« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »

2024年8月31日 (土)

週刊大司教第181回:年間第22主日

Img_20240703_143306730

あっという間に8月は終わり、9月が始まります。

この数日の、台風に伴う大雨の影響で、被害を被られた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

今年の9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日です。この日から10月4日までを、日本の教会は「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。司教協議会の「ラウダート・シ」デスク(責任司教は成井司教様)では、呼びかけのメッセージを発表しています。また教皇様も、世界祈願日にあたって、「被造物とともにあって、希望し行動しよう」というタイトルのメッセージを発表されています。

さらに日本の司教団では、司教団のメッセージとして、「見よ、それはきわめてよかった」を発表しており、書籍でも頒布していますが、中身が重要ですのでテキストを公開しています。是非ご一読ください。

日本カトリック司教協議会(教会法上の一定地域の司教たちの集まりの名称)には、様々な委員会やデスクなどがあり、事務局であるカトリック中央協議会(日本の法律に基づいた宗教法人の名称)を通じて、それぞれのテーマの担当が様々なメッセージを発表しています。

そういったメッセージの中でも「司教団メッセージ」と呼ばれるものは、現役の司教全員が賛成した一つの地域の司教団の総意を表すメッセージとして、一番重要な意味を持つメッセージとお考えください。ですから、「司教団メッセージ」は、それほど頻繁に出されることはありません。

また司教団も、数年でガラリとメンバーが替わります。例えば2015年のアドリミナに出かけた日本の司教団と、今回2024年のアドリミナに出かけた司教団のメンバーは、10名が入れ替わっています。ですので、前回の司教団メッセージである「いのちへのまなざし、増補新版」と今回の「見よ、それはきわめてよかった」では、司教団のメンバーが替わり、そのトーンなどに違いが出ているのを感じ取っていただければと思います。

なお「ラウダート・シ」デスクが主催して、東京教会管区では、同メッセージ発表に伴う出版記念シンポジウムを、9月7日に、東京四谷のニコラ・バレ修道院を会場に、午前10時半から昼過ぎまで開催いたします。当日は管区内の司教のうち、わたしや成井司教を含め数名も参加します。詳細は、こちらの東京教区ホームページをご覧ください。(東京教会管区:札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、東京の各教区で構成)

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第181回、年間第22主日のメッセージ原稿です。

年間第22主日B
週刊大司教第181回
2024年9月01日

9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日であり、日本の教会は、本日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。

教皇様は今年の祈願日にあたりメッセージを発表され、そのタイトルを「被造物とともにあって、希望し行動しよう」とされています。

教皇様はメッセージで、「キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です。・・・信仰は贈り物、わたしたちの内なる聖霊の実なのです。けれども同時に、自由意志で、イエスの愛の命令への従順をもって果たすべき務めでもあります。これこそが、わたしたちがあかしすべき恵みの希望です」と記します。

その上で教皇様は、「イエスが栄光のうちに到来するのを希望をもって辛抱強く待ち望んでいる信者の共同体を、聖霊は目覚めさせておき、たえず教え、ライフスタイルの転換を促し、人間が引き起こす環境悪化を阻止して、変革の可能性の何よりのあかしとなる社会批評を表明するよう招くのです」と呼びかけておられます。

司教団の優先的取り組みとして、司教協議会には「ラウダート・シ・デスク」が設けられており、その責任者である成井司教様は、「月間」の呼びかけで、「イエスのセンス・オブ・ワンダー、驚きに満ちたまなざしは、わたしたちが総合的な(インテグラル)エコロジー、すなわち神と、他者と、自然と、そして自分自身と調和して生きる道筋を示しています。今年のすべてのいのちを守るための月間の間、イエスの驚きに満ちたまなざしで自分を取り巻くいのちのつながりに目を向けてみませんか」と呼びかけておられます。司教団が先般発表したメッセージ、「見よ、それはきわめてよかった――総合的な(インテグラル)エコロジーへの招き」を、是非ご一読ください。

マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対してイエスは、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘されます。

さまざまな掟や法が定められた背後にある理由は、人を規則で縛り付けて自由を奪うためではなく、神の望まれる生き方に近づくための道しるべであること思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

神がそのいつくしみの御心を持って愛のうちに創造された全被造界は、わたしたちに守り耕すようにと委ねられたものであって、好き勝手に浪費するために与えられてはいません。わたしたちは神から与えられた使命を忠実に果たす、本当の意味での神の掟を守るものでありたいと思います。

| |

2024年ガーナへの旅:その6

Img_1394

ガーナ滞在の五日目、今回の旅の一番の目的である、司祭叙階式です。

前晩泊めていただいた神言会の新しい霊性センターからだと、会場の教会まで、アクラ市内にはいらずにバイパスして、渋滞を避けることができます。とはいえ、道路整備が進む前に宅地などの開発が進んだ地域ですので、霊性センターから表通りに出るまでの道がすさまじい。絶対に歩く人よりゆっくりと、上下左右に揺れながら車は進みました。

モーターウェイ延長道路(テマの港とアクラをつなぐ高速道路・モーターウェイの延長道路)と、昨日通過したアクラとケープコーストを結ぶ道路の合流分岐点は、なんと立体交差になっていました。一昔前だと、ここからクワメ・エンクルマ・サークルまで行って、インセワン道路に入るしか方法はなかったのですが、いまは方々に広い道が新しくできていて、混み合うサークルを避けて、アクラから北に向かう国道の最初の部分であるインセワン道路に入ります。それこそ30年ほど前は片側一車線だった道路が、いまや中央分離帯のある4車線道路に発展しています。その道の途中、カトリック聖シルバヌス教会は位置していました。

叙階式は9時に開始予定です。いまのガーナで、9時に始まると言ったら9時に始まります。さすがに30年ほど前も、アクラなどの都市部では時間通りに始まることが多かったのですが、その頃は、わたしがいた村なんかでは、9時に開始と言っても、10時頃に始まれば成功のような様相でした。しかし今回は本当に9時に始まる。出迎えの都合があるので8時45分に到着してほしいと言われていましたが、渋滞がなかったために8時半前に到着。主任司祭から、車で待機してほしいとのリクエストです。

8時45分、小教区の聖歌隊や役員の方々に迎えられて、司祭館へ。今回は神言修道会ガーナ・リベリア管区の叙階式ですから、多くの神言会員が集まり、中には、昔わたしが働いていた頃からの懐かしい面々もおられます。叙階される面々は、以下の通りです。

2024ghanasvd

この中のひとり、写真に向かって左から二人目、ダニエル・ナー新司祭が、わたしが1986年から94年まで働いていたオソンソン(Osonson)と言う村の出身です。

1724638980013-2

この日は、アクラ大司教区の補佐司教であるアントニー・アサリ司教様も一緒に司式に加わってくださり、おかげさまで、司教様の司教杖(バクルス)を貸していただくことができました。(と言うよりも、不測の事態でわたしが来れなかった場合を考えて、アサリ司教様にもお願いしていたのかもしれません)。アントニー・アサリ司教様も、その昔わたしが働いていた地域の部族であるコロボの出身です。

わたし自身も緊張していたので、共同司式司祭が何人いたのか数えていませんでしたが、全員が行列で入堂したので、入祭だけでかなりの時間がかかっています。当日の中継ビデオを下に張り付けますので、飛ばしながらご覧ください。

聖シルバヌス教会はアクラ教区の小教区で神言会の担当ではありませんが、小教区をあげて準備をしてくださり、当日は聖歌隊も素晴らしく、侍者の皆さんもしっかりと働かれて、素晴らしい典礼の叙階式でした。

