« 2024年5月 | トップページ | 2024年7月 »

2024年6月29日 (土)

週刊大司教第173回:年間第13主日B

2024_06_16_rca_0049

年間第13主日となりました。

この日曜日、東京教区の築地教会では、150周年を感謝するミサが捧げられます。築地教会は1876年から1920年まで、東京大司教区の司教座聖堂とされていました。その歴史は、東京教区のホームページに詳しく記載されています。

それによれば、「横浜から派遣されたマラン神父とミドン神父(共にパリ外国宣教会)は1871年秋ごろ東京に入り、宣教を始め」、さらに「1872年には千代田区三番町にラテン学校(神学校)を開校し、70人余りの学生を収容」と初期の発展を続けました。そこで当時の宣教師たちは、「宣教の発展のために、借家の仮教会を出て、築地の居留地内に教会を建てる」ことを決意し、それが1874年11月22日、築地教会として聖堂が献堂されることになりました。東京大司教区は1891年に大司教区として独立しましたので、当初からこの築地教会が司教座指聖堂とされたのは自然の成り行きで会ったかと思います。

現在の主任司祭は、コロンバン会のレオ神父様で、築地教会にコロンバン会の日本の本部が置かれています。

日本カトリック小中高連盟が主催の、第33回全国カトリック学校校長・教頭合同研修会が、6月27日と28日に、名古屋で開催されました。日本にあるカトリック学校は、幼稚園から大学まで、それぞれ連盟組織を持っており、全体として日本カトリック学校連合会を構成しています。この連合会は一般財団法人で、司教団から顧問の司教が出ていますが、司教協議会からは独立した、学校主体の組織です。司教協議会には、カトリック学校教育委員会が設けられており、現在は前田枢機卿と酒井司教が担当しています。こちらは司教協議会の組織です。この二つが、両輪となって、カトリック学校教育を推進しています。司教協議会側はどちらかというと理念に関して、連合会側は具体的な学校運営を取り扱います。

今回の研修会は、学校連合会の主催ですので、具体的な学校運営の問題などについて、意見交換する場で、今回の研修会のテーマは「現代のグローバルな課題にカトリック学校はどう答えることができるのか」とされていました。

Img_20240627_150850748_hdr

初日には、わたしと、成井司教、長崎南山の西校長が講演しましたが、三名とも神言会会員です。というのも、今回の企画の中心には名古屋の南山中高の方々がおられ、南山は神言会が経営母体です。わたしは、シノドスのことから始まって、それが単に今年の10月で終わって何か結論が出るようなものではなくて、これからも先の息の長い教会の体質改善の取り組みであり、その「教会」には、教育機関も含まれていることなどをお話ししました。(なお上の写真は当日会場ですが、わたしと成井司教と、その後ろは名古屋の南山中高の赤尾校長です)

成井司教は、カリタスジャパンの取り組みについて解説をされました。特に災害などが起こると、真っ先に募金協力してくださる一つが、学校です。西校長は、この界隈では有名な、笑って泣かせる話をする教育者です。

全国から120名を超える校長・教頭が参加されました。28日は南山大学で研修会が継続され、11時から、松浦司教様司式で、閉会ミサが、南山大学キャンパスに隣接する神言神学院で捧げられます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第173回、年間第13主日のメッセージ原稿です。

年間第13主日B
週刊大司教第173回
2024年6月30日

マルコ福音は、会堂長ヤイロの幼い娘が病気で伏せっていたときに、その父親の願いに応えてイエスが出かけたときの出来事を記しています。

すでになくなったと言われる少女が、イエスの一言によっていのちを取り戻したのですから、この奇跡物語は、病気などの予期せぬ状況によって希望を奪われ、人生の絶望の淵にある人たちが、イエスとの出会いによって生きる希望を取り戻した話であります。

同時に、この物語でのイエスの言葉には、それ以上の意味が込められています。

「タリタ、クム。少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」

病のためにいのちを十全に生きるすべを奪われた少女に、イエスはいのちをよみがえらせることによって、自ら立ち上がり、自らの運命の手綱を握って、歩み始めるようにと力を与えます。

この言葉は、単にいのちをよみがえらせた奇跡の言葉ではなく、人間の尊厳を奪われているすべてのいのちに対して、そのいのちを十全に生きる道を自ら切り開いていく力を与える言葉でもあります。

そう考えるとき、いま世界の現実の中には、人間の尊厳を奪い去り、希望を奪い去り、絶望の淵へと追いやるようなありとあらゆる理由が存在しています。もちろん、戦争はその最たるものですが、同時に教会は、この「タリタクム」の言葉に促されて、様々な自由から強制的に尊厳を奪われる人身取引の課題にも心を砕いています。

