2024年ガーナへの旅:その3
ガーナ滞在二日目です。
観光旅行ではありませんから、朝にまず皆でアクラのカテドラル裏にある神言会のゲストハウスに集合。小聖堂で日本語のミサを捧げました。そのあと、日本からの皆さんのうちお二人に同行を願って、副大統領に会いに行くことに。
ミサが終わって、出かけようとすると、白バイの警官が待ち構えているではありませんか。なんと大統領府まで、白バイの先導付きとなりました。そして翌日まで、ずーっと我々の車列を先導してくれました。
大統領府は、その昔は「フラッグスタッフハウス」と呼ばれていたところに、現在は「ジュビリーハウス」としてそびえたっています。近くにある王であるキリスト教会で、まずは今回の紹介者である前任の駐日ガーナ大使と待ち合わせ、アクラ教区の司教代理として王であるキリスト教会の主任司祭、神言会の管区長も同行して、渋滞をすべてくぐりぬけてあっという間に裏手側の物静かな、見るからに立派な通りへ。大統領府への入り口は表通りと反対の裏手にあり、警察の装甲車両が守りを固めていました。
面会の趣旨は、2017年12月の東京への私の着座の際に、ガーナ大統領からお祝いのメッセージをいただいたこともあり、その御礼のためでした。
バウミア副大統領(Vice President H.E.Dr. Mahamudu Bawumia)は、若々しい経済学者で、話はかつて私が働いていた地域のような農村部の発展の必要性に広がっていきました。ガーナでもやはり、大都市圏であるアクラ周辺に人口が流入しており、農村部の発展が後回しになっているとのことでした。しばし歓談。
次の大統領候補といわれるバウミア副大統領と公式の写真は撮影したのですが、手元にないので、残念ながら、写真はなしです。
その後、白バイの先導を再びいただきながら、野口医学研究所へ。これはご存じの通り、黄熱病の研究のためガーナへやってきた野口英世が、ガーナ大学で研究をする中で、1928年に51歳で亡くなられたことにちなみ、その後、日本政府が資金を提供して、基礎医学の研究所を1970年代に設立したことに始まっています。
この研究所を造るために尽力されたのは、福島県立医科大学の本田憲児先生です。会津出身の野口英世の縁を心にしながら、本田先生が主導してガーナへの支援をはじめ、政府による研究所設立につなげました。研究所はレゴンのガーナ大学敷地内にあります。また2011年に亡くなられた本田先生の墓碑もあり、遺灰をガーナまで持ってきて埋葬したと伺いました。私は1990年ころに、ガーナを訪問された本田先生と、一度だけアクラでお会いしたことがありました。豪快な先生でした。
野口研究所は、コロナのパンデッミックの時、この地域のPCR検査を一手に引き受けて、大活躍したそうです。
その後、私は皆さんと別れて教皇庁大使館へ。新しく任命された教皇大使は、まだ司教叙階を受けていないため、参事官が対応してくださいました。参事官はレバノン出身。昼食に招待していただきました。
昼食後、再び、同行の皆さんと合流して、一路ケープコーストへ。ケープコーストは、現在の首都アクラが誕生する前、17世紀に奴隷貿易や金の輸出の拠点としてできた街で、その奴隷貿易拠点であったケープコースト城が残されています。1821年ころからはイギリスのゴールドコースト植民地の拠点でした。(上の写真は、ケープコースト大司教区のカテドラル)
また近隣にはエルミナという町に、15世紀にポルトガルによって作られた奴隷貿易の拠点の城砦が残っています。そしてエルミナは、ガーナで最初のカトリック教会ができたところで、丘の上に立つ聖ヨゼフ小バジリカは、1880年に建てられたガーナで最初の教会です。
このケープコーストの大司教は、昔からの友人であり、30数年前に一緒に働いたチャールズ・パルマー・バックル大司教。東京での着座式にも来てくださいました。(上の写真)
というわけで、一同はケープコーストに向かいました。なんと白バイの先導が付いたまま。それでもこの距離にして140キロほどの大西洋沿いの移動は、かつての時代を思い起こさせるなかなかのラフな移動となりました。アクラを出ると、そこは30年前と何も変わらない世界です。唯一の違いは、皆がスマホを持っていることくらい。ガーナの旅らしくなりました。
続く
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