Img_3958

説教部分だけを切り抜いたビデオがアクラで公開されていますので、ここに張り付けておきます。

その当日の説教の概要です。神言会員のような宣教司祭の評価は、一体何で定められるのか。それは、いくつの建物を建てたとか、洗礼をどれだけたくさん建てたとか、どれだけ資産を蓄えたとか、そういうこの世の目に見える数字の成果で決まるのではない。もしそうなら、多くの宣教地でほとんどの宣教師が、評価が低いか失敗したということになる。宣教司祭の評価は、福音への誠実な態度で決まる。福音には「わたしは善い牧者。善い牧者は羊のために命を捨てる」とあった。何もないときに「羊のために命を捨てる」というのは簡単だが、準備をしていなければ、いざというときに尻込みしてしまうだけ。「わたしは善い牧者。わたしは羊を知り羊はわたしを知っている」ちょうどいま教会はシノドスの道を歩んでいる。教会は互いの声に耳を傾け、ともに歩み、共に祈り、共に聖霊の導きを識別する神の民となる道を選択した。それを理解した牧者が必要。そして来年の青年のテーマは希望の巡礼者だが、この困難な時代には希望をも立つ存在が必要。司祭は希望を持ってくるのではなくて、人々の心に希望が生み出されるように働く触媒となってほしい。

P1000731

叙階の典礼そのものは日本と同じですし、ミサも日本と同じですが、歌やダンスが長く、いろいろなところで時間を費やして、結局4時間半ほどの叙階式ミサとなりました。聖シルバヌス教会の聖堂はかなり大きく、500人以上を収容できるように見えます。そこが一杯で、さらに外にもテントを張っていましたので、司祭団も入れれば、千人近い人が参加した司祭叙階式であったと思います。

Img_3970

暑かったか?それが涼しかったのです。と言ってもエアコンがあるわけではありません。窓を開け放って、天井の扇風機だけですが、そもそもこの時期のガーナの気温は、日本の東京の夏よりも遙かに過ごしやすい。日中の最高気温が30度を超えることはめったにありません。(暑くなるのは冬の乾期です。サハラ砂漠からの北風が吹きますので、暑くなります)

Img_3967

そして司式をしているわたしの後ろの壁には窓があり、そこから涼しい風が入ってきたので、かなりたくさん祭服などを着込んでましたが、涼しくミサを捧げることができました。

Img_1402_20240831155601

叙階式ミサの最後には、まずわたしとアサリ司教の二人が新司祭の前に跪き、祝福をいただきました。その後に家族などの祝福が続きます。日本の叙階式ではあまりすることがありませんが、新司祭の前に司教が跪いて祝福を受けるのは、象徴的な意味があると思います。

4時間以上のミサでしたので、終わった頃には午後1時を過ぎています。参加者皆で昼食をいただき、訪問団は一路、翌日のオソンソン村での初ミサのために、移動を始めます。今日は70キロほど北東に走ったコフォリデュア(Koforidua)という町に向かいます。オソンソン村もある東州(Eastern Region)の州都になります。ここはコフォリデュア教区のカテドラルがあり、訪問団は教区のパストラルセンターに、そしてわたしは以前一緒に働いていたジョゼフ・アフリファ・アジクム司教様の司教館へ泊めていただいて、翌日曜日の早朝にオソンソン村に向かうことになりました。

続く

 

 

| |

2024年8月28日 (水)

2024年ガーナへの旅:その5

P1000662

ガーナ滞在三日目です。

この日は朝食後にホテルをチェックアウトして、エルミナからケープコースト方面へ戻り、その途中にある大司教館へ。大司教館は、かなり昔からこの地を支配する総督の屋敷として建っており、ポーター初代大司教が1950年代に聖堂を増築するなど大幅に改築したものですが、コンクリートなので頑丈で、目の前の大西洋の潮風を受けながらもしっかりと建っています。

ここで、ケープコーストのチャールズ・パルマー・バックル大司教が迎えてくれました。バックル大司教も交えて、日本語でミサ。

P1000661

バックル大司教は、1992年、わたしが働いていたアクラ教区の一部、東州が独立してコフォリデュア教区になり、さらにアクラが大司教区に昇格したとき、アクラ教区司祭からコフォリデュア教区司教に任命された方です。それまではアクラにある、1924年創設の歴史と由緒あるアチモタ・スクールの指導司祭をされていました。

Img_20240809_090640059

当時はまだ教区司祭としてアクラ教区から新しい教区に移った司祭も少なかったので、まだまだ若輩のわたしも、司教顧問の一人として任命され、バックル司教と一緒に働きました。その後、わたしが日本に戻ってから、彼はカリタスアフリカの総裁になり、今度は国際カリタスの理事会で再会して、また一緒に働くことに。そして2005年には、アクラの大司教に転任し、さらに2018年には由緒正しいケープコーストの大司教に転任されました。2017年12月の東京でのわたしの着座式には、他2名の司教と共に、東京まで来てくださり、彼の働きかけで、当時のガーナ大使が大統領からの祝賀メッセージを取り付けてくださいました。

首都大司教(メトロポリタン大司教)になると、教皇様からその印としてパリウムをいただきます。わたしが東京の大司教になってパリウムをいただきにローマへ行ったとき、バックル大司教もアクラからケープコーストに転任となり、二つ目のパリウムをいただきにローマに来ており、そこでも一緒になりました。わたしにとっては協働者であり、友人であり、恩人でもあります。

Img_20240809_151950717_hdr

大司教館でのミサ後、ケープコースト城へ。アフリカの植民地時代の出来事についてはよく知られていますし、過去には「ルーツ」という小説もありました。多くを語る必要がありませんが、かつての植民地時代のイギリスの奴隷積み出し拠点が海岸沿いには多く残されており、ケープコースト城もその一つであり、かつてイギリスがガーナをゴールドコーストとして植民地化していくための、最初の拠点施設でもあります。

Img_20240809_152000934_hdr

ここに、かつて周囲の村々から連れてこられた人たちが、閉じ込められ、海外に向けて運び出されたその跡が、悲しみと共に、美しい大西洋を背景に、残されています。奴隷制度は、人類の歴史の汚点です。繰り返されてはなりません。多くの人が閉じ込められていた、窓もなく湿った牢獄には、訪れた多くの人が手向けた花束が山のように置かれていました。ガイドに促されて、しばし、照明を消し、暗闇の中にたたずみ、祈りました。人間の尊厳について、深く考えさせられます。

今度は40キロほど北に移動して、カクム国立公園に。ここはいわゆる純粋な森林公園で、その中にキャノピーウォークと呼ばれる、いくつかの高所にかかる吊り橋があり、この公園の名物になっています。訪れた日も、ガーナの高校生の団体が吊り橋に挑戦していて、高さからの恐怖の叫び声が、森に響き渡っていました。私たちのグループもこの吊り橋を渡りに皆で出かけ、また森の日陰で育つカカオの木とその実を見学してきました。かつてはガーナの南部は、すべからくこういった森林だったのでしょう。今では、都市化と、耕作、さらにはかつて盛んだった木炭作りのための森林伐採などが重なって、森の大半は消えてしまっています。公園を案内してくれた担当者は、森の中には人が入らないところもたくさんあるので、いまでも野生の動物が多くいるとのことでした。

Img_20240809_121507160

三日目は、そのままアクラにむけて140キロ以上を戻り、アクラの町の手前にできたばかりの、神言会の霊性センターに宿泊。翌日の司祭叙階式に備えました。

続く

 

| |

2024年8月26日 (月)

