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2024年8月10日 (土)

2024年平和旬間:東京教区平和メッセージ

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2024年のカトリック平和旬間にあたり、平和メッセージを記します。8月10日午後5時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われる平和旬間のミサに合わせて、わたしの説教として準備致しましたが、同日は、アフリカのガーナで司祭叙階式の司式を依頼されましたので、不在となります。同日のカテドラルにおける平和を願うミサの司式は、小池神父様にお願いしています。

平和を願うミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年8月10日

毎年の夏、社会でもまた教会でも、平和について語り、ともに祈る機会が多く与えられます。平和の季節としての夏の始まりは、6月23日の沖縄での戦争終結の日です。そこからはじまり、8月6日と9日の広島・長崎の原爆忌、そして終戦記念日である8月15日までの間、わたしたちは過去の歴史を振り返り、平和を求めて祈り、行動します。

今年の4月、日本の司教団はアドリミナの聖座訪問でローマに出かけ、司教一同で教皇様にお会いしました。日本の教会の様々な出来事について教皇様に報告する中で、沖縄、那覇教区のウェイン司教様は、外国の軍隊がほぼ恒久的に他の国の中に軍事基地を設置し、駐留を続けることの倫理性を、教皇様に尋ね、問題提起されました。もちろんそれは沖縄の現実そのものであります。教皇様はこれに対して、外国の軍隊の駐留の倫理性については考えたことはなかったが、重要な課題として是非これから研究してみたいと答えておられました。あの悲惨な戦争の現実から79年が経過しても、今なお、平和のための武力での防衛は維持強化され、結果として平和は実現していません。

今年の6月23日、沖縄慰霊の日にあたり、ウェイン司教様は、教区に向けた平和メッセージを発表されました。そこにこう記されています。

「平和・共生・協調の理念は、すべての人の共通の普遍的な願いであるはずなのに、同じ理念を目指しながらも、一方は他者の存在を必要とする立場から『対話』を選びますが、他方では同じ平和を理由にして、自己防衛のためにと『武力』を選択しています」

ウェイン司教様は、まったく同じ「平和・共生・協調」という理想を掲げながらも、人間はその立場によって、「対話」と「武力の行使」という全く異なる道を選択するのだということを指摘されています。「自分達の安心・安全」だけを中心に平和を考える利己的な姿勢に立つ場合、武力の行使を放棄して対話を選択するのではなく、平和を守るために必要だという理由で、暴力の行使を容認してしまう。それこそは、すなわち、平和を守るために平和を打ち壊すような状況を生み出しているのだと、メッセージの中で指摘されています。

仮にひとり一人のいのちを守ることが最優先であると考えるのなら、武力の行使こそは、なんとしてでも避けるべきですが、実際にはそのような考えは非現実的だと批判されることもしばしばあります。もちろん国際関係の現実を見るならば、国家間の関係が単純には割り切れないものであることは当然です。しかしながら、近年の日本の周囲の情勢を念頭に、防衛のための武力を強化することは平和維持に不可欠だという機運が醸成されている状況は、神の与えられた賜物であるいのちを守るという教会の立場からは、平和を求める本来の道ではありえないことを、常に念頭に置かなくては成りません。

いまわたしたちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、いのちを暴力的に奪い去る出来事で彩られています。いのちに対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。ロシアによるウクライナへの攻撃で始まった戦争は、2年半が経過しても終わりへの道が見えません。パレスチナとイスラエルの対立は泥沼化し、ガザでは三万七千人を超える人たちのいのちが奪われています。アジアにおけるわたしたちの隣人の状況を見ても、ミャンマーではクーデター後の混乱はまだ続いており、すでに3年を超えて、平和の道筋は見えていません。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、混乱が続き、多くの人が命を落としました。

ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。

そう考えるとき、平和とは単に戦争がないことではないと気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。いまの世界に神の平和は実現していません。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。

賜物であるいのちに対する暴力を行使し、神の秩序の実現を阻害しているいう視点から現実を見るとき、そこには戦争を越えてさらに多くの現実が見えてきます。

環境破壊と地球温暖化によって、長年住み慣れた地を追われる人たち。戦争や紛争の結果として故郷を離れざるを得ない難民や国内避難民。いのちの尊厳をないがしろにする状況の中で生きざるを得ない人たち。思想や信仰や生活のあり方の違いによって社会から排除され、存在を無視されている人たち。様々な口実で暴力的に奪われていく人間のいのち。ここで指摘することが適わないほど、さらに多くのいのちへの暴力行為があります。それらすべては、平和の課題です。ひとりのいのちがその尊厳を奪われようとしている現実は、すべからく平和の課題です。神の賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、徹底的にその尊厳を守られ、希望を持って生きられなくてはなりません。

教皇様は、2017年に、それまであった難民移住移動者評議会や開発援助評議会、正義と平和評議会など、社会の諸課題に取り組む部署を統合し、「人間開発」という名称で一つの部署にされました。この「人間開発」という名称の前には、「インテグラル」と言う言葉がつけられています。日本語では「インテグラル」を「総合的」と訳しています。「総合的人間開発」を担当する部門です。

教皇様が「ラウダート・シ」を2015年に発表されたとき、第四章にこう書いておられます。

「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸課題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています(137)」

現代社会にあってすべての出来事は複雑に関係しており、社会で起こる現実の出来事は複雑さを極め、いのちの危機はシングルイシューでは解決することができなくなっています。どうしてもインテグラル・総合的な視点が不可欠です。いまわたしたちの平和の活動には、インテグラルな視点が不可欠です。簡単に善悪と決めつけ、すべてが分かったような気になっているのがいまの社会なのかもしれません。しかし、人間が生み出す現実は、当たり前ですが、そんなに単純ではありません。

平和について考えるいま、世界の様々な現実を目の前にして、総合的・インテグラルな視点を持ち続けながら、すべてのいのちの尊厳をまもるための道を見いだしていきたいと思います。

 

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