2024年ガーナへの旅:その6
ガーナ滞在の五日目、今回の旅の一番の目的である、司祭叙階式です。
前晩泊めていただいた神言会の新しい霊性センターからだと、会場の教会まで、アクラ市内にはいらずにバイパスして、渋滞を避けることができます。とはいえ、道路整備が進む前に宅地などの開発が進んだ地域ですので、霊性センターから表通りに出るまでの道がすさまじい。絶対に歩く人よりゆっくりと、上下左右に揺れながら車は進みました。
モーターウェイ延長道路(テマの港とアクラをつなぐ高速道路・モーターウェイの延長道路)と、昨日通過したアクラとケープコーストを結ぶ道路の合流分岐点は、なんと立体交差になっていました。一昔前だと、ここからクワメ・エンクルマ・サークルまで行って、インセワン道路に入るしか方法はなかったのですが、いまは方々に広い道が新しくできていて、混み合うサークルを避けて、アクラから北に向かう国道の最初の部分であるインセワン道路に入ります。それこそ30年ほど前は片側一車線だった道路が、いまや中央分離帯のある4車線道路に発展しています。その道の途中、カトリック聖シルバヌス教会は位置していました。
叙階式は9時に開始予定です。いまのガーナで、9時に始まると言ったら9時に始まります。さすがに30年ほど前も、アクラなどの都市部では時間通りに始まることが多かったのですが、その頃は、わたしがいた村なんかでは、9時に開始と言っても、10時頃に始まれば成功のような様相でした。しかし今回は本当に9時に始まる。出迎えの都合があるので8時45分に到着してほしいと言われていましたが、渋滞がなかったために8時半前に到着。主任司祭から、車で待機してほしいとのリクエストです。
8時45分、小教区の聖歌隊や役員の方々に迎えられて、司祭館へ。今回は神言修道会ガーナ・リベリア管区の叙階式ですから、多くの神言会員が集まり、中には、昔わたしが働いていた頃からの懐かしい面々もおられます。叙階される面々は、以下の通りです。
この中のひとり、写真に向かって左から二人目、ダニエル・ナー新司祭が、わたしが1986年から94年まで働いていたオソンソン(Osonson)と言う村の出身です。
この日は、アクラ大司教区の補佐司教であるアントニー・アサリ司教様も一緒に司式に加わってくださり、おかげさまで、司教様の司教杖(バクルス)を貸していただくことができました。(と言うよりも、不測の事態でわたしが来れなかった場合を考えて、アサリ司教様にもお願いしていたのかもしれません)。アントニー・アサリ司教様も、その昔わたしが働いていた地域の部族であるコロボの出身です。
わたし自身も緊張していたので、共同司式司祭が何人いたのか数えていませんでしたが、全員が行列で入堂したので、入祭だけでかなりの時間がかかっています。当日の中継ビデオを下に張り付けますので、飛ばしながらご覧ください。
聖シルバヌス教会はアクラ教区の小教区で神言会の担当ではありませんが、小教区をあげて準備をしてくださり、当日は聖歌隊も素晴らしく、侍者の皆さんもしっかりと働かれて、素晴らしい典礼の叙階式でした。
説教部分だけを切り抜いたビデオがアクラで公開されていますので、ここに張り付けておきます。
その当日の説教の概要です。神言会員のような宣教司祭の評価は、一体何で定められるのか。それは、いくつの建物を建てたとか、洗礼をどれだけたくさん建てたとか、どれだけ資産を蓄えたとか、そういうこの世の目に見える数字の成果で決まるのではない。もしそうなら、多くの宣教地でほとんどの宣教師が、評価が低いか失敗したということになる。宣教司祭の評価は、福音への誠実な態度で決まる。福音には「わたしは善い牧者。善い牧者は羊のために命を捨てる」とあった。何もないときに「羊のために命を捨てる」というのは簡単だが、準備をしていなければ、いざというときに尻込みしてしまうだけ。「わたしは善い牧者。わたしは羊を知り羊はわたしを知っている」ちょうどいま教会はシノドスの道を歩んでいる。教会は互いの声に耳を傾け、ともに歩み、共に祈り、共に聖霊の導きを識別する神の民となる道を選択した。それを理解した牧者が必要。そして来年の青年のテーマは希望の巡礼者だが、この困難な時代には希望をも立つ存在が必要。司祭は希望を持ってくるのではなくて、人々の心に希望が生み出されるように働く触媒となってほしい。
叙階の典礼そのものは日本と同じですし、ミサも日本と同じですが、歌やダンスが長く、いろいろなところで時間を費やして、結局4時間半ほどの叙階式ミサとなりました。聖シルバヌス教会の聖堂はかなり大きく、500人以上を収容できるように見えます。そこが一杯で、さらに外にもテントを張っていましたので、司祭団も入れれば、千人近い人が参加した司祭叙階式であったと思います。
暑かったか?それが涼しかったのです。と言ってもエアコンがあるわけではありません。窓を開け放って、天井の扇風機だけですが、そもそもこの時期のガーナの気温は、日本の東京の夏よりも遙かに過ごしやすい。日中の最高気温が30度を超えることはめったにありません。(暑くなるのは冬の乾期です。サハラ砂漠からの北風が吹きますので、暑くなります)
そして司式をしているわたしの後ろの壁には窓があり、そこから涼しい風が入ってきたので、かなりたくさん祭服などを着込んでましたが、涼しくミサを捧げることができました。
叙階式ミサの最後には、まずわたしとアサリ司教の二人が新司祭の前に跪き、祝福をいただきました。その後に家族などの祝福が続きます。日本の叙階式ではあまりすることがありませんが、新司祭の前に司教が跪いて祝福を受けるのは、象徴的な意味があると思います。
4時間以上のミサでしたので、終わった頃には午後1時を過ぎています。参加者皆で昼食をいただき、訪問団は一路、翌日のオソンソン村での初ミサのために、移動を始めます。今日は70キロほど北東に走ったコフォリデュア(Koforidua)という町に向かいます。オソンソン村もある東州(Eastern Region)の州都になります。ここはコフォリデュア教区のカテドラルがあり、訪問団は教区のパストラルセンターに、そしてわたしは以前一緒に働いていたジョゼフ・アフリファ・アジクム司教様の司教館へ泊めていただいて、翌日曜日の早朝にオソンソン村に向かうことになりました。
続く
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