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2024年12月29日 (日)

聖年開幕ミサ@東京カテドラル

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聖年が始まりました。教皇様は12月24日の夜の主の降誕のミサの始めに、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を開き、26日の聖ステファノの祝日には刑務所を訪れてミサを捧げ、刑務所で聖年の扉を開かれました。そして本日聖家族の主日に、世界中すべての教区カテドラルで、聖年開幕ミサを司教が捧げるようにと指示をされています。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂でも、本日、聖家族の主日の午後3時から、聖年開幕のミサを捧げました。ルルドの前に集まり、そこから大聖堂正面扉まで行列をすることから始まりました。

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聖年に関するお知らせは、中央協議会のこちらのホームページをご覧ください。また東京大司教区からは、各小教区を通じて巡礼のなどの手引きの小冊子を配布しております。

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以下、本日の聖年開幕ミサの説教原稿です。

2025年聖年開幕ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年12月29日

教皇さまは12月24日に、バチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉を開かれ、聖年を開始されました。世界中の各教区の司教座聖堂では、本日聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。今回の聖年は、来年2025年の12月28日の日曜日に、各教区での閉幕ミサが捧げられ、翌2026年1月8日に、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が閉じられることで閉幕となります。

特別聖年などの際には、各地方教会にも聖年の扉を設けるように指示が出ることもありますが、今回はローマの四大バジリカの扉だけが聖年の扉とされています。

聖ペトロ大聖堂に続いて、本日12月29日には教皇様のローマ司教としての司教座であるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、続いて2025年1月1日の神の母聖マリアの祭日に、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、最後に1月25日にサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂の聖なる扉が順番に開かれます。

聖年は、旧約聖書のレビ記に記された「ヨベルの年」に基づいています。50年ごとに、耕作地を休ませることや負債を免除すること、奴隷の解放などを行うようにと、神は民に命じています。それに倣って教会は、50年ごとに聖なる年を設け、神のいつくしみをあらわす「免償」を与える特別な機会としてきました。現在ではより多くの人がその恵みを受けることができるようにと、25年に一度、聖年を行うことになっています。

なお免償とは直接的な罪のゆるしではなくて、カテキズムには「罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるし(1471)」であると記されています。教皇庁内赦院は、「免償のたまものは「神のあわれみがいかに無限であるかを分からせてくれます。古代において、「あわれみ(misericordia)」ということばは、「免償」ということばと互換性のあるものだったのは偶然ではありません。なぜなら、まさに「免償」は、限界を知らない神のゆるしの十全さを表そうとするものだからです」と、今回の聖年の免償について記した文書で述べています。

ご存じのように東京教区では小冊子を作成し、これらのポイントについての解説を掲載し、この聖年の間に勧められる巡礼の指定教会を記していますので、是非手に取って、ご活用ください。

さて、聖年のテーマは、「希望の巡礼者」とされていますが、そこには二つのテーマ、すなわち「希望」と「旅路を歩む」という、現代社会に生きる教会にとって重要な二つのテーマが示されています。

聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきた全人類を表現しています。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を示しています。先頭の人物は十字架をつかんでいます。足元には人生の旅に立ち向かう困難の波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は「いかり」となり、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないように支えてくださっていることを象徴するこのロゴマークは、まさしくいま教会が追い求めているシノドス的な教会のあり方を象徴しています。

教皇さまは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています(1)」と記し、この世界を旅し続けるわたしたちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されます。同時に教皇さまは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。

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この数年間、世界各地でいのちに対する暴力が激しさを増しています。ミャンマー、ウクライナ、聖地ガザなどなど。神から与えられた賜物であるいのちは、幼子が暗闇の中に輝く希望の光として誕生したように、わたしたちの希望の源です。その希望の源への暴力は、どのような形であれゆるされてはなりません。いのちはその始めから終わりまで、例外なく守られなくてはなりません。いのちに対する暴力の広がりは世界から希望を奪い去り、絶望の闇が支配しています。暗闇の中を孤独のうちに歩いているわたしたちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在が必要です。

この聖年において、教会はこの二つ、すなわち希望と巡礼者を掲げて、暗闇の中に小さく輝く幼子のように、暴力と孤独が支配する闇の中で、希望の光を掲げ、ともに支え合いながら道を歩もうと呼びかけています。

教皇さまは、「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神のことばが、その根拠を見つけるのを助けてくれます(1)」と、人となれらわたしたちのうちに住まわれた神のみことばに耳を傾け、希望を見いだすよすがとするように勧めておられます。
 果たしていまのわたしたちの教会は、希望を生み出しているでしょうか。暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。希望の光を求めて訪れる人たちに、安住の地を提供しているでしょうか。絶望と不安の闇にさまよう多くの人を忘れることなく心を向け、光を提供するものとなっているでしょうか。振り返るときにしたいと思います。

10月の末に閉幕したシノドスは、2021年に始まって3年間にわたり、教会のシノドス性、特に宣教するシノドス的な教会となる道を模索してきました。

教皇様は10月26日、最終文書の採択が終わった直後の総会でスピーチされ、「わたしたちは世界のあらゆる地域から集まっています。その中には、暴力や貧困や無関心がはびこっている地域があります。一緒になって、失望させることのない希望を掲げ、心にある神の愛によって結ばれて、平和を夢見るだけでなく全力を尽くして、平和が実現するよう取り組みましょう。平和は耳を傾け合うこと、対話、そして和解によって実現します。シノドス的教会は、ここで分かち合われた言葉に具体的な行動を付け加えることが必要です。使命を果たしに出かけましょう。これがわたしたちの旅路です」と呼びかけられました。

いま世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。

希望は、どこからか持ってこられるような類いのものではなく、心の中から生み出されるものです。心の中から希望を生み出すための源は、共同体における交わりです。互いに支え合い、ともに歩むことによって生まれる交わりです。少ない中からも、互いに自らが持っているものを分かち合おうとする心こそは、交わりの共同体の中に希望を生み出す力となります。希望の巡礼者こそは、今の時代が必要としている存在です。

