« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »

2024年7月27日 (土)

週刊大司教第177回:年間第17主日B

2024_07_07_rca_0062

7月も最後の日曜日となりました。全国的に暑い毎日が続いております。大雨で土砂災害や洪水の被害に遭っている地域も多くあります。被害を受けられた多くの皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

中央協議会からは、この数日の間に、様々な出版物が出ました。まずは聖年の大勅書「希望は欺かない」です。これは高見大司教様が翻訳をしてくださいました。税込み220円の定価のついた小冊子としてあります。聖年に向けた準備として、是非手元に置いてください。またできる限り多くの肩に触れていただきたく、テキストをそのまま中央協のホームページに掲出してありますので、ご活用ください。

なお同時に発表された聖年に伴う教皇庁内赦院の「教皇フランシスコにより発表された 2025年の通常聖年の間に与えられる免償に関する教令」は、翻訳を中央協議会のこちらのリンクから読んでいただくことができます。

またすでに様々な方が触れてくださっていますが、久しぶりの司教団全員一致で発出した司教団メッセージとしての「見よ、それはきわめてよかった」も、出版されています。こちらも定価がついた小冊子ですが、特に内容を多くの方に読んでいただきたく、無料でテキストを中央協議会のサイトに掲出しております。どうぞご活用ください。教皇様の「ラウダート・シ」に触発されて、司教団は総合的エコロジーの視点を持つことの重要さを強調しており、メッセージの内容もさることながら、「ラウダート・シ・デスク」を司教協議会に設置し、成井司教様を責任者に、今後各地で啓発のためのプログラムを展開していくことになっています。東京教会管区でも、9月7日の午前中に、東京でシンポジウムを行いますが、これについては別途お知らせします。なおこちらのリンクは新潟教区のホームページですが、担当の成井司教様が、早速シンポジウムの案内を掲出されていますのでご覧ください。またデスクの責任司教である成井司教様と担当のアベイヤ司教様のお二人で、このメッセージについて解説したビデオが作成されています。こちらのリンクからYoutubeでご覧いただけます。是非。

さらに、先日の司教総会で司教様方に報告された今年の平和旬間のためのわたしが書いた司教協議会会長談話「無関心はいのちを奪います」も、すでに公開されています。こちらのリンクから是非一度ご覧いただければと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第177回、年間第17主日メッセージ原稿です。

年間第17主日B
週刊大司教第177回
2024年7月28日

ヨハネ福音は、「五つのパンと二匹の魚」の物語を記しています。

ひとりの少年がささげたのは、五つのパンと二匹の魚でしたが、そこに集まった五千人を超える人たちの空腹を満たしたという、奇跡物語です。

この物語は、少ない食べ物が多くの人を満たしたと言う奇跡の物語であると同時に、自分が持つ数少ないものをまもるのではなく、他者のために惜しみなく分かち合ったときに生まれる愛の絆の物語でもあります。

教皇フランシスコは2015年7月26日のお告げの祈りの際にこの福音の箇所に触れ、次のように述べておられます。

「イエスは「買う」という論理の代わりに「与える」という別の論理を用いています」

その上で教皇は、この物語が、ミサを通じて主の食卓にあずかり、主イエスご自身の現存である御聖体によって生かされることで教会共同体にもたらされる、共同体の交わりにおける霊的な一致の意味をあらためて考えさせると指摘します。

教皇はそのことを、「ミサにあずかることは、イエスの論理、すなわち無償の論理、分かち合いの論理に分け入ることを意味します。また、わたしたちは皆、貧しいからこそ、何かを与えることができます。「交わる」ことは、自分自身や自分が持っているものを分かち合えるようにしてくださる恵みを、キリストから受けることを意味するのです」と記します。

さらに教皇は、わたしたちひとり一人を「与える」ことへと招かれて、こう述べています。

「わたしたちは確かに、一定の時間や何らかの才能、技能を持っています。「五つのパンと二匹の魚」を持っていない人などいるでしょうか。わたしたちは皆、それらを手にしています。もし、わたしたちが主の御手にそれらをゆだねたいと望むなら、世界が少しでも愛、平和、正義、そしてとりわけ喜びに満たされるのに、それらは十分、役立つでしょう」

世界は希望を必要としています。とりわけ、各地で頻発し、なおかつ解決の道が見いだせない武力による対立は、多くのいのちを危機に陥れ、絶望を生み出しています。世界は希望を必要としています。

希望は、どこからか持ってこられるような類いのものではなく、心の中から生み出されるものです。心の中から希望を生み出すための触媒は、共同体における交わりです。互いに支え合い、ともに歩むことによって生まれる交わりです。少ない中からも、互いに自らが持っているものを分かち合おうとする心こそは、交わりの共同体の中に希望を生み出す力となります。

 

 

| |

2024年7月20日 (土)

週刊大司教第176回:年間第16主日B

2024_07_15-_rca_0014

東京は梅雨が明け、本格的な夏となりました。

臨時司教総会が、7月16日午後から19日昼まで、潮見にある日本カトリック会館で開催され、全国15の教区から17名の現役司教と男女修道会の代表4名が集まりました。開会にあたって、着任されたばかりの新しい教皇大使モリーナ大司教様が潮見までおいでくださり、挨拶をしてくださいました。モリーナ大司教は、以前、参事官として日本で働いた経験もあるので、司教団の中にも、わたしを含めて大使を存じ上げているものもおりますし、また教会の中には、以前の参事官としての任期の時に交流があった共同体もあると聞いています。大使ご本人も、改めて日本に着任されたことをお喜びで、これから全国各地の教会をできる限り訪問したいという意向が表明されています。

Img_20240214_105323707_20240719181001

具体的な司教総会の決定などについては、別途、中央協議会のホームページなどをご覧ください。ただ一点付け加えるならば、今回の総会中に、会長選挙を行いました。現在のわたしの会長任期は来年6月に開催される定例司教総会までとなります。したがって次期会長の任期は2025年6月から3年間となります。

選挙の結果、わたしが再選され、改めて来年の6月以降3年間、会長を続投することになりました。どうぞよろしくお願い致します。

また同時に行われた選挙で、梅村司教様が副会長に、大塚司教様が事務局担当に再選され、常任司教委員会のメンバーも数名が入れ替わることになりました。これについても、別途お知らせ致します。

また、8月の平和旬間に先立って、今年は会長談話を用意させていただきましたが、これについても司教団の承認をいただき、中央協議会のホームページなどに掲載されることになります。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第176回、年間第16主日メッセージ原稿です。

年間第16主日B
週刊大司教第176回
2024年7月21日

マルコ福音は、先週の続きで、福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれたと記します。

シノドス第一会期の最終文書は、信仰養成について触れた箇所で、次のように記しています。

「イエスが弟子たちを養成した仕方は、わたしたちが従うべき模範です。イエスは単に教えを授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました。自らの祈りによって、「祈ることを教えてください」という問いを彼らから引き出し、群衆に食事を与えることによって、困っている人を見捨てないことを教え、エルサレムへ歩むことによって、十字架への道を示しました(14b)」

今日の福音では、実際に宣教に出かけて戻ってきた弟子たちに、「しばらく休むが良い」と休息をとることを勧めた話になっていますが、これは単に身体的な休息だけではなく霊的な休息、すなわち観想と祈りにおける振り返りの必要性を弟子たちに教えた話です。

イエスご自身も、人々の間での様々な教えや具体的な行動の前、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが他の箇所に記されています。ご自分の使命をはたす力を、観想の祈りから得ておられた主イエスは、まさしくやってみせることで、弟子たちにその重要性を示しました。

シノドス第一会期の最終文書は、シノドス的な教会共同体であるために必要な要素を記している箇所に、次のように記しています。

「イエス・キリストを人生の中心に据えるには、ある程度、自己を空にすることが必要です。・・・各人が自分の限界と自分の視点の偏りを認識することを強いる、厳しい禁欲的な実践です。このため、教会共同体の境界を越えて語りかける神の霊の声に耳を傾ける可能性が開かれ、変化と回心の旅を始めることができるのです(16c)」

シノドス的な教会を求める旅路には、例えば霊における会話のように重要な道具が用意されています。霊における会話が強調されることで、それをその通りに行うこと自体が重要視されてしまうきらいがありますが、あくまでもそれは重要ではあるけれど道具の一つに過ぎません。霊における会話のプロセスの中で大切なことは、やはり沈黙と祈りです。もちろん参加者がそれぞれの思いを語ることと耳を傾けることは重要ですが、それ以上に、沈黙のうちに共に祈ることが欠いていては、霊における会話は成り立ちません。沈黙の祈りは考え込むときではなく、「自己を空にする」時であります。「自分の限界と自分の視点の偏りを認識する」時でもあります。

わたしたち教会の福音宣教の活動は、必ずや沈黙のうちの振り返りの祈りの時に支えられていなくてはなりません。

| |

2024年7月13日 (土)

週刊大司教第175回:年間第15主日B

2024_06_30_rca_0095

七月も半ばに入り、暑い日が繰り返し不安定な天候が続いています。大雨の被害を受けられた方々に、お見舞い申し上げます。

今年は、ちょうど20年前、新潟の司教に任命された直後のこの時期、新潟の三条市周辺で大雨による洪水被害がありました。被災地に、当時の主任であった佐藤神父様や、故川崎神父様と、自転車に乗って出かけて行ったことを思い起こしております。

Messenger_creation_ad8b48a7d8874aca962b7

一週間前の土曜日、晴天で暑い日でしたが、カトリック府中墓地において、三名の東京教区司祭の納骨式を執り行いました。府中墓地に入ると過ぎ左手に事務所や聖堂がありますが、その前にあるのが、東京教区司祭の共同納骨墓です。

このたびの納骨式は、2024年2月13日に帰天されたパドアのアントニオ泉富士男神父、2024年4月11日に帰天された使徒ヨハネ澤田和夫神父、2024年5月20日に帰天された使徒ヨハネ小宇佐敬二神父の三名でした。この三人の司祭方は、小教区でも活躍されましたが、同時にそれぞれ独特な使徒活動において大きな功績を残されました。その中でも澤田神父様にあっては104才の長寿を全うされ、長年にわたり独自の霊性で多くの人に深い思い出を残されました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第175回、年間第15主日のメッセージ原稿です。

年間第15主日B
週刊大司教第175回
2024年7月14日

マルコ福音は、イエスが十二人の弟子たちを呼び集め、二人ずつ組にして、福音宣教のために送り出したことを記しています。あらためて強調するまでもなく、わたしたちの信仰は、共同体によって成り立っています。もちろんひとり一人の個人的な回心と決断が不可欠であるとはいえ、わたしたちの信仰は常に共同体の中で育てられ、共同体を通じて具体的に実現していきます。

教会とは礼拝の場所のことではなく、共同体です。

いま進められているシノドスの道のりは、まさしく、教会が共同体によって成り立っていることをわたしたちに思い起こさせ、その共同体における共同の識別が不可欠であることを自覚するように促しています。

今日の福音に記されている、イエスが弟子たちをひとりずつではなく二人の組で派遣された事実は、宣教の業が個人プレーなのではなくて、共同体の業であることを明確にさせます。また、準備万端整えられたプログラムを実施するのではなく、日々の生活における他者との交わりにあって、支え合いと分かち合いを通じて福音が伝わっていくことが示されています。福音は共同体の交わりのうちに実現します。

シノドスの歩みが求めている、互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに祈り合うことこそは、わたしたちの信仰が共同体の中で育てられ、共同体の中で実現し、共同体を通じて告げ知らされていくことの具体化の道です。

教皇フランシスコは「福音の喜び」に、「神は人々を個々としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。ひとりで救われる人はいません(113)」と記して、教会は共同体として救いの業にあずかっていることを強調されます。

シノドス第一会期の最終文書には、「共同体」と言う言葉が80回以上使われ、シノドスの歩みがまさしく共同体としての教会のあり方を問いかけていることを明確にしています。その第三部、「絆を紡ぎ、共同体を築く」には、こう記されています。

「イエスが弟子たちを養成した仕方は、わたしたちが従うべき模範です。イエスは単に教えを授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました。・・・福音書からわたしたちは、養成とは、単に自分の能力を強化するのみ、またはそれを中心にするだけではなく、敗北や失敗さえも実りあるものとするみ国の「論理」へ回心することだと学ぶのです」

その上で最終文書は、「聖なる神の民は、養成の対象であるだけでなく、何よりもまず、養成にとって共同責任のある主体です。・・・一人ひとりが自分のカリスマと召命に従って、教会の宣教に能動的に参加できるようにすることなのです」と記しています。

わたしたちは弟子たちのように、主御自身によってこの世界に派遣されています。その派遣は、わたしたちが「自分のカリスマと召命にしたがって、教会の宣教に能動的に参加」することで実現します。そのためにもわたしたちは、信仰を育むわたしたちの信仰共同体が、シノドス的な歩みをする共同体であるのかどうか、真摯に振り返ってみる必要があります。

| |

2024年7月 9日 (火)

シノドス総会第二会期の作業文書が発表されました

_instrumentum-laboris_in-ii-sessione-xvi

本日、火曜日の日本時間午後7時、ローマの正午に、10月に行われるシノドス第二会期の作業文書が公開されました。

「INSTRUMENTUM LABORIS」というのがこういう文書の正式名ですが、つまり「働くための道具」です。これに基づいて、これから準備をして、10月の総会で「霊における会話」を通じて、最終的な結論へと進みます。

英語をはじめとした主要言語のテキストは、バチカンのシノドス事務局の、こちらのサイトに順次掲載されます。日本語は、本日テキストがメールでシノドス事務局から司教協議会へ送られてきたばかりで、これから翻訳に取りかかりますので、数週間はかかるものと思います。できるだけ早く、中央協議会のシノドスの特集ページに掲載できるように、努力します。

わたし自身も、今朝始めてみて、まだ読み込むことができていませんので、どのような内容かは、まだコメントできません。

資料として、この作業文書がどうやってできあがったかについて、以下のようなイラストが事務局から送られてきました。下です。

Infographics-in_il_ii_xvi_ago-1

これによれば、今回の質問は、すべての人に対して一つだけで、「宣教においてどうしたらシノドス的な教会になれるのか」が問われています。

この文書を作成するために、109の司教協議会からの報告書と、9の東方カトリック教会からの報告書と、国際総長会からの報告書、さらに小教区司祭のシノドス(今年の4月末開催)の参加者からの報告書、そして200の個人を含む様々な団体からの報告書が、貢献しました。

