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2025年3月29日 (土)

ミャンマーでの地震発生にあたって、ともに祈りましょう

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ミャンマー中部マンダレー近郊を震源地とする大地震が発生したことを受けて、わたしから東京教区の皆様に共に祈りを捧げるように呼びかけております。なお上の写真は、2020年にミャンマーのマンダレーを訪問した際に、歓迎していただき、マンダレー教区のマルコ大司教様と祈りをともにしているところです。

ミャンマーでの地震発生にあたって、ともに祈りましょう

3月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

現地からの報道はまだ断片的ですが、NHKによれば本日午後3時頃の情報として、「ミャンマーの国営テレビは29日、SNSに投稿し、今回のミャンマー中部で発生した大地震で全国でこれまでに1002人が死亡し、2376人がけがをした」と報道されており、これからも被害は拡大するであろうことが推定されます。

ミャンマーの教会は、東京教区にとって姉妹教会であり、長年にわたりケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。その中で、数年前からはマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設も支援してきました。わたし自身も、東京教区の司祭代表団と一緒に、コロナ禍直前の2020年2月にマンダレー教区ピンウーリンの同神学校を訪問し、さらなる協力関係の構築でマンダレー教区のマルコ大司教様と一致したところでした。

ミャンマーは2021年2月1日に発生したクーデター後、軍事政権下で不安定な状況が続いており、平和構築と民族融和を訴えるカトリック教会への武力攻撃もやみません。いくつかの教区ではカテドラルを含む教会が襲撃され、教区司教が住居を失った事例も報告されています。

今回の地震に際して、マンダレー教区からは、教会も含めて大きな被害を受けたとの情報が届いており、教会による救援活動の開始も伝わってきております。情報は随時、東京教区ホームページに掲載いたします。

こういうとき、即座に募金をとの申し出が相次いでおりますが、それに関しては、詳細が判明してからできるだけ早く、どのような形にするのかを決定してお知らせいたします。

この呼びかけが明日の主日に間に合うか定かではありませんが、どうか今回の地震の被害に遭われた皆さんのために、また特に姉妹教会であるミャンマーの皆さんのために、ミサの中でお祈りをお願いいたします。

同時に、東京教区のミャンマー共同体の皆さんと心を合わせて、日々の祈りの中で、地震の被災者のために、また平和の実現のために、さらなるお祈りをお願いいたします。

 

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週刊大司教第203回:四旬節第四主日c

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ミャンマーのマンダレー付近を震源に、大きな地震が発生しました。隣国のタイでも被害が出ていますが、現在の政治状況から、情報がバンコクからの映像が多くあり、なかなかミャンマーからの情報が伝わってきません。断片的な情報でも、建物の倒壊など大きな被害が出ているようです。

本日午後3時頃のNHKのサイトによれば、「ミャンマーの国営テレビは29日、SNSに投稿し、今回のミャンマー中部で発生した大地震で全国でこれまでに1002人が死亡し、2376人がけがをしたと伝えました」とのことですので、まだまだ地方からの情報が集約されていないことでしょうから、被害はこれからさらに拡大するであろうと推測します。

ミャンマーはコロナ禍の真っ最中、2021年2月1日のクーデター以降不安定な国内状況が続いており、少数民族の多い周辺部では、戦闘が続いています。東京教区はミャンマーの教会をケルン教区と共に長年にわたって支援しており、ミャンマーの教会は姉妹教会です。

特にこの数年は、マンダレー教区で神学校の建設などを支援してきましたが、そのマンダレーが震源地に近いと言われていますので、大変心配しております。この数年の政情不安の中で、平和と民族の融和を訴えるカトリック教会への攻撃が続き、いくつかの教区では、カテドラルが爆撃されたりして、司教様自身が難民となっているところもあります。そこにこの大地震です。

今回の地震に遭遇された多くの方々、特にミャンマーとタイの皆さんのために、祈りたいと思います。

なお募金の問い合わせをいただいていますが、状況が明確になるのをしばらく待ち、カリタスジャパンの判断も待ちながら、週明けには、教区としての対応をお知らせすることに致します。

