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2025年1月25日 (土)

週刊大司教第194回:年間第三主日

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年間第三主日の今日は、神のことばの主日です。

神のことばの主日は、教皇フランシスコによって制定されました。制定を告知する文書「アペルイット・イリス」は、PDF版をこちらのリンクからご一読いただけますし、印刷してもいただけます。

また東京教区にとって、本日はケルンデーでもあります。ケルン教区との協力関係・パートナーシップは、昨年70年を迎えました。その歴史などについては、東京教区ホームページにまとめられていますので、こちらのリンクからご覧ください

第二バチカン公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。したがって、個人的に聖書を読み親しむことはもちろん重要ですが、同時に共同体でともに学ぶことも主の現存を霊的に知るために必要ですし、それ以上に、典礼において聖書を朗読することもとても大切な務めです。典礼における聖書朗読は「神のことばの食卓からいのちのパンを」信徒に与えることになるからです。

東京カテドラルでは、今年のケルンデーに、わたしがミサを司式すると同時に、昨年教区を代表してケルンを訪問した冨田神父様、イエズス会の柴田神父様、信徒の赤井さんの三名に参加いただき、冨田神父様には説教を、その他のメンバーにはそれぞれの体験を分かち合っていただく予定でおります。またミサは配信される予定です。ケルン教区の皆さんのため、特に召命のためにお祈りください。またわたしたちのケルンの皆さんの心に倣い、余裕があるからではなく、少ない中からも進んでさらに困難のうちにある兄弟姉妹のために手を差し出す者であり続けたいと思います。その意味で、ケルン教区とともに進めているミャンマーの教会支援を、これからもさらに深めていきたいと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第194回目、年間第三主日のメッセージ原稿です。

年間第3主日C
週刊大司教第194回
2025年1月26日

ルカ福音は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエスの言葉を記しています。聖書に記されている言葉が、単なる文字の羅列ではなく、まさしく生きている神の言葉であることを、人となられた神の言葉であるイエスご自身が、宣言される言葉です。

公生活の初めに、ナザレの会堂で、イエスに渡されたイザヤ書の言葉こそ、イエスご自身の語り行うすべての根幹をなす生きる姿勢を明示したものでした。イエスこそは、とらわれ人に解放を告げ、主の恵みの年を告げる存在であり、それこそが神の良い知らせ、福音であることが明らかにされます。イエスこそは希望の源です。自由を奪われ不安の暗闇に閉じ込められているわたしたちに、神がいのちを創造されたときに願われた思いを生きることができるようにと、とらわれからの解放をもたらされる希望の源は、神のことばであります。

「希望の巡礼者」をテーマとして始まった聖年は、まさしくイエスの言われた「主の恵みの年」であり、この一年わたしたちは、自分自身の回心、霊的な成長、そして救いだけを心に留めるのではなく、主とともに歩む巡礼者として、与えられた自由と解放がもたらす希望を、さらに多くの人に伝えていく使命があります。

年間第三主日は、神のことばの主日です。教皇フランシスコによって2020年に制定されたこの主日は、使徒的書簡「アペルイット・イリス」によれば、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」主日とされました。

その上で教皇様は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘されています。ミサの中で聖書が朗読されるとき、神の言葉は生きており、そこに主がおられます。ですから、典礼における聖書朗読の奉仕者の役割には、聖体の秘跡に関わる司祭と同様に重要な意味があります。

教皇様は、「聖霊は、神のことばを聞く人々のうちにおいても働いています」と使徒的書簡に記し、だからこそ「原理主義的な読み方は避ける必要が」あると強調されます。その意味で、シノドスの道を歩む際に重要とされている霊における会話のように、共同体でともに神のことばに耳を傾け、分かち合いながら、聖霊の導きを識別することには意味があります。

神のことばは、その昔に実現したのではなく、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現」します。

東京教区にとって本日は、「ケルンデー」であります。ケルンと東京のパートナーシップは昨年2024年に70年を迎えました。第二バチカン公会議直前に始まった東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設をはじめ、東京教区はケルン教区から多額の援助を受けて育てられてきました。白柳枢機卿の時代に、ミャンマーの教会支援という新しいパートナーシップへと発展しました。与えられ育まれてきた財産を、これからどのように維持発展させていくのかは、愛を受けたわたしたちの責任です。私たちは、教区を育ててくださった兄弟姉妹の愛の心に感謝しながら、それに倣い、神の愛の生きた証し人として、神のことばの生み出す希望を告げる巡礼者でありたいと思います。