2024年ガーナへの旅:その4

1724312465408-1

アクラの神言会ゲストハウスは、かなり町の真ん中あたりにあります。30数年前は、渋滞も激しくなかったので、空港にも近く、買い物にも便利で、とても良いロケーションでしたが、いまや大渋滞のど真ん中になりました。

このゲストハウスを午後2時頃に皆で出発し、一路、140キロほど離れたケープコーストの町を目指します。しばらく走ると、昔からの渋滞スポットである「カネシ・マーケット」の前を通過。かつては歩行者と乗り合いバスが入り乱れ大渋滞でしたが、その後、横断歩道橋が架かったりして渋滞が緩和されたかと思いきや、おもいっきり渋滞は悪化していました。まずここを抜けるのに一苦労。(上の写真。左手に少し写っているのがカネシマーケットの建物)

その先の丘の上に、神言会の引退司祭の家であるマッカーシーヒルがありますが、かつてはそのあたりでアクラの町は終わりでした。アクラとケープコーストを結ぶ道路には、その先あたりに警察の検問所があり、そこで町は終わっていたのですが、なんといまやアクラの町はすさまじく膨張し、そこから延々と住宅地が続きます。通過していく車の台数も半端ではありません。道ばたには立派なショッピングセンターまでできています。時代は変わるものです。

1724639002254

順調だったのはそこまで。右手に貯水池が見えるそのあたりから、延々と道路工事が続いています。立体交差にするために、直進をトンネルで通過させる計画なのでしょう。中国系の企業が請け負っているとみられる名称が入った重機が、深い谷のような切り通しを作っていました。そんな工事をしているところは、全く昔と変わらず、交通整理や迂回路は何もなし。ただただ砂埃を舞いあげて、右に左に、のろのろとそして激しく揺れながら車列は進みます。かつてのガーナらしくなってきました。

アクラを出て60キロほどの所に、ウィネバ(Winneba)交差点があります。ラウンドアバウトです。ここをアクラから来て左に折れると、海岸沿いのウィネバの町には以前は教員養成学校があり、わたしが働いていた地域からも、教員志願者が何名か学んでおり、訪問したものでした。その学校はいまでは、教育大学に発展していると聞きました。このあたりに到達すると、ケープコーストまでだいたい半分を来たことになります。ここまででなんとすでに2時間近くかかっています。つまりアクラの町が成長しすぎで、そこから抜け出すのに、とてつもない時間がかかるということです。でもそこから先は、順調でした。

Img_20240808_173921562_hdr

だんだん海岸線に道路が近づき、椰子の木が立ち並ぶようになると、ケープコーストです。夕方5時近くに到着し、まずはケープコーストのカテドラルへ。高い丘の上にあり、町と海を見下ろす場所です。すさまじく入り組んで、一方通行だらけの町中の道を抜けて、車はやっとの思いで高台の教会へ。(下の写真)

Img_20240808_175743786_hdr

このカテドラルの中には、ガーナ人司教として初代の大司教だった、ジョン・アミサ大司教の墓所があります。ケープコースト教区は1879年からの歴史がありますが、1950年に大司教区になり、それまで担当してきたアフリカ宣教会(SMA)の司教さんたちの最後のポーター師が大司教となりました。そしてガーナが独立したその日、1957年3月7日、ジョン・アミサ師が34歳の若さで、補佐司教に任命されました。その後1959年12月にアミサ師は大司教を引き継ぎました。(墓碑にも、最初のガーナ人司教と記されています)

Img_20240808_174805292-1

軍事政権とも堂々とやり合ったアミサ大司教は、様々な意味で有名で、何らかの不当な理由で警察に拘束された司祭の釈放を求めて、警察署の前に一晩中立ち続けた話などを、わたしもかつて働いていた当時に耳にしていました。特に当時政権を握っていた暫定国防評議会の議長、ローリングス氏(後に民政移管後の大統領)との不仲は有名でした。

1991年9月22日、移動中のアミサ大司教の車が事故にあい、大司教は68歳で帰天します。その数日後、ケープコーストの野外で行われたアミサ大司教の葬儀には、わたしも他の司祭たちと一緒に出かけました。葬儀ミサの説教は、現在91歳でご健在の、当時クマシ教区司教であったピーター・サポン名誉大司教。内容は忘れましたが、格調の高い説教だと感銘を受けたことだけは憶えています。そのミサの最中に、空軍の小型機が、葬儀会場の上空を何度か通過していきました。ローリングス議長はもともと空軍のパイロットです。本当かどうか分かりませんが、哀悼の意を表するためにローリングス議長が自分で操縦して飛んできたのだと、皆が言っていたのを憶えています。

そういえば、1990年頃に、神言会のある宣教師が帰天されたとき、彼から幼児洗礼を受け、子どもの頃には侍者もしていたローリングス議長は、通夜の行われている教会に深夜に数台の軍用車で乗り付け、しばし祈りを捧げて、疾風のように去って行った現場にいたことがあります。(下の写真が、エルミナの教会にあるアミサ大司教の胸像)

Img_20240808_185136370

その後を継いでケープコーストの大司教に任命されたのは、当時ローマに留学中だった、現在のピーター・タクソン枢機卿です。(一つ下の写真はエルミナの教会。その下の写真がタクソン枢機卿の胸像)

1724639022181

この両者の胸像が、お隣のエルミナ教会に設置されていました。

Img_20240808_185101709_hdr

この日は、暗くなってからエルミナのガーナ最初のカトリック教会を訪問し、たまたま集まっていたロザリオグループの方々と祈りを共にすることができました。

1724639030554

そして、そのままエルミナのホテルにみなさんと宿泊です。

続く

 

| |

2024年8月24日 (土)

週刊大司教第180回:年間第21主日B

P1000726c

8月の最後の日曜日となりました。年間第21主日です。

今週は、シノドスの関連で、アジアと南米とアフリカの、それぞれの地域司教協議会連合体の責任者を集めて、シノドスについての準備の会合が、オロリッシュ枢機卿様の教区ルクセンブルグで開催されます。主催者によると、南の司教協議会連合の意見を集約するためとのことで、わたしもアジア司教協議会連盟(FABC)の事務局長として参加してきます。アジアからは、FABCの現在の会長であるミャンマーのボ枢機卿、来年からの次期会長であるインドのフェラオ枢機卿様、次期副会長のフィリピンのダビド司教様、さらに副事務局長のラルース神父様が参加し、さらに講師として、ボンベイのグラシアス枢機卿様も来られると伺っています。これについては、また記します。

シノドスはまもなく第二会期ですが、すでに何度も繰り返しているように、第二会期で何かを決めて、それで今回のシノドスが終わるのではありません。

従来のシノドスは、特定の課題について世界各国の様々な意見を集約し、それに基づいてローマの会議で議論して、教皇様への提言を作成するというプロセスでした。今回は全く異なります。何度も繰り返していますが、今回のシノドスは特定のテーマについて何かを決めることではなくて、霊における会話などを通じて教会共同体が共に霊的な識別をして、聖霊の導きを見極めるようになることを目指しています。

そのために、特に第二会期の準備では、草の根の共同体がそれぞれ何かを提言して、それを国などの単位でまとめ上げて、さらにローマで集約するという手段は採用されていません。それよりも、これから先に向かって、長期的な視点から、霊における会話を通じた共同識別を根付かせるために、何がその壁になっているかを見いだし、その壁を乗り越えるにはどうしたらよいのかの道を見いだすことを、まさに霊における会話を通じて話し合い識別するのが、この10月の第二会期です。