さらに、今回のシノドスの5つの視点からの事務局の作業部会の報告もあります。その作業部会は、「地方教会の宣教するシノドス的な側面」、「教会グループの宣教するシノドス的な側面」、「普遍教会の宣教するシノドス的な側面」、「シノドス的な方法論」、そして「宣教におけるシノドス的教会の立ち位置」の各作業部会です。(作業部会の名称は、すべて仮訳)

以上に基づいてできあがった作業文書は、6っつの小に別れています。まず、「導入」、「基礎」、「第一部:関係」、「第二部:道のり」、「第三部:場所」、そして「結論」です。「基礎」から始まって、第一部から第三部までが、10月の第二会期で取り扱われます。(以上すべて仮訳)。

幾たびも繰り返していますし、教皇様のご意向でもありますが、今回のシノドスは、最終日に何か新しいことが決まっているようなものではありません。そうではなくて、これから先長いスパンで考えての、教会の体質改善の取り組みの端緒となるものです。日本の教会を含め、すべての教会において、これからじっくりとシノドス的なあり方を探求していく道が始まることになります。

 

| |

2024年7月 8日 (月)

年間第14主日B:関口教会ミサ

Paglia04

7月7日の年間第14主日、関口教会の10時のミサの司式をいたしました。

ちょうど今週の火曜と水曜に広島で開催される、人工知能(AI)と倫理に関する国際的なイベントのために来日中の、教皇庁生命アカデミー会長であるヴィンチェンツォ・パリア大司教様と、その他関係者の司祭たちが、ミサの共同司式に参加してくださいました。

「平和のためのAI倫理:ローマからの呼びかけにコミットする世界の宗教」と題されたそのイベントは、教皇庁生命アカデミーと世界宗教者平和会議(WCRP)の共催で広島で行われ、東アジアの主要な宗教の指導者たちが集まり、「AI倫理のためのローマからの呼びかけ」に署名します。これは、人工知能(AI)の開発を倫理的な原則に基づいて導くことが、人類の善のために重要であることを強調するものであり、宗教者だけでなく、教育機関やビジネス界にも署名が呼びかけられています。

この「呼びかけ」が最初に署名されたのは、2020年2月28日のことです。ローマにおいて、教皇庁生命アカデミー、マイクロソフト、IBM、国連食糧農業機関(FAO)、およびイタリア政府のイノベーション関連の省が、まず最初に署名し、その後、世界中の政府関係者、国際機関、教育関係者、ビジネス関係者に、署名を呼びかけていいるとのことです。

この「呼びかけ」を、教皇庁生命アカデミーの正会員である秋葉悦子先生(富山大学教授)が邦訳してくださっており、こちらのリンクから邦訳をご覧いただけます。またこの呼びかけ活動全体については、英語ですが、こちらのホームページに詳しく掲載されています

また日本側の共催者である世界宗教者平和会議日本委員会のホームページには、今回の二日間のプログラムの詳細が掲載されています。一日目と二日目のはじめは、事前登録の必要なウェビナーですが、二日目の後半は、Youtubeで、中継があります。そのリンクも、こちらのページに掲載されています。なお、WCRPによると、今回のイベントは、「教皇庁生命アカデミー、(公財)WCRP日本委員会、アブダビ平和フォーラム、イスラエル諸宗教関係首席ラビ委員会」の共催であるということです。

Paglia01

なお、パリア大司教様は、司祭時代は、トラステベレの聖マリア教会の主任司祭を務めておられました。この聖堂は国際カリタスの本部などがあるカリスト宮殿に隣接していますが、同時に聖エジディオ共同体の拠点の一つとして知られ、すぐ近くにその本部もあることから、パリア大司教様は聖エジディオ共同体の霊的指導者も長年勤めておいででした。その関係で、わたしも以前に何回か、聖エジディオ共同体関係のミサでご一緒したことがありました。

聖エジディオ共同体の本部のすぐ隣には「Trattoria de Gli Amici」というレストランがあります。聖エジディオ共同体が支援事業として運営するレストランで、障害などを持つ方々が一緒に働く場です。とても温かな雰囲気です。トラステベレには、無数のレストランがありますし、素晴らしくおいしいレストランも多くありますが、でも機会があれば是非ご利用ください。

Paglia05

以下、パリア大司教様ほか、生命アカデミー関係者と一緒に捧げた主日ミサの、説教原稿です。

年間第14主日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年7月7日

「わたしは弱いときにこそ強いからです」

コリントの教会への手紙に記されたこの言葉は、聖書に記された様々な教えが、この世の常識とは全く対極にあることを象徴するような言葉であります。「弱いときに強い」というのはどう見ても矛盾しているようにしか聞こえませんし、加えて、「弱いときにこそ」と強調までされています。

この言葉は、この世界の常識の枠にとどまっていたのでは、神の思いを理解することは困難であることをわたしたちに教えています。もちろんわたしたちはこの世界の現実の中で生きていますし、様々な価値観を持った方々と共に生きていますので、この世界の常識を全く無視して生きていくことには困難があります。