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2025年1月18日 (土)

週刊大司教第193回:年間第二主日C

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降誕祭も終わり、典礼の暦は年間に入りました。次は灰の水曜日から四旬節が始まるまでの期間です。

メッセージでも触れていますが、毎年1月18日から25日までは、キリスト教一致祈祷週間です。今回のテーマは、「あなたは このことを信じますか」(ヨハネ11・26)です。詳しくは中央協議会のホームページのこのリンクをご覧ください。今回の一致祈祷週間のために用意された小冊子は、このリンク先の中央協議会のホー目ページにある小冊子の写真をクリックすると、PDFでご覧いただけ、ダウンロードもできます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第193回、年間第二主日メッセージ原稿です。

年間第2主日C
週刊大司教第193回
2025年1月19日

ヨハネ福音に記されたカナの婚姻の奇跡物語は、イエスの最初の奇跡とされています。母マリアとともに招かれたカナの婚姻の席で、用意されたぶどう酒が尽きたときに、母の願いに応えて、水をぶどう酒に変えたという奇跡物語です。

現代社会での披露宴などの婚姻の宴が、どのように捉えられているのかは、一概に言うことはできないのでしょうが、聖書では、しばしば神の救いや神の支配の実現するときの喜びを表現するために用いられています。

すなわち神の救いや神の支配が実現したときには、そこにはあふれんばかりの喜びがあり、その喜びが満ちあふれる希望を生み出す。それが婚姻の宴における喜びと希望に例えられています。その喜びの源であるぶどう酒がなくなったとき、そこに神は奇跡を持ってあふれんばかりにぶどう酒を与えたのですから、福音はイエスこそが救いの喜びの源であることを、この奇跡から教えようとします。単に、イエスが水をぶどう酒に変える力を持っていることを称えたいのではなく、そこに示される意味を説き明かそうとしています。

さらにこのカナの婚姻では、イエスは行動を促す聖母に対して、「わたしの時はまだ来ていません」と答えています。すべての出来事には神ご自身が定めた「時」がありますが、それを変えさせ神の行動を引き出したのは、聖母マリアの信仰とそれに基づく確信です。カナの婚姻の出来事に、わたしたちは、聖母マリアの取次の力と、神の救いの喜びと希望に寄与する聖母の存在の重要さを見出します。わたしたちが聖母に祈るのは、聖母自身を礼拝しているのではなく、聖母を通してこそ主イエスに導かれるからであり、聖母マリアはそれほどまでに神からの信頼を得ている存在として、わたしたちが崇敬し尊敬するべき模範であります。

教会は、1月18日から25日までを、キリスト教一致祈祷週間と定めています。今年のテーマは、ヨハネ福音からとられた「あなたは このことを信じますか」(ヨハネ11・26)とされています。

第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、「あたかもキリスト自身が分裂しているかのような(現状は)・・・明らかにキリストの意志に反し、また世にとってはつまずきで」あると指摘し、福音を告げ知らせるためにもキリスト教における一致の重要性が示されています。それは単純に組織を合同することではなく、それぞれのカリスマを生きながらともに歩む一致です。

今年2025年は、コンスタンチノープル近郊のニケアで最初の公会議が開かれてから1700年目にあたります。まさしくキリスト者に共通の信仰を振り返るときです。わたしたちがミサの時に共に唱えているニケアコンスタンチノープル信条は、325年のこの公会議と381年のコンスタンチノープル公会議を経て成立した信条で、キリスト教の多くの教派で信条とされています。

ニケア公会議を記念するこの年、キリスト教祈祷一致週間は、信じることの意味、さらに「わたしは信じます」と「わたしたちは信じます」という、個人または共同体としての信仰をあらためて確認する機会となります。

信仰における一致のうちに歩みをともにして参りましょう。

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2025年1月11日 (土)

週刊大司教192回:主の洗礼の主日

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この数日、大雪に見舞われている地域のみなさまに、お見舞い申し上げます。

主の洗礼の主日です。降誕祭は終わり、月曜日から典礼の暦は年間になります。(上の写真:東京カテドラル聖マリア大聖堂の洗礼盤。聖年開幕のミサで)