15年前に、女子修道会国際総長連盟が中心となり、世界の様々な人身取引の問題にカトリック教会として取り組むために設立されたネットワークは、その名をこの主イエスの言葉から取り、「タリタクム」と名乗っています。日本でもその活動は行われています。

教皇様は今年の5月に行われた「タリタクム」の総会にメッセージを送り、その中で、「人身取引は組織的な悪であるからこそ、わたしたちも組織的に、また様々なレベルで取り組む必要がある」と述べ、その上で、「被害者のそばに立ち、彼らに耳を傾け、自分の足で立ち上がれるようにと手を貸し、一緒になって人身取引に対抗する行動をすることが大切だ」と強調されました。

人身取引は、遠い世界の話ではなく、日本社会の現実の中でも発生しており、日本政府自身も「『人身取引』は日本でも発生しています。あなたの周りで被害を受けている人はいませんか?」と政府広報で啓発しているほど、世界の深刻な問題となっています。

いのちを生きるようにと少女に手を差し伸べ、その尊厳を回復させた主イエスに倣い、わたしたちもこの世界の中で、人間の尊厳を奪われ絶望の淵に追いやられている多くの人が、自らの足で立ち上がることのできるように、心を配りたいと思います。

| |

2024年6月24日 (月)

東京教区司祭の集い:司祭叙階ダイアモンド・金・銀祝のお祝い

2024_06_24_027

6月最後の月曜日は、恒例となっている司祭の集いのミサの中で、司祭叙階ダイアモンド・金・銀祝の皆さんのお祝いをいたしました。

東京教区におられる教区司祭や修道会司祭で、参加いただいてミサの共同司式をしていただいた神父様方には、その場でお祝いと花束をお渡ししています。またミサ後には、ケルンホールで昼食を一緒にし、長年の貢献に御礼申し上げると共に、これからも健康で過ごされるようにと、お祝いの一時といたしました。

2024_06_24_010

本日一緒に参加してくださったお祝いを迎えられた司祭は、司祭叙階60周年ダイアモンド祝が、イエズス会の安藤勇師とハビエル・ガラルダ師。司祭叙階金祝が、東京教区の小林祥二師、グアダルペ宣教会のマルコ・アントニオ・マルティネス師、司祭叙階銀祝が、グアダルペ宣教会のアントニオ・カマチョ師、東京教区の石脇秀俊師、サレジオ会の飯田徹師、サレジオ会の濱崎敦師です。

2024_06_24_054

おめでとうございます。これまでのお働きに、神様が豊かな報いを与えてくださいますように。またこれからも健康に留意されて、ご活躍くださることを願っています。

2024_06_24_056

以下、本日のミサの時に手元にあった、説教の原稿です。

東京教区司祭の集いミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年6月24日

毎年、8月が近づくにつれ、平和という言葉が繰り返されるようになります。教会でも、8月を中心として平和について語り祈る機会が増えますし、社会にあっても、特に6月23日の沖縄での戦争終結の日から8月15日までの期間、平和について様々な側面から語られる機会が増加します。

昨日6月23日は、沖縄慰霊の日でありました。1945年6月23日に沖縄地上戦での日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日であり、沖縄県が条例で定めている慰霊の日です。

那覇教区のウェイン司教様の今年の沖縄慰霊の日の平和メッセージにこう記されています。

「平和・共生・協調の理念は、すべての人の共通の普遍的な願いであるはずなのに、同じ理念を目指しながらも、一方は他者の存在を必要とする立場から『対話』を選びますが、他方では同じ平和を理由にして、自己防衛のためにと『武力』を選択しています」

ウェイン司教様は、「自分達の安心・安全」だけを中心に平和を考える利己的な姿勢が、現代社会の混乱を巻き起こし、平和を守るために闘う現実を生み出していると指摘されています。

今年4月に行われたアドリミナでの教皇謁見の際にウェイン司教様は、外国の軍隊がほぼ恒久的に他国内に軍事基地を設置することの倫理性を教皇様に問いかけられました。沖縄の現実であります。教皇様はこれに対して、外国の軍隊の駐留の倫理性については考えたことはなかった、是非これから研究してみたいと答えておられました。その意味で、あの悲惨な戦争の現実から79年が経過しても、今なお、防衛を口実に、平和は実現していません。

もちろんわたしたちは、ヨハネ23世の地上の平和の冒頭を持ち出すまでもなく、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることも」ないと知っています。

神の秩序がこの世界を支配するように働くことは、平和のために働くことであり、わたしたちにとっては、この夏の間だけではなく、一年を通じて働きかけなくてはならない使命であります。もちろん、一年の中に、この夏の期間のように、平和の尊さを思い起こさせてくれる出来事があるのは大切です。同時に、わたしたちにとって、それは一年を通じて、単に戦争がないことだけを訴えるのではなくて、神の秩序の支配を妨げるありとあらゆることに対して、立ち向かうことの重要さを改めて心に刻む機会でもあります。

