« 週刊大司教第180回:年間第21主日B | トップページ | 2024年ガーナへの旅:その5 »

2024年8月26日 (月)

2024年ガーナへの旅:その4

1724312465408-1

アクラの神言会ゲストハウスは、かなり町の真ん中あたりにあります。30数年前は、渋滞も激しくなかったので、空港にも近く、買い物にも便利で、とても良いロケーションでしたが、いまや大渋滞のど真ん中になりました。

このゲストハウスを午後2時頃に皆で出発し、一路、140キロほど離れたケープコーストの町を目指します。しばらく走ると、昔からの渋滞スポットである「カネシ・マーケット」の前を通過。かつては歩行者と乗り合いバスが入り乱れ大渋滞でしたが、その後、横断歩道橋が架かったりして渋滞が緩和されたかと思いきや、おもいっきり渋滞は悪化していました。まずここを抜けるのに一苦労。(上の写真。左手に少し写っているのがカネシマーケットの建物)

その先の丘の上に、神言会の引退司祭の家であるマッカーシーヒルがありますが、かつてはそのあたりでアクラの町は終わりでした。アクラとケープコーストを結ぶ道路には、その先あたりに警察の検問所があり、そこで町は終わっていたのですが、なんといまやアクラの町はすさまじく膨張し、そこから延々と住宅地が続きます。通過していく車の台数も半端ではありません。道ばたには立派なショッピングセンターまでできています。時代は変わるものです。

1724639002254

順調だったのはそこまで。右手に貯水池が見えるそのあたりから、延々と道路工事が続いています。立体交差にするために、直進をトンネルで通過させる計画なのでしょう。中国系の企業が請け負っているとみられる名称が入った重機が、深い谷のような切り通しを作っていました。そんな工事をしているところは、全く昔と変わらず、交通整理や迂回路は何もなし。ただただ砂埃を舞いあげて、右に左に、のろのろとそして激しく揺れながら車列は進みます。かつてのガーナらしくなってきました。

アクラを出て60キロほどの所に、ウィネバ(Winneba)交差点があります。ラウンドアバウトです。ここをアクラから来て左に折れると、海岸沿いのウィネバの町には以前は教員養成学校があり、わたしが働いていた地域からも、教員志願者が何名か学んでおり、訪問したものでした。その学校はいまでは、教育大学に発展していると聞きました。このあたりに到達すると、ケープコーストまでだいたい半分を来たことになります。ここまででなんとすでに2時間近くかかっています。つまりアクラの町が成長しすぎで、そこから抜け出すのに、とてつもない時間がかかるということです。でもそこから先は、順調でした。

Img_20240808_173921562_hdr

だんだん海岸線に道路が近づき、椰子の木が立ち並ぶようになると、ケープコーストです。夕方5時近くに到着し、まずはケープコーストのカテドラルへ。高い丘の上にあり、町と海を見下ろす場所です。すさまじく入り組んで、一方通行だらけの町中の道を抜けて、車はやっとの思いで高台の教会へ。(下の写真)

Img_20240808_175743786_hdr

このカテドラルの中には、ガーナ人司教として初代の大司教だった、ジョン・アミサ大司教の墓所があります。ケープコースト教区は1879年からの歴史がありますが、1950年に大司教区になり、それまで担当してきたアフリカ宣教会(SMA)の司教さんたちの最後のポーター師が大司教となりました。そしてガーナが独立したその日、1957年3月7日、ジョン・アミサ師が34歳の若さで、補佐司教に任命されました。その後1959年12月にアミサ師は大司教を引き継ぎました。(墓碑にも、最初のガーナ人司教と記されています)

Img_20240808_174805292-1

軍事政権とも堂々とやり合ったアミサ大司教は、様々な意味で有名で、何らかの不当な理由で警察に拘束された司祭の釈放を求めて、警察署の前に一晩中立ち続けた話などを、わたしもかつて働いていた当時に耳にしていました。特に当時政権を握っていた暫定国防評議会の議長、ローリングス氏(後に民政移管後の大統領)との不仲は有名でした。

1991年9月22日、移動中のアミサ大司教の車が事故にあい、大司教は68歳で帰天します。その数日後、ケープコーストの野外で行われたアミサ大司教の葬儀には、わたしも他の司祭たちと一緒に出かけました。葬儀ミサの説教は、現在91歳でご健在の、当時クマシ教区司教であったピーター・サポン名誉大司教。内容は忘れましたが、格調の高い説教だと感銘を受けたことだけは憶えています。そのミサの最中に、空軍の小型機が、葬儀会場の上空を何度か通過していきました。ローリングス議長はもともと空軍のパイロットです。本当かどうか分かりませんが、哀悼の意を表するためにローリングス議長が自分で操縦して飛んできたのだと、皆が言っていたのを憶えています。

そういえば、1990年頃に、神言会のある宣教師が帰天されたとき、彼から幼児洗礼を受け、子どもの頃には侍者もしていたローリングス議長は、通夜の行われている教会に深夜に数台の軍用車で乗り付け、しばし祈りを捧げて、疾風のように去って行った現場にいたことがあります。(下の写真が、エルミナの教会にあるアミサ大司教の胸像)

Img_20240808_185136370

その後を継いでケープコーストの大司教に任命されたのは、当時ローマに留学中だった、現在のピーター・タクソン枢機卿です。(一つ下の写真はエルミナの教会。その下の写真がタクソン枢機卿の胸像)

1724639022181

この両者の胸像が、お隣のエルミナ教会に設置されていました。

Img_20240808_185101709_hdr

この日は、暗くなってからエルミナのガーナ最初のカトリック教会を訪問し、たまたま集まっていたロザリオグループの方々と祈りを共にすることができました。

1724639030554

そして、そのままエルミナのホテルにみなさんと宿泊です。

続く

 

| |

« 週刊大司教第180回:年間第21主日B | トップページ | 2024年ガーナへの旅:その5 »

ガーナの旅」カテゴリの記事