主の降誕、夜半のミサ
主の降誕のお喜びを申し上げます。
東京カテドラル聖マリア大聖堂では、12月24日は午後5時(アンドレア司教様司式)、午後7時半(小池神父様司式)、午後10時(わたしが司式)にミサが捧げられました。どのミサも多くの方が参加し、祈りを捧げてくださいました。
また、クリスマスにあたり、多くの方からカードやメッセージをいただいています。特に今年は、例年と比べても数が増えています。みなさまの温かいお言葉に感謝申し上げます。いただいたカードは写真のように、教区本部のわたしの執務室に飾ってあります。感謝です。
以下、本日午後10時の夜半のミサの説教原稿です。
なお明日12月25日は午前10時からわたしが司式します。こちらは中継はありません。
加えて、次の日曜日、12月29日午後3時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、2025年聖年の開幕ミサをわたしの司式で捧げます。ご参加いただき、祈りの時をともにしていただければ幸いです。こちらのミサはYoutubeで中継配信される予定です。一年間にわたる、25年に一度の聖年が始まります。
主の降誕(夜半のミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年12月24日暗闇に包まれたベトレヘムに、主の栄光の光が輝いたと、ルカによる福音はイエス誕生の物語を記しています。
羊飼いたちに現れた天使は、「いと高きところには栄光、神にあれ」と、神を褒め称えた後に、こう続けたと福音は伝えています。「地には平和、御心に適う人にあれ」
全人類に希望を告げるこの言葉が天使から伝えられた地、それをわたしたちは聖地と呼んでいます。聖地という言葉は、近頃は様々なジャンルで用いられ、そこに出かけることを聖地巡礼と呼んだりもするようですが、聖地も聖地巡礼も、キリスト者にとってはイエスの誕生した聖地です。
その聖なる地で一体何が起こり続けているのか。神の御子が誕生した聖地はいま、暗闇と絶望に支配されています。
12月21日の土曜日、教皇様はバチカンで働く枢機卿や聖職者とお会いになった際に、準備された原稿を読む前に、聖地にあるガザ地区での出来事に触れられました。エルサレム総大司教のピッツァバラ枢機卿様がクリスマスのミサをささげるために、ガザへ入ることが事前に合意されていたにもかかわらず、その直前にガザは爆撃され、5人の子どもたちを含む少なくとも22名が命を奪われました。このことに触れた教皇様は、「これは戦争なんかではなく、残虐行為だ」と強く批判され、特に子どもたちへのために心を痛めていることを述べられました。
一昨日の昼の祈りでは、「苦しめられているウクライナでは都市が未だに攻撃にさらされ、時に学校や病院や教会が破壊されています。武器の音がやみ、クリスマスの歌が響くことを祈ります。様々な前線で、クリスマスにあたって戦闘がやむことを祈りましょう。ウクライナで、聖地で、中東全域で、世界中で。そして悲しみのうちにガザのことを考えています。残虐にさらされ、子どもたちにマシンガンの銃撃が浴びせられ、学校や病院が爆撃されている。何という残虐さでしょう」と、呼びかけられました。
しばしば報道されていることですし、わたし自身も直接教皇様から伺いましたが、教皇様はガザでの戦闘が始まってから可能な限り毎日、夜になるとガザの教会に電話をかけ、主任司祭から状況を聞き取っておられますので、その現状が、いかに暴力的であり絶望的であるのかをよくご存じです。
羊飼いたちに現れた天使は、「民全体に与えられる大きな喜び」の目に見えるしるしは、華々しく輝く光だったり、驚くような出来事ではなくて、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であると告げました。誕生したばかりの小さな命です。暗闇に弱々しく輝く小さな光です。
しかし暗闇が深ければ深いほど、小さな光でも輝き渡ります。いま、深い暗闇に覆われ絶望が支配するこの世界に、必要なのは小さな希望の光であります。残虐な暴力は自然に発生するものではなくて、人間の意思によって生み出されています。神からの賜物である命をいただいている人間同士が、その命に対して暴力を働く。その暴力的行為そのものが、わたしたちを取り巻く闇を深めます。
小さな希望の光は、ろうそくの炎のように、吹き荒れる暴力の巻き起こす風で、あっという間に吹き消されてしまうような弱々しい存在です。ですから、必死になって守られなくてはならない。飼い葉桶に寝かされた幼子が、ヨセフとマリアの保護を必要としたように、希望の光は皆によって支えられ守られなくてはならない。
暴力が吹き荒れる暗闇にいると、不安のあまり身を守るために、自分も暴力を用いなければならないという思いに駆られます。暴力の行使を正当化し肯定しようとする誘惑に駆られます。でも絶望を打ち破り暗闇を吹き払う希望の光は、小さく守られなくてはならない炎です。すでに吹き荒れている暴力の嵐に、さらに風を加えることほどおろかなことはありません。
希望は、衣食住のように、外から持ってきて与えることはできません。希望は、それを失い、絶望に打ちひしがれている人の心の中に生み出されなくてはなりません。小さくても良い、か弱くても良い。
でもこの小さな炎は自然には生まれては来ません。希望という小さな炎は、ともに歩み支えてくれる誰かとの出会いの中で心の内に生まれます。飼い葉桶に寝かされた幼子がヨセフとマリアに守られたように、心にかけてくれる人との出会いが、誰かがわたしを守ってくれているという思いが、心に希望を生み出します。だからわたしたちは、暴力の闇にさいなまれ不安に打ち震えている人たちを、決して忘れてはなりません。
平和とは、単に闘いがないことではありません。天使の言葉が示しているように、「御心に適う人」のもとに平和は実現します。つまり平和は、神の思いを実現しようとするところに誕生します。神は何を求めているのか。飼い葉桶に寝かされた幼子をヨセフとマリアが守り育てたように、わたしたちにも、小さな希望の光を守り育て、それをひとりでも多くの人に伝え、小さな希望の炎が多くの人の心にともるようにすることです。小さな希望の光が多くの人の心に宿るとき、この夜を支配する絶望の暗闇は吹き払われます。それが神の平和の実現です。
教皇様は本日12月24日に聖年の扉を開かれ、25年に一度の聖年を開始されます。世界中の各教区の司教座聖堂では、12月29日の聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。
この聖年のテーマは、「希望の巡礼者」」であります。「希望」と「巡礼者」。それこそ今の時代に必要な二つの要素です。暗闇の中を孤独のうちに歩いているわたしたちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在。教会はこの二つを掲げて、暗闇の中に小さく輝く幼子のように、暴力と孤独が支配する闇の中で、希望の光を掲げ、ともに支え合いながら歩もうと呼びかけています。
教皇様は聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」において、「希望の最初のしるしは、世界の平和を求める願いであるべきです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。教会は絶望ではなくて、希望を生み出す源となることが求められています。
いま教会は希望を生み出しているでしょうか。裁きや暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。謙遜に自らを振り返りながら、希望を生み出す旅路を、続けて参りましょう。小さな希望の炎を吹き消さないように努めましょう。
| 固定リンク | 12
「配信ミサ説教」カテゴリの記事
- 神の母聖マリア@世界平和の日2026年(2026.01.01)
- 2025聖年閉幕ミサ@東京カテドラル(2025.12.28)
- 主の降誕、おめでとうございます(2025.12.24)
- 2025年聖母マリアの被昇天(2025.08.15)
- 2025年平和旬間:広島、そして東京教区平和祈願ミサ(2025.08.09)