わたしは、いま、司教協議会の会長を務めさせていただいていますので、この時期になると、平和旬間に向けて、会長談話を作成しなくてはなりません。自分で書くんです。来年は戦後80年の節目ですから、司教団全体のメッセージが出ることになろうかと思いますので、それは複数の方が原案を書かれますが、他の年には、会長談話という形をとっています。会長談話だから好き勝手に書いて良いわけではなくて、結局、7月に開催される司教総会で、他の司教様たちの承諾を得なくてはなりません。

どんなテーマを書こうかと考え始めました。皆さん、平和を阻害している現実は、この世界にどれほどありますか。神の秩序が世界を支配することを阻んでいる現実は、一体どれほど頭に浮かばれますか。

ウクライナの戦争、ガザの武力対立、南スーダン、シリア、ミャンマーなどなど、こういった武力による平和の阻害が多々頭に浮かんできます。

同時に、神の秩序を乱す現実は武力の行使だけではありませんから、そう考えれば、環境破壊、地球温暖化がそこには思い浮かびます。そして神が最も求められていることは、ご自分が愛を込めて創造され賜物として与えられたいのちが、その尊厳を守られることですから、難民、移住者、経済的困窮者、病者、様々な状況で人間の尊厳をないがしろにされている人々。様々な社会の現実が思い浮かびます。

先日バンコクで行われたカリタスアジアの総会で、地球温暖化や環境破壊に関連した活動について、いくつかの国の報告を伺いました。バングラデシュで、小さな島に長年住んでいる人たちが、海面が上昇し、気候変動で嵐に襲われることが増えたたため、その小さな島がどんどん浸食され、居住することに困難を感じている事例が報告されました。客観的に見るならば、いくつもの解決策が思い浮かびますが、しかし心を打つのは、そこに長年住んできた老人の、「一体これからどうしろというのだ」という心からの嘆きと心配の言葉であります。数字や政策ではない、ひとりのいのちがその尊厳を奪われようとしている現実であります。

すべての出来事は複雑に関係しており、社会の現実は複雑さを極め、いのちの危機はシングルイシューでは解決することができなくなっています。総合的な視点が不可欠です。

ともすると、いのちを守るための活動を進めるときに、目の前の課題に集中するがあまり、その総合的な視点が欠如していることがあります。時には、ある一つの分野で人間のいのちを守ることを主張する一方で、他の分野でいのちを守ることには興味を全く示さないことすら見受けられます。神の賜物であるいのちは、事情に応じて、その価値が変わるのでしょうか。そんなはずはありません。

教皇様は、2017年に、それまであった難民移住移動者評議会や開発援助評議会、正義と平和評議会など、社会の諸課題に取り組む部署を統合し、人間開発の部署を創立され、近年それは人間開発省に昇格しました。

この人間開発省という名称の前には、インテグラルと言う言葉がつけられています。総合的人間開発省です。

教皇様が「ラウダート・シ」を2015年に発表されたとき、第四章のタイトルを「インテグラル・エコロジー」と記されました。それ以来しばしば使われるようになる「インテグラル」と言う言葉が、回勅に登場しました。

教皇様は、こう書いておられます。

「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸課題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています(137)」

いまの世界で神の秩序が尊重され世界を支配することを目指しているわたしたちは、総合的な視点から様々な課題に目を向け、福音を証ししていく宣教者であり続けたいと思います。

 

| |

2024年6月22日 (土)

週刊大司教第172回:年間第12主日B

2023_10_28_rca_0046

年間第12主日となりました。本日の日曜日は、聖ペトロ使徒座への献金の日でもあります。教皇様が様々に行う支援活動や福音宣教活動ですが、特に近年、支援援助省を独立させてからは、直接的な支援のために長官のクライェウスキ枢機卿を、例えばウクライナへ直接派遣したりして積極的に展開されています。かつてこのクライェウスキ枢機卿の部署の管轄は、教皇様の祝福の文書をリクエストがあった世界各地に送付する業務が主でした。いまでもその業務は続けられており、様々な機会に、教皇様からの祝福の文書を目にすることがあります。その部署に教皇様は、直接的な援助をさせることにして、枢機卿を責任者として、一つの役所として独立させました。そういった教皇様の活動を支えるのが、世界中で本日行われる、聖ペトロ使徒座への献金です。6月29日の聖ペトロ聖パウロの祭日の直前の日曜日に行われることになっていますので、今年は23日の日曜日です。教皇様の活動を支えるための献金をお願いいたします。