ローマに自分たちの意見が届いていない、反映していないとご心配されている方の声を聞きますが、それはこの第二会期の課題ではありませんのでご安心ください。そうではなくて、これから10月の会期が終わっても、将来に向かって、このシノドス的な霊的識別の方法を、いかにして根付かせていくのかを具体的に実践していくのがいまの課題です。教会の方向性の変革は、まだ始まったばかりです。今年の10月で終わりではありません。

したがって、先般シノドス特別チームが作成したハンドブックは、第二会期に間に合わせるために作成したのではなくて、将来を見越して、これから長期的に実践していくための手引きです。来年も再来年も長期的に使っていた抱くものです。この数ヶ月に慌てて実践するためではなくて、これから先何年にもわたって息長く実践することで、霊における会話による霊的識別を定着させるためのハンドブックです。

すでに東京教区においても、いくつもの小教区から追加で注文をいただいています。東京教区の宣教司牧評議会でも、毎回実践して、だんだんと当たり前の識別方法として定着させようとしています。来年以降の教区宣教司牧評議会では、5年目になる東京教区の宣教司牧方針の中間見直しを、霊における会話を通じて深めていくことを考えています。

ハンドブックは中央協議会のシノドス特設ページからPDFでダウンロードもしていただけます。どんどん利用して、多くの方に実践していただきたいと思います。司教協議会のシノドス特別チームでは、必要であれば、教区単位などの研修会のお手伝いをしたり、そのための講師を斡旋することも可能ですので、必要の際には、中央協議会までご相談ください。

また4月末に行われた、教区司祭のためのシノドスの集まりには、日本から大阪高松教区の高山徹神父様が参加してくださいました。高山神父様もシノドス特別チームのメンバーですが、各地の司祭の研修会などで、その貴重な体験をお話しくださいますので、お声がけください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第180回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

年間第21主日B
週刊大司教第180回
2024年8月25日

福音書は、弟子たちに対して自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。人々がイエスを預言者だとかメシアだとか褒め称えていた話を伝えたとき、イエスが弟子たちに、「それではあなた方はわたしを何者だというのか」と問いかけた話が福音の他の箇所にありますが、今日もまたイエスは弟子たちに自ら判断するようにと迫ることで、わたしたちの信仰が、誰かに言われて信じるものではなくて、自らの判断と決断に基づいた信仰であることを明示しています。

自らをいのちのパンとして示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、多くの人々は理解することが出来ません。世の常識と全くかけ離れたところにイエスが存在しているからです。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。

ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。

ペトロの応えの特徴は何でしょうか。それは、ペトロ自身が体験し、納得した事実に基づいている自己決断の言葉であります。ペトロはイエスと出会い、イエスと旅路を共にする中で、イエスこそが永遠の命の言葉であると確信しました。誰かにそう教えられたのでもなく、どこかで学んできたことでもない。自分自身の「イエス体験」に基づいて、ペトロは自己決断をしています。

わたしたちにとって必要なのは、この自己決断に至るための、「イエス体験」、つまりイエスとの具体的な出会いです。

教皇様は、来年の聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

教皇様は、キリスト者の人生は希望と忍耐によって彩られているけれど、希望は人生の旅路の中でわたしたちをイエスとの出会いへと導いてくれる伴侶であると指摘されています。

わたしたちには、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」との出会いの中で、「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」において、そしてご聖体の秘跡において、主と直接に出会う機会が与えられています。

さらに教皇様が今回の聖年で示されるように、主における希望を抱きその希望を多くの人にもたらすことを通じて、わたしたちは主との出会いへと導かれます。

主との具体的な出会いを通じて、わたしたちは信仰における確信を深め、自らの決断のうちに、ペトロと共に、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と力強く応えるものでありたいと思います。

| |

2024年8月23日 (金)

2024年ガーナへの旅:その3

1724312377996-1

ガーナ滞在二日目です。

観光旅行ではありませんから、朝にまず皆でアクラのカテドラル裏にある神言会のゲストハウスに集合。小聖堂で日本語のミサを捧げました。そのあと、日本からの皆さんのうちお二人に同行を願って、副大統領に会いに行くことに。

Img_20240808_105706588_hdr2

ミサが終わって、出かけようとすると、白バイの警官が待ち構えているではありませんか。なんと大統領府まで、白バイの先導付きとなりました。そして翌日まで、ずーっと我々の車列を先導してくれました。

Img_20240808_094650043_hdr

大統領府は、その昔は「フラッグスタッフハウス」と呼ばれていたところに、現在は「ジュビリーハウス」としてそびえたっています。近くにある王であるキリスト教会で、まずは今回の紹介者である前任の駐日ガーナ大使と待ち合わせ、アクラ教区の司教代理として王であるキリスト教会の主任司祭、神言会の管区長も同行して、渋滞をすべてくぐりぬけてあっという間に裏手側の物静かな、見るからに立派な通りへ。大統領府への入り口は表通りと反対の裏手にあり、警察の装甲車両が守りを固めていました。

Img_20240808_094855214_hdr

面会の趣旨は、2017年12月の東京への私の着座の際に、ガーナ大統領からお祝いのメッセージをいただいたこともあり、その御礼のためでした。

バウミア副大統領(Vice President H.E.Dr. Mahamudu Bawumia)は、若々しい経済学者で、話はかつて私が働いていた地域のような農村部の発展の必要性に広がっていきました。ガーナでもやはり、大都市圏であるアクラ周辺に人口が流入しており、農村部の発展が後回しになっているとのことでした。しばし歓談。

次の大統領候補といわれるバウミア副大統領と公式の写真は撮影したのですが、手元にないので、残念ながら、写真はなしです。

Img_20240808_120051127

その後、白バイの先導を再びいただきながら、野口医学研究所へ。これはご存じの通り、黄熱病の研究のためガーナへやってきた野口英世が、ガーナ大学で研究をする中で、1928年に51歳で亡くなられたことにちなみ、その後、日本政府が資金を提供して、基礎医学の研究所を1970年代に設立したことに始まっています。

Img_20240808_115748519_hdr

この研究所を造るために尽力されたのは、福島県立医科大学の本田憲児先生です。会津出身の野口英世の縁を心にしながら、本田先生が主導してガーナへの支援をはじめ、政府による研究所設立につなげました。研究所はレゴンのガーナ大学敷地内にあります。また2011年に亡くなられた本田先生の墓碑もあり、遺灰をガーナまで持ってきて埋葬したと伺いました。私は1990年ころに、ガーナを訪問された本田先生と、一度だけアクラでお会いしたことがありました。豪快な先生でした。

Img_20240808_111652140_hdr

野口研究所は、コロナのパンデッミックの時、この地域のPCR検査を一手に引き受けて、大活躍したそうです。

その後、私は皆さんと別れて教皇庁大使館へ。新しく任命された教皇大使は、まだ司教叙階を受けていないため、参事官が対応してくださいました。参事官はレバノン出身。昼食に招待していただきました。

Img_20240808_175747093_hdr

昼食後、再び、同行の皆さんと合流して、一路ケープコーストへ。ケープコーストは、現在の首都アクラが誕生する前、17世紀に奴隷貿易や金の輸出の拠点としてできた街で、その奴隷貿易拠点であったケープコースト城が残されています。1821年ころからはイギリスのゴールドコースト植民地の拠点でした。(上の写真は、ケープコースト大司教区のカテドラル)

