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2024年8月28日 (水)

2024年ガーナへの旅:その5

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ガーナ滞在三日目です。

この日は朝食後にホテルをチェックアウトして、エルミナからケープコースト方面へ戻り、その途中にある大司教館へ。大司教館は、かなり昔からこの地を支配する総督の屋敷として建っており、ポーター初代大司教が1950年代に聖堂を増築するなど大幅に改築したものですが、コンクリートなので頑丈で、目の前の大西洋の潮風を受けながらもしっかりと建っています。

ここで、ケープコーストのチャールズ・パルマー・バックル大司教が迎えてくれました。バックル大司教も交えて、日本語でミサ。

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バックル大司教は、1992年、わたしが働いていたアクラ教区の一部、東州が独立してコフォリデュア教区になり、さらにアクラが大司教区に昇格したとき、アクラ教区司祭からコフォリデュア教区司教に任命された方です。それまではアクラにある、1924年創設の歴史と由緒あるアチモタ・スクールの指導司祭をされていました。

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当時はまだ教区司祭としてアクラ教区から新しい教区に移った司祭も少なかったので、まだまだ若輩のわたしも、司教顧問の一人として任命され、バックル司教と一緒に働きました。その後、わたしが日本に戻ってから、彼はカリタスアフリカの総裁になり、今度は国際カリタスの理事会で再会して、また一緒に働くことに。そして2005年には、アクラの大司教に転任し、さらに2018年には由緒正しいケープコーストの大司教に転任されました。2017年12月の東京でのわたしの着座式には、他2名の司教と共に、東京まで来てくださり、彼の働きかけで、当時のガーナ大使が大統領からの祝賀メッセージを取り付けてくださいました。

首都大司教(メトロポリタン大司教)になると、教皇様からその印としてパリウムをいただきます。わたしが東京の大司教になってパリウムをいただきにローマへ行ったとき、バックル大司教もアクラからケープコーストに転任となり、二つ目のパリウムをいただきにローマに来ており、そこでも一緒になりました。わたしにとっては協働者であり、友人であり、恩人でもあります。

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大司教館でのミサ後、ケープコースト城へ。アフリカの植民地時代の出来事についてはよく知られていますし、過去には「ルーツ」という小説もありました。多くを語る必要がありませんが、かつての植民地時代のイギリスの奴隷積み出し拠点が海岸沿いには多く残されており、ケープコースト城もその一つであり、かつてイギリスがガーナをゴールドコーストとして植民地化していくための、最初の拠点施設でもあります。

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ここに、かつて周囲の村々から連れてこられた人たちが、閉じ込められ、海外に向けて運び出されたその跡が、悲しみと共に、美しい大西洋を背景に、残されています。奴隷制度は、人類の歴史の汚点です。繰り返されてはなりません。多くの人が閉じ込められていた、窓もなく湿った牢獄には、訪れた多くの人が手向けた花束が山のように置かれていました。ガイドに促されて、しばし、照明を消し、暗闇の中にたたずみ、祈りました。人間の尊厳について、深く考えさせられます。

今度は40キロほど北に移動して、カクム国立公園に。ここはいわゆる純粋な森林公園で、その中にキャノピーウォークと呼ばれる、いくつかの高所にかかる吊り橋があり、この公園の名物になっています。訪れた日も、ガーナの高校生の団体が吊り橋に挑戦していて、高さからの恐怖の叫び声が、森に響き渡っていました。私たちのグループもこの吊り橋を渡りに皆で出かけ、また森の日陰で育つカカオの木とその実を見学してきました。かつてはガーナの南部は、すべからくこういった森林だったのでしょう。今では、都市化と、耕作、さらにはかつて盛んだった木炭作りのための森林伐採などが重なって、森の大半は消えてしまっています。公園を案内してくれた担当者は、森の中には人が入らないところもたくさんあるので、いまでも野生の動物が多くいるとのことでした。

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三日目は、そのままアクラにむけて140キロ以上を戻り、アクラの町の手前にできたばかりの、神言会の霊性センターに宿泊。翌日の司祭叙階式に備えました。

続く

 

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