以下、本日午後6時配信、週間大司教第203回目のメッセージ原稿です。

四旬節第四主日C
週刊大司教第203回
2025年3月30日

ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

当時の社会状況とその背景にある宗教的な掟に基づいて、罪人とされている人々に寄り添おうとされたイエスに対して、その掟を厳しく追及する人々は不平を漏らします。

「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」

この不平の言葉は、今を生きるわたし達の間でも聞かれる言葉であります。こう語る人の視点は、実は「罪人」にあるのではなく、自分自身に向けられています。すなわち、「本来大切にされ受け入れられるべきなのは、正しいわたしであるはずだ」という心持ちであります。正義は自分にあるはずなのですから、それを否定し、正義を持たない人たちを優遇するイエスを、理解することができません。

東京ドームのミサの説教で、教皇フランシスコは、「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求められました。神のいつくしみの深さに包まれ、その行動の原理に倣うことをわたしたちに説いておられます。

弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。父親の価値基準は正しさにあるのではなく、家族という共同体に繋がって生かされているのかどうかにあります。ですから弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げるのです。

共同体の絆から離れていることは、いのちを生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人はいのちを十全に生きることができるのです。父親の優しさとは、罪に対して目をつむることではなく、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心であって、神の正義はそこにあります。

今年の四旬節教皇メッセージ、「希望をもってともに歩んでいきましょう」いおいて回心について三つの側面から語る教皇は、二つ目の側面である「ともに歩む」ことについてこう記しています。

「ともに歩む、シノドス的であること、これが教会の使命です。キリスト者は決して孤高の旅人ではなく、ともに旅するよう呼ばれています。聖霊は、自分自身から出て神と兄弟姉妹に向かうよう、決して自分自身を閉じないよう、突き動かしておられます」

その上で教皇は、ともに歩むことで共同体の絆を回復させることの大切さを説きこう記します。

「ともに歩むということは、神の子としてともに有する尊厳を基盤とした一致の作り手となるということを意味します。それは、人を踏みつけたり押しのけたりせず、ねたんだりうわべの振る舞いをしたりせず、だれも置き去りにしたり疎外感を覚えさせたりせずに、肩を並べて歩むということです」

自らの正義を振りかざし、他者を糾弾し排除しようとする誘惑は、現代社会に満ちあふれています。わたし達は、放蕩息子を迎え入れた父親のように、共同体の絆にいのちを回復させ、ともに歩もうとする姿勢が、求められています。

 

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2025年3月22日 (土)

週刊大司教第202回:四旬節第三主日C

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四旬節第三主日となりました

入院中の教皇様は、回復に向かっていると報道されています。まだ入院をされていますので、どうか教皇様のために、皆様のお祈りをお願いいたします。

先日、教会のシノドス性について話し合ったシノドスのこれからの実施過程についてのバチカンのシノドス事務局長グレック枢機卿様の書簡が公開されました。2028年10月に、シノドスではない教会総会を開催するとの内容でした。このブログの一つ前の記事で解説していますので、お読みいただければと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第202回、四旬節第三主日のメッセージです。

四旬節第三主日C
週刊大司教第202回
2025年3月23日

わたし達限られた時間しか与えられていない存在にとって、永遠の時の流れを理解することはできません。永遠の時の流れの中では、わたし達の人生はほんの一瞬に過ぎないからです。その理解を超えた時間の流れの中で、神はいのちを創造し、賜物として与え、さらに人類の裏切りを忍耐強く見守り、さらにはご自分が愛を込め、その似姿として創造したいのちを救うための計画を成し遂げて行かれようとしています。救いの計画は、わたし達の理解を遙かに超えています。

ルカ福音は、度重なる人類の裏切りに対して神がその怒りをわたしたちに向けないのは、いつくしみのうちに忍耐強く待っておられるからであり、わたしたちは生かされているのであって、自由に生きていることをゆるされているわけではないと示唆する、イエスの言葉を記します。

「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言うイエスの言葉は、わたし達を回心へと導きます。四旬節は、わたしたちを生かしている神の救いの計画の壮大さと、わたし達を包む神のいつくしみの深さを心で感じ、常に回心へと導かれていることを心に刻むときです。

教皇様は今年の四旬節メッセージ、「希望をもってともに歩んでいきましょう」において、わたし達の回心について三つの側面から語っておられます。

その最初の側面は、巡礼者として「歩む」ことにあると教皇様は指摘され、「約束の地へと向かうイスラエルの民の長い旅路」に心を向け、そこにあって「奴隷状態から自由へのこの険しい道のりをお望みになり導かれたのは、ご自分の民を愛し、その民につねに忠実であられる主です」と、時間の枠を遙かに超えた救いの計画のうちにわたし達が生かされ、神の民として旅を続けている存在であることを思い起こすように呼びかけます。

その上で教皇様は、「聖書の出エジプトを考えるとき、現代にあって、自分や愛する家族のよりよい生活を求め、困窮や暴力から逃れようとして旅立つ兄弟姉妹のことを思わずにはいられません。ここで、回心の最初の呼びかけが生まれます」と指摘します。同じ旅人であるわたし達にとって、「移民や移住者の具体的な現実に向き合い、それに実際にかかわって、御父の家へと向かうよりよい旅人となるため、神がわたしたちに何を求めているかを見いだすことは、四旬節のよい鍛錬となる」と記しています。

わたし達は、想像を遙かに超えた神の救いの計画の中で生かされている存在です。時の流れの中を旅する神の民です。生かされ、救いへと導かれていることに感謝し、困難や暴力にさらされる中で旅を続ける多くの兄弟姉妹へと、心を向けたいと思います。

四旬節の第二金曜日、先日3月21日は「性虐待被害者のための祈りと償いの日」であります。

神の似姿としてのいのちの尊厳を守る務めを率先するべき聖職者や霊的指導者が、信頼を裏切って、いのちの尊厳をないがしろにする行為、とりわけ性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為におよんだ事例が、日本を含め世界各地で報告されています。教会共同体の中で、被害を受けられた方にあたかも責任があるかのような言説で、二次加害を生み出す事例も聞かれます。

ともに希望の巡礼者として歩む教会は、いのちを生きる希望をあかしする共同体でなければなりません。それを裏切って立場を利用し、いのちの尊厳を傷つけた聖職者や霊的指導者の加害を、心から申し訳なく思います。よりふさわしい対応をすることや、啓発活動をすることに、これからもさらに取り組んでいきたいと考えています。

わたしたち司教や聖職者がこのような罪を繰り返すことのないように、信仰における決意を新たにし、わたしたちを生かしてくださる神のいつくしみによりすがり、愛のうちに祈り、行動したいと思います。

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2025年3月18日 (火)

シノドスの歩みの継続について教皇様の示された道

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2021年から24年まで続けられた第16回シノドスについては、昨年10月末の第二会期終了時に採択された最終文書が、教皇様の意向で公式の教皇文書となり、そこに記されていることを、各地方教会で具体化していくことが求められています。

それに伴って、3月15日、バチカンのシノドス事務局は、教皇様から裁可をいただいた文書を全世界の枢機卿・司教・東方典礼司教に対して送付し、今後、2028年10月まで続く、シノドスでの決定事項の実施過程についての概要を示されました。この文書は、3月11日に入院中の教皇様を見舞ったシノドス事務局長のグレッグ枢機卿様に対して、教皇様から許可が出ているとのことです。

以下、その概要を解説します。(なお、英語の本文書は、こちらのリンクから

この文書は、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教」をテーマにしたシノドスの実施段階について、どのように進めるかの概要を解説し、それぞれの教区司教、司教協議会、大陸別の司教協議会連盟などの務めを記しています。

2018年9月に発布された教皇様の使徒憲章「司教の交わり( EPISCOPALIS COMMUNIO)」の第7項には、シノドス後にそこで定められたことを教皇の指示に従って全教会が具体化する実施段階についての定めがあり、同じ使徒憲章の19条から21条に具体的な実施要綱が定められています。なおこの使徒憲章は邦訳されていませんが、英語版をこちらのリンク先で読むことができます。今回の文書は、教皇様がシノドスを受けて使徒的勧告を出されず、最終文書をご自分の文書とされたことから(ペトロの後継者の通常の教導権の一部とされた)、即座に同使徒憲章に基づいて実施段階を定める必要があるために、検討され発表されました。

今回の実施要綱の一番のポイントは、この先どうなるかについてです。すなわち教皇様は、今回のシノドスの最終文書を受けて、そこに定められていることを世界中の教会で具体的に実施に移し、その成果を、2028年10月に「バチカンで開催される教会総会(an ecclesial assembly in the Vatican)」で評価し合うこととして、そのため当面は新たなシノドスを行わないというものです。つまり、今回2021年に世界各地の教区から始まったシノドスの道は、2028年10月の教会総会まで続けられることになったということです。