しかし同時に、本日のパウロの言葉や福音の物語を耳にするとき、わたしたちは信仰者として、常に心にかけておかなくてはならない真理が存在していることを忘れるわけにはいきません。

コリントの教会の手紙でパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理が存在している事を指摘します。人間の常識が優先されるとき、神の真理はその働きを妨げられてしまいます。わたしたちの強さが、神の働きを妨げてしまいます。

人間の強さには限界があり、人間の知恵と知識だけで世界をコントロールすることはできない事実を、わたしたちは、例えば巨大な自然災害に直面したときや、多くの人の願いを無視して戦争が続けられ、いのちが無残にも奪われ続ける現実を目の当たりにするとき、思い知らされます。わたしたちの力には、限界があります。

わたしたち自身の思い上がりに気づき、人間の力の限界、つまり弱さを認めたときに初めて、それまで働きを阻んできた「キリストの力がわたしのうちに宿」り、その本来の力を発揮するのだと、パウロは指摘します。思い上がり、思い込み、常識、自己保身、利己心、虚栄、などなど、神の力が働くことを妨げるわたしたちの利己的な心の動きは、いくつでも見いだすことが出来ます。

マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働きを妨げます。閉ざされた心の目は、自分たちが見たいものしか見ようとしません。人間の思い上がりは、簡単に心の目を閉ざし、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ気がつかせません。

災害などが起こったときにしばしば耳にする「正常性バイアス」という言葉があります。命に関わるような出来事に遭遇しても、いつもの生活の延長上で物事を判断し、都合の悪い情報を無視することで、根拠のないにもかかわらず、「自分は大丈夫」、「まだまだ大丈夫」などと思い込んで、積極的に行動することをやめてしまう。それが、災害時の被害を大きくすることだといわれます。

多くの場合わたしたちは、毎日の生活の中での大きな変化を避けようと努めます。そのような中で次の展開を予測できない出来事に遭遇したとき、その出来事がこれまでの経験に基づいた自分の判断能力を超えてしまうため、冷静に客観的に、実像を把握することができません。そのために、これまでの体験の枠組みの中に、起こっている出来事を押し込めてしまい、無理をして理解をし、安心してしまう。実際に起こっていることを客観的に見ていないがために、正しい対応をすることができません。

同様に、わたしたちの経験に基づく判断の枠組みを遙かに超える神の働きを正しく把握するためには、人間の常識の枠にそれを押し込めようとするとき、実像を把握することはできないことを、マルコ福音書の物語が教えています。

「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と語り、人間の常識の枠組みが、神の業を冷静にそして客観的に見ることを妨げている事実を指摘されています。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働きを直視することができません。

いまの世界で、思い上がりのうちに生きている人間は、簡単に過去の常識の枠にがんじがらめにされ、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ気がつかせません。

わたしたちは、主イエスの言葉と行いを、この世界の経験と常識の枠組みの中で理解しようとしてはいないでしょうか。神の常識は、パウロに、「わたしは弱いときにこそ強いからです」と言わせるほど、わたしたちの想像を超えて存在します。

今年の新年の世界平和の日のメッセージで、教皇フランシスコは、「人工知能(AI)と平和」をテーマとして掲げ、こう記しています。

「昨今、わたしたちを取り巻いている世界に目を向ければ、軍需産業にまつわる深刻な倫理問題は避けて通れません。遠隔操作システムによる軍事作戦が可能になったことで、それらが引き起こす破壊やその使用責任に対する意識が薄れ、戦争という重い悲劇に対し、冷淡で人ごとのような姿勢が生じています」

世界中でいのちに対する暴力が横行しているにもかかわらず、無関心のグローバル化は激しさを増し、すべてはスクリーンの先にある「人ごと」のように取り扱われています。教皇様が指摘されるように、人工知能の出現によって、その「人ごと」感が強まっています。これまでの経験に基づく枠組みでは理解できないことが起こっているために、自分とは関係のないことだと目をつむってしまうためです。

本日のこのミサに、教皇庁の生命アカデミーの会長であるヴィンチェンツォ・パリア大司教様をお迎えしています。大司教様は、火曜日から広島で開催される人工知能(AI)と倫理に関する国際会議に参加するために訪日されています。

7月9日と10日、「平和のためのAI倫理:ローマからの呼びかけにコミットする世界の宗教」と題されたイベントが広島で行われ、世界の主要な宗教の指導者たちが集まり、「AI倫理のためのローマからの呼びかけ」に署名します。これは、人工知能(AI)の開発を倫理的な原則に基づいて導くことが、人類の善のために重要であることを強調するものだということです。

科学は進歩し続け、それに伴って人間の万能感と傲慢さは増し加わります。結果として人間は常識の枠組みにさらに縛り付けられ、そこに収まらない事柄に関心を向けません。神の働きがどこにあるのか、神がわたしたちに何を示そうとしているのか。わたしたちは鎧を脱ぎ捨て、目の前に掲げる枠を捨て、自分たちの弱さを認め、神の力がわたしたちのうちに働いてくださるように、務めていきたいと思います。

| |

2024年7月 6日 (土)

週刊大司教第174回:年間第14主日B

2024_06_30_rca_0093

年間第14主日です。

7月の16日から19日まで、司教総会が開催されます。毎年、2月と7月の二回、ほぼ一週間の日程で全国の司教が集まり、様々な課題について司教の意見を交換する機会となります。現在その議題を最終調整しているところですが、今回は、一年先の2025年6月以降に任期が始まる司教協議会の会長などの役職や常任委員会の委員の選挙も行われます。なぜこんなに早く選挙をするのかと言えば、それは次に定時の総会をする予定が来年の2月であって、そこで選任していたのでは、委員会の担当者などの諸般の調整が6月に間に合わなくなるからです。

ちなみに、司教協議会というのは教会の内部の組織としての名称で、各教区の教区長である司教は任命権者の教皇様に直結しており独立していますが、その地域や国に共通の課題に取り組んだり調整を図ったりするための、いわば一定の地域の司教の協力互助組織として、司教協議会は存在しています。普遍教会の内部の組織であるので、名称は、日本カトリック司教協議会です。

もう一つのカトリック中央協議会というのは、日本における法律に基づいた法人組織の名称です。日本の法律に基づいて日本にあるので、その名称には「日本」はついていません。なお日本の法律に基づく法人としては、日本にある15の教区はそれぞれが独立した宗教法人であり、また修道会もそのほとんどが、それぞれ独立した宗教法人となっています。また教会が関わる様々な事業体も、そのほとんどが日本の法律に基づいて学校法人や社会福祉法人などなどとして独立した法人組織になっています。

ところでこの司教総会に合わせて、日本のシノドス特別チームは、シノドスへの取り組みの今後の道筋を明確にするために、ハンドブックを作成しました。製本したハンドブックも各教区などにサンプルとして無料で配布しますが、主に中央協議会のホームページからダウンロードしてご利用いただけるように考えております。これは公表した段階で、またお知らせします。

「霊における会話」をしばしば耳にするが、実際にどこでそれをしているのか分からないという質問も届いています。即座にどこでもそれを始めるとが可能ではないことも、心に留めてください。「霊における会話」ができれば、シノドスの道が完成するということではないのです。それは、共同で方向性を見極める(聖霊の導きの共同識別)ための強力なツールであることは間違いないのですが、それだけですべてが完成するわけでもありません。

これまでもお話をする機会があれば繰り返していますが、今回のシノドスで教皇様が目指しているのは、まず何か新しいことを決めて始めることではありません。また教会の組織を改革することでもありません。教皇様が目指しているのは、息の長いスパンで考えて、教会の体質を改善することです。教会がシノドス的な体質となるために、今後も時間をかけて、徐々に体質改善に取り組もうとされています。

東京教区でも、様々なメディアで語りかけていますが、同時に宣教司牧評議会の皆さんや、司祭の集まりなどで、霊における会話の実践やシノドス的な歩みについて、これから何ヶ月もかけて、繰り返し繰り返し、取り組んでいきます。

その息の長い、そして少しづつの取り組みを通じて、徐々にそれが教区全体に浸透していくようにしたいと思います。そうでないと、一時的なイベントで終わってしまいます。最終的には、今年の10月の第二会期が終わり、その答申に基づいて、教皇様が来年に発表するであろうシノドス後の使徒的書簡が、これからのわたしたちの羅針盤になろうかと思います。ですので、焦ることなく、できることから徐々に、浸透させていく忍耐を持ってくださることを希望します。

なお、今年10月の第二会期のための作業文書は、来週中にもバチカンの事務局から発表される見込みです。できる限り早急に、翻訳して公開できるように努めます。

東京都では、7月7日が都知事選挙の投票日です。せっかく手にしている権利です。投票を通じて意思表示をする権利は無駄にしないようにいたしましょう。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第174回目、年間第14主日のメッセージ原稿です。

年間第14主日B
週刊大司教第174回
2024年7月7日

正常性バイアスという言葉があります。災害などに直面しても、いつもの生活の延長上で物事を判断し、都合の悪い情報を無視することで、根拠のない、「自分は大丈夫」、「まだまだ大丈夫」などという思い込みが、災害時の被害を大きくすることだと、ネット上などにはその意味が記載されています。

多くの場合わたしたちは、人生の中で大きな変化を嫌います。とりわけ予測できない出来事に遭遇したとき、判断するための自らの能力を出来事が超えてしまうため、これまでのいつもの経験に基づいて判断しようとするために、実像を把握することができません。

「わたしは弱いときにこそ強いからです」と逆説的な言葉をコリントの教会への手紙に記すパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理は存在している事を指摘しています。わたしたちの判断能力を遙かに超える神の働きを知るためには、人間の常識にとらわれていては、実像を把握することはできないことをパウロは指摘します。

いわば信仰における正常性バイアスを捨て去り、人間の力の限界を認めたときに初めて、「キリストの力がわたしのうちに宿」り、その本来の力を発揮するのだと、パウロは指摘します。

マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働き直視することができません。判断する能力を遙かに超えることが起こっているために、都合の悪い情報から目を背け、自分の常識の枠内で判断しようとするのですから、神の子の言葉と行いを、故郷の人々は理解することができません。

思い上がりのうちに生きている人間は、簡単に過去の常識の枠にがんじがらめにされ、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ気がつかせません。

昨年10月にバチカンで開催されたシノドス第一会期の際に、教皇様は幾たびも会場に足を運び、集まったわたしたちに、「聖霊が主役です。あなた方が主役ではありません。あなた方が何をしたいのかを聞きたいのではありません。政令が何を語りかけているのかを聞きたいのです」と繰り返されました。

教皇様は、「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と呼びかけておられました。

いま教会に必要なことは、前例にとらわれて自らの常識の枠にがんじがらめになることではなく、自らの弱さを認め、神の働きを識ることができるように、聖霊の導きに勇気を持って身を任せることです。

| |

2024年7月 1日 (月)

築地教会150年感謝ミサ

P6300693

築地教会の創設150年を祝う感謝ミサが、6月30日昼12時半から、築地教会で捧げられました。

ミサはわたしの司式で、歴代の主任経験者や近隣の主任司祭、パリ外国宣教会の関係者、また教皇庁大使館から参事官も参加して、14名での共同司式となりました。また聖堂内にも、築地教会、近隣の教会の代表を始め、ここに定期的に集まるフランス語共同体や、ミャンマー共同体のメンバーを始め、たまたまこの日のミサに来られた海外の観光客も含めて、聖堂に入りきれないほどになりました。

P6300780

教皇様の祝福のメッセージが国務省から届けられ、参事官が代読した後に、わたしがそれを受け取りました。ミサ後には、信徒会館二階で茶話会も催され、皆で築地の150年を祝いました。

東京教区の歴史は、教区ホームページのこちらにあります。日本の使徒座管理区(代牧区)は、1846年に設置されましたが、まだ禁教下であったため、実際の活動はできていません。その後、大浦天主堂において聖母像の導きのもと、潜伏していた信徒が発見されたのが1865年。そのときはまだ明治にもなっていません。明治元年は1868年です。その後、あらためて起こった厳しい迫害の出来事を経て、キリシタン禁制の高札が撤去されたのは、1873年。東京での再宣教が始まり、それに伴って1874年に築地教会が誕生するのはこのような時代です。

1876年、日本の教会は南緯代牧区、北緯代牧区の二つに分かれ、翌年北緯代牧区長のオズーフ師が司教に叙階され、司教座を築地教会に定めます。1891年には、東京教区が大司教区として設立され、オズーフ師が初代の大司教となります。1920年に司教座が関口に移るまで、築地教会は司教座聖堂でありました。

P6300726

東京都心部の人口の動きにつれて、かつて中心部にあった小教区は信徒の減少が見られるところもありますが、築地教会は、国際的な共同体と成っていること、信徒の皆さんが教会を広く地域に開放することに積極的であること、海外からの観光客が訪れること、数年前の耐震補強工事などで修復され、歴史的な建造物として広く周知されるようになっていることなどから、その存在の意義を高めています。これからの発展をお祈りいたします。

以下、昨日の感謝ミサの説教原稿です。

築地教会150周年感謝ミサ
2024年6月30日
カトリック築地教会

日本における再宣教のために、宣教師たちが福音をあかしする活動を再開してから150年が過ぎました。築地教会が誕生したのは、まだキリスト教が自由に活動することが難しい、挑戦的な時代です。

長い迫害の時代を経て、大浦天主堂において聖母像の導きのもと、潜伏していた信徒が発見されたのが1865年。そのときはまだ明治にもなっていません。明治元年は1868年です。その後、あらためて起こった厳しい迫害の出来事を経て、キリシタン禁制の高札が撤去されたのは、1873年。東京での再宣教が始まり、それに伴って築地教会が誕生するのはこのような時代です。

それから150年がたったいま、現代社会の視点からその当時の状況を推し量ることは簡単ではありません。150年前、宣教師たちにも、また信徒にも、現代のわたしたちからは考えられないような困難があったことでしょう。とりわけ、フランスなど海外からやってきた宣教師にとって、ただ単純に日本で生きることすら難しい時代に、福音を具体的に伝えあかしする業に取り組むことには、いまからは考えられない困難があったことだと思います。

同時にそこには、それまで存在していなかったまったく新しい教会共同体を生み出していく道がひらかれたことで、宣教師の心にも、信徒の心にも、大きな希望があふれていたことだと想像いたします。

築地教会が誕生した時代、主にフランスから来られた宣教師の数は限定的でした。多くの宣教師が超人的な働きをされたと思います。しかし同時に、宣教師だけの働きでは、教会は大きく育っていくことはなかったと思います。宣教師たちと共になって福音をあかしし、人々を神の救いに与らせるために招いた多くの信仰の先達の働きに心から感謝します。それから150年です。

今の私たちの教会はどうなっているでしょうか。150年前に宣教師たちは、福音宣教の確かな手応えの中、将来への大きな希望に満たされていたことだと思います。その希望を、わたしたちは、実現することができたでしょうか。いや、その希望を、まだ持ち続けているでしょうか。

この国の少子高齢化は激しく進み、教会もその現実の中に存在しているのですから、高齢者が中心の教会となっています。昔できていたことが、できなくなってきています。それは確かに一つの不安ですが、150年前の宣教師たちがそうであったように、私たちは不安と共に希望も持っています。

それは、海外の様々な国や文化をルーツとする兄弟姉妹の存在です。今や日本の教会は、日本人の信徒と共に、海外にルーツを持つ信徒が一緒になって築いていく共同体となっています。それでも総人口が多く、その分、信徒総数も多い東京教区では、そこまで顕著ではありませんが、しかし、東京教区内にあっても、様々な国や文化を背景とした多様性に満ちあふれた教会共同体が増えてきています。

教会は今、シノドスの道を歩み続けています。シノドスは昨年10月のローマでの会議と、今年10月のローマでの会議で、何かが決まって終わるような出来事ではありません。第二バチカン公会議後に開かれた多くのシノドスは、そういう風に行われてきました。しかし今回のシノドスは違います。今回のシノドスはシノドス性について話し合っています。つまり教会とは一体何であるのかについて、話し合っています。話し合っているだけでなく、祈りのうちに分かち合っています。どうしてそうするのかと言えば、それを通じて、教会に働き続けている聖霊が、いま教会をどの方向に向かって導こうとしているのかを、知りたいと考えているからです。

しかし一人で知ることはできません。わたしの進む方向ではないからです。教会が全体として進む方向ですから、皆で知らなくてはなりません。だから教皇様は、そういう、皆で祈りのうちに方向性を見極める教会へと、全体が変化して、それがこれから先まで教会のあり方として定着することを望んでおられます。

ですから、今年の10月のローマでの会議が終わっても、なにか新しいことは決まらないでしょう。ただ教会が教会であるためには、皆が一緒になって歩み、互いの声に耳を傾け合い、互いに支え合い、一緒に祈る共同体とならなくてはならないことだけは確実です。

築地教会が150年を祝うこの年、教会は大きな体質改善を目指しています。一緒になって歩み続ける教会でありましょう。互いの声に耳を傾け、互いをその違いのままに尊重し、一緒になって助け合いながら、祈りのうちに歩む共同体になっていきましょう。

150年後のいま問われているのは、大きく変革した社会の状況の中で、当時の宣教師たちの熱意と教会共同体の熱意を、いま同じように生きるためには何が必要なのかを、改めて自分に問いかけることであろうと思います。東京教区にとってパイオニアともいうべき築地教会の存在の第一の意義は、その歴史的体験に基づいて、他の教会に、宣教の熱意を見せつけ、皆の範となろうとすることであろうと思います

福音を多くの人たちに伝えていこうというのは、主ご自身から弟子たちを通じて、私たちに与えられている福音宣教の命令です。私たちの使命です。

しかし、社会全体のマイナスな現実を目の前にすると、なんとなく意欲がそがれます。少子高齢化で元気のない社会もそうですし、ウクライナやガザなど、戦争は続いている。アジアでも東京教区の姉妹教会であるミャンマーでは、クーデター後、いまだに平和が訪れていない。平和のために声を上げているミャンマーの教会に対して、武力の攻撃まである。もう世界はいのちをないがしろにする暴力に支配されているかのようであります。そんな中で、縮小傾向にある教会が一体何ができるのか。無力感を感じてしまいます。

無力感を感じると、前に向かって進むよりも、かつての栄光を思い起こして、後ろに向かって進みたくなってしまいます。しかし時の流れは、前進しかしません。後退は考えられません。

この教会を司教座とされていた時代の歴代の東京の大司教様がたをはじめ、私たちの先達である宣教師たちは、それぞれの時代に、大きな困難に直面しながらも後ろを振り返ることなく、前に向かってしっかりと、歩みを続けて来られた方たちです。

築地教会の150年に当たり、前を向いて前進することを考えましょう。希望の光を掲げる教会となりましょう。その希望の光を生み出すのは、互いに支え合っているという確信です。シノドス的な教会であるという確信です。一人ではないという確信です。兄弟姉妹がともに歩んでいるという確信です。そして何よりも、主ご自身がともに歩んでいるという確信です。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」

主ご自身のこの約束を心に刻み、希望を掲げてシノドスの道を歩みましょう。

 (なお、目黒教会の信徒の方が、撮影されたミサのダイジェスト版ビデオを、こちらのリンクのYoutubeにアップされてます)

 

| |

« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »