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2024年3月29日 (金)

2024年聖木曜日、主の晩餐のミサ@東京カテドラル

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聖木曜日、主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、アンドレア司教様と共に捧げました。

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ミサは、同じ聖マリア大聖堂に所在する関口教会と韓人教会の合同で行われました。

ミサ後にご聖体は、大聖堂向かって左にあるマリア祭壇に安置されました。主の晩餐のミサは沈黙のうちに終わり、聖堂内の装飾は、祭壇の上を含めすべて取り払われます。聖金曜日の主の受難の典礼は、始めも終わりも沈黙で行われ、そのまま暗闇の沈黙で始まる復活徹夜祭につながります。ですから、聖なる三日間は一つにつながった典礼のうちに過ごすときです。

以下、ミサの説教原稿です。

聖木曜日主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

わたしたちは、主イエスご自身によって食事の席に招かれている弟子の共同体です。教会がシノドスの道、すなわちともに歩む道をたどっているのは、教会が本質的に共同体であるからに他なりません。わたしたちはひとりで勝手に独自の信仰を深め歩む存在ではなく、互いに助け合いながら、共に聖霊に導かれて歩みを続ける神の民であります。わたしたちにそのことを明確に示しているのは、最後の晩餐において示された、主御自身の具体的な業による模範です。

最後の晩餐の席で主イエスは立ち上がり、弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音に記されています。弟子たちの足を洗い終えたイエスは、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗いあわなければならない」と言われたと記されています。

自分の足を洗うのではありません。自分と親しい人の足を洗うのではありません。自分が好ましいと思う人の足を洗うのではありません。「互いに足を洗いあわなければならない」と、主は弟子たちに命じます。共同体の属するすべての人に対して、わたしたちはそれぞれが、互いの足を洗うために、その前で身を深くかがめなくてはなりません。共同体のすべてのものが、互いに、相手の前に頭を垂れて、低いところに身をかがめて、互いに足を洗うようにと主は命じます。身をかがめて互いの足を洗うために、自分自身を全くの無防備な状態にせよと主は命じます。互いにすべてを相手に委ねる姿勢をとるようにと主は命じています。

ひとりでは、互いに足を洗うことはできません。自分の親しい人だけでは、互いに足を洗うことにはなりません。

ですから、教会共同体が、自分ひとりで歩むものではなく、また親しい人だけで歩むものではなく、それよりもすべての人と互いに支え合いながら、祈りあいながら、聖霊の導きを識別しながら、ともに歩む教会であることは、この最後の晩餐の時の主御自身の模範によって、定められたことです。すなわち、シノドス的な教会であること、シノドスの道を歩むことは、何か新しいアイディアなのではなくて、そもそも教会のはじめから当然のように内包している、教会の根本的な性格です。

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福音は、「わたしがあなた方にしたように、あなた方もするようにと、模範を示したのである」という主イエスの言葉を記しています。ですからわたしたちは、互いに助け合いながら、互いに身を委ねながら、ともに歩む共同体でなくてはなりません。

主の晩餐に招かれたわたしたちを、集められた多くの人を、一つに結び合わせているのは、ご聖体のうちに現存される主御自身です。その夜、パンをとり祈りを捧げ裂いて弟子に与えられた主は、「これはあなた方のための私の体である」といわれながら、聖体の秘跡を制定されました。すなわちご聖体は、それを与えられた「わたしたちのため」の主の現存です。わたしたちのための主の体。その主の体は、わたしたちを一致させる主の現存です。

第二バチカン公会議の教会憲章には、「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(教会憲章11)」と記されています。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」で聖アウグスチヌスの言葉を引用しながら、「主なるキリストは・・・ご自分の食卓にわたしたちの平和と一致の神秘をささげます。一致のきずなを保つことなしにこの一致の神秘を受ける者は、神秘を自分の救いのために受けることができません」(40)とまで指摘しています。

わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、その一致のうちに互いにいのちを分かち合い、互いに愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。わたしたちは、その一致を、具体的に社会の中であかしする共同体となるようにと、主から命じられています。ご聖体をいただくわたしたちひとりひとりの責務です。

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教皇ヨハネパウロ二世は、同じ回勅で、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。わたしたちは、いのちを生かし、互いを共同体の交わりへと招き、一致のうちに互いに支え合い仕え合う共同体の姿を通じて、いのちのパンにおける交わりへとひとりでも多くの人が招かれるように努めなくてはなりません。

わたしたちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡によって生み出される絆において、共同体でともに一致しています。

御聖体において現存する主における一致へと招かれているわたしたちは、パウロが述べるように、「このパンを食べこの杯を飲む度ごとに、主が来られるときまで、主の死を告げしらせる」務めがあります。わたしたちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の願いを同じように受け継ぎ、それをこの世界において告げしらせていかなくてはなりません。世界に向かって福音を宣教する務めを、わたしたち一人ひとりが受け継いでいくことが求められています。主の生きる姿勢に倣って、互いに支え合い、互いに身をかがめ、足を洗いあう姿勢で生きることを求められています。

教皇フランシスコは、回勅「兄弟のみなさん」の中に、こう記しています。

「兄弟的無償性を生きない人は、自身を強欲な商人に変え、自分が与えるものとその見返りに得るものをいつも量っています。対して神は、無償で与えてくださいます。忠実ではないものさえも助けるほどにです。・・・わたしたちは無償でいのちを受けました。いのちを得るのに支払いはしていません。だからわたしたちは皆、何ら期待せず、与えることができるのです。助ける相手に見返りを求めることなく、良いことができるのです(140)」

わたしたちは神からの無償の愛のうちに、主の晩餐に招かれています。主御自身である聖体の秘跡のうちに共同体の交わりの中で歩むようにと、招かれています。幾たびも裏切り続けているにもかかわらず、不忠実なわたしたちを主は、幾たびも幾たびも交わりへと招いてくださっています。今日もまた、その最初の招きである主の晩餐を記念するわたしたちの真ん中に立ち、わたしたちを、互いに支えあうものとなるように招いておられます。

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