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2025年2月25日 (火)

教皇様のためにともに祈りを捧げましょう。

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教皇様のためにともに祈りを捧げましょう。

教皇フランシスコは肺炎のため、ローマのジェメリ病院に去る2月14日に入院され、現在も継続して治療を受けておられます。

聖座からの発表では、昨年末頃から長期にわたって風邪のような症状が治まらず、気管支炎の悪化が見られたために入院となったとのことですが、その後、複雑な要因の重なった肺炎が悪化し、数日前には呼吸困難となったことが発表されるなど、一時は重篤な状態でありました。

昨日24日のローマ時間夜7時の記者発表では、重篤な状態であるものの「多少の改善が見られ」、「呼吸困難も見られなかった」と、症状の改善に向かいつつあることが報告されています。

また昨日のローマ時間夜9時から、ローマ在住の枢機卿や各省庁関係者が先導して、教皇様のためのロザリオの祈りが聖ペトロ広場で捧げられることになり、昨晩は数千人の方が集まって国務長官パロリン枢機卿様の先唱でロザリオの祈りが捧げられました。

昨年12月の枢機卿親任式で教皇様にお会いしたときにも、多少風邪気味で、無原罪の聖母の主日ミサの時には、消え入るような声でミサをされていました。しかしそういった状況でも心の中はいつもと変わらぬ熱意にあふれておられました。今年は聖年ということもあり、例年とは異なる行事が多数予定されており、年明けからはそのために完全に健康を回復できないままで多くの行事をこなしておられたと聞いています。

ペトロの後継者である教皇様はローマの司教であり、同時に普遍教会の牧者です。わたし達の牧者である教皇フランシスコのために、全世界の教会の兄弟姉妹とともに、わたし達も祈りを捧げましょう。

2025年2月25日

カトリック東京大司教区大司教
枢機卿 菊地功

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2025年2月22日 (土)

週刊大司教198回:年間第7主日

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年間第7主日です。

ご存じのように、教皇フランシスコは肺炎のため、ローマのジェメリ病院に2月14日に入院され、治療を受けておられます。12月の枢機卿親任式でお会いしたときにも多少風邪気味で、無原罪の聖母の主日ミサの時には、消え入るような声でミサをされていましたが、それでも外面的にはお元気そうでした。しかしその後、いろいろと行事があり、特に聖年が始まって通常以上の行事が予定されていたことから、完全に回復することのないままにお仕事を続けておられたのだと推測します。

広報省からの発表によれば、複雑な状況であるものの治療が効いているとのことです。ともに教皇様の回復のために祈りましょう。

2月17日午後から20日夕方まで、司教総会が行われました。今年から会計年度が12月締めから3月締めに変わりましたので、この司教総会は2024年度の臨時司教総会となります。決定事項の詳細については中央協議会から公表されるますので、そちらをご覧ください。

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日本の司教協議会の事務局であるカトリック中央協議会が、現在の江東区潮見に移転したのは1992年でした。そのときに新築された建物、日本カトリック会館も今年で建築から33年が経過しました。建物自体は堅牢で、海に面していることから海風や塩の影響はあるものの、まだまだ活用していくことができます。しかし、躯体の中身である配管や内装など諸々の設備については更新が不可欠です。そのため、今年の4月から始めて、通常の業務を行いながら順番にリニューアルをしていくことになりました。

そのタイミングに合わせて、これまで長年にわたり検討を重ねてきた事務局体制の更新も行うことに致しました。以前からの様々な議論に基づいて、検討チームが具体案をまとめ、今回の総会で、事務局の組織機構を変更することを決定しました。同時に司教協議会の委員会体制についても、これを機会に変更することにし、これについては6月の司教総会で新しい司教様方の委員会体制の任命を行う予定です。

新しい体制の詳細については、中央協議会から公表されますので、お待ちください。また実際に運営してみて不都合があるときには、フレキシブルに改善することにもしています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第198回、年間第7主日のメッセージ原稿です。

年間第7主日C
週刊大司教第198回
2025年2月23日

希望の巡礼者として聖年を歩んでいるわたしたちに、ルカ福音は、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」と呼びかけています。

教皇様は大勅書「希望は欺かない」に、「希望をもって将来を見ること、それは、伝える熱意にあふれた人生観をもつことでもあります(9)」と記し、その上で、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます(10)」と呼びかけておられます。わたしたちは、豊かに愛してくださる神の愛とあわれみを具体的に生きる者となるように招かれています。