 

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2024年12月28日 (土)

週刊大司教第190回:聖家族の主日

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2025年聖年は、12月24日の夜半ミサにおいて教皇様が聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を開いたことによって始まりました。世界中の司教座聖堂では、聖家族の主日に、聖年の開始を告知するミサを捧げるように定められており、東京教区では12月29日午後3時、聖家族の主日の午後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、みさをささげます。なお当日は、ミサの開始前に外に集まり、一緒になって入堂する儀式が行われる予定ですので、どうぞご参加ください。(下の写真は、今回開かれた聖年の扉。撮影は10月のシノドスの最中です)

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司祭団は、教区司祭と宣教会司祭、そして修道会司祭がともに集い、一年の感謝の祈りを捧げ「テ・デウム」を歌うことを習わしとしており、クリスマス後から大晦日までの間に、それぞれの教区の事情に応じて行われています。東京教区では、主の降誕の翌日に行われてきましたので、今年も12月26日の午前11時に司祭団が東京カテドラル聖マリア大聖堂に集まり、聖体賛美式を行い、一年の締めくくりに感謝を込めて「テ・デウム」を歌いました。昨年まではラテン語で歌っていましたが、ラテン語で通して歌える司祭が減ってきたこともあり、今年からは日本語で歌うことにいたしました。

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今年はクリスマス頃にかけて帰天される信徒の方が相次いだようで、26日に葬儀が入った司祭も多数おられ、全員の参加とはなりませんでしたが、多くの司祭、とりわけ教区司祭だけではなくて修道会や宣教会の司祭たちが参加してくださったことに感謝したいと思います。

東京教区における活動は、教区司祭団、修道会、宣教会がそれぞれ独自にしているのではなくて、一緒になって司祭団を形成して取り組んでいることを実際に感じることができますので、様々な国出身の様々な共同体の司祭が集まってくださったことに感謝します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第190回、聖家族の主日のメッセージ原稿です。

聖家族の主日C
週刊大司教第190回
2024年12月29日

皆様、主の降誕おめでとうございます。

クリスマスにつきものの馬小屋の飾りでは、誕生した幼子が飼い葉桶に寝かされ父ヨセフと母マリアの愛のまなざしによって育まれ守られているさまが描かれています。受肉した神のみ言葉は、家族のうちに誕生し、家族によって守られ、育まれました。降誕祭直後の主日は、このいのちを育んだ家族を黙想し、家族への祝福を祈る日であります。

聖家族は、驚くべき神の言葉に従順に従い、その御旨の実現のために人生を捧げられたヨセフとマリアという偉大な二人と、その結果として誕生した神のみことばの受肉によって成り立っています。すなわち、神による祝福は、神のみ旨への従順によってのみもたらされることが示されています。

ルカ福音は、イエスが十二歳になったときの聖家族の旅路を記しています。過越祭のためにエルサレムに上ったとき、その帰路、少年イエスがエルサレムに残り、家族と離れてしまったときの逸話です。

三日目に見出されたイエスは、自らが神の子であることを明示され、真の家族は神のもとにあることを示されますが、同時にイエスは、神の掟を守る二人から離れることなく、そのもとにとどまるために、両親と一緒に旅を続けます。神のよって祝福された人生は、神と共に歩む旅路であります。聖家族の旅路は、神のことばと共に亜歩む巡礼の旅路でありました。

教皇さまは12月24日に聖年の扉を開かれ、聖年を開始されました。世界中の各教区の司教座聖堂では、聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。25年に一度の聖なる年が始まります。

この聖年のテーマは、「希望の巡礼者」」とされていますが、そこには、希望というテーマと旅を歩むというテーマの二つ、現代社会に生きる教会にとって重要な二つのポイントが示されています。

教皇さまは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています(1)」と記し、この世界を旅し続けるわたしたちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されます。同時に教皇さまは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。教会は絶望ではなくて、希望を生み出す源となることが求められています。

教皇さまは、「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神のことばが、その根拠を見つけるのを助けてくれます(1)」と、人となれらわたしたちのうちに住まわれた神のみことばに耳を傾け、希望を見いだすよすがとするように勧めておられます。教会は希望を生み出しているでしょうか。暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。希望を生み出す旅路を、この一年続けて参りましょう。

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2024年12月24日 (火)

主の降誕、夜半のミサ

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主の降誕のお喜びを申し上げます。

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、12月24日は午後5時(アンドレア司教様司式)、午後7時半(小池神父様司式)、午後10時(わたしが司式)にミサが捧げられました。どのミサも多くの方が参加し、祈りを捧げてくださいました。

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また、クリスマスにあたり、多くの方からカードやメッセージをいただいています。特に今年は、例年と比べても数が増えています。みなさまの温かいお言葉に感謝申し上げます。いただいたカードは写真のように、教区本部のわたしの執務室に飾ってあります。感謝です。

以下、本日午後10時の夜半のミサの説教原稿です。

なお明日12月25日は午前10時からわたしが司式します。こちらは中継はありません。

加えて、次の日曜日、12月29日午後3時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、2025年聖年の開幕ミサをわたしの司式で捧げます。ご参加いただき、祈りの時をともにしていただければ幸いです。こちらのミサはYoutubeで中継配信される予定です。一年間にわたる、25年に一度の聖年が始まります。

主の降誕(夜半のミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年12月24日

暗闇に包まれたベトレヘムに、主の栄光の光が輝いたと、ルカによる福音はイエス誕生の物語を記しています。

羊飼いたちに現れた天使は、「いと高きところには栄光、神にあれ」と、神を褒め称えた後に、こう続けたと福音は伝えています。「地には平和、御心に適う人にあれ」

全人類に希望を告げるこの言葉が天使から伝えられた地、それをわたしたちは聖地と呼んでいます。聖地という言葉は、近頃は様々なジャンルで用いられ、そこに出かけることを聖地巡礼と呼んだりもするようですが、聖地も聖地巡礼も、キリスト者にとってはイエスの誕生した聖地です。