2025年最初の、カテドラル以外の小教区でのミサとして、1月10日金曜日の午前10時に、板橋教会でミサを捧げました。主任を務められる久富神父様にお会いする用事があったのですが、わたしのこの数週間のスケジュールではちょうどこの日しか空いておらず、せっかく午前中にミサがある日なので、司式させていただきました。お集まりいただいたみなさまとは、ミサ後に、茶話会で新年のご挨拶をさせていただきました。

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板橋教会の聖堂内の柱には、成人の御像がいくつか安置してあるのですが、その中の一つが、わたしの霊名であるタルチシオです。タルチシオの像というのはなかなか珍しく、ヨーロッパでは侍者の保護の成人とされており、わたしが生まれたばかりの時に洗礼を授けてくださったスイス人の宣教師が、将来しっかりと侍者になるようにと願ってこの洗礼名をつけてくださったと両親から聞いています。その御像の前で一枚。上の写真です。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第192回、主の洗礼の主日のメッセージです。

主の洗礼の主日C
週刊大司教第192回
2025年1月12日

主の洗礼を記念するこの日、パウロはテトスへの手紙で、わたしたちの救いは、「キリストが私たちのためにご自身をささげられた」ことを通じて「あらゆる不法から贖いだし」たことによって与えられた恵みであることを強調します。そして「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と記します。救いは、私たちが正しく生きたことに対しての対価として与えられるような類いものではなく、徹頭徹尾、神からの一方的な恵みです。そのこと自体がわたしたちが正しく生きることの意味を薄めることはありませんが、同時に、正しく生きたからご褒美として救われるというような、人間本位ではないことを心に刻みましょう。救いは、神ご自身の苦難を通じて与えられ、それが水と聖霊による洗礼によって実現した、神からの恵みです。

ルカ福音は、公生活を始めるにあたって、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。ヨハネ自身がメシアを待望する人々に対して明確に告げたように、水による洗礼は罪のゆるしの象徴であって、主ご自身が与える聖霊と火による洗礼とは比較にならないものであります。しかし主イエスは、人間となられ私たちとともに歩まれることの意味を明確にし、その行為が自らの意思で行われたまさしく贈り物であることを告げるために、公生活を始めるにあたってヨハネの水による洗礼を受けるという選択をされます。それは同時に、神ご自身が人類の罪を背負ってともに歩まれることになるのだという事実を明確にするためでもありました。神はわたしたちとともに歩まれます。

その選択を祝福するように聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」との御父の声が響き渡ります。御子イエスの人生の歩みが、天地を創造された御父の御旨に完全に従うものであることを明示する言葉です。御父と御子と聖霊は一体なのですから、イエスの言葉と行いは、三位一体の神のことばと行いそのものであります。

人間としての人生における苦しみを通じてわたしたちを贖ってくださった主は、同じ道を歩むようにと、わたしたちを招いておられます。ただその道を一人で孤独に歩めとは命じておられません。主イエスご自身が、わたしたちと歩みを共にし、わたしたちの声に耳を傾け、わたしたちを支えてくださいます。わたしたちが同じように、ともに歩く兄弟姉妹の声に耳を傾け、支え合い、歩みを共にすることを求めておられます。そのことは同時に、わたしたちこそが主とともに歩み、主の声に耳を傾け、主を支えなくてはならないことも意味しています。まさしくわたしたちがシノドス的な教会共同体となるように、公生活のはじめに、主は、ともに歩むことの意味を自ら示してくださいました。

 

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2025年1月 4日 (土)

週刊大司教第191回:公現の主日C

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一月の最初の日曜日は公現の主日です。

今年は公現の主日が1月5日で、主の洗礼が1月12日の主日となっているので、降誕節が1月12日まで続きます。典礼暦年に関する一般原則で、本来1月6日の公現の祝日は、1月2日から8日の間の主日に移すことが認められており、同時に、1月6日直後の主日は主の洗礼と定められています。そうすると、例えば2024年のように1月2日から8日の間の主日が7日なので、そこを主の公現とすると、その日は1月6日の直後の主日になるので、公現と主の洗礼の優先順位から、7日を主の公現とし、翌日月曜日を主の洗礼とします。今年はちょうど良いカレンダーの並びなので、公現と主の洗礼が、1月最初の日曜と2番目の日曜になりました。