いくつかの具体的な困難の事例を挙げられる教皇様は、その中に、「難民や移住者」の現状をあげ、そういった方々にとっての「希望のしるし」となるようにと、教会に呼びかけます。

「偏見や排斥によって、彼らの期待がくじかれることがありませんように。一人ひとりをその尊厳ゆえに喜んで迎えることには、だれもが望ましい未来を築く権利を奪われないようにする、責任が伴います。国際的な緊張状態によって、戦争、暴力、差別を避けるには逃げるしかない多くの亡命者、強制移住者、難民には、安全、就労、教育の機会を保障すべきです。それらは、新しい社会環境に溶け込むために必要な手立てなのです(13)」

その上で教皇様は、「キリスト者の共同体にはつねに、もっとも弱い立場の人々の権利を守る用意がなければなりません。よりよい生活への希望をだれ一人奪われることのないよう、広い心で歓待の扉を開け放ってください」と、わたしたちに呼びかけておられます。

ルカ福音は、人の生きる姿勢について、この世の常識とは真っ向から異なる選択肢を掲げた後に、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と記します。

わたしたち自身は、自分が何をしてほしいのかを、どうして知っているのでしょう。わたしたちは自分自身を大切に思い、自らの身体と心の声に真摯に耳を傾けるからこそ、自分自身にとって何が必要なのかを識別することができています。

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉は、わたしたちに隣人への思いやりの心を求めます。隣人の声に耳を傾ける姿勢を求めます。隣人のいのちの尊厳を尊重し、そのいのちを守り、共に生きていくことを求めています。

さらに福音は「人を裁くな」と言われたイエスの言葉を記します。わたしたちはそもそも簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義があると思い込み、様々な手段を通じて幾たび人を裁いてきたことでしょう。正義はどこにあるのでしょうか。いのちに対する暴力がはびこるこの現実の中で、わたしたちは不安のあまり寛容さを失い、安易に他者を裁いては安心を得ようとしています。そのようなわたしたちに対して、ルカ福音は主イエスの言葉として、「あなたがたは自分の計る量りで計り返される」と伝えます。この言葉こそは、わたしたちひとり一人の心に深く記しておきたい言葉です。

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2025年2月17日 (月)

週刊大司教第197回:年間第六主日

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この週末は、新潟教区へ出かけていましたので、週刊大司教の更新が遅くなってしまいました。

新潟教区はわたしにとって、2004年から2017年まで司教を務めさせて頂いた地であり、またその後も成井司教様が誕生するまで、東京と兼任で管理者を務めていた教区です。その意味で、今の司教としてのわたしのあり方を形作ってくださった教会共同体は、新潟教区の教会共同体です。

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わたしが在任中に、当時の新潟地区で信徒養成講座を始めました。それぞれの小教区共同体の規模が小さい教区ですから、地区としてまとまって講座をするのが一番と考えたからです。それが今でも続いており、今年の信徒養成講座に、シノドスのお話をするために招いていただきました。土曜日の午後に、カテドラルである新潟教会を会場に、集まってくださった大勢の方々を前に、今般のシノドスについて、またこれからの取り組みについて、お話をさせていただきました。

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またわたしを育ててくださった教区に、枢機卿に親任されてからまだお礼に訪れていませんでしたので、16日の日曜日には、新潟教会で感謝のミサを捧げさせていただきました。成井司教様、主任の田中神父様、教区事務局長の大瀧神父様、引退されている町田神父様と一緒に、ミサを捧げさせていただき、聖堂は、近隣の小教区の方も含めて大勢の方に参加いただきました。お祝いの言葉や激励、そしてたくさんの霊的花束を通じたお祈りの約束も頂きました。感謝します。

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この週末は、奇跡的に天気が回復し、一週間前は大雪だったのですが、この土曜日はきれいな青空でした。おかげさまで、懐かしい海岸まで出て日本海を眺めたら佐渡島まで見えていましたし、変化しようとしている新潟市の中心地行きも歩いて回り、懐かしさに満たされることもできました。日本海側の地域全体として、高齢化が進んでいるのは事実で、これから教会も厳しい現実に直面せざるを得ないと思われますが、しかしこの日のミサには大勢のベトナム出身の若者たちだけでなく、幼い子供を連れた家族連れの姿も見られ、これからも共同体が力強く続いていく可能性を見ることができました。東京教区と比較をすれば司祭の数は絶対的に少なく、成井司教様が教区司祭団では一番の若手なくらいですし、主任司祭は一人で二つや三つの教会を担当しているなど、司牧に大変な思いをされていると思います。その中でも、成井司教様の耳を傾けともに歩む姿勢が良く現れた宣教司牧方針が力強く語っているように、福音をあかしする共同体として、これからも困難を乗り越えて歩んで行かれることと思います。いろいろな形で、東京からも応援したいと思います。

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以下、土曜日、15日午後6時配信の週刊大司教第197回目のメッセージ原稿です。

年間第6主日C
週刊大司教第197回
2025年2月16日

希望の巡礼者としてこの聖年を歩んでいるわたしたちに、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」と言う福音の言葉が、希望を生み出す真の幸いについて黙想するようにと促しています。

教皇様は、大勅書「希望は欺かない」に、「キリスト者の希望は、裏切ることも欺くこともありません。なぜならそれは、何事も何者も神の愛からわたしたちを引き離すことはできないという確信に根ざすものだからです」と記しています。この世界が生み出す物質的な富や名誉は、一時的な喜びを生み出すことはあっても、永続的な幸福の源とはなりません。なぜなら、真の幸福は神の愛に満たされたところにこそあり、その愛はわたしたちを裏切ったり欺いたりすることのない永遠の希望をもたらします。

とはいえ現実の社会は様々な苦しみに満ちあふれ、いのちの尊厳は常に危機に直面させられています。この現実の困難の中で、わたしたちは希望を見いだすことに困難を感じることがしばしばあります。教皇様は、「人生は喜びと苦しみが織りなすものだということ、愛は問題が増すとき試練に遭うということ、希望は苦しみの前ではついえそうになるものだということを知っています」と「希望は欺かない」に記します。

その上で、パウロのローマの教会への手紙を引用して、「(わたしたちは)苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを(ローマ5・3―4)」と記しています。

本日のルカ福音と同じイエスの言葉を記すマタイ福音には、八つの「幸い」が記されていることから、このイエスの教えを「真福八端」と呼んでいます。ルカ福音には四つの幸せと四つの不幸が記されています。教会のカテキズムには、「真福八端はイエス・キリストの姿を描き、その愛を映し出しています。受難と復活というキリストの栄光に与る信者たちの召命を表し、キリスト者の生活を特徴づける行動と態度とを明らかにする」と記し(カテキズム1717)、苦しみと栄光が神においては表裏一体であることを指摘します。

苦しみや忍耐というこの世では「幸い」とは考えられない中に希望を見いだすという、逆説的な信仰者の生き方の中にこそ、神の祝福があることを、このイエスの言葉は明確にしています。わたしたちが真の希望に満たされて歩み続けることができるために、この世界で当然だと考えられる幸せの基準の中で生きるのではなく、キリストとともに苦難の道を歩み続けること、また苦難のうちにある人たちとともに、真の希望を見いだすために歩み続けることが求められています。

苦しみが絶望に支配されることのないようにするために、苦しみの前で何も挑戦をせず諦めてしまうのではなく、互いに支え合い、希望に到達する道を探りたいと思います。そのためにも、神からの賜物であるそれぞれのいのちの尊厳が守られる社会が実現するために、互いに神のいつくしみと愛を心に抱き、それを目に見える形であかししながら、力を合わせて歩み続けることが必要です。ともに旅を続ける希望の巡礼者でありましょう。

 

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2025年2月 8日 (土)

週刊大司教第196回:年間第五主日

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年間第五主日です。

今週の火曜日、2月11日はルルドの聖母の祝日ですが、世界病者の日とされています。教皇様の今年のメッセージのタイトルは、聖年にちなんで「希望は欺かない」ですが、本文は中央協議会のこちらのリンクからご一読いただけます。

また当日は、午後2時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で病者の日のミサがカリタス東京の主催で行われますが、こちらはどなたでもご参加いただけます。このミサはわたしが司式いたします。またYoutubeでの配信も行われます。どうぞご参加ください。

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また本日のメッセージでも触れていますが、この一週間は日本の殉教者の記念日が続きました。毎年恒例になっていますが、墨田区の本所教会では、2月の最初の日曜日に日本二十六聖人殉教者の殉教祭ミサが捧げられており、今年も2月2日にわたしが司式して捧げられました。聖年の巡礼ということもあり、今年のミサには様々な小教区の方々が参加してくださいました。(上の写真)

さらに2月8日は聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。メッセージの中で詳しく触れていますが、奴隷としてアフリカから人身売買の被害者としてイタリアにたどり着いた彼女は、その後、カノッサ会の修道女となりました。彼女の人生にちなんで、この日は女子修道会国際総長会議によって「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」とされています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第196回、年間第五主日のメッセージです。

年間第5主日C
週刊大司教第196回
2025年2月9日

「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエスに応えたシモン・ペトロは、その後、生涯にわたってまさしく主の「お言葉ですから」と、教会の頭としての務めを果たし続けました。召命は、神からの呼びかけであって、自分の選択ではなく、果たすべき役割も、自分の選択ではなく、神の計画です。その神の計画は、人の知恵を遙かに超えていることが、この福音の物語から理解されます。人間の常識的にはあり得ないけれど、「お言葉ですから」と網を下ろした結果は、神の計画の実りでありました。

教皇フランシスコが、教会のシノドス性について取り上げた先のシノドスの最中、総会の参加者に繰り返されたのは、「主役はあなた方ではなくて、聖霊です」という言葉でした。シモン・ペトロの後継者としての教皇様は、まさしくわたしたちが従うべきなのは人間の知恵ではなく聖霊の導きであって、常に「お言葉ですから」とその導きに従う覚悟を持つことの大切さを説いておられました。いま教会に必要なのは、この世の知恵に基づく識別ではなく、神の知恵に基づく識別です。聖霊が主役です。

この一週間は、2月3日に福者高山右近、2月5日に日本26聖人殉教者と、日本の殉教者の記念日が続きました。

「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実の勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。殉教者たちこそは、「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と答え続けて信仰の道を歩んだ方々です。信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、その勇敢な死に賞賛の声を上げるだけでなく、殉教者たちの生きた姿勢と信仰におけるその選択の勇気に、わたしたち自身がいのちを生きる希望の道を見いださなくてはなりません。

ところで2月8日は、聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれ、7歳にして奴隷として売り飛ばされ、その後イタリアで1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。

人身売買の被害者であった聖人の祝日に当たり、女子修道会の国際総長会議(UISG)は、2月8日を「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」と定めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としています。

聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間の尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために祈りたいと思います。人身売買は過去のことや我々とは関係のないところで起きているわけではありません。人間の尊厳を奪われ、自由意志を尊重されることなく、隣人としてではなくモノのように扱われる人は、わたしたちが生きている世界と無関係ではありません。

神からの賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく守られ、神の似姿としての人間の尊厳は、徹底的に尊重されなくてはなりません。

 

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2025年2月 2日 (日)

2025年奉献生活者のミサ@麹町教会

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今年の2月2日は主の奉献の主日ですが、その前日の土曜日、2月1日午後2時から、聖イグナチオ麹町教会で、男女の修道会協議会(カトリック管区長協議会と女子修道会総長管区長会)の主催で、奉献生活者のミサが捧げられました。主の奉献の祝日が、奉献生活者の日と定められていることと、今年は聖年の行事としても重要です。日本ではチェノットゥ教皇大使の時代に、大使の呼びかけで始まりました。

今年はまず始めに5名の若手の奉献生活者(男子二人、女子三人)から、ご自分の召命物語の分かち合いがあり、その後でミサが始まりました。司式はわたし、修道会担当の山野内司教様が一緒され、何名かの管区長さんたちも参加してくださいました。聖堂は各修道会の会員で盛況でしたが、今年は特に修道会だけでなく、在俗会や奉献生活を営む共同体にも参加を呼びかけたので、若手のメンバーの参加も目立ちました。

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奉献では、シスター方による祈りの踊りの奉納もあり、またミサ後には、誓願宣立10周年を迎えた修道者に、山野内司教様からお祝いが贈られました。その中には、10年前、東北の震災救援の経験を経て修道会に入り、わたしが司式して初誓願を立てた方もおられ、わたしにとっても感無量でした。

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以下、説教の原稿です。

奉献生活者ミサ
2025年2月1日
聖イグナチオ麹町教会

ルカ福音は、誕生から40日後に、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」、両親によってイエスがエルサレムの神殿において神に捧げられた出来事を記しています。長年にわたって忍耐強く救い主の出現を待ちわびていた老預言者シメオンやアンナは、喜びのうちに救い主を迎えました。

教皇フランシスコは、昨年の主の奉献の祝日ミサ説教で、この二人が、忍耐強く神を待つ姿に触れて、こう言われています。

「この二人は年齢的には高齢者ですが、心には若さがみなぎっています。長い年月は彼らを疲れさせることはありません。希望を持って神を待ち望むことに目を向け続けているからです。・・・人生の様々な困難に直面し続けても、彼らは希望から引退することはありませんでした。」

その上で教皇様は、わたしたちにとっても忍耐強く神を待ち続けることは、信仰の旅路を続ける上で不可欠だと指摘され、「わたしたちにも起こりうる最悪なことは、希望を絶望と諦めの暗闇に閉じ込め、霊的に眠り込んでしまうことです」と述べておられます。

この一年わたしたちは、希望の巡礼者をテーマに聖年の道を歩んでいますが、教皇様は大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、現代社会の現実について次のように記しておられます。

「希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心に宿っています。けれども将来が予測できないことから、相反する思いを抱くこともあります。信頼から恐れへ、平穏から落胆へ、確信から疑いへ。わたしたちはしばしば、失望した人と出会います」

とりわけ、感染症の暗闇に包まれ、またその最中にウクライナやガザなどで武力による紛争が発生し、不安の暗闇の中で明るい未来が見通せない現代社会にあって、希望を口にすることは簡単でも、それを心の底から感じることには困難さがあります。

教会はその中にあって、愛である神のうちに希望は確実に存在し、忍耐強く困難に耐え、神の計画の実現を待ち続けることの重要さを示そうとしています。

同時に福音は、シメオンが出会った救いの希望は、新たに誕生した幼子のいのちのうちに存在した出来事を記して、真の希望は、聖霊の働きによって絶えず新たにされ、常に新しい輝きを放ち続けていることを、具体的に示そうとしています。

わたしたちはこの社会の現実の中で、希望を具体的に生き、示す存在となっているでしょうか。それとも「希望を絶望と諦めの暗闇に閉じ込め、霊的に眠り込んで」いる存在なのでしょうか。常に新しさのうちに輝く神の希望に、心の目を開いているでしょうか。

福音は、シメオンが「霊に導かれて」神殿に向かったと記しています。シメオンは聖霊に導かれて行動することで、この場面の主役が聖霊であることを明確に示します。

2022年の主の奉献の祝日の教皇様の説教における言葉です。

「この場面では聖霊が主役です。・・・聖霊はシメオンに神殿に行くように促し、彼の目に幼く貧しい赤ん坊の姿であってもメシアを認識させるのです。聖霊はこのように働きます。偉大なもの、外見、力の誇示ではなく、小ささ、弱さの中に神の現存と行いを見分けることができるようにしてくれるのです」

「聖霊が主役です」と言うことばは、教会のシノドス性を問いかけるシノドスの総会の最中に、教皇様がしばしば繰り返されたことばでもあります。教皇様はシノドスの参加者に、「皆さんの好き嫌いを聞いているのではありません。聖霊が主役です」と繰り返されました。わたしたちは自分がしたいと思うこと、願うことをしたいのではなく、主役である聖霊に身を任せる勇気と識別と決断が必要です。聖霊が主役であることを忘れるところに、教会のシノドス性はあり得ません。

聖家族と出会ったシメオンは、奉献された幼子イエスこそが「救い」であり、神の希望は「偉大なもの、外見、力の誇示のうちにはなく」「小ささ、よわさのうちに」あることを明示しています。

「希望の巡礼者」と言うテーマを耳にするたびに、わたしは2007年に司教として初めてアドリミナに出かけ、教皇ベネディクト16世と個人謁見をしたときのことを思い出します。教皇様は、当時わたしが担当していた新潟教区の現状に耳を傾けた後、わたしに、「あなたの教区の希望は何ですか」と問いかけられました。

残念ながら、信徒の数や洗礼の数などからしても、決して希望に満ちあふれた事実を思いつかなかったわたしは返答に困りましたが、しばらく考え込んでから、そういえばと答えたのが、海外からの、特に日本の農村で結婚しているフィリピン出身の信徒の方々の存在でした。教会が存在しない農村部に信仰者が大勢いることもそうですし、日曜日に教会に行きたいと言って、ご主人たちを教会に連れてくることも、力強い信仰のあかしであり、福音宣教の希望でした。

どんな困難の中にあっても、神は希望を取り去ることはない。必ずその困難さの中に、新しい希望の種を与えてくれるのだ。なぜならば福音宣教はわたしたちの業ではなくて、神様の業であるからに他なりません。

そして、年老いたシメオンが新しいいのちのうちに希望を見いだし、その新しい希望に道を譲ったように、わたしたちも常に新しい希望を見いだし、それに身を委ねる勇気を持たなくてはなりません。これまでこうしてきたからとか、いつもこうしているからではなくて、常に新しい聖霊の導きに身を任せる勇気を持ちたいと思います。「福音の喜び」に、「宣教を中心にした司牧では、いつもこうしてきたという安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と記されていました。常に与えられている新しい希望の種を見失わないように致しましょう。

教皇ベネディクト16世は使徒的勧告「愛の秘跡」において、「教会が奉献生活者から本質的に期待するのは、活動の次元における貢献よりも、存在の次元での貢献です」という興味深い指摘をされています。教皇は、「神についての観想および祈りにおける神との絶えざる一致」こそが奉献生活の主要な目的であり、奉献生活者がそれを忠実に生きる姿そのものが、「預言的なあかし」なのだと指摘されています。

先日アメリカ合衆国の大統領就任式の翌日、米国聖公会のカテドラルで行われた礼拝における主教様の説教が話題になりました。主教様が大統領に向かって、いつくしみを、あわれみを示してくださいと呼びかけたことが話題になっています。その語りかけた内容の是非ではなくて、行動そのもの、すなわち権力におもねることなく、忖度することなく、信じることを語る勇気に力づけられます。宗教者が権力におもねてしまって、信じる理想を語らなくなってはおしまいです。それでは宗教者である意味はありません。彼女は、おもねることなく、流されることなく、信じている神のいつくしみを、神の愛を、賜物であるいのちとその尊厳を守ることを、証ししなくてはならないと、自らの信念を貫いて語った彼女の信仰における勇気と姿勢に敬意を表したいと思います。

わたしたちは、教皇ベネディクト16世が言われるような、「存在の次元で」福音をあかしすることで、教会に貢献する者でしょうか。

奉献生活には、様々な形態があり、修道会や共同体には、それぞれ独自のカリスマとそれに基づいた活動があります。世俗化と少子高齢化が進む社会では、多くの修道会が召命の危機に直面していますが、その中にあっても、わたしたちは何をしたいのかではなくて、どう生きたいのかを見極め、常に聖霊によって導かれて、神が新しく与えてくださる希望の種を見いだし、それに勇気を持って身を任せるものでありたいと思います。困難に遭っても、絶望することなく、耐え忍びながら、希望をあかしする努力を続けて参りましょう。

なお聖イグナチオ教会事務室のYoutubeアカウントから、当日のビデオをご覧いただけます。

 

 

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2025年2月 1日 (土)

週刊大司教第195回:主の奉献の主日

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2月2日は主の奉献の祝日です。今年はちょうど日曜日と重なり、主の奉献の主日となりました。

1997年に教皇ヨハネパウロ二世は、この日を奉献生活者の日と定められています。この日に合わせて奉献生活者のミサが各地で行われますが、東京でも男女の修道会管区長総長会の主催で、聖イグナチオ麹町教会で、2月1日午後2時からミサが行われました。ミサの中では、誓願宣立10周年を迎えられた奉献生活者のお祝いも行われました。

教皇ヨハネパウロ二世は、1997年の最初の奉献生活者の日のメッセージに、その目的は三つあると記しています。

「第一に、より荘厳に主を賛美し、奉献生活という偉大な賜物に対して主に感謝したいというわたしたちの内なる願いに応えることです。奉献生活は、その多様なカリスマと、神の国のために完全に捧げられた多くの方の生き方によって生み出された輝かしい実りによって、キリスト者共同体を豊かにし喜びを与えます」

「第二に、この日は、神の民全体が奉献生活についての知識を深め、それを評価することの促進を目的としています」

「第三の理由は奉献生活者に直接関係するものです。奉献生活者は、主が彼らの中で成し遂げた素晴らしい業を荘厳に共に祝い、より深められた信仰によって、聖霊が彼らの生き方に輝かせている神の美しさを発見し、教会と世界における彼らのかけがえのない使命をより鮮明に自覚するよう招かれています」

時代の流れの中で、そして世界各地のそれぞれの社会状況の中で、最もふさわしい方法で福音をあかしして生きるために、奉献生活者の生き方も変化を続けています。少子高齢化が激しく進み世俗化が深まる日本のような国では、奉献生活の道を選択する若者も減少しています。その現実の中にあっても、教会は奉献生活者の生きる姿を通じた福音の証しに意味を見いだしています。あらためて奉献生活に生きる道について、わたしたちの理解を深め、その道に生きる人たちのために祈りを捧げたいと思います。

また2月3日は福者高山右近、そして2月5日は日本26聖人殉教者と、日本の教会の歴史にとって重要な殉教者の記念日が続きます。2月2日の主日に、墨田区にある本所教会では長年にわたって26聖人殉教祭を行っていますが、今年も、本所教会10時のミサを、私が司式させていただきます。

一番上の写真は、2017年に大阪で行われた高山右近の列福式です。教皇様の代理として司式してくださったのは当時の列聖省長官、アマート枢機卿様でした。アマート枢機卿様は12月31日に帰天されました。永遠の安息をお祈りいたします。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第195回目、主の奉献の主日メッセージ原稿です。

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週刊大司教第195回
2025年2月2日

ルカ福音は、誕生から40日後に、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」、両親によってイエスがエルサレムの神殿において神に捧げられた時の様子を記しています。

教皇フランシスコは、2022年の主の奉献の主日ミサ説教で、こう言われています。

「シメオンは「霊に動かされ」(27節)、神殿に向かいます。この場面では聖霊が主役です。・・・聖霊はシメオンに神殿に行くように促し、彼の目に幼く貧しい赤ん坊の姿であってもメシアを認識させるのです。聖霊はこのように働きます。偉大なもの、外見、力の誇示ではなく、小ささ、弱さの中に神の現存と行いを見分けることができるようにしてくれるのです」

「聖霊が主役です」と言うことばは、シノドス性を問いかけるシノドスの総会の最中に、教皇様がしばしば繰り返されたことばでもあります。教皇様はさらにこの説教で問いかけます。

「私たちを後押ししているものは何なのでしょうか。私たちを前進させ続ける愛とは何でしょうか。聖霊でしょうか、それともその時々の情熱でしょうか、それとも他の何かでしょうか」

わたしたちも聖霊の導きを常に識別し、シメオンのように正しい道を選択するものでありたいと思います。

聖家族と出会ったシメオンは、奉献された幼子イエスこそが「救い」であり、「異邦人を照らす啓示の光」であると宣言します。同時にシメオンは、その人生の道のりが苦難に満ちあふれていることも宣言し、母マリアに対して「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と述べ、イエスの救いのわざに聖母が常に伴うことを示しています。神に自分自身を捧げることは、同時に、他者の救いのために、自らが苦しむ道を選択することでもあります。

主の奉献の主日は、教会における奉献生活者の存在に目を向ける日でもあります。奉献生活者とは、いわゆるシスターやブラザーや他の名称でわたしたちが親しみを込めて呼ぶ、修道生活を営んでいる方々です。

ベネディクト16世は使徒的勧告「愛の秘跡」において、「教会が奉献生活者から本質的に期待するのは、活動の次元における貢献よりも、存在の次元での貢献です」という興味深い指摘をされています。教皇は、「神についての観想および祈りにおける神との絶えざる一致」こそが奉献生活の主要な目的であり、奉献生活者がそれを忠実に生きる姿そのものが、「預言的なあかし」なのだと指摘されています。

その意味で、教皇ヨハネパウロ二世が、使徒的勧告「奉献生活」の中で、「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です」と述べて、奉献生活が、「教会の使命の決定的な要素として教会のまさに中心に位置づけられます」と指摘するところに、現代の教会における奉献生活者の果たす重要な役割を見いだすことができます。

奉献生活には、様々な形態があり、修道会や共同体には、それぞれ独自のカリスマとそれに基づいた活動があります。世俗化と少子高齢化が進む社会では、多くの修道会が召命の危機に直面していますが、その中にあっても、わたしたちは何をしたいのかではなくて、どう生きたいのかを見極め、常に聖霊によって導かれているのかどうかを、見極めるものでありたいと思います。それはすべての信仰者の務めです。

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