その聖なる地で一体何が起こり続けているのか。神の御子が誕生した聖地はいま、暗闇と絶望に支配されています。

12月21日の土曜日、教皇様はバチカンで働く枢機卿や聖職者とお会いになった際に、準備された原稿を読む前に、聖地にあるガザ地区での出来事に触れられました。エルサレム総大司教のピッツァバラ枢機卿様がクリスマスのミサをささげるために、ガザへ入ることが事前に合意されていたにもかかわらず、その直前にガザは爆撃され、5人の子どもたちを含む少なくとも22名が命を奪われました。このことに触れた教皇様は、「これは戦争なんかではなく、残虐行為だ」と強く批判され、特に子どもたちへのために心を痛めていることを述べられました。

一昨日の昼の祈りでは、「苦しめられているウクライナでは都市が未だに攻撃にさらされ、時に学校や病院や教会が破壊されています。武器の音がやみ、クリスマスの歌が響くことを祈ります。様々な前線で、クリスマスにあたって戦闘がやむことを祈りましょう。ウクライナで、聖地で、中東全域で、世界中で。そして悲しみのうちにガザのことを考えています。残虐にさらされ、子どもたちにマシンガンの銃撃が浴びせられ、学校や病院が爆撃されている。何という残虐さでしょう」と、呼びかけられました。

しばしば報道されていることですし、わたし自身も直接教皇様から伺いましたが、教皇様はガザでの戦闘が始まってから可能な限り毎日、夜になるとガザの教会に電話をかけ、主任司祭から状況を聞き取っておられますので、その現状が、いかに暴力的であり絶望的であるのかをよくご存じです。

羊飼いたちに現れた天使は、「民全体に与えられる大きな喜び」の目に見えるしるしは、華々しく輝く光だったり、驚くような出来事ではなくて、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であると告げました。誕生したばかりの小さな命です。暗闇に弱々しく輝く小さな光です。

しかし暗闇が深ければ深いほど、小さな光でも輝き渡ります。いま、深い暗闇に覆われ絶望が支配するこの世界に、必要なのは小さな希望の光であります。残虐な暴力は自然に発生するものではなくて、人間の意思によって生み出されています。神からの賜物である命をいただいている人間同士が、その命に対して暴力を働く。その暴力的行為そのものが、わたしたちを取り巻く闇を深めます。

小さな希望の光は、ろうそくの炎のように、吹き荒れる暴力の巻き起こす風で、あっという間に吹き消されてしまうような弱々しい存在です。ですから、必死になって守られなくてはならない。飼い葉桶に寝かされた幼子が、ヨセフとマリアの保護を必要としたように、希望の光は皆によって支えられ守られなくてはならない。

暴力が吹き荒れる暗闇にいると、不安のあまり身を守るために、自分も暴力を用いなければならないという思いに駆られます。暴力の行使を正当化し肯定しようとする誘惑に駆られます。でも絶望を打ち破り暗闇を吹き払う希望の光は、小さく守られなくてはならない炎です。すでに吹き荒れている暴力の嵐に、さらに風を加えることほどおろかなことはありません。

希望は、衣食住のように、外から持ってきて与えることはできません。希望は、それを失い、絶望に打ちひしがれている人の心の中に生み出されなくてはなりません。小さくても良い、か弱くても良い。

でもこの小さな炎は自然には生まれては来ません。希望という小さな炎は、ともに歩み支えてくれる誰かとの出会いの中で心の内に生まれます。飼い葉桶に寝かされた幼子がヨセフとマリアに守られたように、心にかけてくれる人との出会いが、誰かがわたしを守ってくれているという思いが、心に希望を生み出します。だからわたしたちは、暴力の闇にさいなまれ不安に打ち震えている人たちを、決して忘れてはなりません。

平和とは、単に闘いがないことではありません。天使の言葉が示しているように、「御心に適う人」のもとに平和は実現します。つまり平和は、神の思いを実現しようとするところに誕生します。神は何を求めているのか。飼い葉桶に寝かされた幼子をヨセフとマリアが守り育てたように、わたしたちにも、小さな希望の光を守り育て、それをひとりでも多くの人に伝え、小さな希望の炎が多くの人の心にともるようにすることです。小さな希望の光が多くの人の心に宿るとき、この夜を支配する絶望の暗闇は吹き払われます。それが神の平和の実現です。

教皇様は本日12月24日に聖年の扉を開かれ、25年に一度の聖年を開始されます。世界中の各教区の司教座聖堂では、12月29日の聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。

この聖年のテーマは、「希望の巡礼者」」であります。「希望」と「巡礼者」。それこそ今の時代に必要な二つの要素です。暗闇の中を孤独のうちに歩いているわたしたちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在。教会はこの二つを掲げて、暗闇の中に小さく輝く幼子のように、暴力と孤独が支配する闇の中で、希望の光を掲げ、ともに支え合いながら歩もうと呼びかけています。

教皇様は聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」において、「希望の最初のしるしは、世界の平和を求める願いであるべきです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。教会は絶望ではなくて、希望を生み出す源となることが求められています。

いま教会は希望を生み出しているでしょうか。裁きや暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。謙遜に自らを振り返りながら、希望を生み出す旅路を、続けて参りましょう。小さな希望の炎を吹き消さないように努めましょう。

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主の降誕、おめでとうございます。

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クリスマスおめでとうございます。

闇に輝く小さな光、人となられた神の御言葉は、わたしたちの心に希望を生み出す源です。

いのちに対する暴力が吹き荒れ、闇が深まる中で、わたしたちは希望を見いだすことに困難を感じ、そんな中で、絶望に襲われている人も少なくありません。特に、暴力によっていのちが奪われることが毎日の現実としてあるウクライナやガザを初め、東京教区の姉妹教会であるミャンマーや、その他多くの国に生きている方々に思いを馳せます。

神のみことばの受肉による誕生で、光が闇に輝きました。飼い葉桶に寝かされた小さな光です。でも闇が深ければ深いほど、小さな光でも希望の光となります。わたしたちも、その光を受け継ぎ、それぞれの心に希望を生み出し、そしてその希望を多くの人に伝えていきたいと思います。ひとり一人にできることは小さくても、この深い闇の中では、希望の光として輝きます。

どうか良いクリスマスをお迎えください。そして祝福に満ちた年末と年始を過ごされますように。

「みことばの光と聖霊の恵みによって、罪の暗闇と不信仰の夜は消え失せ、イエスの御心がすべての人の心の内に生きますように」

2024年12月24日夜

カトリック東京大司教区 大司教

菊地功枢機卿

 

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2024年12月22日 (日)

枢機卿親任感謝ミサ@東京カテドラル

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12月7日の枢機卿会において、教皇様から枢機卿に親任(公式の教会法の用語では「叙任」)いただいた後、公式に最初に自分の司教座聖堂に入堂する儀式を、12月21日の枢機卿就任感謝ミサ(正式には枢機卿親任祝賀ミサ)の冒頭で行わせていただきました。わたしもアンドレア補佐司教様も、「アビト・コラーレ」と呼ばれる格好をしています。直訳すると「聖歌隊服」ですが、別に歌を歌うのではなく、典礼儀式などの際に着用するものです。枢機卿の場合は、枢機卿会などで教皇様とともに集まる場合にも、着用するように指定されます。

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入堂の際には、司祭と信徒の代表に迎えられ、十字架に接吻の表敬をし、灌水をすることになっています。その後、中央の祭壇前で、しばらくお祈りをいたしました。その間、聖歌隊(イエスのカリタス会のシスター方にお願いしました。「Christus Vincit 」をラテン語で歌ってくださいました。

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ちなみにミサ中に、わたしがその昔、神学生時代に作詞作曲した歌を二つ歌っていただきました。ありがとうございます。一つはよく使っていただいている「主とともに」(聖公会の聖歌集に収録されています)。もう一つは聖体拝領で歌われた「いま、わかつ」。

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ミサには日本の司教団のほぼ全員と、引退されている仙台の平賀司教様もご参加くださり、司教団は二つに分けて司教座側に東京教会管区の司教様たちと前田枢機卿様、反対側に大阪高松、長崎の教会管区の司教様方と、東京教区の司祭評議会評議員の司祭が代表として座りました。それ以外の共同司式の神父様方は、会衆席前方右に集まられました。

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クリスマス前の忙しいときに出席くださった来賓のみなさまには感謝申し上げます。諸宗教関係のみなさま、そして在東京外交団からもご出席いただきました。ありがとうございます。その昔、宣教師として働かせていただいたアフリカのガーナからは、大統領がメッセージをくださいました(上の写真)。これも感謝です。

そして何よりも、教区内外から、多くの信徒・修道者のみなさまにご参加いただいたこと、みなさまの心強いお支えのしるしとして、心より感謝申し上げます。またさらに多くの方がYoutubeの配信でご一緒いただいたり、その後ご覧いただいて、多くのメッセージをいただいております。感謝いたします。

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ミサでは、冒頭で、教皇庁臨時代理大使のモンセニョール・ファブリスが、教皇様からの信任状をラテン語で朗読してくださいました。上の写真は朗読後に、皆さんに、本当に教皇様の書簡があるのだと示しているところです。この書簡の用紙が特別で、多分アイロンでもかけないとまっすぐにならないのかもしれないほど硬質ですが、なんとか押さえて撮影したのが下の写真です。

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すでに何度かお伝えしましたが、ここに私の名義教会名が記されています。San Giovanni Leonardi教会です。今のところ、来年の10月9日に、同教会で着座式を行う予定にして調整中です。最終的に日時が決定したときに、またお知らせいたします。同教会の主任司祭によれば、10月9日は、保護の聖人の記念日なのだそうです。思いのほかローマの中心部から離れているので、訪問するのは簡単ではありませんが、他の枢機卿さんのお話によれば、名義教会は年に一度くらいは訪問することになろうかと思います。新しい住宅地で、子どもが多い教会だと、すでに訪れてくださった日本の巡礼グループの方に伺いました。

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ミサの終わりには、男女修道会代表、司祭団代表、信徒代表など多くのみなさまのご祝辞や花束をいただきました。ありがとうございます。こういうときは司教協議会の会長が司教団を代表して挨拶するのですが、それはいまわたしが務めているので、副会長の梅村司教様にお願いしました。しかも前晩に急にお願いしたにもかかわらず、喜んでお話ししてくださいました。感謝です。その中に、枢機卿の三つの段階のお話があり、わたしも初めて知りました。

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枢機卿には司教枢機卿、司祭枢機卿、助祭枢機卿があり、わたしは司祭枢機卿に任じられています。多くのバチカンの役所で働く枢機卿様や教区を持たない枢機卿様は助祭枢機卿であることは知っていましたが、梅村司教様が語られた歴史的背景によれば、最初はローマ教皇(ペトロの後継者)を周りで助ける助祭が枢機卿になり、その後、ローマの教会の主任司祭が枢機卿に任ぜられるようになり、さらに教会が発展して、ローマ以外の教区の司教が顧問として枢機卿に任ぜられるようになったということです。

以下、感謝ミサでの説教の原稿です。要約筆記をしてくださったみなさん、ありがとうございます。また下にリンクを張りますが、久しぶりに中継をしてくださった関口教会の皆さん、ありがとうございます。そして準備に関わり、当日もスタッフとして働いてくださった多くの方々に、心から感謝申し上げます。

枢機卿親任感謝ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年12月21日

シノドスの第二会期の第一週が終わった10月6日の日曜日、ローマの日本人会のミサが神言会の総本部小聖堂で行われ、司式するために出かけてきました。ミサ後の交流会も終わり、宿舎のあるバチカンのサンピエトロ広場の近くでタクシーを降りると、日曜日の昼の教皇様によるアンジェルスのお祈りが終わり、人の波が広場の外へ向けて移動していました。その波にのまれながら歩いていると、顔見知りの聖年から声をかけられました。「東京の大司教が枢機卿に任命された。おめでとう」

それがすべての始まりでした。その瞬間は信じられませんでしたが、宿に着くとコロンビアの枢機卿さんがロビーにおられ、即座にスマホで映像を見せてくださいました。本当でした。そのときからわたしの人生は大きく変わり、今でもまだその変化に自分自身がついて行くことができずにいます。

人間の人生には、それほど豊かな時間が与えられているわけではありませんが、そこにはそれぞれの喜びがあり、希望があり、涙があり、苦しみがあり、いわばそれぞれのドラマがあります。時に予期しなかったこと、自分では考えてもいなかったことに遭遇することもあります。時に自分が予定したとおりに、また準備したとおりに道が開けることもあれば、全く逆にすべての門が閉ざされることすらあり得ます。自分の人生のために努力をすることは不可欠ですが、同時にそこには自分ではどうしようもないハプニングもつきものです。そのハプニングに、わたし達キリスト者は、しばしば神のみ手がどこにわたし達を導こうとしているのか、識別するためのきっかけを見いだそうとします。

そして今、わたしは、自分の人生の中で今のところ一番のハプニングであるこの任命に、いったいどのような神様の計画があるのか、識別するためのきっかけを必死になって探しています。

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枢機卿への任命が発表された翌日、シノドスの会場にいたわたしの手元に、大きな封筒が届きました。何だろうと思って開けてみると、教皇様からの書簡でした。教皇フランシスコの手紙の特徴は、一番最後のご自分の署名が虫眼鏡でも使わないと読めないくらい小さいことです。教皇様御自身の生きる姿勢を、その小さな署名が表していると言われます。

その書簡は、新しく任命された枢機卿をローマの教会の聖職者として迎え入れる歓迎の内容ですが、その中心には、次のように記されています。少し長いですが、翻訳したものを朗読します。

「かつてアルゼンチンの詩人(フランシスコ・ルイス・ベルナルデス)が十字架の聖ヨハネを特徴づけた三つ姿勢、すなわち「目を上げ、手を合わせ、裸足でいる」を自ら体現するために、あなたが枢機卿としてあらゆる努力をされることを強く勧めます。

あなたの教会への奉仕は、より遠くを見渡し、より広く、より熱烈に愛に生きるために、遙か彼方へと目を向け、心を大きく開くことを必要とするので、「目を上げ」なくてはなりません。十字架の聖ヨハネとともに、キリストの刺し貫かれた脇腹を仰ぎ見て学ぶためです。

教会が最も必要としているのは、福音を告げ知らせることと共に、キリストに従う群れをよりよく牧するためのあなたの祈りですから、「手を合わせ」なくてはなりません。祈りは、私たちの民に対する神の御旨を求め見いだし、それに従うための識別そのものです。

戦争、差別、迫害、飢餓、さまざまな形態の貧困による痛みや苦しみに打ちひしがれている世界のすべての地域の厳しい現実に触れるため、「裸足でいる」ことが必要です。これらの世界の現実は、あなたの大いなる思いやりといつくしみを必要としています。」

このように記された後教皇様は締めくくりとして、「あなたの寛大さに感謝するとともに、「仕えるもの」の称号が 「猊下」の称号を凌駕するようになることを祈ります」と書簡を締めくくっておられます。

教会が宣教するシノドス的な教会であることを求められる教皇フランシスコは、共に支え合い、助け合いながら、力を合わせて祈り続けることで、聖霊の導きを共に識別し、進むべき方向性を見いだす必要性をしばしば強調されています。教皇様の貧しい人や困難に直面する人への配慮は、単に個人的に優しい人だからという性格の問題ではなくて、教会が神の愛といつくしみを具体的に体現する存在であるからに他なりません。従って、教会がともに歩む教会であるのであれば、それは当然、神の愛といつくしみを具体的に示しながらともに歩む教会であって、そこに排除や差別、そして利己主義や無関心が入り込む余地はありません。

教皇フランシスコの前任であるベネディクト16世は、御自身の最初の回勅「神は愛」において、教会における愛(カリタス)の業を重要視され、それが単に人間の優しさに基づくのではなく、信仰者にとって不可欠な行動であり、教会を形作る重要な要素の一つであることを明確にされました。

回勅「神は愛」には明確にこう記されています。

教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げしらせること、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです(25)」

教会は愛である神を具体的に示すものでなくてはなりません。その愛は、単なる慈善活動にとどまらないことは、回勅において、「愛の奉仕」が「神の言葉を告げ知らせること」と「秘跡を祝うこと」とともに、互いに互いを必要とする教会の本質の一部であるという指摘から分かります。つまり、教会の愛の奉仕のわざは、神の福音の実現であり神への賛美の礼拝でもあります。ですから、愛の奉仕のわざは、それを必要とするような社会の現実を変革し、神が望まれる社会を生み出すことへとつながっていかなくてはなりません。そのためにも、聖霊の導きを識別することは重要ですし、その識別の結果として見いだされた方向へ、神の民を導く牧者の存在も不可欠です。

教皇フランシスコは、この度の新しい枢機卿への書簡の中で、その識別に基づいて、神の愛といつくしみを実現し、神の望まれる世界の実現のために、神の民を導く牧者であれと呼びかけておられます。そのよびかけに、忠実に生きるものでありたいと思います。

わたし達は人間の知恵と欲望だけに従って、富と繁栄の世界を築きあげることはできません。わたし達にいのちを賜物として与えてくださった神が望まれる世界を、実現することこそが、本当の意味での、富と繁栄の世界です。世界はハプニングに満ちあふれていますが、その中にこそ、神の望まれる計画への道がしばしば隠されています。共に祈りのうちに神の導きを識別し、互いに支え合いながら、歩みを続けて参りましょう。

あらためて多くの皆様のお祈りと励ましの言葉に感謝し、これからわたしが与えられた役割をふさわしく果たしていくことができるように、皆様のより一層のお祈りをお願い申し上げます。

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2024年12月21日 (土)

週刊大司教第189回:待降節第四主日C


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待降節第四主日です。あと数日で降誕祭となりました。(写真は本日の枢機卿就任感謝ミサ入堂。詳細は後日。)

本日12月21日は、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、午前11時から、わたしの枢機卿叙任(親任)感謝ミサを捧げさせていただきました。これについては別途記します。お祈りくださったみなさま、ご参加くださったみなさま、ありがとうございます。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第189回、待降節第四主日メッセージ原稿です。

待降節第四主日C
週刊大司教第189回
2024年12月22日

待降節も最後の主日となり、まもなく主の降誕の日を迎えます。日々の生活の中でも、クリスマスや年末年始が近づくこの時期、様々な準備に心を裂くことが多いかと思いますが、最後の数日間、主の降誕のお祝いに向けて、霊的な準備も怠らないように心掛けたいと思います。

第四主日に最初に朗読されるミカの預言には、エルサレム近くの小さな町ベツレヘムからイスラエルを治めるものが現れると記されており、「主の力、神である主の御名の威厳を持って」治める王の支配こそが、平和であると述べています。すなわち、誕生する幼子が支配する世界こそ、神の平和が実現している状況です。

第二の朗読のヘブライ人への手紙は、新約の契約は「御心を行うために」誕生された主イエスご自身のいけにえによってただ一度で成し遂げられているのであり、キリストを信じるものはその救いのために形式的な祈りを捧げ続ける必要はなく、すでに聖なるものとされていることを自覚し、その自覚のうちに生きることが必要であると指摘します。

ルカ福音は、自らの驚くべき運命に翻弄されながらも、しかし、助けを必要としている他者への心配りを忘れず積極的に行動する聖母の姿を記します。聖母マリアのエリザベトご訪問です。

聖母マリアのこのご訪問に触れて、教皇フランシスコは「福音の喜び」の終わりに、「マリアは・・・すぐに動かれる聖母、人に手を貸すために自分の村から『急いで』出掛ける方です。正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです(288)」と記しています。その上で教皇は、「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です。・・・教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)と記しておられます。

わたしたちが待ち望んでいる救いは、形式的な崇敬を繰り返すことによって実現するのではありません。それは、福音の到来が待ち望まれている地へ出向いていって、神の望まれる秩序を打ち立て平和を生み出すことによって、わたしたちのうちに実現します。聖母はその模範を示し、主ご自身がその道程をともに歩んでくださいます。

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2024年12月14日 (土)

今週の週刊大司教はお休みです。

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お待ちいただいている皆様には申し訳ありません。枢機卿会などの出張が重なり撮影が間に合わなかったため、本日12月14日の週刊大司教はお休みとさせてください。

来週12月21日は、午前11時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、枢機卿叙任の感謝ミサを捧げる予定です。また週刊大司教も再開するようにいたします。お待ちください。

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12月7日夕方の枢機卿会では、教皇様の前に順番に進み出て。ビレッタ(儀式用の帽子)と指輪をいただきました。デザインは写真の通りですが、前田枢機卿様も同じ指輪でしたので、共通の指輪かと思います。ペトロとパウロの姿が刻まれています。事前に制作している工房でサイズ合わせをしました。

これらをいただいた後に白い筒をいただきました。この中には教皇様からの枢機卿親任の書簡と、その中に。名義教会名が記されています。前回も記しましたが、ローマ教区の小教区でSan Giovanni Leonardiと言う教会です。現在、来年の着座式の日程を調整中です。

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これらをいただいた後に、出席してくださった先輩の枢機卿様の全員とあいさつを交わしました。一人一人を回りましたので、かなりの時間を要しました。私にとっては、司教枢機卿として一番前の列におられたタグレ枢機卿様やタクソン枢機卿様にはお世話になってきたので、お祝いしていただいたのは感謝の一言でした。それ以外にも、これまでのカリタスでの務めを通じて存じ上げている枢機卿様がたくさんおられたので、あいさつ回りは感動の連続でした。(写真は、タグレ枢機卿とあいさつのハグをしているところ)

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また、枢機卿会後には、バチカン美術館内のギャラリーに場所を移して、一人一人の新しい枢機卿がブースを設け、おいでいただいた方々のお祝いを受けるという儀式もありました。ここにも多くの方に来ていただき、感謝です。今回は21名も新しい枢機卿が誕生したために、この会場に入る入口は大混乱であったと後からうかがいました。

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12月9日の月曜には、駐バチカン日本大使公邸をお借りして、レセプションを開いていただきました。日本大使公邸の準備される和食には定評があり、多くの外交関係者が集まると聞いていましたが、その通りでした。多くの国の大使の皆様に来ていただきました。バチカンからも、外交をつかさどる国務次官のギャラガー大司教をはじめ、典礼秘跡省長官のローチェ枢機卿、福音宣教省のタグレ枢機卿、そして海外出張に出かけるために空港に向かう途中によってくださったタクソン枢機卿、昨年のシノドスでお世話になった外交官養成所アカデミアの校長ペナッキオ大司教、神言会の総本部の皆さん、ローマ在住のカトリック日本人会の皆さん、国際カリタスの本部事務局の皆さんなど、多くの方に来ていただき、さらには多くのメディア関係者も来てくださり感謝でした。前田枢機卿様は、お得意の一句を披露されながら、乾杯の音頭を取ってくださいました。ありがとうございます。

水曜日の昼に、前田枢機卿様とともに帰国し、そのまま夕方は麹町教会で司教団主催の教皇訪日5周年記念感謝ミサをささげ、その翌日は臨時司教総会でした。そのようなわけで、新しい枢機卿の服に変わってから、週刊大司教を撮影する時間をとれませんでした。

Tarcisio Isao Cardinal Kikuchi, SVD

皆様のお祈りとお祝いの言葉に、心から感謝申し上げます。今後とも、お祈りを持って支えてくださるようにお願い申し上げます。

 

 

 

 

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2024年12月 9日 (月)

皆様のお祈りに感謝いたします。

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昨日、12月7日の夕刻、サンピエトロ大聖堂で行われた枢機卿会において、教皇様から枢機卿へ叙任していただきました。

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与えられた務めに対して、わたしの力は十分ではありません。皆様のこれまでのお祈りに心から感謝すると同時に、これからもさらなるお祈りをお願い申し上げます。

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本日12月8日、教皇様の司式で、感謝ミサも捧げ、その後、日本から来られた60名を超える巡礼団の皆様とバチカン近くで感謝の昼食会を行い、その後、神言会の総本部を訪れることもできました。

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水曜日には帰国いたしますが、あらためて今回の一連の行事について報告させていただきます。

なお昨日の枢機卿叙任に当たり、枢機卿としての名義教会を頂きました。ローマ教区の小教区でSan Giovanni Leonardiと言う教会です。今後、小教区や儀典室と調整しながら、来年には着座式のために訪れたいと思います。

皆様に心から感謝申し上げます。

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2024年12月 8日 (日)

東京カテドラル聖マリア大聖堂献堂60年

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東京カテドラル聖マリア大聖堂は、1964年12月8日に献堂され、無原罪の聖母に奉献されました。今日で献堂から60年となります。

献堂された1964年というのは、ちょうど教会が第二バチカン公会議の真っ最中であった頃です。第二バチカン公会議は1962年から始まり1965年まで続きました。献堂後の1969年には第二バチカン公会議の典礼改革による新しいミサ典礼が発表され他、ちょうど典礼変革の時代でした。

戦争中に焼け落ちた旧聖堂に代わり、カテドラルを再建することは当時の土井枢機卿様をはじめ教区の願いでしたが、ケルン教区の支援の申し出もあり、第二バチカン公会議が始まる直前、1962年5月締め切りで設計コンペが行われ、丹下健三氏のデザインが採用されました。その経緯から、基本的に、現在でも当初の丹下健三氏の設計に手を加えることなく聖堂は建っております。

本日は献堂60年の記念となる主日ミサですが、わたしが枢機卿親任式などのためローマに出かけているため、主日ミサで、小池神父様にメッセージの代読をお願い致しました。以下に、そのメッセージを記します。

なお大聖堂では、12月8日午後4時から、献堂60年を記念した聖体賛美式と晩の祈りが、アンドレア補佐司教様の司式で行われます。どなたでも自由にご参加頂けます。献堂の60年を祝い、ご聖体の前で、祈りのひとときをお過ごしください。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂献堂60周年
2024年12月8日

今年は12月8日の無原罪の聖母の祭日が日曜日にあたり、待降節第二主日と重なりました。通常、典礼上の祝日が主日と重なる場合、主日が優先されますが、無原罪の聖母は重要度の高い祭日であることから、今年の典礼の暦では、明日の12月9日が無原罪の聖母の祭日とされています。

東京教区にとっては、12月8日の無原罪の聖母の祭日は司教座聖堂(カテドラル)の献堂記念日であり、聖マリア大聖堂の名前をいただいた「聖マリア」こそは無原罪の聖母です。加えて今年は献堂からちょうど60年の節目の年でもありますので、本日の主日ミサの中で、共にカテドラルの献堂を記念したいと思います。

そもそもカテドラルというのは、司教座が置かれている聖堂のことであり、教区における神の民の一致の目に見える象徴として、教区の母教会という意味を持っている聖堂です。その意味で、献堂記念日は関口教会だけのお祝いではなく、教区全体にとってのお祝いであり、あらためてカテドラルが象徴する司教との交わりのうちに一致する教会共同体のあり方を見つめ直すときでもあります。

1891年に大司教区として設置された東京教区は、当初のカテドラルを築地教会に定めました。その後、1900年に関口小教区が設けられ、1911年にはその構内に現在も残るルルドの洞窟が宣教師によって建設され、1920年には、大司教座が築地から関口に移され、関口教会がカテドラルとなりました。104年前のことです。

関口教会の聖堂は戦争中に東京大空襲で焼失しましたが、戦後、ドイツのケルン教区の支援によって再建が決められ、故丹下健三氏の設計により、1963年に工事が始まり、1964年12月8日に完成して献堂式が行われました。

この東京カテドラル聖マリア大聖堂が建設された経緯を振り返るとき、わたしたちはケルン教区が具体的に示した「ケルン精神」を思い起こさせられます。

先日のミャンマーデーの際にも触れましたが、「ケルン精神」というのは、戦後のドイツの復興期にあって、ケルン教区が掲げた自己犠牲と他者への愛を意味しています。ドイツも敗戦国であり、1954年当時は復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではありません。にもかかわらず海外の教会を援助する必要性を問われた当時のケルンのフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直しにも大きく貢献したと伝えられています。

その「ケルン精神」の最大のシンボルが、この東京カテドラル聖マリア大聖堂です。この大聖堂の中に祈りのうちにたたずむとき、わたしたちはまず第一に、この「ケルン精神」を思い起こし、心に刻みたいと思います。

さらに言えば、その「ケルン精神」その後、ケルン教区と東京教区が一緒になっていまでも続けているミャンマーへの支援に繋がりました。その歴史を顧みるときに、ケルンと東京とミャンマーの教会は、長年にわたってシノドス的な教会であろうとしてきたことが分かります。わたしたちは、ともに歩み、互いに耳を傾けあい、互いの必要に応えて助け合い、共に祈りを続けながら、聖霊の導きを見いだそうとしてきました。その意味で、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、いま教会が歩もうとしているシノドスの道のシンボルの一つです。教会のシノドス性を豊かに表すこの聖堂を、司教座聖堂として与えられていることに、感謝したいと思います。

昨日12月7日、わたしはバチカンの聖ペトロ大聖堂において、教皇様より枢機卿の称号をいただきました。枢機卿は単なる名誉職ではなく、教皇様の顧問団の一人として、教会全体において何らかの役割を果たしていくことが求められる立場です。その求められている役割を果たすには、自分が十分ではないことをよく自覚し、恐れの中で震えております。わたしが忠実に務めを果たすことができるように、これからもみなさまのお祈りによる支えをお願い申し上げます。

今日の主日は、バチカンにおいて教皇様と共に感謝のミサを捧げておりますので、その中で、日本の教会のために、特に東京の教会のためにお祈りさせていただきます。

洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネが救い主の先駆者であることを教えています。洗礼者ヨハネは「荒れ野」で、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だと記されていますが、その響き渡る声によって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と福音は記します。

わたしたち教会も、現代社会という「荒れ野」に生きています。いのちを奪う暴力がはびこり、戦争が続き、利己的な価値観が支配する、「いのちの荒れ野」に生きています。その現代の「いのちの荒れ野」のただ中にあって、教会は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声であり続けたいと思います。

枢機卿がいただく正装の色は深紅です。それは福音のために殉教すらいとわないという決意を象徴しています。ですからわたし自身が教会の先頭に立って、現代社会に向かい、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ覚悟を持たなくてはなりません。同時にそれは教会全体の務め、すなわちキリストに従う皆さんとともにある教会の務めです。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です」と記しています。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方ですと指摘されています。

聖母マリアは。この「いのちの荒れ野」のただ中に立つ教会と歩みを共にしてくださいます。共に闘ってくださいます。傷ついたわたしたちを神の愛で包み込んでくださいます。わたしたちと共に、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声になってくださいます。

ともに歩んでくださる聖母の取り次ぎに信頼しながら、これからも共に、荒れ野に響きわたる先駆者の声であり続けましょう。

 

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2024年12月 7日 (土)

週刊大司教第188回:待降節第二主日C

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待降節第二主日です。

この数日間わたしは、12月7日夕刻に開催される枢機卿会に出席するため、ローマに滞在し、準備をしております。枢機卿としてこれからどのような形で普遍教会に寄与することができるのか分かりませんが、これまで通り、まず第一の務めである東京教区の教区大司教としての役割を忠実に果たしていきたいと思います。同時に教皇様が求める役割があるのであれば、それにも常に忠実でありたいと思います。

この12月16日で、2017年に東京の大司教に着座してから七年となります。七年と言えば十分な時間と言えますが、しかし残念なことにそのうちのおおよそ半分ほど、特に2020年の春頃から三年程度の期間は、コロナ感染症への対応のために、通常の取り組みがほとんどできずに過ごしました。ですので、着座から7年が経過したと言っても、実質的には半分程度しか務めを果たしていません。時宜を逸したことも多々あります。残念です。

とりわけ2019年11月に教皇様が訪日され、大きなインパクトを残されたその直後から、教会活動がほぼストップしてしまったのは、本当に無念でした。教皇様の言葉を受けて考えられた様々な企画は、そのためにすべて消え失せてしまいました。教皇様が外国訪問をされた後には必ず行われる、答礼のローマ巡礼すら実施することができませんでした。

今般、訪日5周年を記念して、12月11日の夕方には麹町教会で司教団の主催で訪日記念ミサを捧げ、上智大学構内で様々な催しを行いますが、ちょうどシノドスも終わり、現在、最終文書を翻訳するために正式な英語訳が出るのを待っているところですが、正式英語版が公表され次第、日本語訳に取り組み。この訪日5周年と併せて、年明け2月の司教総会での議論を経て、全国的な取り組みを進めていきたいと考えています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第188回、待降節第二主日のメッセージです。


待降節第二主日C
週刊大司教第188回
2024年12月8日

12月7日、わたしはバチカンの聖ペトロ大聖堂において、教皇様より枢機卿の称号をいただきます。枢機卿とは単なる名誉職ではなく、教皇様の顧問団の一人として、教会全体において役割を果たしていくことが求められる立場です。その求められている役割を果たすには、自分が十分ではないことをよく自覚し、恐れの中で震えております。わたしが求められている務めを忠実に果たすことができるように、これからもみなさまのお祈りによる支えをお願い申し上げます。

洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネが救い主の先駆者であることを教えています。洗礼者ヨハネは「荒れ野」で、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だと記されていますが、その響き渡る声によって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と福音は記します。

わたしたち教会も、現代社会という「荒れ野」に生きています。いのちを奪う暴力がはびこり、戦争が続き、利己的な価値観が支配する、「いのちの荒れ野」に生きています。その現代の「いのちの荒れ野」のただ中にあって、教会は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声であり続けたいと思います。

枢機卿がいただく正装の色は深紅です。それは福音のために殉教すらいとわないという決意を象徴しています。ですからわたし自身が教会の先頭に立って、現代社会に向かい、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ覚悟を持たなくてはなりません。同時にそれは教会全体の務め、すなわちキリストに従う皆さんとともにある教会の務めです。

この「いのちの荒れ野」のただ中に立つ教会と歩みを共にしてくださるのは聖母マリアです。12月8日は無原罪の聖母の祭日ですが、今年は待降節第二主日と重なるために、翌日に変更となっています。聖母マリアは、傷ついたわたしたちを神の愛で包み込み、ともに歩み、共に、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声になってくださいます。

ともに歩んでくださる聖母の取り次ぎに信頼しながら、これからも共に、荒れ野に響きわたる先駆者の声であり続けましょう。

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