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2024年3月 3日 (日)

2024年四旬節第三主日ミサ@東京カテドラル

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四旬節第三主日の午前10時の関口教会のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げました。

3月1日は、今年の性虐待被害者のための祈りと償いの日でしたが、その直後の日曜日にも、各小教区では教皇様の意向を持ってミサを捧げることにしております。昨日の日記でも紹介いたしましたが、司教協議会の会長として全国にこの日の祈りの意向を伝え、自らを振り返り反省に基づいて、被害を受けられた方々のために祈り、また対策に真摯に取り組むようにと呼びかけた、わたしの呼びかけ文が、中央協議会のホームページに掲載されています。こちらのリンクです

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以下、本日のミサの説教原稿です。なお、現在、東京カテドラルでは聖堂内の音響設備に不具合が生じており、中継ビデオへの音声の転送ができておりません。そのため、中継映像の音声は、聖堂内のスピーカーからの音声をマイクで拾ったものとなり、不明瞭な部分があることをご承知おきください。聖週間を前にして、その前には、修理が完了すると担当から聞いております。お聞き苦しいとは思いますが、ご容赦ください。

四旬節第三主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月3日

今年一年の幕開けは、能登半島での大きな地震でありました。大きな災害となり、200人を超える方が亡くなられ、復興のためにはまだまだ時間がかかるであろうことが想定されています。教会も、名古屋教区を中心に支援体制を整え、カリタスジャパンも協力しながら、長期的な視点をもって、被災地の方々と共にあり続ける教会の姿を明確に示す道を歩んでいます。

2019年11月に、東北の大震災被災者の方々と会われた教皇様の言葉を思い起こします。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

わたしたちも困難に直面する方々とともに歩み続けることで、展望と希望を回復するための出会いを生み出す友人であり兄弟姉妹であり続けたいと思います。

さて、こういった災害などの大きな出来事が発生すると、今の時代ですから、あっという間にその現場の映像が飛び回ることになります。もちろん報道など、テレビ画面に映し出される映像もあれば、インターネットの時代ですから様々な方が流す映像をわたしたちは目にします。

ただ、画面に映し出されるのは一部を切り取った映像であって、必ずしも起こっている出来事のすべてではありません。その場に実際にいたとしても、それぞれの人の受け取り方は異なっており、同じ出来事に遭遇したすべての人が、必ずしも全く同じ認識を持つとは限りません。情報の受け手が注意深くなければ、自分が生み出した勝手なイメージを信じ込んでしまう可能性すらあります。全体を把握するには、注意力と想像力に基づいた慎重な判断が必要です。

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ご記憶の通り、十字架につけられたイエスの目の当たりにしたとき、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と集まった人々はあざ笑いました。

このあざけりの言葉は、人々が勝手に創り上げたイエスへの期待やイメージに、イエス自身がまったく応えてくれない。力強い預言者リーダーをイエスに求めていたのに、その期待はまったく裏切られた。目の前にいるのは、力なく十字架上で死に行く、敗北者の姿であります。

だからこそパウロはコリントの教会への手紙で、わたしたちが宣べ伝えている十字架につけられたイエスは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人にはおろかなもの」と記します。切り取られたイメージは自分勝手なイエス像を産みだし、その全体の姿を見ようともしません。勝手に生み出したイメージに妨害されて、十字架の持つ意味を多くの人は理解することができません。

十字架とは何でしょう。パウロは同じコリントの教会の手紙の冒頭に、こう記しています。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

パウロは、言葉の知恵により頼むと十字架が虚しくなるといいます。すなわち十字架は人知を遙かに超えた存在であり、それは具体的な行いによって神ご自身がその愛といつくしみをあかしした、行いによる福音の告知そのものであります。十字架は神の愛のあかしです。

十字架上で息絶えていくイエスだけを見るならば、それは敗北者の姿でしかありません。しかしそこに至る道のりと、その後の死と復活の栄光を全体としてみるとき、初めて十字架こそは、神ご自身が自ら創造された人類を愛するがあまり、自らのいのちを犠牲にして人類を救うためにとられた神の愛のあかしの具体的な行動であることが理解されます。

ヨハネ福音は、神殿の境内に入ったイエスが、商売人や両替商を鞭で追い出した話を記しています。その場面だけを切り取ってみれば、イエスを知らない人たちにとっては、とんでもない暴虐を働く人物と映ったでしょうし、その直後に、「三日で建て直してみせる」という言葉を耳にしたときには、夢物語だとイエスをあざ笑ったことでしょう。

人々の目には、そこで起こった出来事だけが切り取られて理解されてしまいます。イエスが、ご自分こそ人々の歩むべき道を示す神、すなわち生きる神殿であることを語ろうとする、その全体的な姿が見えていません。

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わたしたちは、世界に向かって何を示していこうとしているのでしょうか。

パウロがコリントの教会への手紙で言うとおり、わたしたちは、世界に向かって十字架を示していこうとしています。その十字架におけるイエスの受難を告げ知らせていこうとしています。しかし今の時代にあっても、わたしたちのあかしは、一部を切り取って勝手に夢物語と思い込まれ、神の愛といつくしみ、そして神の平和のその全体像を伝えることは、容易なことではありません。

だからこそ、一部の人だけではなく、教会共同体全体が、福音宣教者として召されているのだという意識の改革、つまり教会でいう回心が必要です。一部しか伝わらないのですから、皆がそれぞれに語らなくてはなりません。それぞれが語り行動することは異なっていて当然です。信仰は、私とイエスとの出会いに基づいているからです。しかし皆がそこに責任を持って関わることが重要です。ともに歩む教会は、共に責任を持って福音を告げ知らせる教会です。わたしたちひとり一人が、それぞれの方法で語り続けるとき、やっとそこに全体の姿が見えてくるようになります。イエスの十字架の神秘を告げ知らせるために、皆さんひとり一人が必要です。

さて、教皇フランシスコの指示によって、日本の教会では四旬節第二金曜日を、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定めており、今年は3月1日がその日にあたります。東京教区では、今日の主日にも教皇様の意向で祈りをささげています。

出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いのちの福音」にはこう記されています。

「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。・・・このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

教会にあって、聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が存在しています。共同体の一致を破壊し、性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為によって、多くの方を深く傷つけた聖職者や霊的な指導者が存在します。長い時間を経て、ようやくその心の傷や苦しみを吐露された方々もおられます。なかには、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で、さらなる被害の拡大を生じた事例もしばしば見受けられます。人間の尊厳をおとしめるこういった聖職者の行為を心から謝罪します。責任は加害者にあるのは当然です。

人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。いのちを賜物として大切にしなければならないと説くわたしたちは、その尊厳を、いのちの始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。全体として、教会が、神の愛といつくしみをあかしする者となるよう努めましょう。

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