八王子方面から二つの慶事
八王子方面からの出来事を二つ。二つの場所は、中央高速の八王子インターから圏央道のあきる野インターに至る新滝山街道を挟んで、北と南のすぐ近くにあります。
5月31日の朝、新滝山街道のすぐ北側に位置する東京純心女子中学高校が、創立60周年を迎えました。純心女子中学高校については、こちらのリンクを。
長崎にルーツを持つ、純心聖母会が経営母体となる学校です。長崎と鹿児島と東京に、それぞれ教育機関を設置しています。純心聖母会自体も、この6月で、創立90年を迎えると聞いています。同会のホームページによれば、次のようにその経緯が記されています。
『1934(昭和9)年6月9日に、日本人最初の司教、長崎教区長ヤヌワリオ早坂久之助きゅうのすけ司教によって、「日本二十六聖殉教者天主堂」(大浦天主堂)のサンタ・マリアの祭壇前で創立されました。奇しくもこの日は、日本の教会の保護者である「聖母マリアのいと潔いさぎよきみ心」(現「聖母のみ心」)の祝日でした。聖母マリアに対する崇敬と感謝の念を抱いていた創立者は、本会を「聖母のいと潔きみ心」に奉献して、「純心聖母会」と命名しました。創立者が本会を創立するにあたって受けたインスピレーション(「創立者のカリスマ」)は、「与え尽くす十字架上のキリスト」です。
初代会長シスターマリア・マダレナ江角えずみヤスは、共同創立者として創立者に協力し、聖母マリアのみ心に倣いながら、「与え尽くす十字架上のキリスト」の愛を多くの人々に宣教して生涯を全うしました。「マリア様、いやなことは 私がよろこんで」はシスター江角自身が生き、純心の学園や福祉施設、修道会において純心精神を物語る標語として、大切に受け継がれています』
東京に設置された中学高校のホームページに記された校長先生による、学校創立の経緯によれば、その修道会の創立者ご自身が、この地を見いだされたのだそうです。こう記されています。
『創立者 Sr.江角ヤス先生は、東京純心を建てる地をこの滝山に見つけました。そして、この地を歩きながらここで育っていく生徒たちについて思いめぐらし、その熱い思いを校歌に託しました」
なお隣接地には東京純心大学もあります。こちらは看護学科とこども文化学科。大学は1967年に短期大学として始まり、1996年に四年制大学になっています。
創立者の名を冠した江角講堂で、聖母訪問の祝日のミサを、創立感謝ミサとして、全校生徒、教職員、そして理事長や校長を始め純心聖母会のシスター方も一緒に、捧げました。ミサ終了後には、同じく講堂で、国際カリタスのお話を中心に、『なぜ教会は人を助けるのか』というテーマで、50分ほど講演もさせていただきました。東京純心女子中学高校の皆さん、おめでとうございます。
そして二日後、キリストの聖体の主日に、再び朝から八王子へ向かいました。今度はピエタのシスターとして知られている師イエズス修道女会の、誓願金祝と銀祝の感謝ミサのために、一昨日の純心の反対側、新滝山街道の南側に位置する同修道女会の日本管区本部へ向かいました。
ところが、目の前の丘に修道院が見えるのに、どこから入ったらいいのか分からない。運転してくれた小田神父様が、慌てて修道院へ電話してみると、我々がいる新滝山街道を乗り越える橋があり、そちらは旧滝山街道へ回って入れるとわかり、再び周囲をぐるりと回ることに。危うく、ミサ開始の時間に遅れるところでした。
お祝いのために、全国各地にある同修道女会共同体から代表が参加。東京カテドラル構内にも関口修道院があるので、このメンバーは全員が参加。創立者を同じくする、パウロ会、女子パウロ会の代表や、シスター方が台所を担当しているイエズス会の神学院の代表など、多くの方が参加されていました。
誓願宣立50周年はシスター平松千枝子、シスター村上ヨウ子、シスター梶野芳子、そして誓願25周年はシスター寺田奈美江。おめでとうございます。ミサ後の昼食会では、すべての共同体からのお祝いの言葉や歌もあり、和やかな一時でした。
どちらの修道女会もお祝いでしたが、同時に、与えられた使命の後を継ぐ若い召命が、どちらの修道会も少ないと言う悩みの再確認でもありました。もちろん召命は人間が生み出すものではなく、神様から与えられるものですが、同時に神様の呼びかけがふさわしい人の心に到達し、それに前向きに応えるためには、人間の努力による貢献が不可欠です。その意味で、神様からの呼びかけだからと、何もしなくて良いわけではなく、修道者や司祭だけに限らず、すべてのキリスト者に与えられている召命にどう答えるのかと言う視点を、日頃から深めていく努力は重要です。信徒だから修道者や司祭とは違う、のではなくて、すべてのキリスト者にはそれぞれユニークな召命があると、改めて心に刻みたいと思います。
奉献生活に生きることは、ともすれば個人的なこと、つまり修道者ひとり一人が、どのように三つの誓願、清貧・貞潔・従順を守り、福音的勧告に従って生きるのかという、個人的な霊的生活のレベルだけで考えられがちです。しかし教会には、信仰それ自体が、ベネディクト16世がしばしば指摘したように、イエスとの個人的な出会いの体験が必要であるけれど、同時にわたしたちの信仰は共同体に基づいている、共同体としての信仰であることを心に留めたいと思います。いつまでも共にいると約束された主が残されご聖体の秘跡は、わたし個人と主との交わりであり、同時に共同体を主との交わりに導く秘跡であります。教会は、常に個人的側面と共同体的側面のバランスをとろうと努めています。教会憲章にあるとおり、教会はこの世の組織でありつつ、天上の善に飾られた存在でもあり、現実的側面と霊的側面が共存するように、共同体的側面と個人的側面も共存します。
奉献生活に生きる人の存在は、奉献生活者個人にとって重要な意味を持っていますが、同時に教会にとって、まさしく福音に基づいた連帯や支えあいが、希望や喜びを生み出すのだというあかしをする存在として重要な意味を持っています。
教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」にこう記されています。
「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です。(104)」
教会の本質である三つの務め、すなわち福音のあかし、祈りと典礼、そして愛の奉仕。それを具体的に目に見える形で現す人の存在は、しかも必死になってそれに生きようとする姿は、現代に生きる多くの人の希望の光です。第二バチカン公会議の教会憲章は、修道生活の偉大さを指摘しながら、次のように記しています。
「修道者は、あるいは山上で観想するキリスト、あるいは群衆に神の国を告げるキリスト、あるいは病人や負傷者をいやし罪人を実りある生活に立ち帰らせるキリスト、あるいは子どもたちを祝福し、すべての人に恵みをもたらすキリスト、自分を派遣した父のみ心につねに従うキリストを人々に示さなければならない。(46)」
この困難で不確実な状況の中にあるからこそ、教会はいのちの希望の光を高く掲げたいと思いますし、修道生活を営む皆さんには、率先してキリストの希望の光を掲げる存在であってほしいと思います。そのためにも、日々の生活の中で、主イエスの愛といつくしみを自らのものとして実践し、おごり高ぶることなく謙遜に、そして聖なるものとして人生を歩んで行くことが出来るよう、聖霊の豊かな祝福と導きがありますように祈り続けたいと思います。
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