なお東京教区では、同祭日の近くの月次司祭集会の日に、司祭が集いミサを捧げ、その年に叙階金祝銀祝を迎える司祭への祝福をともに祈ることになっています。今年は、24日の月曜日にこのミサが捧げられ、新しく着任されたエスカランテ・モリーナ教皇大使も参加される予定になっています。なお金銀祝を迎える司祭については、別途、教区のホームページなどでお知らせします。

東京都では都知事選挙が始まりました。世界の各地に、この民主的で自由な選挙を手に入れるために闘わざるを得ない人たち、それがないために尊厳をないがしろにされている人たちが多くいることを考えるとき、日本では当たり前のように行われる選挙を、面白おかしく、あえて言えば愚弄するような行動があることは、残念と言うよりも、悲しいことです。とはいえ、何らかの形で選挙の存在と意味を考える機会にもなっていると前向きに捉え、ひとりでも多くの人が忘れることなく権利を行使することを願っています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第172回、年間第12主日のメッセージ原稿です。

年間第12主日B
週刊大司教第172回
2024年6月23日

人生を生きていく中で、わたしたちはしばしば困難に直面し、自分でなんとか解決できることもあれば、誰かの助けがなければ立ち上がることすらできないほどの危機に直面することもあります。

なかでも、いのちの危機をもたらす暴力的な状況に置かれたとき、例えば戦争が続いているウクライナや、多くの人がいのちの危機に直面しているガザの現実などの中で、どれほどのいのちが、今この瞬間に、誰かの助けが必要だと感じていることでしょう。助けを必要としている人がこれだけ世界には存在しているのに、世界のリーダーたちはその危機的状況を解決するよりも、深刻化させるために知識と資金を費やしているようにしか見えません。

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」

マルコ福音に記されているこの弟子たちの叫びは、今の時代を生きているわたしたちの叫びでもあります。いのちの危機に直面し、解決の糸口が見えないまま取り残されているわたしたちにとって、現実はまさしく、荒波に翻弄される船の中に取り残された弟子たちの姿であります。

世の終わりまでともにいてくださると約束された主は、恐れにとりつかれ、孤独のうちにいのちの危機に直面しているひとり一人に対して、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけます。それは決して、信仰が弱いからだめなのだなどと批判する言葉ではありません。それはまさしく荒れ狂う湖に翻弄される船の中には、弟子たちだけがいたのではなく、主御自身もともにおられた事実を、改めて弟子たちに思い起こさせる言葉であります。「わたしはここに共にいる」と、慰めを与えるいつくしみの言葉であります。

そして今日、いのちの危機に直面し、恐れにとらわれるわたしたちに対して、主は改めて、「わたしはここに共ににいる」と、慰めの言葉を与えてくださいます。主は共におられます。

2025年の聖年を告示する大勅書「希望はわたしたちを欺くことがありません(ローマ5,5)」を発表された教皇様は、わたしたちがこの世界にあって「希望の巡礼者」として生きることを呼びかけます。特に教皇様は、この聖年を主が与える「時のしるし」を読み取る機会としながら、わたしたちが悪と暴力に打ち負かされてしまった思い込んで恐れにとらわれる誘惑に勝つために、今日の世界に存在する善に目を向けることを忘れないように勧められます。この世界は、絶望だけに満ちあふれているのではなく、希望を生み出す善は存在していることを、教皇様は強調されます。

その上で、「時のしるし」を良く読み取り、それを「希望のしるし」に変容するようにとわたしたちを招いています。

わたしたちの一番の希望の源は、いのちの与え主である主御自身が、いつまでもわたしたちと共にいてくださるという確信です。わたしたちはいのちの主から見捨てられることがないという確信です。主は絶望や苦しみの中にあるわたしたちと、いつも共におられます。

 

| |

2024年6月15日 (土)

週刊大司教第171回:年間第11主日B

2024_06_02

年間第11主日です。

この一週間は、久しぶりにアジアのカリタスのメンバーの総会に参加しました。2019年5月までの8年間、わたし自身がカリタスアジアの総裁でしたから、この総会には5年ぶりの参加です。これは別途、記事にして掲載します。

本日の第11主日には、東京カテドラル聖マリア大聖堂に所在する韓人教会の堅信式が、いつもの日曜12時からのミサで行われ、私が司式させていただきます。韓国語はできないので、韓国語に日本語を交えたミサと成る予定です。堅信を受けられる方々に聖霊の豊かな祝福を祈ります。