また近隣にはエルミナという町に、15世紀にポルトガルによって作られた奴隷貿易の拠点の城砦が残っています。そしてエルミナは、ガーナで最初のカトリック教会ができたところで、丘の上に立つ聖ヨゼフ小バジリカは、1880年に建てられたガーナで最初の教会です。

Img_20240809_095133985_hdrb

このケープコーストの大司教は、昔からの友人であり、30数年前に一緒に働いたチャールズ・パルマー・バックル大司教。東京での着座式にも来てくださいました。(上の写真)

Img_20240808_105731222_hdr2

というわけで、一同はケープコーストに向かいました。なんと白バイの先導が付いたまま。それでもこの距離にして140キロほどの大西洋沿いの移動は、かつての時代を思い起こさせるなかなかのラフな移動となりました。アクラを出ると、そこは30年前と何も変わらない世界です。唯一の違いは、皆がスマホを持っていることくらい。ガーナの旅らしくなりました。

続く

 

| |

2024年8月22日 (木)

2024年ガーナへの旅:その2

1724312443261

空港を出てまず最初に驚いたのは、道路上の車の量が半端ないことと、車がピカピカの新しい車(トヨタが大勢を占めています)でひしめいて、すさまじい渋滞になっていることでした。30数年前にも道路は混んでましたが、その頃は道も細く、車の中古のさらに中古のようなボロボロでした。14年前にもかなりの渋滞でしたが、今回は、道路は片側二車線の大きな道路に変わり、それでもすさまじい渋滞です。交差点の多くはロータリーですが、一応、信号機があって、それも動いているものとないものと。

新しい道路もできたこともあり、昔の記憶をたどってもどこを走っているのか分からないまま、そのうちアクラ教区のカテドラルが見えてきました。この後ろに、神言会のガーナ・リベリア管区のゲストハウスがあります。無事に到着。

Img_20240808_141646226_hdr

ゲストハウスは、30年以上前と同じたたずまいの4階建て。2階以上に20を超える部屋があり、地方の宣教地から所用のためアクラに出てきた宣教師などの宿泊所でした。いまはアクラ市内に様々なグレードのホテルが林立しているので、だんだんとその意義も薄れてきているのでしょうが、昔は他に泊まる場所もなかったので、わたしも所用でしばしば泊まったり、時には病気からの回復のために一週間くらい滞在したものでした。

以前はここに、管区長の事務所がありましたが、現在は事務所は移動しています。

Img_20240807_152031139

到着するとすぐに、ゲストハウスの責任者であるフィリピン出身のディオニシオ神父に歓迎されました。実は彼は、1993年から一年間、わたしが主任をしていたオソンソン教会で助任を務め、その後1994年5月以降、わたしから主任を受け継いだ方で、かつて一緒に生活していた仲間です。久しぶりの再会です。

彼に促されて、わたしたち9人は、ゲストハウスの食堂でガーナ最初の食事に。ご飯を中心においしくいただきました。当初はここに全員で宿泊の予定でしたが、ディオニシオ師によると、建物が完成してもうすぐ50年近くになるが、初めて大規模な改修をすることになり、まもなくその工事に入るため、宿泊を断っているとのこと。確かに、部屋はかなり古くなっています。そこで皆さんは海に近いオス地区のホテルに泊まることになり、わたしは同じくオス地区にある管区長館に泊めていただくことに。

オス地区は、独立門や独立広場、初代大統領であるクワメ・エンクルマ廟やアクラ・スポーツ・スタディアムなどがある地区で、管区長館はその昔は大統領官邸であったオスキャッスルに通じる道路沿いにあり、近くには在任中に亡くなった6代目のジョン・アタ・ミルズ大統領の墓所もあります。

Img_20240807_142846746_hdr

昼食後にホテルのチェックインまでまだ時間があったので、表通り側に皆で歩いて、アクラ大司教区のカテドラルを訪問しました。カテドラルは聖霊に捧げられています。アクラの宣教を託された神言会が、初代のアドルフ・ノーザー司教の時から計画を始め、二代目のジョゼフ・オリバー・バウワーズ司教の時、1957年に献堂された大聖堂です。バウワーズ司教はカリブ海出身の方で、1971年にはカリブの教区へ転任となり、ガーナ人のドミニク・アンドウ司教(後に大司教)にその座を譲るのですが、引退後にガーナに戻り、2012年に102歳で亡くなりました。わたしが働いていたオソンソンなどの地域の宣教のパイオニアです。わたしは彼が引退してガーナに戻ってきてから、一度お会いしたことがありました。

1724312453739

そして、ドミニク・アンドウ司教は、わたしがオソンソンで働いていた頃の司教様です。当時はオソンソンあたりもアクラ教区の一部でした。オソンソン村まで、一週間、堅信式のために泊まり込みできてくださり、一緒に4カ所くらいの村を回って、800人くらいに堅信を授けた思い出があります。お世話になった方です。

Img_20240807_1425287792-1

この二人が、揃って、カテドラルの中に埋葬されています。そこまで出かけて、お二人に感謝しながら祈りを捧げることができました。

ゲストハウスに戻ると、懐かしい面々が待っていました。30数年前、オソンソンの教会で侍者をしていた、その頃の中学生たちです。勉強ができて高校に入学できることになっても、当時は全寮制でしたので、かなりお金がかかります。そのため進学を諦める子どもたちも多くいました。当時、日本からちょっと寄付をくださる方がおられたので、奨学金を設立して、そういった子たちは何名か、親御さんと話し合った上で、高校に進学させて、ある程度の学資支援をしました。その当時教育を受けた子たちが、いまや立派な大人になって、警察官やビジネスマンになっていました。その代表が歓迎のために会いに来てくれました。

Img_20240807_151417905_hdr

彼らはその後、オソンソンの後輩たちを進学させようと、自分たちで奨学金を設立し、小規模ながらも教育支援活動を続けていてくれます。

わたしはそのままその夜は、アクラ大司教区のジョン・ボナベンチャー大司教様を自宅に訪ね、訪問の挨拶に。ボナベンチャー大司教はわたしと同じ1958年生まれで、聖霊会(男子修道会)の会員。2019年に、最初の教区であったセコンディ・タコラディ教区から移籍となり、その年の3月1日にアクラ大司教に着座されています。

カテドラルからちょっと離れ、その昔はアクラ教区の会計担当司祭の住居であった建物を改装して、大司教館とされています。わたしもその昔、よく、時間外に会計の神父様(当時はドイツ人の神言会会員)を捕まえていろいろ説得するために、夜に訪れた家でした。

大司教館には、二人いる補佐司教のうちの一人、アントニー・アサリ司教様も待っていてくださいました。彼は、わたしが働いていた部族の出身の司教です。(お二人の写真がないのが申し訳ない)

その晩は、神言会の管区長も同行して、司教様たちと一緒に夕食をいただきながら、いろいろとガーナの教会の現状について、お話を聞くことができました。

続く

| |

2024年8月21日 (水)

2024年ガーナへの旅:その1

P1000837

14年ぶりに、アフリカのガーナへ旅をしてきました。記憶にとどめておくために、その概要を記していきます。(上の写真は8月11日、オソンソン村で)

昨年の末頃、現在は目黒教会の助任として働いているマーティン・デュマス神父様を通じて、ガーナから連絡をいただきました。曰く、わたしがその昔働いていた村出身の青年が司祭に叙階される予定なので、2024年7月にガーナに来て叙階式を司式してくれないだろうか。残念ながら、その段階で7月の予定は詰まっていたので、「行きたいのはやまやまなれど、7月は無理なので、もし8月前半ならば可能性があるけれど」と回答しました。