聖年が始まったことで、ローマなどへの巡礼がないのかというお問い合わせをいくつかいただいております。日本の司教協議会としての公式巡礼団を募集することは決まっており、時期としては、わたしの枢機卿としての名義教会着座式を予定している10月9日あたりにローマで合流できるようにして、10月初旬にいくつかのコースを企画することで調整中です。またそれ以外にも、聖座の福音宣教省が関わっている大阪万博のバチカンの展示(イタリアのパビリオンに同居予定)にあわせて、司教協議会としての聖年行事を行うことも検討中です。万博に関しては4月、巡礼は10月を目指していますので、早急に調整を進め、お知らせできるようにいたします。なおそれ以外にも、いくつかの教区や団体で、聖年中のローマ巡礼を企画されていると伺っています。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第191回目、公現の主日のメッセージ原稿です。

主の公現の主日C
週刊大司教第191回
2025年1月05日

皆様、新年明けましておめでとうございます。

占星術の学者たちの言葉を耳にしたときの、ヘロデ王の不安を、マタイ福音は伝えています。占星術の学者は、新たなユダヤ人の王が誕生したと告げています。それを告げられている相手、すなわちヘロデ王は現役のユダヤの王様です。心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。自分が手にした地位と名誉を脅かすものが現れたと告げられているのですから、ヘロデ王の心は不安に満ちあふれたことでしょう。その不安は、単に地位が脅かされることへの不安にとどまらず、神の真理による支配の前では、自らの不遜さが明らかになってしまうことへの不安でもあります。人間の欲望に基づいた傲慢な支配におごり高ぶっている姿が暴かれることで、ヘロデ王は自らが罪の状態にあることが明らかになってしまいます。そこに不安が生じます。

わたしたち自身はどうでしょうか。人間の欲望に支配されて傲慢さに満ちあふれていないでしょうか。飼い葉桶に寝かされた神のことばの受肉のその弱々しい姿が、謙遜さこそ真の力であることをわたしたちに教えています。

困難な旅路を経てイエスの元にたどり着いた占星術の学者たちは、暗闇に輝く小さな光にこそ、人類の希望があることを確信します。学者たちはその確信に基づいて、すべてを贈り物として神にささげ、神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従い、人間の傲慢さの元に戻ることなく神の意志に基づいて行動していきます。

教会はその小さな謙遜さのうちにある、神の希望の光を受け継ぎました。人間の欲望に支配された組織としてではなく、神の真理の光を小さくとも輝かせる存在でありたいと思います。

神が与えられた賜物であるいのちは、誕生した幼子が守られ育まれたように、わたしたちに同じように守り育む務めが与えられています。いのちはその始めから終わりまで、例外なく守られなければなりません。また守るだけではなく、神の似姿としての人間の尊厳は、常に尊重されなくてはなりません。

毎年のはじめに教皇様は世界平和の日のメッセージを発表されています。今年は「わたしたちの罪をお許しください。平和をお与えください」をテーマとされています。

メッセージ冒頭で教皇様は、「私は特に、過去のあやまちによって重荷を負わされ、他者の裁きによって攻撃され、自分の人生にかすかな希望さえ見いだせないと感じている人たちのことを考えている」と記され、始まったばかりの「希望」をテーマとした聖年において、周辺部に追いやられ排除されることの多い多くの人へ心を向けています。

その上で教皇様は、聖ヨハネパウロ二世教皇の「構造的な罪」を引用しながら、世界で起きている人間の尊厳をおとしめている様々な出来事に、人類全体が何らかの責任を感じるべきだと指摘します。

今年のメッセージで教皇様は、国家間の負債の軽減、いのちの尊厳を守ること、武力のための資金の一部を飢餓などの軽減のために使うことなど、具体的な提案をされています。

わたしたちは、何に基づいて生きているのでしょう。人間の傲慢な欲望か、神の真理に基づく希望か。あらためて見つめ直してみましょう。

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2025年1月 1日 (水)

2025年元日:神の母聖マリア@東京カテドラル

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みなさま、新年明けましておめでとうございます。

2025年が、神様の祝福に満ちあふれ、ともに歩みを力強く続ける一年となりますように。

1月1日は、教会にとっては神の母聖マリアの祝日であり、同時に世界平和の日でもあります。教皇様の今年の世界平和の日のメッセージは、こちらのリンクの中央協議会サイトをご覧ください。今年のメッセージのテーマは、「わたしたちの負い目をゆるしてください、あなたの平和をお与えください」です。

メッセージにおいて教皇様は、国家間の債務の軽減、死刑の廃止を含むいのちの尊厳を守ること、武力のための資金の一部を飢餓などの軽減のために使うことなど、具体的な提案をされています。このテーマと呼びかけに合わせて国際カリタスも、「国際的な債務を希望へと変えよう」と呼びかけ、25年前の大聖年のように、国際的な債務削減キャンペーンを始めました。このキャンペーンは、英語で「Turn Debt into Hope"と呼ばれています。リンク先は英語ですが、今後カリタスジャパンなどからも呼びかけが行われることになろうかと思います。

国際カリタスの呼びかけの冒頭には、次のように記されています。「世界は緊急でありながら静かに進行する債務危機に直面しています。100 か国以上が不当で持続不可能な公的債務に苦しんでおり、その 65% は民間からの貸し付けで、開発と気候変動対策を完全に妨げているわけではないにしても、減速させています。低所得国では、60% が債務危機に近づいており、人々の将来への投資能力が制限されています。借金返済が医療と教育への支出を上回っているため、33 億人が重要なサービスを受けられず、貧困と不平等がさらに深刻化しています」

このキャンペーンは具体的な署名を求めるものですが、詳細は日本語訳をお待ちください。英語で大丈夫な方は、リンク先から署名へと進んでいただけると幸いです。

以下、本日午前10時に東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた神の母聖マリアの祝日ミサの説教原稿です。

神の母聖マリア
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年1月1日

新しい年、2025年の始まりにあたり、お喜びを申し上げます。

世間ではすでにクリスマスのお祝いはすんだことなのでしょうが、教会は主イエスの降誕をまだ祝い続けおり、それはご公現から主の洗礼まで続きます。主の降誕の出来事から一週間目にあたる本日一月一日を、教会は神の母聖マリアの祝日と定めています。新しい一年のカレンダーのはじめの日に聖母を記念することで、わたしたちの信仰生活においていかに聖母マリアが重要な存在であるのかを、教会は示そうとしています。

天使ガブリエルによる救い主の母となるという驚くべきお告げの出来事に始まって、ベトレヘムへの旅路、そして宿すら見つからない中での出産。その晩の暗闇の中に輝く光。天使たちがほめたたえる中で、新しいいのちの誕生を祝うために真っ先に駆けつけた貧しい羊飼いたち。聖書はこれらの出来事を記していますが、聖母マリアにとってみれば、人生において初めて経験する驚愕の出来事の連続であり、大きな混乱の中にあったことだと思います。

人類の救い主の母となることを告げられたそのときから、また神の御言葉を胎内に宿したそのときから、さらに神のひとり子の母となったそのときから、マリアの心は様々に乱れ、思い悩みも様々にあったことだと思います。しかしルカ福音は、マリアがそういった一連の出来事に惑わされることなく、すべてを心に納めて、それらの出来事によって神が望まれることは何であるのかを思い巡らし続けていたと伝えます。

「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります」と使徒的勧告「福音の喜び」に記された教皇フランシスコは、「マリアは、信仰に生き、信仰のうちに歩まれる、信じる女性です。教会にとって、マリアの比類なき信仰の旅路は変わることのない手引きです」と指摘されます。

激しく変化を続ける社会を目前にして、わたしたちはどうしても一つ一つの出来事に突き動かされて、一喜一憂し、直面する現実に対して時に深く洞察することもなく反応してしまったりします。個人としてだけではなく、社会全体もそのように反応し、極端な言説や行動が見受けられるようになりました。そんな時代に生きているからこそ、わたしたちは聖母マリアが、起こっている出来事を心に納め、神の意思と計画を思い巡らしていたその姿勢に習いたいと思います。

同時に聖母マリアは、単なる模範ではなく、わたしたち教会の母でもあり、歩みをともにしてくださる方でもあります。

始まったばかりの聖年の大勅書「希望は欺かない」において、聖母は、「わたしたちの母、希望の母」と宣言された教皇様は、「民間の信心の中で、聖なるおとめマリアが「海の星(ステラ・マリス)」と呼ばれているのは偶然ではありません。この称号は、人生の荒波の中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼をもって希望し続けるよう招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しておられます

いのちという賜物を与えてくださった神は、人となられた神の御言葉、暗闇に輝く一筋の光として、わたしたちの希望の源ですが、聖母マリアは、その御言葉である御子イエスと歩みをともにされ、わたしたち教会と歩みをともにされる希望の母であります。

新しい年の初めにあたり、聖母が信仰のうちに神のみ旨を求め続けながらイエスと歩みをともにされたように、わたしたちも主の示される道を祈りのうちに求めながら、主とともに歩み、いのちの希望を掲げながら歩む決意を新たにしたいと思います。

さて教会は、新年の第一日目を「世界平和の日」と定めています。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。

今日、世界の平和を考える時、私たちは、もちろんウクライナの現実やガザをはじめとした聖地の惨状、姉妹教会であるミャンマーの現状などを忘れることはできませんし、日本近隣を含め世界各地で見られる政治的軍事的緊張状態や、近年とどまることなく頻発しまた継続している様々な地域紛争や極度に暴力的な事件のことを考えざるを得ません。それだけにとどまらず、全く報道されることがないためにわたしたちが知ることのない暴力的な出来事が、世界各地に存在していることを思うとき、その混乱に巻き込まれ恐れと悲しみの中にある多くの方々、とりわけ子どもたちのことを思わずにはいられません。

新しい一年の始めにあたり、希望の見えない暗闇の中で絶望にとらわれ、様々な形態の暴力に直面し、いのちの危機から抜け出すことのできない多くの人たちに、私たちの心を向けたいと思います。

新しい一年の始めにあたりに、日本をはじめとして、この地域の各国の指導者たちが、さらには世界の国々の指導者たちが、対立と武力による解決ではなく、対話のうちに緊張を緩和する道を見いだし、さらには相互の信頼を回復する政策を率先してとられることを期待したいと思います。 新しい一年の始めにあたり、神からの賜物であるいのちが、その始めから終わりまで守られ、神の似姿としての尊厳が等しく大切にされる世界の実現に、一歩でも近づくように祈ります。

新しい一年の始めにあたり、様々な理由から国境を越えて移動する多くの人に心を向けたいと思います。人が移動し続ける理由は数限りなくありますが、そこには自分が積極的には望まない理由で移動をせざるを得なくなる人たちも多く存在しています。誰一人として忘れられてしまってかまわない人はいません。いのちはすべて神からの賜物です。

教皇様は世界平和の日のメッセージを発表されています。今年は「わたしたちの負い目をゆるしてください、あなたの平和をお与えください」がテーマです。

メッセージ冒頭で教皇様は、「私は特に、過去のあやまちによって重荷を負わされ、他者の裁きによって攻撃され、自分の人生にかすかな希望さえ見いだせないと感じている人たちのことを考えている」と記され、始まったばかりの「希望」をテーマとした聖年において、様々な意味での周辺部に追いやられ排除されている多くの人へ心を向けるよう招かれます。

その上で教皇様は、聖ヨハネパウロ二世教皇の指摘された「構造的な罪」を引用しながら、世界で起きている人間の尊厳をおとしめている様々な出来事に対しては、誰かの責任を糾弾するのではなく、人類全体が何らかの責任を感じ、ともに協力しながら行動するよう求めておられます。

メッセージの終わりで教皇様は、国家間の債務の軽減、いのちの尊厳を守ること、武力のための資金の一部を飢餓などの軽減のために使うことなど、具体的な提案をされています。国際カリタスも、「国際的な債務を希望へと変えよう」と呼びかけ、25年前の大聖年のように、国際的な債務削減キャンペーンを始めました。

平和を実現する道を歩まれたイエスの旅路に、聖母マリアが信仰のうちに寄り添ったように、私たちも神が大切にされ愛を注がれる一人一人のいのちの旅路に寄り添うことを心がけましょう。希望の母である聖母マリアのうちに満ちあふれる母の愛に満たされ、主とともに、聖母とともに、歩みを進めて参りましょう。

 

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「平和のために、ともに希望の旅路を」(2025年年頭の司牧書簡、教区ニュース1/2月号掲載済み)

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主の降誕と新年のお喜びを申し上げます。

昨年末の枢機卿叙任にあたっては、多くの方のお祝いの言葉とお祈りをいただきましたこと、心より感謝申し上げます。教皇さまから与えられたこの務めを果たすために十分な能力がわたしにあるものでもなく、また霊的な深さを持ち合わせているわけでもありません。求められていることを忠実に果たしていくことができるように、みなさまの変わらぬお祈りによる支えを心からお願い申し上げます。

