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2024年3月28日 (木)

2024年聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日の本日、午前10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサが行われました。

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学校や特別な業務などがある場合を除いて、教区内の司牧活動で働く司祭は、すべて司教とミサを共にして、叙階の誓いを更新することが求められています。本日のミサには、事前の想定以上に、100名を優に超える司祭が共同司式に参加し、司祭叙階の誓いを更新して行かれました。

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また、ミサのはじめには、サレジオ会の深川信一神学生の祭壇奉仕者選任式と、東京教区の今井克明神学生の助祭・司祭候補者認定式も行われました。また先日、アンドレア司教様から助祭に叙階されたばかりのイエズス会のムカディ助祭(コンゴ出身)が、ミサのために奉仕してくださいました。

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下にビデオも張りますが、本日は私の声の調子が思わしくなく、残念ながら高い音が出ていない調子外れになってしまっています。

以下、本日のミサ説教の原稿です。

聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

教会共同体は、常に聖霊によって導かれ、常に刷新されながら時の流れの道を前進し続けています。教会は、常に古い存在であるけれど、同時に常に新しい存在でもあります。

ガリラヤ湖のほとりで弟子たちを招かれたイエスの呼びかけのことばによって共同体が生まれ、弟子たちと共にした最後の晩餐でご聖体の秘跡を制定され、十字架における受難と死を通じて御復活の栄光を現し、五旬祭の日、人々を恐れ隠れていた弟子たちに聖霊が降り、その出来事を通じて福音を世界各地へと告知する教会が誕生した。教会は、2000年ほど前に起こったこれらの出来事に根ざしています。その意味で、教会は常に古い存在です。しかし同時に、聖霊降臨のその日から、教会は常に聖霊の導きによって先へ先へと、時の流れの中で新たにされながら、前進を続けてきました。その意味で、教会は常に新しい存在です。常に刷新されながら前進する教会です。

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2020年から続いた世界的なパンデミックは、社会に、そして教会にも大きな負の影響を残しました。教皇様は今年の2月11日、2025年の聖年の開催を新福音化推進評議会議長フィジケラ大司教に宛てた書簡を発表されました。その中で教皇様はこの数年を振り返って、「孤独死という悲劇、存在の不確かさ、はかなさを見せつけられたことに加え、わたしたちの生き方も変えられてしまった」と指摘され、その上で、「わたしたちは、与えられた希望の炎を燃やし続け、すべての人に、開かれた精神、信頼する心、広い視野をもって未来を見つめる力と確信を回復させるため、全力を尽くさなければなりません」と呼びかけておられます。

教皇様は2025年の聖年が、「わたしたち全員が緊急性を感じている新たな再生のしるしとして、希望と自信に満ちたムードを再構築するために、大いに助けとなるでしょう」と指摘され、そういったことを踏まえた上で、聖年のテーマを、「希望の巡礼者」と定めておられます。

教皇様は2024年を祈りのうちに聖年に向けての準備を進めるときとするように求められ、その中でも特に、「この数十年間の教導権とともに、聖なる神の民を方向づけ、導き続け、すべての人に喜びに満ちた福音を告げ知らせるという使命を発展させる」ために、第二バチカン公会議の四つの憲章を学び直すことを求めておられます。教会全体が巡礼者として「多様性の調和の中で一致して」シノドスの道を歩むことが、「教会が従うよう求められている共通の道」を明らかにすると、教皇様は指摘されます。

現代世界憲章には、「神の民は、世界を満たす主の霊によって導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、展望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようと努める(11)」と記されています。ですから、時のしるしを読み取ることは、教会共同体にとって忘れることのできない責務です。

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とはいえ、常に新しくされて前進し続ける教会共同体というのは威勢の良い響きですが、日本の教会の現実はどうでしょうか。昨年、日本の教会の教区数は、16から15に減りました。全国各地で信徒数の減少や司祭不足から、小教区の統廃合が聞かれるようになりました。二つあった神学院も、今年から東京に一本化されます。修道院の閉鎖は相次いでいます。もちろん日本の社会全体が少子高齢化の影響で縮小減速傾向にあるのですから、教会もその影響を受けるのは当然ですが、マイナスのイメージが顕著です。

パウロ6世の使徒的勧告「福音宣教」に、「たとえわたしたちが福音をのべ伝えなくとも、人間は神のあわれみによって、何らかの方法で救われる可能性があります」(80)と記されています。

救いのわざは、人間のわざではなくて、神様のご計画のもとにあるので、わたしたちは何も心配する必要はないのかもしれません。しかし問題はそこではありません。「福音宣教」の続きには、「しかし、もしわたしたちが、怠りや恐れ、また恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、果たしてわたしたちは救われるでしょうか」(80)と記されています。

わたしたちはネガティブな現実の前で嘆いて後ろを振り返るのではなく、前を向いて前進を続ける必要があります。なんとしてでも福音を一人でも多くの人に伝えようと様々な手を尽くされる御父の熱意を、具体的に実行するのは、わたしたちの務めです。ですから教会は、福音宣教を「目的」としているのではなくて、福音宣教こそが教会がこの世界に存在する「理由」そのものです。

わたしたちは教会共同体として存在している限り、福音を告げ、多くの人を救いに招くのが当然であって、それはわたしたちにとって副次的な存在理由ではありません。福音宣教はわたしたちの、この世界における根本的な存在理由です。

教皇フランシスコの「福音の喜び」には、「人々との現実の出会いを失って、人間よりも組織に注意を払う、人間不在の司牧」への指摘があり、「歩みそのものよりも『道案内図』に熱心」な教会は、結局、そこに集う人々から熱意を奪い、希望を失わせると記されています(81)。わたしたちも、聖霊の導きに素直に従って、嘆きではなく希望を生み出すような教会でありたいと思います。

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共にシノドスの道を歩み続ける教会共同体にとって、牧者である司祭の存在は重要です。今日のこのミサで、教区で働く司祭団が見守る中で、助祭・司祭候補者認定式と祭壇奉仕者選任式が行われることには、福音宣教の後継者の誕生につながるという大切な意味があります。

司祭への道は、決して共同体の中で序列が上がり段々と偉くなっていくのではなく、反対に、出会う多くの人にいのちを生きる希望を見いだす道を示し、互いの絆を生み出し深めていくために、ともに歩む姿勢を学んでいく道です。司祭養成の道を歩むことは、力強いものとなっていく道ではなく、自分の弱さ、足りなさの自覚を深める道です。自分の弱さを自覚するからこそ、神の力が自分のうちで働くのです。力不足を自覚するからこそ、支えてくださる多くの方々の祈りの力を感じることができるのです。どうか、常に謙遜な奉仕者であってください。

同時に、司祭の養成には、信仰共同体の愛に満ちた関わりも不可欠です。司祭の養成は、養成担当者だけの責任ではなく、教会共同体の皆が責任を分かち合い、祈りを通じて、養成を受ける神学生と霊的に歩みをともにすることが必要です。また神学生にあっては、養成の歩みを進める中で、しばしば困難に直面し、人生の岐路に立たされます。そのようなとき、ふさわしい選択をするために、多くの人の祈りによる支えが必要です。司祭修道者の召命も、信仰における連帯によって生かされます。どうぞ、神学生のために、そして新たな召命のために、お祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、祈りを持って支えてくださるように、歩みを共にしてくださるように、お願いいたします。

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