G1018_20240821175601

実はマーティン神父様自身が、わたしが38年前に司祭としての人生を始めた、ガーナのオソンソンと言う村の出身で、14年前に彼の司祭叙階式をするために、わたしはガーナに招かれていました。38年前は、まだ小学生で、オソンソン村の教会の侍者をしてくれていたのが、いまでは司祭で日本で働いているというのも不思議な縁です。(上の写真は14年前のマーティン神父様の叙階式。下は30数年前にオソンソン教会で聖体行列の侍者で十字架を持つマーティン少年)

Ghana041_20240821180001

しばらくすると、「それでは2024年8月10日土曜日に叙階式を移すので、主司式司教として来て叙階してもらいたい。また叙階の対象の5名のうちひとりがオソンソン村の出身者なので、翌日11日はその初ミサにも参加して、説教をしてほしい」と回答が来ました。喜んでいくことにしました。

454031432_10161208681688956_820975320767

対象の5名は、神言修道会ガーナ・リベリア管区の5名です。上の写真がその一覧です。そのうちのひとり、ダニエル・ナー君(左から二番目)が、オソンソンの出身だと言います。多分、わたしが働いていた頃は小さな子どもだったのだろうと思います。マーティン神父に続いてふたりめですから、うれしい限りです。ちなみにオソンソン村の教会は、当時23カ所くらいの巡回教会を持っていて、その巡回教会の村々出身の司祭は、修道会や教区含めて複数います。しかしオソンソン自体の出身者は久しぶりでした。

ガーナまで結構な長旅ですから、ひとりで出かけるのも、ちょっと不安が残ったので、今回は神言会にお願いして、マーティン神父様をコーディネーターとして同行していただくことにしました。そのうちあわせをしていると、マーティン神父様が、何名かの信徒の方々が一緒に行きたいと言っているが可能かと言います。同行はかまわないが現地での宿や移動手段が不安だと答えると、マーティン神父様が、経験があるので、そういった手配は自分がすると言うではありませんか。それではせっかくですので、広く声がけをすることにして宣伝してみると、なんと7名の方が一緒に出かけてくれることになりました。その中には、かつて38年前に、わたしがガーナにいた頃に、日本政府の海外青年協力隊の隊員として活躍されていて、その頃から存じ上げているご夫婦も、是非ガーナに帰りたいとのことで、参加してくれることになりました。(下の写真は8月12日朝、アゴメニャ教会でミサ後)

P1010025

と言うわけで、七名の信徒の方々とマーティン神父とわたし。都合9名で、8月6日の夜、エミレーツ航空便で成田空港を旅立ちました。旅はドバイ経由です。近頃はイスタンブール経由で旅することが多いので、ドバイは何年ぶりでしょう。いまの新しいターミナルになった直後以来の二度目です。

Img_20240808_141629878_hdr-1

フライトは順調で、翌7日(水)の午前11時過ぎ(ガーナ時間。日本時間では7日の夜8時)、ほぼ22時間の旅路で、ガーナの首都アクラにあるコトカ空港に到着しました。ターミナルビルが新設されたと聞いていたので見たかったのですが、搭乗機の出口で待ち構えていた前駐日ガーナ大使に連れられて、あっという間に車でVIPラウンジへ。そのままそこで入国審査を受け、しばらくすると神言修道会の管区長も現れ、わたしは管区長の車で、皆さんは旅行中全日程でチャーターした11名乗りのトヨタハイエースでガーナの旅に出発です。(上の写真の2台)

以下次回。

 

 

| |

2024年8月17日 (土)

週刊大司教第179回:年間第20主日B

2024_08_15

八月も後半となりました。お盆休みに日本を襲った台風の被害を受けられた方々に、お見舞い申し上げます。

8月10日にガーナの首都アクラで行われた神言修道会の司祭叙階式を司式してきました。5名の新司祭が誕生しました。そのうちの一人が、わたしがかつて、1986年から1994年まで主任司祭などを務めた教会の出身でしたので、招かれて参りました。同じく同教会出身で、いまは東京教区内で働く神言会のマーティン・デュマス神父と、その他7名の方が同行してくださいました。

叙階式も翌日のオソンソン村での初ミサも、どちらも4時間を越える長丁場でした。聖歌隊の素晴らしい歌と、皆さんの躍動する踊り。久しぶりに、アフリカの喜びに満ちあふれた典礼に与りました。その後14日深夜に無事帰国しております。ガーナについては、稿をあらためて記します。(下の写真、叙階式の最後に、新司祭からの祝福を受けるわたしと、アクラ教区のアサリ補佐司教様)

Img_1402

以下本日午後6時配信、週刊大司教第179回、年間第20主日のメッセージ原稿です

年間第20主日B
週刊大司教第179回
2024年8月18日

イエスは今日の福音で、ご自分こそが永遠の命の源であることを宣言されています。イエスが福音で、「永遠に生きる」と言われるとき、それがいわゆるわたしたちのこの世における人生がいつまでも続くことを意味していないのは、次のイエスの言葉から理解されます。

イエスは、ご自分の肉を食べ血を飲まなければ、「あなたたちのうちに命はない」と言われます。しかしよく考えてみれば、そう言われているユダヤ人たちは、目の前で生きている人間です。生きている人間、すなわちいま命を生きている人間に対してイエスは、「あなたたちのうちに命はない」と言われるのですから、イエスの言う命、すなわち永遠の命とは、いまのこの人生をいつまでも続けることとは全く異なることを意味していることが理解されます。

わたしたちのいのちは神からの賜物です。神は自らが創造されたいのちを愛し抜かれ、ご自分が望まれるようにそのいのちが十全に生きられる世界を実現されようとしています。そのいのちが生きる世界は、この地上にとどまるのではなく、御父の元での永遠の中にあるいのちです。

だからといって、この世界は仮の住まいだからどうでも良い、御父の元での永遠のいのちのことさえ考えれば良いと、この世界の現実から目を背けようとする人たちもいます。果たしてそれはどうでしょう。

イエスは福音で、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉」だと言われます。「世を生かす」糧であります。すなわち、神の望まれる世界は、死後の永遠の世界のことだけではなく、いまわたしたちが生きているこの世界のことでもあり、それがためにわたしたちには、永遠のいのちの一部分を構成するこの世界の現実を、神が望まれる世界へと変えていく務めがあります。それこそがわたしたちの福音宣教です。

福音は、死んだ後に永遠の救いに与るためだけではなく、この地上において神の秩序が実現し、神が望まれる世界を生み出すことによって、賜物であるいのちが十全に生き、尊厳を守られるような世界を実現するためにも、一人でも多くの人に伝えられなくては成らない宝物です。

主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。それは、今も日々のミサにおいて繰り返され、わたしたちはミサに与り、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心に、思いを馳せます。主はご聖体のうちに現存されます。

聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」だと、教会憲章は指摘します。その上で、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘します(11)。

すなわち、御聖体をいただくことは、神からお恵みをいただくという受動的な側面だけではなく、わたしたち自身が自分をいけにえとしてささげるという、能動的側面も伴っています。。

御聖体をいただくわたしたちには、主の死と復活を、世々に至るまで告げしらせる務めがあります。その上で、わたしたちには、その福音に生き、言葉と行いで、現存される主イエスそのものである神の愛をあかしする務めがあります。さらにわたしたちには、御聖体によってキリストの体と一致することで、一つの体としての教会共同体の一致を推し進める務めがあります。

| |

2024年8月15日 (木)

聖母被昇天@東京カテドラル

2024_06_09_20240815163101

聖母被昇天の祝日の今日、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後6時からミサが捧げられ、わたしが司式しました。

