今年の2月2日は主の奉献の主日ですが、その前日の土曜日、2月1日午後2時から、聖イグナチオ麹町教会で、男女の修道会協議会(カトリック管区長協議会と女子修道会総長管区長会)の主催で、奉献生活者のミサが捧げられました。主の奉献の祝日が、奉献生活者の日と定められていることと、今年は聖年の行事としても重要です。日本ではチェノットゥ教皇大使の時代に、大使の呼びかけで始まりました。
今年はまず始めに5名の若手の奉献生活者(男子二人、女子三人)から、ご自分の召命物語の分かち合いがあり、その後でミサが始まりました。司式はわたし、修道会担当の山野内司教様が一緒され、何名かの管区長さんたちも参加してくださいました。聖堂は各修道会の会員で盛況でしたが、今年は特に修道会だけでなく、在俗会や奉献生活を営む共同体にも参加を呼びかけたので、若手のメンバーの参加も目立ちました。
奉献では、シスター方による祈りの踊りの奉納もあり、またミサ後には、誓願宣立10周年を迎えた修道者に、山野内司教様からお祝いが贈られました。その中には、10年前、東北の震災救援の経験を経て修道会に入り、わたしが司式して初誓願を立てた方もおられ、わたしにとっても感無量でした。
以下、説教の原稿です。
奉献生活者ミサ
2025年2月1日
聖イグナチオ麹町教会
ルカ福音は、誕生から40日後に、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」、両親によってイエスがエルサレムの神殿において神に捧げられた出来事を記しています。長年にわたって忍耐強く救い主の出現を待ちわびていた老預言者シメオンやアンナは、喜びのうちに救い主を迎えました。
教皇フランシスコは、昨年の主の奉献の祝日ミサ説教で、この二人が、忍耐強く神を待つ姿に触れて、こう言われています。
「この二人は年齢的には高齢者ですが、心には若さがみなぎっています。長い年月は彼らを疲れさせることはありません。希望を持って神を待ち望むことに目を向け続けているからです。・・・人生の様々な困難に直面し続けても、彼らは希望から引退することはありませんでした。」
その上で教皇様は、わたしたちにとっても忍耐強く神を待ち続けることは、信仰の旅路を続ける上で不可欠だと指摘され、「わたしたちにも起こりうる最悪なことは、希望を絶望と諦めの暗闇に閉じ込め、霊的に眠り込んでしまうことです」と述べておられます。
この一年わたしたちは、希望の巡礼者をテーマに聖年の道を歩んでいますが、教皇様は大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、現代社会の現実について次のように記しておられます。
「希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心に宿っています。けれども将来が予測できないことから、相反する思いを抱くこともあります。信頼から恐れへ、平穏から落胆へ、確信から疑いへ。わたしたちはしばしば、失望した人と出会います」
とりわけ、感染症の暗闇に包まれ、またその最中にウクライナやガザなどで武力による紛争が発生し、不安の暗闇の中で明るい未来が見通せない現代社会にあって、希望を口にすることは簡単でも、それを心の底から感じることには困難さがあります。
教会はその中にあって、愛である神のうちに希望は確実に存在し、忍耐強く困難に耐え、神の計画の実現を待ち続けることの重要さを示そうとしています。
同時に福音は、シメオンが出会った救いの希望は、新たに誕生した幼子のいのちのうちに存在した出来事を記して、真の希望は、聖霊の働きによって絶えず新たにされ、常に新しい輝きを放ち続けていることを、具体的に示そうとしています。
わたしたちはこの社会の現実の中で、希望を具体的に生き、示す存在となっているでしょうか。それとも「希望を絶望と諦めの暗闇に閉じ込め、霊的に眠り込んで」いる存在なのでしょうか。常に新しさのうちに輝く神の希望に、心の目を開いているでしょうか。
福音は、シメオンが「霊に導かれて」神殿に向かったと記しています。シメオンは聖霊に導かれて行動することで、この場面の主役が聖霊であることを明確に示します。
2022年の主の奉献の祝日の教皇様の説教における言葉です。
「この場面では聖霊が主役です。・・・聖霊はシメオンに神殿に行くように促し、彼の目に幼く貧しい赤ん坊の姿であってもメシアを認識させるのです。聖霊はこのように働きます。偉大なもの、外見、力の誇示ではなく、小ささ、弱さの中に神の現存と行いを見分けることができるようにしてくれるのです」
「聖霊が主役です」と言うことばは、教会のシノドス性を問いかけるシノドスの総会の最中に、教皇様がしばしば繰り返されたことばでもあります。教皇様はシノドスの参加者に、「皆さんの好き嫌いを聞いているのではありません。聖霊が主役です」と繰り返されました。わたしたちは自分がしたいと思うこと、願うことをしたいのではなく、主役である聖霊に身を任せる勇気と識別と決断が必要です。聖霊が主役であることを忘れるところに、教会のシノドス性はあり得ません。
聖家族と出会ったシメオンは、奉献された幼子イエスこそが「救い」であり、神の希望は「偉大なもの、外見、力の誇示のうちにはなく」「小ささ、よわさのうちに」あることを明示しています。
「希望の巡礼者」と言うテーマを耳にするたびに、わたしは2007年に司教として初めてアドリミナに出かけ、教皇ベネディクト16世と個人謁見をしたときのことを思い出します。教皇様は、当時わたしが担当していた新潟教区の現状に耳を傾けた後、わたしに、「あなたの教区の希望は何ですか」と問いかけられました。
残念ながら、信徒の数や洗礼の数などからしても、決して希望に満ちあふれた事実を思いつかなかったわたしは返答に困りましたが、しばらく考え込んでから、そういえばと答えたのが、海外からの、特に日本の農村で結婚しているフィリピン出身の信徒の方々の存在でした。教会が存在しない農村部に信仰者が大勢いることもそうですし、日曜日に教会に行きたいと言って、ご主人たちを教会に連れてくることも、力強い信仰のあかしであり、福音宣教の希望でした。
どんな困難の中にあっても、神は希望を取り去ることはない。必ずその困難さの中に、新しい希望の種を与えてくれるのだ。なぜならば福音宣教はわたしたちの業ではなくて、神様の業であるからに他なりません。
そして、年老いたシメオンが新しいいのちのうちに希望を見いだし、その新しい希望に道を譲ったように、わたしたちも常に新しい希望を見いだし、それに身を委ねる勇気を持たなくてはなりません。これまでこうしてきたからとか、いつもこうしているからではなくて、常に新しい聖霊の導きに身を任せる勇気を持ちたいと思います。「福音の喜び」に、「宣教を中心にした司牧では、いつもこうしてきたという安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と記されていました。常に与えられている新しい希望の種を見失わないように致しましょう。
教皇ベネディクト16世は使徒的勧告「愛の秘跡」において、「教会が奉献生活者から本質的に期待するのは、活動の次元における貢献よりも、存在の次元での貢献です」という興味深い指摘をされています。教皇は、「神についての観想および祈りにおける神との絶えざる一致」こそが奉献生活の主要な目的であり、奉献生活者がそれを忠実に生きる姿そのものが、「預言的なあかし」なのだと指摘されています。
先日アメリカ合衆国の大統領就任式の翌日、米国聖公会のカテドラルで行われた礼拝における主教様の説教が話題になりました。主教様が大統領に向かって、いつくしみを、あわれみを示してくださいと呼びかけたことが話題になっています。その語りかけた内容の是非ではなくて、行動そのもの、すなわち権力におもねることなく、忖度することなく、信じることを語る勇気に力づけられます。宗教者が権力におもねてしまって、信じる理想を語らなくなってはおしまいです。それでは宗教者である意味はありません。彼女は、おもねることなく、流されることなく、信じている神のいつくしみを、神の愛を、賜物であるいのちとその尊厳を守ることを、証ししなくてはならないと、自らの信念を貫いて語った彼女の信仰における勇気と姿勢に敬意を表したいと思います。
わたしたちは、教皇ベネディクト16世が言われるような、「存在の次元で」福音をあかしすることで、教会に貢献する者でしょうか。
奉献生活には、様々な形態があり、修道会や共同体には、それぞれ独自のカリスマとそれに基づいた活動があります。世俗化と少子高齢化が進む社会では、多くの修道会が召命の危機に直面していますが、その中にあっても、わたしたちは何をしたいのかではなくて、どう生きたいのかを見極め、常に聖霊によって導かれて、神が新しく与えてくださる希望の種を見いだし、それに勇気を持って身を任せるものでありたいと思います。困難に遭っても、絶望することなく、耐え忍びながら、希望をあかしする努力を続けて参りましょう。
なお聖イグナチオ教会事務室のYoutubeアカウントから、当日のビデオをご覧いただけます。