週刊大司教第187回:待降節第一主日C
典礼の暦では新しい一年が始まり、今年の12月1日は待降節第一主日です。
2025年1月1日に統合される千葉寺教会と西千葉教会は、典礼暦が新しくなる今日から、一緒に典礼に与ることになり、新しい出発への感謝ミサが捧げられます。
小教区の統合は簡単に決めることでもなく、簡単に実現すべきことでもありません。それぞれの小教区共同体には、その創設から現在に至る歴史があり、そこには多くの方が関わってこられ、共同体を生み出し育て上げるために尽力された事実が残っています。千葉県においては、特にコロンバン会の宣教師の皆さんと、協力された信徒の方々の多大な労苦と挑戦の結果として、現在の小教区教会が存在しています。
今回の統合にあたって、尽力された多くの方々の様々な形での捧げに、心から感謝したいと思います。またこれまで、特に千葉寺教会の維持管理発展のために貢献してくださった多くの方々のご苦労に、心から敬意を表し、感謝申し上げます。
小教区共同体は単なる組織体ではなくて、神の民の集まりとして生きた共同体です。キリストにおける共同体は「二人三人が、わたしの名の下に集まるとき、わたしはそこにいる」と約束された主の言葉に従い、二人のキリスト者がいるところから始まるからに他なりません。その意味で、小教区教会という拠点の建物にだけキリスト者の共同体は存在するわけではなく、様々なところに様々な形で共同体は存在しています。その意味で、このたび一つの拠点がなくなるという事実を踏まえ、小教区という包括する共同体に様々な理由から加わることのできない方々の存在に、心を向けたいと思います。新しい小教区の誕生が、忘れられるキリスト者を生み出すことのないように、心配りたいと思います。
以下、本日午後6時配信の週刊大司教第187回、待降節第一主日のメッセージです。
待降節第一主日C
週刊大司教第187回
2024年12月1日
教会の典礼の暦は、待降節から新たに始まります。典礼の暦のはじめは、降誕祭に向けた準備のときである待降節です。待降節はその名の通り、降誕を待つときであり、特に信仰における「待つ」ということの意味を考えさせられる季節でもあります。この待降節の前半は、私たちの救いの完成の時、すなわち世の終わりに焦点があてられ、後半は救い主の誕生を黙想するように私たちを招きます。どちらの部分でも、その黙想を通じて、いまをどのように生きるべきなのかを信仰の視点から考えるときとなっています。ルカ福音において、「放蕩や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と弟子たちに語られる主イエスは、「いつも目を覚まして祈りなさい」と促します。すなわちわたしたちの信仰生活の姿勢において「待つ」ことは、ただ欲望に身を任せてだらけていることではなくて、何かに注意を向け続け、常に即応体制にあることを意味しています。
「目を覚まして祈りなさい」という言葉は、単に覚醒状態であり続けることを促しているのではなく、祈りのうちに「時のしるし」を読み取り、主が命じられた生き方を続ける努力を求める言葉です。時のしるしを読み解くことは、一人でできることではありません。先日も触れましたが、現代世界憲章によれば、それは教会共同体全体の使命であり、まさしく教会が現代社会に預言者として存在することを意味しています。まさしくシノドスの道が、一人で孤独に歩む道ではなく、皆で支え合い耳を傾け合いながら、能動的に歩む道であり、さらにそれは祈りのうちに共同で聖霊の導きを識別することへと繋がります。わたしたちは、ただ座して何かが起こるのをじっと待っているのではなく、常に前進を続け、共に祈りのうちに識別を続けながら、行動的に主の時を待たなくてはなりません。
様々な困難な現実が展開し続ける世界の現実にあって、わたしたちはどのように行動するべきなのでしょう。「ときのしるし」を読み取るために、まさしくシノドス的な教会であり続けることが不可欠です。「神に喜ばれる」生き方を見出すのは、ひとり個人の務めではなくて、教会共同体に与えられた使命でもあります。
わたしたちの歩みは、漠然とした旅路ではありません。教皇様は聖年の開始を告知する大勅書「希望は欺かない」にこう記しています。
「キリスト者の人生は、目的地である主キリストとの出会いを垣間見せてくれるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会をも必要とする旅路だということです(5)」
わたしたちが目指すのは、ひとり自分だけが品行方正に正しく生きることではなく、共に旅路を歩みながら、希望を高く掲げ、それを言葉と行いで証しし続ける希望の巡礼者の旅路を歩むことです。
| 固定リンク | 8