ガーナ訪問からは、昨晩帰国しました。8名の方々と一緒の訪問団となり、皆無事に帰国致しました。お祈りいただいた皆さまに感謝致します。今回訪問した、わたしがかつて主任司祭であったオソンソン村の出身で、現在目黒教会助任のマーティン神父が同行してくれたおかげで、いろいろと現地での手配が進み、同行してくださった方々には、5時間かかるミサとか、いろいろと体験していただいたと思います。これについては稿をあらためて記します。

以下、本日午後6時の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年8月15日

聖母被昇天を祝うこの日、日本では太平洋戦争が終戦となった日を記憶に留め、多くの人が平和を求めて祈っています。神の望まれる世界の実現を求めているわたしたちは、わたしたちのいのちの創造主である御父の御心を思いながら、具体的にこの地において、神の平和が実現するように祈り、語り、また行動していきましょう。平和の元后である聖母マリアの取り次ぎに信頼しながら、祈りを深めたいと思います。

あらためて繰り返すまでもなく、わたしたちの信仰は、いのちは神からの賜物であって、それがゆえにいのちを守り、またいのちが十全に生きることができるように努めることは、わたしたちの使命であります。また神は、ご自身の似姿としていのちを創造されました。完全であり完璧である神の似姿として、いのちには尊厳がその始まりから与えられています。ですからいのちの始まりから終わりまで、人間の尊厳が保たれるように努めることも、わたしたちに与えられた大切な使命です。

実際の世界は残念ながらその事実を認めていません。わたしたち人類は、その時々に様々な理由をこじつけては、賜物であるいのちに対する暴力を肯定してきました。そういったいのちに対する暴力を肯定する様々な理由は自然に発生するものではなく、人間の都合で生み出されたものです。すなわち、いのちに対する暴力は、自然に発生するものではなく、わたしたち自身が生み出したものであります。

いまわたしたちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、いのちを暴力的に奪い去る出来事で彩られています。いのちに対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。

ウクライナやガザでの現実を見るとき、また長年のパートナー教会であるミャンマーの現状を見るとき、神が愛される、一人ひとりの人間の尊厳は、暴力の前にないがしろにされています。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、政治的な混乱が続き、多くの人がいのちを奪われました。

毎年8月6日から15日までの10日間、日本の教会は平和旬間を定めて、平和について祈り、語り、行動する決意を新たにしています。もちろん平和について考え祈ることは、8月だけの課題ではありません。なぜならば、平和とは単に戦争がないことだけを意味してはいないからです。

ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。

そう考えるとき、平和とは単に戦争がないことではないと気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。いまの世界に神の平和は実現していません。

2024_08_10_002

今年の平和旬間に寄せて、ミャンマーのヤンゴン教区大司教であるボ枢機卿様から、ビデオメッセージをいただきました。そのメッセージの中で枢機卿様は、現在のミャンマーの状況を詳しく述べられ、平和を求めて声を上げる教会が暴力にさらされていることを訴えられています。その上で枢機卿様は、「正義とは報復を意味するのではなく、互いを認めることと悔い改めを意味します」と強調されています。

いま必要なことは、対立し憎しみを増やすような暴力に暴力を持って対抗することではなく、ともに歩みより、互いの声に耳を傾けあうことです。

平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受け、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。

エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画実現とはいかなる状態なのかが明示されています。

そこでは、この世界の常識が全く覆され、教皇フランシスコがしばしば指摘される、社会の中心ではなく周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが向けられていることが記されています。

聖母マリアがその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な、救い主の母となるという役割であるにもかかわらず、その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを、讃歌の中で高らかに歌っています。

また「身分の低い、この主のはした目にも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が何をもって人間の価値を判断しているのかを明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りで量るのではなく、神ご自身の量りで判断される価値です。

すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだという、神のいのちに対する価値観が、そこに明示されています。わたしたち人間が価値がないとみなすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。

エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。わたしたちにとって、神のことばが実現することこそが、神の秩序の確立、すなわち神の平和の実現であります。真の平和は、弱い存在を排除するところにはありません。自分の利益のみを考えて、他者を顧みないところには、真の平和は存在しません。自分の利益のために、他者のいのちを犠牲にしようなどと考える利己的な心の思いのうちに、神の平和は実現しません。

いのちに対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりし、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日もわたしたちが生きる道筋を示そうとたたずまれています。栄光のうちに天にあげられた平和の元后、聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の平和の実現のために、ともに歩んで参りましょう。

| |

2024年8月10日 (土)

2024年平和旬間:東京教区平和メッセージ

Img_20240722_103221889b

2024年のカトリック平和旬間にあたり、平和メッセージを記します。8月10日午後5時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われる平和旬間のミサに合わせて、わたしの説教として準備致しましたが、同日は、アフリカのガーナで司祭叙階式の司式を依頼されましたので、不在となります。同日のカテドラルにおける平和を願うミサの司式は、小池神父様にお願いしています。

平和を願うミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年8月10日

毎年の夏、社会でもまた教会でも、平和について語り、ともに祈る機会が多く与えられます。平和の季節としての夏の始まりは、6月23日の沖縄での戦争終結の日です。そこからはじまり、8月6日と9日の広島・長崎の原爆忌、そして終戦記念日である8月15日までの間、わたしたちは過去の歴史を振り返り、平和を求めて祈り、行動します。

今年の4月、日本の司教団はアドリミナの聖座訪問でローマに出かけ、司教一同で教皇様にお会いしました。日本の教会の様々な出来事について教皇様に報告する中で、沖縄、那覇教区のウェイン司教様は、外国の軍隊がほぼ恒久的に他の国の中に軍事基地を設置し、駐留を続けることの倫理性を、教皇様に尋ね、問題提起されました。もちろんそれは沖縄の現実そのものであります。教皇様はこれに対して、外国の軍隊の駐留の倫理性については考えたことはなかったが、重要な課題として是非これから研究してみたいと答えておられました。あの悲惨な戦争の現実から79年が経過しても、今なお、平和のための武力での防衛は維持強化され、結果として平和は実現していません。

今年の6月23日、沖縄慰霊の日にあたり、ウェイン司教様は、教区に向けた平和メッセージを発表されました。そこにこう記されています。

「平和・共生・協調の理念は、すべての人の共通の普遍的な願いであるはずなのに、同じ理念を目指しながらも、一方は他者の存在を必要とする立場から『対話』を選びますが、他方では同じ平和を理由にして、自己防衛のためにと『武力』を選択しています」

ウェイン司教様は、まったく同じ「平和・共生・協調」という理想を掲げながらも、人間はその立場によって、「対話」と「武力の行使」という全く異なる道を選択するのだということを指摘されています。「自分達の安心・安全」だけを中心に平和を考える利己的な姿勢に立つ場合、武力の行使を放棄して対話を選択するのではなく、平和を守るために必要だという理由で、暴力の行使を容認してしまう。それこそは、すなわち、平和を守るために平和を打ち壊すような状況を生み出しているのだと、メッセージの中で指摘されています。

仮にひとり一人のいのちを守ることが最優先であると考えるのなら、武力の行使こそは、なんとしてでも避けるべきですが、実際にはそのような考えは非現実的だと批判されることもしばしばあります。もちろん国際関係の現実を見るならば、国家間の関係が単純には割り切れないものであることは当然です。しかしながら、近年の日本の周囲の情勢を念頭に、防衛のための武力を強化することは平和維持に不可欠だという機運が醸成されている状況は、神の与えられた賜物であるいのちを守るという教会の立場からは、平和を求める本来の道ではありえないことを、常に念頭に置かなくては成りません。

いまわたしたちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、いのちを暴力的に奪い去る出来事で彩られています。いのちに対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。ロシアによるウクライナへの攻撃で始まった戦争は、2年半が経過しても終わりへの道が見えません。パレスチナとイスラエルの対立は泥沼化し、ガザでは三万七千人を超える人たちのいのちが奪われています。アジアにおけるわたしたちの隣人の状況を見ても、ミャンマーではクーデター後の混乱はまだ続いており、すでに3年を超えて、平和の道筋は見えていません。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、混乱が続き、多くの人が命を落としました。

ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。

そう考えるとき、平和とは単に戦争がないことではないと気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。いまの世界に神の平和は実現していません。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。

賜物であるいのちに対する暴力を行使し、神の秩序の実現を阻害しているいう視点から現実を見るとき、そこには戦争を越えてさらに多くの現実が見えてきます。

環境破壊と地球温暖化によって、長年住み慣れた地を追われる人たち。戦争や紛争の結果として故郷を離れざるを得ない難民や国内避難民。いのちの尊厳をないがしろにする状況の中で生きざるを得ない人たち。思想や信仰や生活のあり方の違いによって社会から排除され、存在を無視されている人たち。様々な口実で暴力的に奪われていく人間のいのち。ここで指摘することが適わないほど、さらに多くのいのちへの暴力行為があります。それらすべては、平和の課題です。ひとりのいのちがその尊厳を奪われようとしている現実は、すべからく平和の課題です。神の賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、徹底的にその尊厳を守られ、希望を持って生きられなくてはなりません。

教皇様は、2017年に、それまであった難民移住移動者評議会や開発援助評議会、正義と平和評議会など、社会の諸課題に取り組む部署を統合し、「人間開発」という名称で一つの部署にされました。この「人間開発」という名称の前には、「インテグラル」と言う言葉がつけられています。日本語では「インテグラル」を「総合的」と訳しています。「総合的人間開発」を担当する部門です。

教皇様が「ラウダート・シ」を2015年に発表されたとき、第四章にこう書いておられます。

「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸課題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています(137)」

現代社会にあってすべての出来事は複雑に関係しており、社会で起こる現実の出来事は複雑さを極め、いのちの危機はシングルイシューでは解決することができなくなっています。どうしてもインテグラル・総合的な視点が不可欠です。いまわたしたちの平和の活動には、インテグラルな視点が不可欠です。簡単に善悪と決めつけ、すべてが分かったような気になっているのがいまの社会なのかもしれません。しかし、人間が生み出す現実は、当たり前ですが、そんなに単純ではありません。

平和について考えるいま、世界の様々な現実を目の前にして、総合的・インテグラルな視点を持ち続けながら、すべてのいのちの尊厳をまもるための道を見いだしていきたいと思います。

 

| |

2024年8月 3日 (土)

週刊大司教第178回:年間第18主日B


2024_07_28_rca_0250

あっという間に8月になりました。8月は特に、6日と9日の広島と長崎の原爆忌に始まり15日の終戦記念日までの10日間、平和旬間が定められており、平和について語り、平和について祈り、平和について行動するときとなっています。東京教区における平和旬間の行事は、こちらの教区ホームページのリンクにある内容で予定されています

あらためてですが、本日のメッセージでも触れている司教協議会の会長としての平和旬間の談話はこちらです。そこでも触れていますが、平和は、総合的な視点からみて、この世界におけるわたしたちの命の始まりから終わりまで、すべからくその尊厳が守られることによってのみ確立されます。ですから平和を求める動きは、戦争だけではなく、命にかかわるすべての出来事を考察の対象としなくてはならず、一年を通じた課題です。八月はその中でも、過去の歴史の経緯から、特に戦争など命に対する暴力に注目しながら、平和を語り祈るときとしたいと思います。

夏休み期間でもあることから、教会学校などの行事もあることでしょう。どうか安全に留意しながら、心と体が豊かに成長する時を過ごされますように、皆さまの安全と霊的成長のためにお祈り致します。

わたしは、目黒教会の助任であるマーティン神父を同行者として、ガーナで8月10日に行われる神言会の司祭叙階式を司式するために、まもなくガーナへ一週間、出かけて参ります。日本から数名の方々がご一緒くださることになり、心強く思います。新しい交わりが開かれることを期待しての旅です。マーティン神父様自身が、わたしがガーナで働いていたときの担当小教区の出身者ですが、今回叙階される新司祭の中にも、その同じ村の出身者がおります。その関係で、かつて主任司祭を務めていたわたしが、叙階式に呼ばれることになりました。通信環境がどうか分かりませんが、随時現地から報告できればと願っています。なお次の土曜日、8月10日の週刊大司教はお休みです。次回は8月17日の予定です。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第178回、年間第18主日メッセージ原稿です。

年間第18主日B
週刊大司教第178回
2024年8月4日

「私が命のパンである」と宣言される主イエスの言葉を、ヨハネ福音は記しています。集まっている人々は、この世の生命を長らえるための食物を求めているのですが、イエスは永遠の命を与えるパン、すなわちご自身のことを語っておられます。

わたしたちはこの世界で生きていますから、「いまどう生きるのか」に関心を寄せてしまいます。しかし、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」とペトロの第二の手紙の三章に記されているとおり、永遠に至る神の救いの計画から見れば、人間の人生における例えば百年は、一瞬にすぎません。わたしたち人類は、ほんの短い先すらも見通すことができず、いまを生きることに心をとらわれて、数々の過ちを積み重ねています。

その最たるものは、様々な理由を見いだして始められる戦争や武力紛争です。確かにその時点の世界における力関係では、戦争だけが選択肢に見えたことでしょう。しかし戦争を始めることは、命を危機にさらすことに他なりません。神の救いの計画の中では、賜物として神が創造し与えてくださったこの命を、すべからく守り抜くことこそが最も大切であるはずです。にもかかわらず、わたしたちは短期的な人間の視点から様々な理由を持ち出しては、護るべき命を暴力にさらし続けています。

ご聖体をいただくわたしたちは、ご聖体のうちに現存される主との一致のうちに、主が教えてくださる道を歩むように務めることで、自分自身の救いのためだけではなく、人類全体の救い、すなわち神の救いの計画に与り、その計画の実現のために働く者となります。視点を自分のうちだけに留め、短期的な思惑に振り回されることなく、ご聖体に現存される主イエスに生かされて、常に新たにされ、神の視点で世界を見るものでありたいと思います。

8月は、平和について思いを巡らし、平和を祈るときであります。広島、長崎における原爆忌から終戦の日までの10日間を、日本の教会は平和旬間と定めています。

平和旬間にあたり、司教協議会の会長談話を発表しています。今年はテーマを、教皇様が繰り返される言葉に触発されて、「無関心はいのちを奪います」といたしました。

教皇聖ヨハネ23世の「地上の平和」の冒頭には、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることも」ないと記されています。したがって、神の定めた秩序の実現を妨げる出来事は、そのすべてが平和の実現を阻んでいると教会は考えます。もちろんその筆頭には、神からの賜物である命を暴力的に奪う戦争や紛争があるのは間違いがありません。

しかし同時に、神の定めた秩序の実現を阻む状況とは、武力の行使だけにとどまらず、ありとあらゆる命への暴力がそこには含まれています。神の秩序の実現を妨げ、人間の尊厳をないがしろにする現実は、神の平和の実現を阻害するものです。あらためて平和の実現を、祈りたいと思います。

| |

« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »