に注意を払う、人間不在の司牧」への指摘があり、「歩みそのものよりも『道案内図』に熱心」な教会は、結局、そこに集う人々から熱意を奪い、希望を失わせると記されています(81)。わたしたちも、聖霊の導きに素直に従って、嘆きではなく希望を生み出すような教会でありたいと思います。

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共にシノドスの道を歩み続ける教会共同体にとって、牧者である司祭の存在は重要です。今日のこのミサで、教区で働く司祭団が見守る中で、助祭・司祭候補者認定式と祭壇奉仕者選任式が行われることには、福音宣教の後継者の誕生につながるという大切な意味があります。

司祭への道は、決して共同体の中で序列が上がり段々と偉くなっていくのではなく、反対に、出会う多くの人にいのちを生きる希望を見いだす道を示し、互いの絆を生み出し深めていくために、ともに歩む姿勢を学んでいく道です。司祭養成の道を歩むことは、力強いものとなっていく道ではなく、自分の弱さ、足りなさの自覚を深める道です。自分の弱さを自覚するからこそ、神の力が自分のうちで働くのです。力不足を自覚するからこそ、支えてくださる多くの方々の祈りの力を感じることができるのです。どうか、常に謙遜な奉仕者であってください。

同時に、司祭の養成には、信仰共同体の愛に満ちた関わりも不可欠です。司祭の養成は、養成担当者だけの責任ではなく、教会共同体の皆が責任を分かち合い、祈りを通じて、養成を受ける神学生と霊的に歩みをともにすることが必要です。また神学生にあっては、養成の歩みを進める中で、しばしば困難に直面し、人生の岐路に立たされます。そのようなとき、ふさわしい選択をするために、多くの人の祈りによる支えが必要です。司祭修道者の召命も、信仰における連帯によって生かされます。どうぞ、神学生のために、そして新たな召命のために、お祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、祈りを持って支えてくださるように、歩みを共にしてくださるように、お願いいたします。

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2024年3月27日 (水)

2024年受難の主日(枝の主日)@東京カテドラル

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2024年3月24日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での受難の主日(枝の主日)ミサの説教原稿です。今年は、聖堂の外に集まり、短いですが行列をして入堂することができました。

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なおすでにお知らせしていますが、今後、東京カテドラル聖マリア大聖堂からのミサ配信は、司教司式ミサを中心に、一部のみとなります。配信がある場合は、東京教区ホームページなどでお知らせします。また配信元のYoutubeチャンネルも、関口教会から東京教区に変更となります。詳しくは、東京教区のホームページを、こちらのリンクからご覧ください

なお今年、2024年の聖週間の聖なる三日間は、聖木曜日の聖香油ミサも含めて、すべて配信されます。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月24日

わたしたちが語る言葉は、ただ風に流されて消えていく音の羅列ではありません。わたしたちの語る言葉の背後には、わたしたちの存在そのものがあり、わたしたちの心があり、それだからこそ、わたしたちが語る言葉には力があります。わたしたちの存在を生み出しているいのちが、その背後にあるからです。

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今年の正月の世界平和の日のメッセージで教皇フランシスコは、「AIと平和」というテーマを掲げ、人工知能などのもたらす可能性とその倫理的な方向性を明確にしようとされました。

教皇は、科学技術の進歩と人工知能がもたらす様々な可能性と、新しい技術の裏に隠れて、古来から人類が内包する未知の存在を恐れて、排除する壁を築こうとする傾向が再燃していることを指摘した上で、「人工知能は、人間の比類なき潜在能力や、より高い志に仕えるべきで、それらと競合するものであってはなりません」と指摘されます。

わたしたちは機械ではありません。人工的に合成された音を、外に向かって発生する存在ではありません。わたしたちの発する音は、わたしたちの心を反映した心の叫びであり、その言葉には力があります。

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四旬節を通じて霊的な回心の道程を歩んできたわたしたちは、受難の主日の今日から、聖週間を過ごし、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。その聖週間の冒頭で、主イエスのエルサレム入城の福音が朗読され、そしてミサの中では主の受難の福音が朗読されました。

この二つの朗読ほど、わたしたちの発する言葉の力を考えさせる朗読はありません。その力とは、二つの力です。一つは人のいのちを生かす言葉。そしてもう一つは人のいのちを奪う力。

捕らえられたイエスを目の前にして問いかけるピラトに対して、集まった人々は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音の受難の朗読には記されています。

「十字架につけろ」。なんとわかりやすい短い叫びでしょう。興奮した人々をさらに興奮させるのは、興奮した心に入り込み、それを捉える、わかりやすく短いキャッチフレーズです。「十字架につけろ」という簡単明瞭な叫びは、瞬く間に人々の興奮した心を捉え、大きなうねりを生み出していきました。人の言葉が持つ負の力。暴力的に人のいのちを奪う力は、短いキャッチフレーズが飛び交う中で増幅され、このとき最大限に発揮されていました。

興奮状態の渦の中で、どんな理性的な言葉も興奮した人々を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、抵抗することをやめてしまいます。大きな興奮のうねりに身を任せ、犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡してしまいます。

口々に「十字架につけろ」と叫んでいた人々は、いったい誰でしょうか。

最初に朗読された福音にその同じ人たちの姿が記されています。イエスを喜びの声を持ってエルサレムに迎えた群衆であります。この同じ群衆は、数日後に、イエスを「十字架につけろ」と叫びました。興奮の渦は、理性的な判断をかき消してしまいます。

目の前に展開する大きな興奮の波にただ身を任せ、喜んでみたり悲しんでみたりと、流されるだけの存在が、そこに集まった多くの人たち、すなわち「群衆」です。なぜ自分がそう叫んでいるのか、その理由を考えることはありません。しかし口から発する言葉には、力があります。人のいのちを生かす力、人のいのちを奪う力。自分が発する「十字架につけろ」という言葉が、ひとりの人の、いのちを奪おうとしていることに、気がつこうともしません。

もしタイムマシンが本当にあって、その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆の所へ出かけることができたとして、ひとり一人に尋ねてみたら、どう答えるのでしょう。「別に死んでほしいなんて、自分は思っていない」、「だって、みんながそういっているから」、などなど、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰も感じません。でも口から出た言葉には、力があります。

今の時代のコミュニケーションでは、時として、短い言葉の投げ合いになり、興奮状態の中で、理性的な判断が見過ごされてしまい、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすく、興奮をもたらすその言葉は、いのちを生かす言葉でしょうか。それとも、救い主を十字架につけて殺害したような、いのちを奪う言葉でしょうか。

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わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの人々が、クーデターのあと、いまに至るまで、どれほど翻弄され、暴力の中でいのちの危機に直面しているのか。ウクライナで続いている戦争のただ中で、どれほど多くの人がいのちの危機に直面し、恐怖の中で日々の生活を営んでいることか。ガザを始め聖地で、どれほど多くのいのちが、暴力の中で奪われていることか。

多くのいのちが、恐怖の中で「いまを生きていたい」と叫んでいます。その声が、直接わたしたちの耳に届くことはありませんが、しかし、いのちの危機に直面する人たちの存在は、その言葉に力を与え、その言葉の力をわたしたちは感じることができます。

経済の悪化で職を失った人たち、経済の混乱や地域の紛争の激化によって住まいを追われ、家族とそのいのちを守るために母国を離れ移り住む人たち。思想信条の違いから迫害され差別され、いのちの危機に直面する人たち。異質な存在だからと、共同体から、そして社会から排除される人たち。一人ひとりは、すべて、そこに存在する、賜物であるいのちを生きているかけがえのない神の似姿です。ひとり一人が、「いのちを生きたい」と叫んでいます。その言葉の持つ力をわたしたちは感じることができます。

わたしたちは、いのちを生かす言葉を語るものでありたいと思います。いのちを生きたいと叫ぶ言葉に応えるものでありたいと思います。無責任に、いのちを奪う言葉を語るものとならないように心するものでありたいと思います。

聖週間が始まります。あの日のイエスの出来事にこの一週間心を馳せながら、自分はどこに立っているのか、何を叫んでいるのか、振り返ってみたいと思います。

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2024年3月23日 (土)

週刊大司教第161回:受難主日

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受難の主日となりました。復活祭に向けた聖週間の始まりです。

この復活徹夜祭や復活の主日に洗礼を受けられるみなさん。最終の準備の一週間です。特に聖木曜日に記念する主の晩餐、聖金曜日に記念する主の受難と死、そして墓に収められた主と共に沈黙のうちに復活の喜びを待ち望む聖土曜日。この聖なる三日間を経て、復活の喜びに至るために、復活徹夜祭は、暗闇に輝く小さな光で始まります。闇に輝くいのちの希望の光を私たちは主から受け継ぎます。

この一週間、主とともに歩みましょう。

以下、本日午後6時配信、受難の主日の週刊大司教第161回目、メッセージ原稿です。なお週刊大司教ビデオでの福音は、枝の行列前に朗読されるエルサレム入城を朗読しています。

受難の主日B
週刊大司教第161回
2024年3月24日

捕らえられたイエスを目の前にして問いかけるピラトに対して、集まった人々は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音の受難の朗読には記されています。

「十字架につけろ」。なんとわかりやすい短い叫びでしょう。その場に集まった人々は興奮していました。興奮した心に入り込み、それを捉えるのは、わかりやすく短いキャッチフレーズです。「十字架につける」という簡単明瞭な叫びは、瞬く間に人々の興奮した心を捉え、大きなうねりとなっていきました。

興奮状態の渦の中で、理性的な思考が顧みられることはありません。どんな理性的な言葉も興奮した人々を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、抵抗することをやめてしまいます。大きな興奮のうねりに身を任せ、犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡しました。

受難の主日には、二つの福音が朗読されます。最初に朗読されるのは、イエスを喜びの声を持ってエルサレムに迎えた群衆の姿が記されていました。その同じ群衆は、数日後に、イエスを賛美し喜んでエルサレムに迎え入れたことなど忘れ去って、「十字架につけろ」と叫びました。興奮の渦は、理性的な判断をかき消してしまいます。

「群衆」という存在は、自分自身の頭を使って責任を持って判断をすることを停止した人々です。目の前に展開する大きな波の興奮にただただ身を任せ、喜んでみたり悲しんでみたりと、流されるだけの存在です。なぜ自分がそう叫んでいるのか、その理由を考えることはありません。なぜなら手間のかかる面倒なことだからです。そこにひとりの人の、いのちがかかっていることに、気がつこうともしません。

その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆一人ひとりに、仮にインタビューができたとしたら、どうでしょう。「イエスに死んでほしいなんて、そんなことは自分は思ってもいない」などという、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰が感じるでしょう。

今の時代のコミュニケーションでは、時として、短い言葉の投げ合いになり、興奮状態の中で、理性的な判断が見過ごされてしまう事例を目の当たりにすることがあります。

時として、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。短い言葉のやりとりは,時として、無責任な言葉の投げつけあいに発展します。じっくりと考え練り上げた内容ではなくて、「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすく、興奮をもたらします。だから深く考えることもなく、送信してしまいます。

その言葉は、いのちを生かす言葉でしょうか。それとも、救い主を十字架につけて殺害したような、いのちを奪う言葉でしょうか。

聖週間が始まります。あの日のイエスの出来事にこの一週間心を馳せながら、自分はどこに立っているのか、何を叫んでいるのか、振り返ってみたいと思います。

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2024年3月19日 (火)

教皇様にお会いしました

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3月13日、教皇フランシスコは、2013年に教皇に選出されて11年目の記念日を迎えられました。教皇として12年目に入られました。教皇に選出されたとき、すでに76才でしたし、前任のベネディクト16世が85才で退任されたこともあり、その時点では10年を超えて教皇職を務めるであろうとは、少なくとも私は考えていませんでした。

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ちょうどその2013年の5月に国際カリタスの理事会があり、その際に参加者と一緒に、新し教皇職を始められたばかりの教皇フランシスコにお会いする機会がありました(上の写真。真ん中は当時の国際カリタス総裁のマラディアガ枢機卿)。それから11年です。その間には、2019年に日本を訪問していただき、東京では先導役も務めさせていただきました。また先般のシノドスでは一ヶ月間、度々お会いすることもできました。なんとなく弱々しいけれど、しかし芯がしっかりとした、実は力強い教皇であると、お会いするたびに感じてきました。しかもどんなに困難な状況でもユーモアを忘れない教皇様です。

昨年2023年5月に、国際カリタスの総裁に選出されて以降、新しい事務局長共々、正式に教皇様に謁見をお願いしてこなかったので、このたび国際カリタスの活動報告を兼ねて謁見をお願いしていたところ、教皇儀典室から、3月14日の朝8時半に来るようにとの通達でした。数週間前の知らせでしたので、慌てて準備をし、その間に予定されていた東京教区の会議などはアンドレア補佐司教様にお任せして、3月12日から15日まで、ローマに滞在してきました。

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その間、現在のウクライナやガザ、そしてシリアでのカリタスの活動の件で、東方教会省のグジョロッティ枢機卿様とお会いして意見交換をしたり、総合人間開発省に報告をしたり、シノドス事務局でシスターナタリーとシノドスへのカリタスの関わりについて意見交換したり、事務局長のアリステル・ダットン氏と共に、三日間歩き回りました。バチカン周辺は聖年に向けてそこら中で道路工事が行われており、道路は大渋滞。タクシーやバスを使うより、歩いた方が早いのです。

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3月14日の朝8時前に、教皇宮殿に出向きました。いまや招待状がメール添付のPDFで来る時代です。スイス衛兵にスマホを見せながら、いくつかの関門を通過して、教皇様の執務室までたどり着きました。

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そこでの教皇様との話の内容はかけませんが、健康はいかがですかとのこちらの問いかけに、教皇様は力強く、でも小さな声で、「教皇職を続けるのに問題ない健康状態だと、医者のお墨付きをもらっている」とお答えでした。確かに昨年10月に比べても、少し齢を重ねたのが分かります。しかし頭脳は変わらず明晰。大きな移動は車椅子ですが、短い距離であれば杖をついて歩いておられます。

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4月の復活祭の後に、日本の司教団は全員で、アドリミナの訪問のためローマに行きます。そこで再会することをお伝えして、教皇宮殿を後にしました。教皇様にはお時間を取っていただいて、感謝です。

今年の秋のシノドス第二会期、そして今年末からの聖年などなどに加え、海外への司牧訪問も考えておられる様子です。全力を尽くして与えられた使命を果たそうとされている教皇様のためにお祈りをどうぞお願いいたします。

 

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2024年3月16日 (土)

週刊大司教第160回:四旬節第五主日B

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四旬節も終わりに近づき、第五主日となりました。

今週の初め、3月11日は、東日本大震災が発生して13年目でした。この節目の時に、あらためて東北の地に思いを馳せ、亡くなられた多くの方の永遠の安息を祈り、復興の道を歩み続ける東北の地と人々に、いのちの与え主である神の祝福と守りがあるように、祈ります。

この数日、私はローマに出かけていました。月曜日に司祭評議会と責任役員会を終えた後、羽田からローマに出発し、予定では、この週刊大司教が配信される頃に、羽田に帰国しているはずです。国際カリタスの要務ですが、ローマでの出来事は、また後ほど報告します。

不在の間、教区の修道会協議会や、司教団のERST(緊急対応支援チーム)による、東京教区での緊急対応のワークショップ、そして宣教司牧評議会があり、司教総代理であるアンドレア司教様が中心となって、これらを切り盛りしてくださいました。

東京カテドラル聖マリア大聖堂から、毎週日曜日、10時の関口教会主日ミサが配信されてきました。これは、コロナ感染症の制約の中で、一人でも多くの方の信仰の支えとなるために始めました。もちろん教会で共にミサに与り、ご聖体を拝領することが一番大切なのですが、どうしても諸事情でそれが適わない方々も多くおられましたので、関口教会の信徒の方々の積極的な協力と活動によって、ネットでの配信が続けられてきました。このたび、そういった状況も改善してきたということで、ネットでの配信を大司教や補佐司教が司式するミサや教区行事ミサに限定することになり、配信元も、関口教会のYoutubeアカウントから、週刊大司教を配信している東京教区のアカウントに変更となることになりました。

私は、大体月に一度は主日ミサを関口で司式しますし、その他、聖週間を始め、教区行事も多々あります。これらの配信については、その都度、教区からお知らせいたしますので、今後はその目的を教区共同体の一致のためとして、ご覧いただければと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第160回目、四旬節第5主日のメッセージです。

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週刊大司教第160回
2024年3月17日

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」

いったい、わたしたち人間は何のためにいのちを生きるのかを、あらためて考えさせられる、主イエスの言葉です。

わたしたちは、いのちは神から与えられた尊い賜物であると信じています。この賜物であるいのちを、わたしたちは人生の中でどのように生きるのかが問われています。

一粒のままで終わる人生の道を歩むのか、多くの実を結ぶ人生を歩むのか。「地に落ちて死ぬ」とは、具体的にどういう人生を現しているのでしょうか。

自分の周りに壁を打ち立て、まるで自分だけを守るようにして隣人の必要を顧みずに生きる姿勢を、教皇フランシスコは、教皇就任直後の2013年に地中海に浮かぶランペドゥーザ島に押し寄せる難民たちを訪ねたときに、「虚しく輝くシャボン玉」の中に閉じこもっていると表現しました。その上で教皇は、シャボン玉の外にある叫びに耳を塞いでいる姿勢が世界中に蔓延している状況を、「無関心のグローバル化」と呼び、殻を打ち破って、弱い立場にある人の叫びに耳を傾けるようにと呼びかけられました。結局、わたしたちが自分のいのちだけを守ろうとするとき、または自分に近しい人たちのいのちだけを守ろうとするとき、その麦の種は、実を結ぶことなく朽ちていくことでしょう。しかし自分の欲望をうち捨て、虚しい虚飾の壁を打ち破り、そのシャボン玉の外へと目と耳を向けたときに、いまの自分のあり方に終止符を打って、多くの人に生きる希望を生み出す実りとなることが可能となります。

しかしその人生は、決して楽な歩みを保証するものではありません。主御自身の人生の歩みを見れば、それは明らかです。困難の連続です。

パウロはヘブライ人への手紙で、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全なものとなられた」と記しています。すなわち、神の目にあって完全なものとなるためには、自らの立場から降り立ち、苦しみを耐え忍びながら、神の意志に従順であることが絶対条件であると、パウロは強調します。

わたしたちの信仰の先達には、この日本において、迫害の時代に、いのちの尊厳を守り、互いに助け合うことにいのちがけで取り組み、その苦しみの人生を通じて、神が求められる生き方を証しした殉教者たちが多数おられます。

殉教者たちの、いのちを賭したあかしの勇気ある決断は、突然なされたわけでも、思い詰めての性急な判断でもありません。その決断は、キリスト者が、生涯をかけて信仰を真摯に生き抜いた結果としてある決断です。すべてをうち捨てて、神から与えられたいのちをよりふさわしく従順に生きるものととしての使命を生き抜いた結果としての決断です。いのちを生きる意味を突き詰め、困難に直面しながら証しを続けてきたからこそ、最後の最後で、殉教への決断につながったのです。わたしたちは、いまのように自分を中心にした生き方をうち捨て、他者に希望をもたらすものでありたいと思います。

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2024年3月 9日 (土)

週刊大司教第159回:四旬節第四主日B

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四旬節も後半です。第四主日となりました。

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3月7日午後3時から3月8日午後3時まで、潮見のカトリック中央協議会で、日本におけるシノドスの集いを開催いたしました。これは昨年10月に開催されたシノドスの第一会期のまとめ文書を受けて、第二会期である今年の10月に向けて、シノドス事務局から各国の司教団に、それぞれの国でのシノドスの歩みについての報告が求められているために、日本におけるシノドスへの取り組みについて、バチカンのシノドス事務局へ5月頭までに提出する回答書作成の一環として開催されました。

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とはいえ、今回のシノドスは、これまでのシノドスのように、何か議題が定められていて、それについて各国の草の根の意見を聴取して、それをまとめて提出するということは、求められていません。いま求められているのは、実際にシノドスの歩みの中心にある霊における会話を実践し、それを少しでも多くの人に体験していただき、その上で、教会全体の識別の方法として定着させる試みをすることです。ですので、第一会期のまとめ文書に記されている課題について小教区や団体で話し合って、その結果を集約して、日本の報告書を作るということはしていません。まとめ文書に記されている様々な課題は、今後、教会の様々なレベルで霊における会話を継続して、聖霊の導きを識別するための課題であって、今年10月の第二会期で結論を出すための課題ではありません。

ですから、教区や小教区や様々な団体のレベルで、第一会期のまとめ文書の提示する課題などを題材として霊における会話を実践していただき、その体験を分かち合っていただくのは歓迎です。そういった体験の報告がある場合、一ページ程度の文書にまとめて、司教協議会のシノドス担当までご送付ください。第二会期が始まる10月直前までにお寄せいただくと、第二会期で生かすことができるかと思います。このような内容は、今回参加していただいた各教区の方々に、最後にお伝えしました。

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改めて申し上げますが、現在は、シノドス第一会期のまとめ文書に記された課題への「回答」を求めてはおりません。お願いしているのは、今回日本におけるシノドスの集い参加者を通じて、シノドスの歩み、霊における会話を、各地で実践していただくことです。