本日土曜日の午後には、教区の宣教司牧評議会も開催されました。昨年までの評議会からの答申を受けて設置された作業部会が、宣教協力体の見直しの提言作成のための作業を進めていますが、現在の宣教司牧評議会は、シノドス的な教会を実現するために、東京教区でどのような取り組みを進めるかを考察するために、実際に霊における会話を体験したりする中で、教皇様が目指している教会の姿を体感として持ち、それをさらに教区に広げていくことを目指しています。このプロセスは、教皇様自身がおっしゃるとおり、一朝一夕で実現する者ではなく、いわば教会全体の体質の改革ですので、息の長い、しかも地道な取り組みが求められます。

今日の宣教司牧評議会では、先般、小教区で働く司祭のためのシノドスの集いがローマで開催された際に、日本の代表として参加された、日本の教会のシノドス特別チームのメンバーでもある大阪高松教区の高山徹神父様にお話をいただいて、そのあとに分かち合いとなりました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第171回目、年間第11主日メッセージ原稿です。

年間第11主日B
週刊大司教第171回
2024年6月16日

炎上商法などと言う言葉をネット上では耳にすることがありますが、今の時代、地味で緻密な論理の積み重ねよりも、大げさなパフォーマンスで注目を浴びることが成功につながると考えられているのかもしれません。

福音宣教の使命を与えられているわたしたち教会も、パッと大きなイベントでも催して、多くの人たちの耳目を惹き、一気に社会をひっくり返せたらどんなに良いかと夢見ますが、しかし今日の福音は、神の国とは地道な積み重ねの上に成り立っていることを、明確に示しています。

「神の国を何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである」と語るイエスの言葉を、マルコ福音は伝えています。

取るに足らない小さな種から始まって、しかし成長して行くにつれ「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝を張る」までになる。その過程を述べて福音は、神の視点がいかに人間の常識的視点と異なるのかを教え、派手なパフォーマンスではなく、神の計画に従った地道な積み重ねが重要であることを教えています。

今年4月の世界召命祈願日のメッセージで教皇様は、来年の聖年のテーマでもある「希望の巡礼者」に触れ、それぞれに固有の召命を見いだす道を巡礼の旅路になぞられて、次のように記しています。

「自分に固有の召命を再発見しつつ、聖霊の多様なたまものを結び合わせ、世にあって、イエスの夢の運び手となり、証人となるために、聖年に向かって「希望の巡礼者」として歩みましょう」

その上で教皇様は、目的地ははっきりしているが、そこに到達するためには、人目を惹くパフォーマンスではなく、地道な一歩が必要だと指摘して、こう述べています。

「その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要なものだけをもち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないよう、日々頑張らなければなりません」

心に主との出会いへの希望を抱くことで、わたしたちは、日々の小さな苦労が決して無駄にならないことを知っています。わたしたちは毎日、「平和と正義と愛を生きる新たな世界に」向かって、毎日巡礼者として一歩を刻んでいきます。

シノドス的であろうとしている教会は、巡礼者としてともに歩む教会であろうとしています。わたしたちは巡礼者です。ともに支え合い、互いに耳を傾けあい、ともに歩む教会は、毎日小さな一歩を社会の中に刻んでいきます。その小さな一歩の積み重ねこそが、暗闇の支配する社会に希望を生み出し、神の計画の実現へとつながっていきます。わたしたちは巡礼者です。福音をともに証ししながら、確実に一歩ずつ前進を続ける希望の巡礼者です。

| |

2024年6月 8日 (土)

週刊大司教第170回:年間第10主日B

1717747775262

年間第10主日です。

立場上、いくつかの法人組織で理事や評議員をさせていただいていますが、6月は多くの法人で決算のための理事会や評議員会が開催されます。今週は、そういった理事会や評議員会が目白押しの週でした。そんな中で、5日の水曜日の夜、イグナチオ教会のヨセフホールを会場に、イエズス会社会司牧センターの主催で行われた連続セミナーで、お話をさせていただく機会がありました。テーマはもちろんシノドスです。

1717747779430

多くの方に参加いただき感謝します。わたしが40分ほど、シノドスの第一会期の体験についてお話しさせていただき、そのあと、6人くらいずつのグループに分かれて、実際に霊における会話を体験しました。今回のシノドスが目指すのは、一朝一夕の改革ではなくて、息が長い、教会の体質改善です。聖霊の導きを共同で識別する教会共同体となっていくことです。これからも地道に、焦ることなく、じっくりと取り組んでいきたいと思います。

1717747799892

このセミナーはまだまだ続きます。上記のリンクからホームページをご覧になって、ご参加ください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第170回、年間第10主日のメッセージ原稿です。

年間第10主日B

週刊大司教第170回

2024年6月8日

「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」

マルコによる福音は、神の計画とこの世の常識や秩序がすれ違っている様を記しています。ナザレの田舎から出た大工の息子が、30才になった頃に多くの人を前にして神の真理を語り始め注目を浴びるようになったのですから、それまでの30年間を知っている「身内の人たち」は、それを理解することができません。イエスをよく知った彼らにとって、世の常識に従えば、話している内容ではなくて、その行動自体が奇異に映ったことでしょう。

