2024年聖金曜日主の受難@東京カテドラル
聖金曜日、主の受難を黙想する日です。東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後7時から、関口教会と韓人教会の合同で、典礼が行われました。
聖金曜日の典礼では、盛式共同祈願や十字架の崇敬の部分で、歌唱するところがあります。特に盛式共同祈願では、冒頭の祈りの意向を歌唱することになっています。司式する私はその後の祈りを唱えますので、どなたかに歌唱していただく必要があります。これを今年は協力司祭の金泌中(キム ピルジュン)神父様が歌われました。ソウル教区司祭のピルジュン神父様は、このたび2年間の日本語習得を終え、復活祭後に西千葉教会などで助任司祭として正式に任命されていますが、兼任する本郷教会のミサを担当して不在の天本主任司祭に代わって、堂々と歌唱されました。今夜の復活徹夜祭の復活讃歌も、ピルジュン神父様と伺っています。
この祈願の歌唱部分は、簡単なように見えますが、歌うのは難しいのです。というのも、ミサの叙唱もそうですが、結構高めの音をキープして連続でタタタと歌い続けなくてはなりません。ちょっと気を抜くと、終わりの方の音程が見事に二度程度は落ちてしまい、多分終わりはレの音だと思いますが、それよりも遙かに下になって、落ち着きが悪くなり安いのです。伴奏なしで同じ音程で歌い続けるのは、楽なことではありません。
余談でした。以下、聖金曜日主の受難の説教原稿です。
聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月29日「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」
イザヤの預言にそう記されていました。
聖金曜日、主の受難を記念する今日、わたしたちは、ともに歩み苦楽をともにしてきた弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ、孤独のうちに十字架上での死に至るまで、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスに心を馳せ、主とともに祈ります。
その苦しみはいったい誰のためだったのか。それを明確に示しているのが、預言者イザヤの言葉です。それはまさしく、わたしたちひとり一人の罪の結果でありました。
イザヤは「彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだ」と記しています。
今日は、主の苦しみこそは、わたしたちの救いのためのあがないの捧げものであったことを、思い起こす日です。一言も語らず、ただ無言のうちに、その姿を持って、わたしたちに神の愛の深さを示された事実を、かみしめる日です。主の十字架を目の当たりにして、ただただその愛といつくしみに心から感謝を捧げる日です。
受難の朗読では、「イエスを知らない」と、三度にわたって言い張ったペトロの裏切りが記されています。福音はイエスがすでにペトロに告げていたとおり、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と事実だけを記して、ペトロの心持ちを記しません。しかしそのことが、ペトロの陥った後悔の思いの深さと絶望を、わたしたちに感じさせています。
すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべてのいのちを、ひとりたりとも見捨てることなく、永遠のいのちにおける救いへと招くために、わたしたちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。すべての人の罪科を担う神のいつくしみとゆるしです。わたしたちは、主の十字架を目の当たりにして感謝すると同時に、十字架が指し示すその希望と栄光を褒め称えます。
ですからこの裏切りという罪と、その後悔と絶望の淵にあったペトロが次に登場するのは、御復活の出来事の後です。三度にわたって主を知らないと主張し、裏切りの罪を犯したペトロを、十字架の出来事を間に挟んで、復活の栄光の証人とすることで、主の十字架が持っている意味を、福音は明確に示しています。それは神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光です。
わたしたちは、主の苦しみの旅路に心をあわせ、ともに歩むようにと招かれています。主の十字架は、わたしたちの信仰の原点です。そこにこそ神の愛といつくしみが目に見える形で示されています。そこにこそわたしたちの目指すべき希望と栄光が、目に見る形で示されています。わたしたちは、信仰の原点である十字架を高く掲げ、その意味を社会の中であかしするように招かれています。
十字架の傍らには聖母が佇まれていました。十字架の上で苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母の姿は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に答えたときに始まって、すべてを主の計画に委ね、主とともに歩み続け、主と一致した生き方を、聖母が教会に模範として示し続けていることを明白にします。
主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母と愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架のあかしを受け継ぎ、復活の栄光を目指して希望を掲げながら、共に歩み続けます。
昨年2023年10月27日の夕刻、ちょうど開催されていたシノドス第一会期の参加者を、わたしもそこにいましたが、聖ペトロ大聖堂に招いて、教皇様は世界の平和のためのロザリオの祈りを捧げられました。その祈りの中で、教皇様は、次のように聖母に呼びかけられました。
「聖母よ、いまは暗闇の時です。この暗闇の時に、わたしたちはあなたを見つめます。・・・カルワリオにおいて、剣が母の心を貫きました。しかしその謙遜さと力強さで、悲しみの闇にあっても、復活の希望を燃やし続けました。・・・あなたの呼びかけに耳を塞ぎ続けるわたしたちを、あなたは愛のうちに、見捨てることはありません。聖母よ、あなたの手でわたしたちを回心へと導いてください。再び神を最優先とすることができるように。教会の一致を保つことができるように。世界に一致を生み出すものとなることができるように。」
イザヤの預言にあったように、「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった」存在です。その散らされた民を、聖霊の導きの識別のうちに、神の民として再び一致へと導こうとするのが、いまわたしたちが歩んでいるシノドスの道であり、その道を歩む模範は聖母マリアです。わたしたちが身勝手にそれぞれの道を歩もうとするとき、わたしたちは主の十字架にその罪をさらに負わせ続けています。聖母に倣い、勇気を持って神の導きに身を委ね、一致のうちに神の民として神に向かって歩み続けるものでありたいと思います。栄光と希望の十字架の証し人であり続けたいと思います。
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