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さて、昨年10月にはシノドスの第二会期がバチカンで開催され、わたしも日本の司教団を代表して参加してきました。この開催を持って、2021年から続いた世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会は閉幕となりました。

 これまでの慣例であれば、総会の最終文書を受け取られた教皇さまは、それに基づいて使徒的勧告を執筆され、教会全体への教えとされます。しかし今回、シノドス総会の最終日に出席された教皇さまは、参加者の投票によって最終文書が採択された直後に、その文書をご自分の文書とされることと、使徒的勧告をあらためて執筆しないと発表されました。すなわち、今回のシノドスの最終文書は、教皇さまご自身の文書となりました。

その上で教皇さまは、「わたしたちは世界のあらゆる地域から集まっています。その中には、暴力や貧困や無関心がはびこっている地域があります。一緒になって、失望させることのない希望を掲げ、心にある神の愛によって結ばれて、平和を夢見るだけでなく全力を尽くして、平和が実現するよう取り組みましょう。平和は耳を傾け合うこと、対話、そして和解によって実現します。シノドス的教会は、ここで分かち合われた言葉に具体的な行動を付け加えることが必要です。使命を果たしに出かけましょう。これがわたしたちの旅路です」と呼びかけられました。

今回のシノドスは、教会のシノドス性そのものを話し合うシノドスでした。特に第二会期では、「宣教するシノドス的教会」であるために、何が求められているのかを、参加者はともに識別しました。教会がシノドス的であるということの意味は、教皇様においては、すべて神の平和の構築に繋がっており、それこそが教会の使命であることが、この言葉からも明確に識ることができます。平和の構築こそは、教皇フランシスコが考える教会にとっての最優先課題です。

そう考えるとき、今の時代ほどその願いの実現からほど遠い世界はありません。

この数年間、世界は歴史に残るようないのちの危機に直面してきました。暗闇が深まった結果は何でしょうか。それは自分の身を守りたいという欲求に基づく利己主義の蔓延と、先行きが見通せない絶望の広まりであって、絶望は世界から希望を奪い去りました。加えて、ミャンマーのクーデターやウクライナでの戦争、そしてガザでの紛争をはじめとして世界の闇がさらに深まるような暴力的な出来事が続き、絶望が世界を支配しています。あまりにも暴力的な状況が蔓延しているがために、世界には暴力に対抗するためには暴力を用いることが当たり前であるかのような雰囲気さえ漂っています。

いま世界で、様々な形の暴力がわたしたちの命に襲いかかっています。神が与えてくださった賜物である命は、その始まりから終わりまで、例外なく、守られなくてはなりません。命を奪う暴力は、どのような形であれ許されてはなりません。

教皇様は、「希望の巡礼者」をテーマとする聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

いま世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。

希望は、どこからか持ってこられるような類いのものではなく、心の中から生み出されるものです。心の中から希望を生み出すための触媒は、共同体における交わりです。互いに支え合い、ともに歩むことによって生まれる交わりです。少ない中からも、互いに自らが持っているものを分かち合おうとする心こそは、交わりの共同体の中に希望を生み出す力となります。希望の巡礼者こそは、今の時代が必要としている存在です。

2025年は第二次世界大戦が終わりを告げて80年の節目の年になります。人類の歴史に大きな傷跡を残した戦争を体験してもなお、人類は闘いをやめようとしません。1981年と2019年、お二人の教皇さまが日本を訪れ、広島と長崎から平和を訴えられました。あらためてお二人の教皇さまの呼びかけの言葉を読み返し、2025年を、神が求められる平和の確立を呼びかける年にしたいと思います。聖年は希望を生み出す巡礼者となることをわたしたちに求めます。神の平和の確立こそは、希望を生み出す源です。争いを解決し、神がわたしたちに賜物として与えられた命の尊厳が守られる世界を実現するために、祈りのうちに行動する一年と致しましょう。

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教皇さまの文書となったことで、シノドスの最終文書はイタリア語原文からの英訳などに時間がかかり、12月に入ってからやっと英語公式訳が公開されました。現在これに基づいて日本語訳が進められていますが、この公式訳には、シノドス総会で投票した際には存在しなかった教皇さまご自身のはじめの言葉が付け加えられています。

そこで教皇さまは、「各地方教会・・・は、教会法と本文書自体に規定されている識別と意思決定のプロセスを通して、文書に含まれている権威ある指摘を、様々な文脈で適用するよう、いま求められています」と記し、さらに、「シノドス第16回通常総会が終了したからといって、シノドスの歩みに終止符が打たれるわけではありません」と述べています。

これからは、わたしたちがこの呼びかけに応える番です。今回のシノドスが求めているのは、いわゆる議会民主制を教会に持ち込むことでは、もちろんありません。司教協議会に例えば教会の教えを決めるような権威を持たせるようなものでもありません。今すぐ教会の伝統的な諸制度を改革しようと呼びかけるものでもありません。それよりも、互いの声に耳を傾けあい、祈りをともにしながら、一緒になって聖霊の導く方向を識別し、その方向に向かってよりふさわしく進む道を見いだすようにと求めているものです。そうすることによって、初めて教会は、宣教するシノドス的な教会になることが可能となります。

東京教区においても、様々なレベルで、シノドス的な識別を取り入れる可能性を探っていかなくてはなりません。そのためには、単に組織構造を変えることが最優先ではありません。まず最初に、霊的識別の道を学ぶことが、はじめの一歩となります。そのための研修などを開催することを、現在検討中です。

同時に、今すぐこの道をたどりながら取り組めることがあります。

2020年に東京教区の宣教司牧方針をお示ししました。これはそれに先だって、多くの共同体からの意見をいただいて集約する中でまとめられた方針で、10年をめどとして達成するべき宣教司牧の優先課題を記したものです。同指針には「今後10年を目途に実施のための取り組みを行い、10年後に評価と反省を試みて、教会のさらなる発展に寄与していきたいと考えています」と記しました。

しかし10年はそれなりに長い時間でもあり、教会が置かれた社会の現実にも変化がありますから、中間となる5年目で一度見直しをすることがふさわしいと判断いたしました。

現在、教区の宣教司牧評議会において、その見直し作業に着手していますが、これを教区全体で行いたいと思います。その見直しにあたって、シノドス的な霊的識別の方法をできる限り取り入れて行くようにしたいと思います。

具体的な見直しについては別途お知らせいたしますが、基本的には次のように考えています。

東京大司教区の宣教司牧方針の三つの柱、①「宣教する共同体をめざして」、②「交わりの共同体をめざして」、③「すべてのいのちを大切にする共同体をめざして」は、変更せずに堅持したいと思います。それに付随する具体的な取り組みについて、これまでの取り組みとこれからの可能性、そしていまの社会の現実の中で必要となってきた取り組み課題などについて、できる限り多くの方の声をいただければと思います。

最初に宣教司牧方針を作成したときのように、個人のお考えではなくて、共同体の声を伺います。共同体における声の集約には、霊における会話の手法などを活用して、聖霊がわたしたち東京教区をどのような道に導いているのか、その方向性を見極める作業に取り組んでいただければと思います。

具体的な方法や、霊における会話の方法、さらにその声を集約する方法などについては、復活節中には、みなさまに具体的にお知らせするように致します。見直しのための小冊子を用意しますので、それぞれの共同体で祈りのうちに、宣教司牧方針の見直しの作業に取り組んでください。この見直しの作業は、一年程度の期間を見込んでいます。

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教会が宣教するシノドス的な教会であることを求められる教皇フランシスコは、ともに支え合い、助け合いながら、力を合わせて祈り続けることで、聖霊の導きをともに識別し、進むべき方向性を見いだす必要性をしばしば強調されています。教皇様の貧しい人や困難に直面する人への配慮は、単に個人的に優しい人だからという性格の問題ではなくて、教会が神の愛といつくしみを具体的に体現する存在であるからに他なりません。従って、教会がともに歩む教会であるのであれば、それは当然、神の愛といつくしみを具体的に示しながらともに歩む教会であって、そこに排除や差別、そして利己主義や無関心が入り込む余地はありません。広く心の目を開き、教会がいま進むべき方向性を、ともに見極めることができれば幸いです。一緒になって教会を広く大きく育てていきましょう。福音を告げていきましょう。新しい働き手を見いだしていきましょう。ともに祈りを捧げましょう。

新しい一年、福音をさらに多くの人に伝えることができるように、ともに歩んで参りましょう。みなさまの上に、またみなさまのご家族の上で、神様の豊かな祝福をお祈りいたします。

2025年1月1日

カトリック東京大司教区 大司教

枢機卿 菊地功

 

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