今回の集いには、日本のすべての司教、そして15教区の司祭、奉献生活者、信徒から一名ずつに参加していただき、68名ほどの参加者を6のグループに分けて、実際に霊における会話を二回、体験していただきました。それぞれのプロセスの前には30分ほどのお話と、30分ほどの沈黙の祈りの時間が設けられ、その後、霊における会話に1時間半ほど、そしてそれぞれのグループの発表に30分ほどを要しました。

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今回の集いに限らず、現在、第二会期に向けてシノドスの歩みの実践を深めるために、シノドス特別チームが編成されています。チームメンバーのお働きに感謝します。また参加してくださった皆さまに感謝すると共に、各地でシノドスの歩みを深めていってくださることを期待しています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第159回、四旬節第四主日メッセージ原稿です。

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週刊大司教第159回
2024年3月10日

ヨハネ福音は、ファリサイ派の議員であり指導者でもあったニコデモと、イエスとの対話を記しています。神がイエスと共におられることを見抜いたニコデモに対して、イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語り、永遠のいのちについての対話を始めます。

その対話の中で、ご自分の受難、死、復活が救いをもたらすことを告げたイエスのことばが、本日の福音に選ばれています。

「独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」

永遠の命を得るために必要なことはイエスを信じることであって、救いは神からの恵みとして与えられることが強調されています。

教皇フランシスコは今年の四旬節メッセージに、「出エジプト物語の、とても重要な細部を取り上げたいと思います。神が、見ておられ、心動かされ、解放してくださるのであって、イスラエルの求めによるのではないということです」と記しています。すなわち救いは徹頭徹尾、神からの恵みとして与えられるのであって、何かの報酬でもなければ人類の求めに応じたものでもないこと、つまり主導権は徹底的に神にあることを明確にします。それに応えようとするのかどうか。私たちの決断が求められています。

パウロもエフェソの教会への手紙で、「あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神のたまものです」と記して、わたしたちの救いは、神からの一方的な恵みによっていることを明確にします。

ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」と記し、十字架におけるイエスの受難と死が、神の愛に基づく徹底的な自己譲与の業であることを明確にします。十字架は神ご自身による、人類に対する愛の目に見える証しの具体的な業であります。わたしたちはその徹底的な神の愛に包まれて、生かされていることを心に留めたいと思います。

福音はイエスが、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と語ることばを記します。すなわち、神の豊かな愛に包まれて救いへと導かれているわたしたちには、その愛を一人でも多くの人に明らかにする務めがあります。ひとりでも多くの人がその愛に包まれて、ともに光を証しするものとなるように、わたしたちは愛の実践を通じた具体的なあかしの業に務めなくてはなりません。

そもそもわたしたちは、自分の性格が優しいからとか、そういった個人的な理由で愛の業に励むのではありません。わたしたちは、神の愛に包まれて生かされているからこそ、その恵みとして与えられている愛を実践することで、ひとりでも多くの人にあかしをしたいのです。

3月11日は東日本大震災が発生して13年の追悼の日です。あらためて亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈ります。これからも、東北各地の皆様と歩みを共にしながら、ひとりでも多くの人が、神の愛に包まれていることを実感できるよう、証しの業を続けたいと思います。
またこの節目の機会に、この一月の能登半島における災害で亡くなられた方々も心に留め、復興のための歩みを共にする決意を新たにしたいと思います。

神の愛はすでにわたしたちを包み込んでいます。それを伝えるのはわたしたちの務めです。

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2024年3月 3日 (日)

2024年四旬節第三主日ミサ@東京カテドラル

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四旬節第三主日の午前10時の関口教会のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げました。

3月1日は、今年の性虐待被害者のための祈りと償いの日でしたが、その直後の日曜日にも、各小教区では教皇様の意向を持ってミサを捧げることにしております。昨日の日記でも紹介いたしましたが、司教協議会の会長として全国にこの日の祈りの意向を伝え、自らを振り返り反省に基づいて、被害を受けられた方々のために祈り、また対策に真摯に取り組むようにと呼びかけた、わたしの呼びかけ文が、中央協議会のホームページに掲載されています。こちらのリンクです

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以下、本日のミサの説教原稿です。なお、現在、東京カテドラルでは聖堂内の音響設備に不具合が生じており、中継ビデオへの音声の転送ができておりません。そのため、中継映像の音声は、聖堂内のスピーカーからの音声をマイクで拾ったものとなり、不明瞭な部分があることをご承知おきください。聖週間を前にして、その前には、修理が完了すると担当から聞いております。お聞き苦しいとは思いますが、ご容赦ください。

四旬節第三主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月3日

今年一年の幕開けは、能登半島での大きな地震でありました。大きな災害となり、200人を超える方が亡くなられ、復興のためにはまだまだ時間がかかるであろうことが想定されています。教会も、名古屋教区を中心に支援体制を整え、カリタスジャパンも協力しながら、長期的な視点をもって、被災地の方々と共にあり続ける教会の姿を明確に示す道を歩んでいます。

2019年11月に、東北の大震災被災者の方々と会われた教皇様の言葉を思い起こします。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

わたしたちも困難に直面する方々とともに歩み続けることで、展望と希望を回復するための出会いを生み出す友人であり兄弟姉妹であり続けたいと思います。

さて、こういった災害などの大きな出来事が発生すると、今の時代ですから、あっという間にその現場の映像が飛び回ることになります。もちろん報道など、テレビ画面に映し出される映像もあれば、インターネットの時代ですから様々な方が流す映像をわたしたちは目にします。

ただ、画面に映し出されるのは一部を切り取った映像であって、必ずしも起こっている出来事のすべてではありません。その場に実際にいたとしても、それぞれの人の受け取り方は異なっており、同じ出来事に遭遇したすべての人が、必ずしも全く同じ認識を持つとは限りません。情報の受け手が注意深くなければ、自分が生み出した勝手なイメージを信じ込んでしまう可能性すらあります。全体を把握するには、注意力と想像力に基づいた慎重な判断が必要です。

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ご記憶の通り、十字架につけられたイエスの目の当たりにしたとき、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と集まった人々はあざ笑いました。

このあざけりの言葉は、人々が勝手に創り上げたイエスへの期待やイメージに、イエス自身がまったく応えてくれない。力強い預言者リーダーをイエスに求めていたのに、その期待はまったく裏切られた。目の前にいるのは、力なく十字架上で死に行く、敗北者の姿であります。

だからこそパウロはコリントの教会への手紙で、わたしたちが宣べ伝えている十字架につけられたイエスは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人にはおろかなもの」と記します。切り取られたイメージは自分勝手なイエス像を産みだし、その全体の姿を見ようともしません。勝手に生み出したイメージに妨害されて、十字架の持つ意味を多くの人は理解することができません。

十字架とは何でしょう。パウロは同じコリントの教会の手紙の冒頭に、こう記しています。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

パウロは、言葉の知恵により頼むと十字架が虚しくなるといいます。すなわち十字架は人知を遙かに超えた存在であり、それは具体的な行いによって神ご自身がその愛といつくしみをあかしした、行いによる福音の告知そのものであります。十字架は神の愛のあかしです。

十字架上で息絶えていくイエスだけを見るならば、それは敗北者の姿でしかありません。しかしそこに至る道のりと、その後の死と復活の栄光を全体としてみるとき、初めて十字架こそは、神ご自身が自ら創造された人類を愛するがあまり、自らのいのちを犠牲にして人類を救うためにとられた神の愛のあかしの具体的な行動であることが理解されます。

ヨハネ福音は、神殿の境内に入ったイエスが、商売人や両替商を鞭で追い出した話を記しています。その場面だけを切り取ってみれば、イエスを知らない人たちにとっては、とんでもない暴虐を働く人物と映ったでしょうし、その直後に、「三日で建て直してみせる」という言葉を耳にしたときには、夢物語だとイエスをあざ笑ったことでしょう。

人々の目には、そこで起こった出来事だけが切り取られて理解されてしまいます。イエスが、ご自分こそ人々の歩むべき道を示す神、すなわち生きる神殿であることを語ろうとする、その全体的な姿が見えていません。

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わたしたちは、世界に向かって何を示していこうとしているのでしょうか。

パウロがコリントの教会への手紙で言うとおり、わたしたちは、世界に向かって十字架を示していこうとしています。その十字架におけるイエスの受難を告げ知らせていこうとしています。しかし今の時代にあっても、わたしたちのあかしは、一部を切り取って勝手に夢物語と思い込まれ、神の愛といつくしみ、そして神の平和のその全体像を伝えることは、容易なことではありません。

だからこそ、一部の人だけではなく、教会共同体全体が、福音宣教者として召されているのだという意識の改革、つまり教会でいう回心が必要です。一部しか伝わらないのですから、皆がそれぞれに語らなくてはなりません。それぞれが語り行動することは異なっていて当然です。信仰は、私とイエスとの出会いに基づいているからです。しかし皆がそこに責任を持って関わることが重要です。ともに歩む教会は、共に責任を持って福音を告げ知らせる教会です。わたしたちひとり一人が、それぞれの方法で語り続けるとき、やっとそこに全体の姿が見えてくるようになります。イエスの十字架の神秘を告げ知らせるために、皆さんひとり一人が必要です。

さて、教皇フランシスコの指示によって、日本の教会では四旬節第二金曜日を、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定めており、今年は3月1日がその日にあたります。東京教区では、今日の主日にも教皇様の意向で祈りをささげています。

出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いのちの福音」にはこう記されています。

「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。・・・このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

教会にあって、聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が存在しています。共同体の一致を破壊し、性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為によって、多くの方を深く傷つけた聖職者や霊的な指導者が存在します。長い時間を経て、ようやくその心の傷や苦しみを吐露された方々もおられます。なかには、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で、さらなる被害の拡大を生じた事例もしばしば見受けられます。人間の尊厳をおとしめるこういった聖職者の行為を心から謝罪します。責任は加害者にあるのは当然です。

人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。いのちを賜物として大切にしなければならないと説くわたしたちは、その尊厳を、いのちの始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。全体として、教会が、神の愛といつくしみをあかしする者となるよう努めましょう。

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2024年3月 2日 (土)

週刊大司教第158回:四旬節第三主日B



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四旬節も第三主日となりました。

教皇様の呼びかけに従って、各国の司教協議会は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を定めて、被害を受けられた方々に謝罪し、歩みを共にする祈りの日を設けています。日本では四旬節第二金曜日をその日に定めており、今年は3月1日の金曜日です。また金曜日だけでなく、その次の日曜日、すなわち四旬節第三主日には、教皇様の意向に合わせて祈ることを勧めています。

こちらのリンクは今年の司教協議会会長としての、私の呼びかけ文です。

四旬節第三主日は、教皇様のこの意向を持って、私も東京カテドラルでのミサを司式させていただいています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第158回、四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

四旬節第三主日B
週刊大司教第158回
2024年3月3日

「苦痛と無力感を伴う根深い傷を、ほかでもなく被害者に、しかしそればかりか家族と共同体全体に負わせる犯罪です。起きてしまったことに鑑みれば、謝罪と、与えた被害を償う努力が、十分になることなど決してありません。・・・このような事態が二度と繰り返されないようにするだけでなく、その隠蔽や存続の余地を与えない文化を作り出す努力をするほかありません」

教皇フランシスコの言葉です。2018年に発表された「神の民にあてた手紙」に、このように記されていました。この言葉を、日本の教会も共有し、心に刻みます。

教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」(『教会憲章』1)となるよう呼ばれた召命を受け、その実現のために挑戦し続ける道をともに歩んでいます。

残念ながら、その教会がその旅を続ける現代社会は、いのちに対する暴力が荒れ狂う世界であって、その現実の中で、賜物であるいのちを最優先に守り抜き、人間の尊厳を尊重し、さらに全体として一致することは容易なことではありません。しかしながら教会は、その厳しい道を挑戦しながら歩むことをやめることはできません。なぜならば、教会にとって「イエスをのべ伝えるとは、いのちをのべ伝えることにほか」ならないからです(ヨハネパウロ2世「いのちの福音」80)。

その教会にあって、聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が存在しています。共同体の一致を破壊し、性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為によって、多くの方を深く傷つけた聖職者や霊的な指導者が存在します。長い時間を経て、ようやくその心の傷や苦しみを吐露された方々もおられます。なかには、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で、さらなる被害の拡大を生じた事例もしばしば見受けられます。人間の尊厳をおとしめるこういった聖職者の行為を心から謝罪します。責任は加害者にあるのは当然です。

教皇フランシスコの指示によって、日本の教会では四旬節第二金曜日を、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定めており、今年は3月1日がその日にあたります。東京教区では、今日の主日にも祈りをささげています。

出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いのちの福音」にはこう記されています。

「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。いのちを賜物として大切にしなければならないと説くわたしたちは、その尊厳を、いのちの始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。

 

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