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2024年3月27日 (水)

2024年受難の主日(枝の主日)@東京カテドラル

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2024年3月24日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での受難の主日(枝の主日)ミサの説教原稿です。今年は、聖堂の外に集まり、短いですが行列をして入堂することができました。

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なおすでにお知らせしていますが、今後、東京カテドラル聖マリア大聖堂からのミサ配信は、司教司式ミサを中心に、一部のみとなります。配信がある場合は、東京教区ホームページなどでお知らせします。また配信元のYoutubeチャンネルも、関口教会から東京教区に変更となります。詳しくは、東京教区のホームページを、こちらのリンクからご覧ください

なお今年、2024年の聖週間の聖なる三日間は、聖木曜日の聖香油ミサも含めて、すべて配信されます。

受難の主日Bミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月24日

わたしたちが語る言葉は、ただ風に流されて消えていく音の羅列ではありません。わたしたちの語る言葉の背後には、わたしたちの存在そのものがあり、わたしたちの心があり、それだからこそ、わたしたちが語る言葉には力があります。わたしたちの存在を生み出しているいのちが、その背後にあるからです。

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今年の正月の世界平和の日のメッセージで教皇フランシスコは、「AIと平和」というテーマを掲げ、人工知能などのもたらす可能性とその倫理的な方向性を明確にしようとされました。

教皇は、科学技術の進歩と人工知能がもたらす様々な可能性と、新しい技術の裏に隠れて、古来から人類が内包する未知の存在を恐れて、排除する壁を築こうとする傾向が再燃していることを指摘した上で、「人工知能は、人間の比類なき潜在能力や、より高い志に仕えるべきで、それらと競合するものであってはなりません」と指摘されます。

わたしたちは機械ではありません。人工的に合成された音を、外に向かって発生する存在ではありません。わたしたちの発する音は、わたしたちの心を反映した心の叫びであり、その言葉には力があります。

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四旬節を通じて霊的な回心の道程を歩んできたわたしたちは、受難の主日の今日から、聖週間を過ごし、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。その聖週間の冒頭で、主イエスのエルサレム入城の福音が朗読され、そしてミサの中では主の受難の福音が朗読されました。

この二つの朗読ほど、わたしたちの発する言葉の力を考えさせる朗読はありません。その力とは、二つの力です。一つは人のいのちを生かす言葉。そしてもう一つは人のいのちを奪う力。

捕らえられたイエスを目の前にして問いかけるピラトに対して、集まった人々は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音の受難の朗読には記されています。

「十字架につけろ」。なんとわかりやすい短い叫びでしょう。興奮した人々をさらに興奮させるのは、興奮した心に入り込み、それを捉える、わかりやすく短いキャッチフレーズです。「十字架につけろ」という簡単明瞭な叫びは、瞬く間に人々の興奮した心を捉え、大きなうねりを生み出していきました。人の言葉が持つ負の力。暴力的に人のいのちを奪う力は、短いキャッチフレーズが飛び交う中で増幅され、このとき最大限に発揮されていました。

興奮状態の渦の中で、どんな理性的な言葉も興奮した人々を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、抵抗することをやめてしまいます。大きな興奮のうねりに身を任せ、犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡してしまいます。

口々に「十字架につけろ」と叫んでいた人々は、いったい誰でしょうか。

最初に朗読された福音にその同じ人たちの姿が記されています。イエスを喜びの声を持ってエルサレムに迎えた群衆であります。この同じ群衆は、数日後に、イエスを「十字架につけろ」と叫びました。興奮の渦は、理性的な判断をかき消してしまいます。

目の前に展開する大きな興奮の波にただ身を任せ、喜んでみたり悲しんでみたりと、流されるだけの存在が、そこに集まった多くの人たち、すなわち「群衆」です。なぜ自分がそう叫んでいるのか、その理由を考えることはありません。しかし口から発する言葉には、力があります。人のいのちを生かす力、人のいのちを奪う力。自分が発する「十字架につけろ」という言葉が、ひとりの人の、いのちを奪おうとしていることに、気がつこうともしません。

もしタイムマシンが本当にあって、その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆の所へ出かけることができたとして、ひとり一人に尋ねてみたら、どう答えるのでしょう。「別に死んでほしいなんて、自分は思っていない」、「だって、みんながそういっているから」、などなど、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰も感じません。でも口から出た言葉には、力があります。

今の時代のコミュニケーションでは、時として、短い言葉の投げ合いになり、興奮状態の中で、理性的な判断が見過ごされてしまい、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすく、興奮をもたらすその言葉は、いのちを生かす言葉でしょうか。それとも、救い主を十字架につけて殺害したような、いのちを奪う言葉でしょうか。

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わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの人々が、クーデターのあと、いまに至るまで、どれほど翻弄され、暴力の中でいのちの危機に直面しているのか。ウクライナで続いている戦争のただ中で、どれほど多くの人がいのちの危機に直面し、恐怖の中で日々の生活を営んでいることか。ガザを始め聖地で、どれほど多くのいのちが、暴力の中で奪われていることか。

多くのいのちが、恐怖の中で「いまを生きていたい」と叫んでいます。その声が、直接わたしたちの耳に届くことはありませんが、しかし、いのちの危機に直面する人たちの存在は、その言葉に力を与え、その言葉の力をわたしたちは感じることができます。

経済の悪化で職を失った人たち、経済の混乱や地域の紛争の激化によって住まいを追われ、家族とそのいのちを守るために母国を離れ移り住む人たち。思想信条の違いから迫害され差別され、いのちの危機に直面する人たち。異質な存在だからと、共同体から、そして社会から排除される人たち。一人ひとりは、すべて、そこに存在する、賜物であるいのちを生きているかけがえのない神の似姿です。ひとり一人が、「いのちを生きたい」と叫んでいます。その言葉の持つ力をわたしたちは感じることができます。

わたしたちは、いのちを生かす言葉を語るものでありたいと思います。いのちを生きたいと叫ぶ言葉に応えるものでありたいと思います。無責任に、いのちを奪う言葉を語るものとならないように心するものでありたいと思います。

聖週間が始まります。あの日のイエスの出来事にこの一週間心を馳せながら、自分はどこに立っているのか、何を叫んでいるのか、振り返ってみたいと思います。

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