2024年ガーナへの旅:その7
ガーナ滞在の六日目です。
8月11日の日曜日。この日は、前日に司祭叙階されたばかりのダニエル・ナー神父様の初ミサに参加するために、ダニエル・ナー神父様の故郷であり、わたし自身が1986年から1994年まで働き、主任も務めていた、オソンソン村ルルドの聖母教会へ出かける日です。
前晩は、オソンソン村のある東州の州都であるコフォリデュアの教区司牧センターに日本からのグループは宿泊し、わたしは司教館に泊まりました。上の写真は、その司教館で、ジョゼフ・アフリファ・アジクム司教様と。1992年に東州がアクラから独立してコフォリデュア教区になったとき、司教は先日登場したケープコーストのバックル司教でしたが、アフリファ司教様はその司教総代理、そしてわたしは司教顧問のひとりとして、一緒に働きました。その後、バックル司教がアクラ大司教に転任して、後任としてアフリファ司教が誕生。2017年12月のわたしの東京での着座式にも、おいでくださいました。
その昔わたしが働いていた頃に、この司教館の土地を購入してあるのは知っていましたが、その頃は何もない林の中でした。司牧センターが建っているところは、全く地理が把握できませんでした。しかもその昔、夜に移動中に泥沼の深みにはまって車が抜け出せなくなり、神言会の運営する技術学校まで延々と歩いてブラザーたちの助けを求めに行ったあの荒れ果てた未開地のような道路が、中央分離帯付きの立派な片側二車線道路に変身していたのには、感動させられました。
町外れの丘の上に立つ聖ジョージカテドラルから見たコフォリデュアの町の風景も大きく変わり、とにかく町全体が拡大していました。
そのコフォリデュアからオソンソン村まで距離にして40キロほど。その昔はこの40キロに車で2時間かかっていましたが、いまはどうでしょう。オソンソン村から一番近い病院がコフォリデュアにしかなかったので、この道を、病人を乗せて、のろのろと穴ぼこやら何やらを避けながら走ったことを思い出しました。
今回は、なんと1時間でこの道を制覇。しかも一番懸念していた最後のオソンソン村直前の峠道付近は、なんと道を治す工事中で、四輪駆動ではない車でも、さっと通過です。治す工事と行っても、砂利をまいてグレーダーで表面を削っているだけのことですが、それでもありがたい。
9時に初ミサと言われていましたが、8時過ぎにはオソンソン村に到着。オソンソン村の中心にある交差点で待ち構えていた、その昔侍者をしたり司祭館の手伝いをしてくれていた少年がいまや高校の校長先生になっていて、彼の運転する公用車に乗り換えて、ドラムやトランペトの若者たちと、クリスチャンマザーズ(教会の婦人会全国組織:青のユニフォームが特徴)に先導されて丘の上の教会まで。
ここはこの地区の聖母巡礼所になっています。1950年代に宣教師が造成したルルドを、その後の司祭たちが大きく改造して、いまやルルド前には祭壇が設けられ、野外ミサができるようになっていました。わたしの前任者のオーストリア人司祭が、ルルドの前に大きなシェッド(屋根)をかけ、わたしが来てから12月8日前後のルルドの祭りを、一晩の行事から金土日の三日間の行事に変え、最初のステージを作りましたが、いまやとても大きく改変され発展していました。
またルルドの周りの山も切り開かれて、十字架の道行きなどが設けられています。この地域の聖母巡礼地として定着してきたことは、大きな喜びです。わたしがいた当時に建設した司祭館も、きれいに改修され、新しい部屋が加えられていたり、天井が張り替えられていたりしましたが、ここで暮らした当時を思い起こし、懐かしい気持ちで一杯でした。そして30年以上たってもさらに美しく使ってくれていることに、感謝でした。
ミサは、同じくこの教会出身で、いまは東京の目黒教会で働く神言会のマーティン・デュマス神父様が司会進行をして(写真下)、新司祭ダニエル・ナー神父様が司式。神言会の管区長や他の司祭も参加して、盛大な初ミサが始まりました。
聖歌隊はオソンソン村だけでなく、近隣の教会からも加わり、30年以上前と変わらぬ笑顔の若々しいメンバーもちらほらいて、懐かしさに満たされました。わたしの担当は、説教です。都合5時間かかった初ミサが、9時を少し回って、始まりました。
続く
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