イエスを取り押さえに来た身内の人たちに対して、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」というイエスの言葉は、神の計画がこの世の常識や秩序と全くかけ離れていることを明確に示し、福音の物語は、多くの人がそれを理解することができない様を記しています。

神のみ旨を知り、そしてそれに従い、さらにそれを広めることに、常につきまとうのはこの世の常識との対立であります。もちろん信仰は、この世界に現実に生きている人間の具体的な心の問題であって、フィクションの世界の夢物語ではありませんから、この世の現実を全く無視して成り立つものではありません。同時に、世の常識や秩序を優先させてしまうと、神が望まれる世界とはかけ離れてしまいます。

第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようとつとめる(11)」と記します。

すなわち、教会は社会の現実から切り離された存在ではなく、積極的に社会の現実を識別し、その中に具体的にある神の計画を見極める存在であります。信仰は社会の現実から遊離しているものではありません。

しかし同時に神の計画は、この世の秩序を完全に否定することから始まるわけでもありません。第二バチカン公会議の信徒使徒職に関する教令は、社会の現実の中で生きる信徒の召命について語っていますが、そこにこう記されています。

「世に対する神の計画とは、人々が互いに心を合わせて現世の事物の秩序を打ち立て、これをたえず完成させることである(7)」

教会は、この世の現実を破壊したり、秩序を打ち壊したり否定することではなく、それを神が望む形で完成させる道を選ぶことで、神の御心を実現し、わたしたちが主の家族となる道を歩もうとしています。

教会はいまシノドスの道を歩んでいますが、それは現実と妥協してしまう道ではなく、互いに耳を傾けあい、違いを認め合いながら、ともに現実を神の計画に近づけるように努める道でもあります。

| |

2024年6月 4日 (火)

八王子方面から二つの慶事

Img_20240531_082748540-2

八王子方面からの出来事を二つ。二つの場所は、中央高速の八王子インターから圏央道のあきる野インターに至る新滝山街道を挟んで、北と南のすぐ近くにあります。

5月31日の朝、新滝山街道のすぐ北側に位置する東京純心女子中学高校が、創立60周年を迎えました。純心女子中学高校については、こちらのリンクを

Img_20240531_110026361-1

長崎にルーツを持つ、純心聖母会が経営母体となる学校です。長崎と鹿児島と東京に、それぞれ教育機関を設置しています。純心聖母会自体も、この6月で、創立90年を迎えると聞いています。同会のホームページによれば、次のようにその経緯が記されています。

『1934(昭和9)年6月9日に、日本人最初の司教、長崎教区長ヤヌワリオ早坂久之助きゅうのすけ司教によって、「日本二十六聖殉教者天主堂」(大浦天主堂)のサンタ・マリアの祭壇前で創立されました。奇しくもこの日は、日本の教会の保護者である「聖母マリアのいと潔いさぎよきみ心」(現「聖母のみ心」)の祝日でした。聖母マリアに対する崇敬と感謝の念を抱いていた創立者は、本会を「聖母のいと潔きみ心」に奉献して、「純心聖母会」と命名しました。創立者が本会を創立するにあたって受けたインスピレーション(「創立者のカリスマ」)は、「与え尽くす十字架上のキリスト」です。
 初代会長シスターマリア・マダレナ江角えずみヤスは、共同創立者として創立者に協力し、聖母マリアのみ心に倣いながら、「与え尽くす十字架上のキリスト」の愛を多くの人々に宣教して生涯を全うしました。「マリア様、いやなことは 私がよろこんで」はシスター江角自身が生き、純心の学園や福祉施設、修道会において純心精神を物語る標語として、大切に受け継がれています』

東京に設置された中学高校のホームページに記された校長先生による、学校創立の経緯によれば、その修道会の創立者ご自身が、この地を見いだされたのだそうです。こう記されています。

『創立者 Sr.江角ヤス先生は、東京純心を建てる地をこの滝山に見つけました。そして、この地を歩きながらここで育っていく生徒たちについて思いめぐらし、その熱い思いを校歌に託しました」

 なお隣接地には東京純心大学もあります。こちらは看護学科とこども文化学科。大学は1967年に短期大学として始まり、1996年に四年制大学になっています。

Img_20240531_110019332_hdr-1

創立者の名を冠した江角講堂で、聖母訪問の祝日のミサを、創立感謝ミサとして、全校生徒、教職員、そして理事長や校長を始め純心聖母会のシスター方も一緒に、捧げました。ミサ終了後には、同じく講堂で、国際カリタスのお話を中心に、『なぜ教会は人を助けるのか』というテーマで、50分ほど講演もさせていただきました。東京純心女子中学高校の皆さん、おめでとうございます。

そして二日後、キリストの聖体の主日に、再び朝から八王子へ向かいました。今度はピエタのシスターとして知られている師イエズス修道女会の、誓願金祝と銀祝の感謝ミサのために、一昨日の純心の反対側、新滝山街道の南側に位置する同修道女会の日本管区本部へ向かいました。

ところが、目の前の丘に修道院が見えるのに、どこから入ったらいいのか分からない。運転してくれた小田神父様が、慌てて修道院へ電話してみると、我々がいる新滝山街道を乗り越える橋があり、そちらは旧滝山街道へ回って入れるとわかり、再び周囲をぐるりと回ることに。危うく、ミサ開始の時間に遅れるところでした。

Img_20240602_114701473

お祝いのために、全国各地にある同修道女会共同体から代表が参加。東京カテドラル構内にも関口修道院があるので、このメンバーは全員が参加。創立者を同じくする、パウロ会、女子パウロ会の代表や、シスター方が台所を担当しているイエズス会の神学院の代表など、多くの方が参加されていました。

Img_20240602_120148234

誓願宣立50周年はシスター平松千枝子、シスター村上ヨウ子、シスター梶野芳子、そして誓願25周年はシスター寺田奈美江。おめでとうございます。ミサ後の昼食会では、すべての共同体からのお祝いの言葉や歌もあり、和やかな一時でした。

どちらの修道女会もお祝いでしたが、同時に、与えられた使命の後を継ぐ若い召命が、どちらの修道会も少ないと言う悩みの再確認でもありました。もちろん召命は人間が生み出すものではなく、神様から与えられるものですが、同時に神様の呼びかけがふさわしい人の心に到達し、それに前向きに応えるためには、人間の努力による貢献が不可欠です。その意味で、神様からの呼びかけだからと、何もしなくて良いわけではなく、修道者や司祭だけに限らず、すべてのキリスト者に与えられている召命にどう答えるのかと言う視点を、日頃から深めていく努力は重要です。信徒だから修道者や司祭とは違う、のではなくて、すべてのキリスト者にはそれぞれユニークな召命があると、改めて心に刻みたいと思います。

Img_20240602_124445227

奉献生活に生きることは、ともすれば個人的なこと、つまり修道者ひとり一人が、どのように三つの誓願、清貧・貞潔・従順を守り、福音的勧告に従って生きるのかという、個人的な霊的生活のレベルだけで考えられがちです。しかし教会には、信仰それ自体が、ベネディクト16世がしばしば指摘したように、イエスとの個人的な出会いの体験が必要であるけれど、同時にわたしたちの信仰は共同体に基づいている、共同体としての信仰であることを心に留めたいと思います。いつまでも共にいると約束された主が残されご聖体の秘跡は、わたし個人と主との交わりであり、同時に共同体を主との交わりに導く秘跡であります。教会は、常に個人的側面と共同体的側面のバランスをとろうと努めています。教会憲章にあるとおり、教会はこの世の組織でありつつ、天上の善に飾られた存在でもあり、現実的側面と霊的側面が共存するように、共同体的側面と個人的側面も共存します。

奉献生活に生きる人の存在は、奉献生活者個人にとって重要な意味を持っていますが、同時に教会にとって、まさしく福音に基づいた連帯や支えあいが、希望や喜びを生み出すのだというあかしをする存在として重要な意味を持っています。

教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」にこう記されています。
「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です。(104)」

教会の本質である三つの務め、すなわち福音のあかし、祈りと典礼、そして愛の奉仕。それを具体的に目に見える形で現す人の存在は、しかも必死になってそれに生きようとする姿は、現代に生きる多くの人の希望の光です。第二バチカン公会議の教会憲章は、修道生活の偉大さを指摘しながら、次のように記しています。

「修道者は、あるいは山上で観想するキリスト、あるいは群衆に神の国を告げるキリスト、あるいは病人や負傷者をいやし罪人を実りある生活に立ち帰らせるキリスト、あるいは子どもたちを祝福し、すべての人に恵みをもたらすキリスト、自分を派遣した父のみ心につねに従うキリストを人々に示さなければならない。(46)」

この困難で不確実な状況の中にあるからこそ、教会はいのちの希望の光を高く掲げたいと思いますし、修道生活を営む皆さんには、率先してキリストの希望の光を掲げる存在であってほしいと思います。そのためにも、日々の生活の中で、主イエスの愛といつくしみを自らのものとして実践し、おごり高ぶることなく謙遜に、そして聖なるものとして人生を歩んで行くことが出来るよう、聖霊の豊かな祝福と導きがありますように祈り続けたいと思います。

 

| |

2024年6月 1日 (土)

週刊大司教第169回:キリストの聖体の主日B

2023_10_28_rca_0005

キリストの聖体の主日です。

わたしたちの信仰生活の中心にあり、あらゆる意味でわたしたちを一致させる秘跡です。わたしたちはご聖体をいただくことで主イエスと一致し、また聖体における主御自身によって一つの共同体に招かれ、同じ主を信じることで一致しています。

キリストの聖体の主日と言えば、キリスト教国においては、神の民の一致を目に見える形で現し、主の現存に感謝し、主と一致することを心に誓い、愛といつくしみに満ちあふれた唯一の神を礼拝するために、大規模な聖体行列が行われます。主御自身であるご聖体が町の中を顕示され運ばれていく中で、その町に住む多くのキリスト者が表に出て、目に見える形で主を礼拝する姿は、信仰の証しとなります。

Ghana041_20240601100601

キリストの聖体の主日でいつも懐かしく思いだし、また繰り返し掲載してきたのは、上の写真です。わたしが20代後半から30代前半にかけて主任司祭をしていたガーナの教会の、聖体行列です。ご聖体を納めた顕示台は、教会の長老が頭に載せた木の船の中にあります。この地域の部族のチーフが乗り運ばれる輿のミニチュアです(下の写真がチーフを乗せた輿)。住民の半分以上がカトリック信徒であった村ですので、村の中に四カ所設けられた臨時の礼拝所には多くの人が集まり、行列中に一時的に安置されるご聖体を礼拝しました。写真の中で、ご聖体の前にいる侍者の一人はその後司祭となり、いま目黒教会の助任司祭をしています。

Ghana009

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第169回、キリストの聖体の主日メッセージ原稿です。

キリストの聖体の主日B
週刊大司教第169回
2024年6月2日

主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。主御自身は、その直後にご自分が捕らえられ十字架への道歩むことで、最愛の弟子たちとの別れが迫っていること、そしてその弟子たちがこれから起こる出来事のあまりの衝撃に打ちのめされ、恐れにとらわれてしまうことをご存じでした。まだまだ弟子たちに伝えたいことは多くあったことでしょう。その弟子たちへの思い、そして弟子たちを通じてわたしたちすべてへの思いを込めて、主はパンをとり、「わたしの体である」とのべ、また杯をとって「わたしの血である」とのべられました。主の心持ちは、その次のことば、すなわち、「わたしの記念としてこれを行いなさい」に込められています。「わたしのことばを、わたしの行いを、決して忘れるな」という切々たるものであります。すべての思いを込めて、すべての愛を込めて、主は聖体の秘跡を制定され、愛する弟子たちに残して行かれました。

この主の思いは日々のミサにおいて繰り返され、わたしたちがミサに与り、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心が、わたしたちの心を満たします。

教皇ヨハネパウロ二世は、「教会にいのちを与える聖体」に、こう記しています。

「教会は過越の神秘から生まれました。まさにそれゆえに、過越の神秘を目に見えるかたちで表す秘跡としての聖体は、教会生活の中心に位置づけられます。(3)」

その上で教皇は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」(9)と記し、聖体が個人的な信心のためではなく、共同体の霊的な糧であることを明示します。

ご聖体は共同体の秘跡です。そもそもミサそれ自体が、共同体の祭儀です。聖体は一人で受けたとしても、共同体の交わりのうちにわたしたちはご聖体をいただきます。それは司祭がひとりでミサを捧げても、個人の信心のためではなく、共同体の交わりのうちにミサを捧げるのと同じであります。ご聖体は、共同体の秘跡です。

教皇様は2025年の聖年のテーマを「希望の巡礼者」とされることを決定され、先日の昇天の主日に、聖年を布告する大勅書「Spes non confundit(希望は欺くことがありません)」を発表されました。その中で教皇様は、教会共同体が時のしるしを読み取り、総合的な人間開発の視点から、人間の尊厳をおとしめるような状況にある人たちにいのちを生きる希望をもたらす共同体であることを求められています。そのために、巡礼というのは、単に個人の信心の問題なのではなく、共同体としてともに歩む中で、教会こそが社会にあって希望を生み出し、歩みの中で出会う人々に希望をもたらす存在となることが重要であると指摘されます。

ともすれば聖年にしても、ご聖体にしても、個人の信心の視点から意味を探ろうとしてしまいますが、今私たちに求められているのは、まさしくシノドス的な教会として、ともに歩むことによって、主の現存を告げ知らせ、希望をもたらす教会となることです。

あの晩ご聖体の秘跡を制定された主は、どのような状況にあっても、いつもわたしたちとともに歩んでくださいます。

| |

« 2024年5月 | トップページ | 2024年7月 »