イエズス会叙階式・ラテン語ミサ・神田教会150周年
9月14日の土曜日、イエズス会では司祭叙階式が行われ、麹町教会で、パウロ山内豊神父様が誕生しました。(写真上中央。向かって左はイエズス会日本管区の佐久間管区長様)
同じ叙階年クラスでコンゴ出身の会員がイエズス会にはおられますが、そちらは、8月初めに、コンゴのルブンバシで、同じくイエズス会員でかつて上智大学で働いていたルクセンブルグのオロリッシュ枢機卿様が叙階式を司式されたと伺いました。
山内新司祭はイグナチオ教会で土曜学校のリーダーを務めているとのことで、叙階式ミサには聖堂の一番前に子どもたちが座り、長い叙階式でしたが、最後までしっかりと参加して山内神父様の誕生をお祝いしていたのが印象的でした。
山内豊神父様、イエズス会の皆さん、おめでとうございます。これからの活躍を期待しています。
翌9月15日の午後、聖心女子大学の聖堂を会場に、ラテン語でのミサを司式いたしました。これは、日頃からグレゴリオ聖歌を学んでおられるいくつかの聖歌隊グループが、毎年イエスのみこころの意向ミサを捧げているとのことで、以前からご依頼をいただいていましたが、わたしのスケジュールの関係で、この日の午後となりました。
アクション同志会の主催するラテン語のミサも一年に一度カテドラルで捧げられますが、そちらは今年はこれから11月9日の土曜日ですが、それとはまた別の意向ミサです。わたしがラテン語ミサを歌えるということでご依頼をいただきましたが、実はコロナ感染以降、その後遺症なのか喉が本調子ではなく、折に触れてはボイストレーニングなどしているのですが、だんだんと高い音が出なく成ってきました。高い音で歌い続けるのはだんだんと難しくなりつつありますが、グレゴリアンのミサは、基本的に無伴奏ですので、喉の調子に合わせて少し低めに始めてもなんとか皆さんに繋がるところもあります。せっかく身につけたことですから、生かし続けていきたいと思っています。当日は、聖堂に一杯の方々に集まっていただきました。
築地教会と並んで東京教区の最初の小教区の一つである神田教会も、今年で150周年を迎え、9月16日午前中に、記念感謝ミサを捧げました。当日は、歴代の主任司祭経験司祭を始め、近隣の麹町や築地の司祭、またすぐ近くにあって長年の協力関係にある暁星学園のマリア会司祭など多くの司祭が共同司式に集まりました。天気が心配されましたが、ちょうどミサのはじめ頃から雨は上がり、ミサ後に中庭で行われた祝賀会も天気に恵まれました。準備を進めてくださった現在の主任司祭である立花神父様はじめ、神田教会のみなさまに心からお祝いと感謝を申し上げます。
以下、神田教会150周年記念感謝ミサの説教の原稿です。同時期に創設された築地教会と重なるところもあるのは、歩んだ歴史背景が同じですので、ご容赦ください。
カトリック神田教会創立150周年感謝ミサ
2024年9月16日日本における再宣教のために、宣教師たちが福音をあかしする活動を再開してから150年以上が経過しました。大浦天主堂での、潜伏キリシタンの方々による「サンタマリアの御像はどこ」というプティジャン神父への問いかけによって、日本のキリスト教が息を吹き返したのが1865年3月17日。159年前の出来事です。
聖母の導きで信徒の存在が明らかになったそのときは、まだ明治にもなっていません。その後、あらためて起こった厳しい迫害の出来事を経て、キリシタン禁制の高札が撤去されたのは、1873年であって、神田教会が誕生した時代の背景は、キリスト教にとって希望と不安と絶望が入り交じった、困難な時代でありました。
それから150年がたったいま、現代社会の視点からその当時の状況を推し量り、現代の価値観でその評価をすることは適切ではありません。時代の背景や、キリスト教に対する評価、外国人を取り巻く社会環境などなど、今の時代からは考えられないような困難があったことでしょう。福音を生きそれを具体的にあかしして伝えることは宣教師の使命ですが、それを果たすにあたっての当時の困難はわたしたちの想像を絶するものであったと思います。東京に福音の種を再びまいた当時の宣教使たちの活躍に、心から敬意を表したいと思います。
また神田教会誕生の時代、宣教師とともに福音をあかしし、多くの人を神の救いに与らせるために招いた多くの信仰の先達の働きに心から感謝したいと思います。
150周年を迎えたいま、東京教区のパイオニアとも言うべき神田教会の、現代社会にあって果たしていく使命は一体なんでしょうか。
この数年間、世界は歴史に残るようないのちの危機に直面してきました。例えば戦争のように、人間自身が始めたことであれば、それが可能かどうかは別として、人間はそれを止める方法を知っています。しかし今回の危機の原因である感染症はそうではない。暗闇が深まった結果は何でしょうか。それは自分の身を守りたいという欲求に基づく利己主義の蔓延と、先行きが見通せない絶望の広まりであって、絶望は世界から希望を奪い去りました。
わたしたちのいのちは、創世記に記されているように、「互いに助けるもの」となるようにと創造されました。すなわち、互いに支え合うところにいのちを生きる希望は生まれます。いのちの危機という闇に落とし込まれたときにこそ、互いに支え合い、助け合わなければなりません。しかし、ミャンマーのクーデターやウクライナでの戦争、そしてガザでの紛争などなど、世界の闇がさらに深まるような出来事が続き、わたしたちは、自分の身を守りたいと、利己主義を深め、同時に希望を失っています。
いま世界に必要なのは、この暗闇を打ち破る光であります。希望の光です。いのちを生きる希望の光です。互いに助け合う連帯の心です。
教皇様が、今年のクリスマスから一年間にわたって行われる聖年のテーマを、「希望の巡礼者」とされたのは、いまの世界の現実を見たときに必然でもありました。まさしくこの絶望の闇を打ち破る希望を生み出すために、教会こそが、世界に希望を告知する存在として巡礼者であるべきだと考えられたからではないでしょうか。
災害や紛争など緊急事態が発生したとき、例えば教会ではカリタスジャパンなどが支援のために募金をします。必要な物資を集めます。災害直後に、または紛争の中でいのちの危機に直面している人たちに、今日を生きるために必要な物資を提供することには大きな意味があります。物質的援助によって、具体的に人間の命を救うことが可能です。
しかし希望はそうはいきません。いのちを生きる希望を、誰かがどこからか持ってきて、絶望に打ちひしがれている人に提供することなんてできません。希望は「もの」ではないからです。希望は、人の心の中から生み出されます。絶望している人が、心に希望を生み出すことができるのは、それを促し助けてくれる人との出会いです。ともに歩んでくれる兄弟姉妹との出会いが不可欠です。出会いと支え合いは、人の心に希望を生み出す触媒の役割を果たします。
現代社会にあって、教会共同体に与えられた重要な使命の一つは、出会いと支え合いによって、心に希望を生み出す源となることであります。
わたしたちひとり一人には、イエスとの出会いの中で生まれるいのちを生きる希望を、多くの人に分け与える務めがあります。そのためには、わたしたち自身がイエスとの個人的な出会いの中で希望を心に抱き、共同体に生きることで互いに支え合い、連帯のうちにその希望を燃え輝かせることが不可欠です。自分が希望を抱いていなければ、他者の心に希望は生まれません。
教会は今、シノドスの道を歩み続けています。今回のシノドスはシノドス性について話し合っています。つまり教会とは一体何であるのか、教会が教会であるためにはどうしたらよいのか、聖霊は教会をどこに導いているのか、などについて、話し合っています。話し合っているだけでなく、祈りのうちに分かち合っています。どうしてそうするのかと言えば、それを通じて、教会に働き続けている聖霊の導きを知りたいと考えているからです。教会の言葉でそれを、識別すると言います。いま必要なのは、多数決でものを決めていくことではなくて、共に耳を傾け、分かち合い、祈り会う中で、聖霊の導きを識別することであります。
教会の進むべき道を一人で識別することはできません。「わたし」の進む方向ではないからです。それは「わたしたち」が一緒に進む方向ですから、皆で知らなくてはなりません。だから教皇様は、そういう、皆で祈りのうちに方向性を見極める教会へと、全体が変化して、それがこれから先まで教会のあり方としてこれから定着することを望んでおられます。
先ほど朗読された福音で、イエスは神殿の境内に入り、そこにいる人たちを「ご覧になった」と記されています。そしてその有り様が御父の思いとあまりにもかけ離れているために、鞭を振るって羊や牛や両替商を追い出したとあります。神殿の光景を目の当たりにして、それこそ悲しみと怒りの思いをいだき、そのような過激な行動に出たのかもしれません。
いま主イエスが、150年を迎えた神田教会に入ってこられ、わたしたちの有様を見て、どのように感じられるのでしょう。わたしたちの共同体を見つめる主イエスの目を意識したいと思います。
神田教会が150年を祝うこの年、教会は大きな体質改善を目指しています。一緒になって歩み続ける教会でありましょう。互いの声に耳を傾け、互いをその違いのままに尊重し、一緒になって助け合いながら、祈りのうちに歩む共同体になっていきましょう。助け合い支え合う希望を生み出す教会共同体であり続けましょう。
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