シノドス事務局長のグレック枢機卿様は、同文書に、「シノドスの実施段階とは、単に上からの指示を 「適用」することではなく、むしろ、地域 の文化や共同体の必要にふさわしく適応させながら、最終文書に示された方向性を「受容」するプロセスとして理解されるべきです。同時に、様々に異なる教会の事情を超えてこの受容を調和させながら、教会全体として共に前進することが不可欠です」と記して、世界中のすべての教区での対応を求めています。

その上でグレック枢機卿様は、「実施段階が、これまで取り組んできた人たちを再び関与させ、教会全体の声に耳を傾けることと、シノドス的集会における司牧者の識別によって得られた実りを提示するものとなるようにすることが基本的に重要です。こうして、傾聴段階ですでに開始された対話が継続されます。このプロセスは、司祭、助祭、男女の奉献生活者、信徒の男女で構成されるシノドスチームの働きを必要とし、彼らの司教がそれに歩みをともにします。これらは、地方教会における通常のシノドス的あり方に伴う基本的なツールです」と指摘されます。

各教区、そして各司教協議会は、シノドス事務局に、それぞれのシノドスチームについての情報を登録するように求められています。わたしは司教協議会でもシノドス参加者として、日本のシノドス特別チームを主宰していますので、東京教区でも同じようにチームを結成して、対応していかなくてはなりません。なお日本のシノドス特別チームでは、具体的な日本の教会全体の取り組みについての提案をすでに検討中で、6月に行われる司教総会に報告と提案をすることが昨年末に決まっています。

以上を踏まえて、シノドス事務局は、2028年10月の教会総会に向けて、おおよそ、次のようなプロセスを示しています。

  • 2025年3月 :同伴と評価の過程の発表
  • 2025年5月 :実施にあたってのガイドラインを含んだ実施過程のための参考文書の発行
  • 2025年6月~2026年12月:地方教会とそのグループにおける実施の過程
  • 2025年10月24日~26日:シノドスチームと参加団体の聖年
  • 2027年前半 :教区における評価の集会
  • 2027年後半 :全国集会と地域の司教協議会連盟や他のグループの評価の集会
  • 2028年前半 :大陸別の評価の集会
  • 2028年6月 :2028年10月の教会総会の作業文書の発行
  • 2028年10月 :バチカンにおける教会総会の開催

すでに皆さんよく聴かれていると思いますが、このシノドスのプロセスには「霊における会話」という手法が重要な位置を占めています。ただ「霊における会話」のやり方にあまりにとらわれると、分かち合いをすることが目的化してしまう恐れがあります。「霊における会話」が上手にできたから、それでシノドス性を身につけられるわけではありません。大切なのは、共同体の交わりを深め、互いに耳を傾けることを優先し、耳にしたことを心で深め、一緒に祈り、一緒になって教会に対する聖霊の導きを識別することです。聖霊に導かれた交わりの共同体を生み出すことが、一番の目的であることを忘れないように致しましょう。

今後、様々な機会を通じて、2028年10月の教会総会へ向けての日本での歩みが提示されていくことになります。シノドスの道を歩むことはオプションではなく、今の教会の最優先事項ですので、どうぞ心に留め手積極的に取り組んでいただければと思います。

 

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2025年3月16日 (日)

新垣壬敏先生追悼ミサ@東京カテドラル

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日本のカトリック教会の典礼音楽に多大な功績を残された新垣壬敏先生は、昨年2024年10月2日に85歳で帰天されました。全国の様々な教会の皆さんが大きな影響を受け、同時にその歌を愛してきました。日本の教会のために先生が残された多くの聖歌を歌いながら、追悼のミサが、2月24日午後2時、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられ、多くの方が参列し、また先生が残された多くの聖歌を共に歌いました。

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わたしは東京の神学校で司祭養成を受けていないため、そのときに直接の指導を受けたことはありません。ただ、わたし自身、専門の教育を受けたわけではないのですが、自分でも神学生時代に神学校共同体のためにといくつかの典礼用の歌を作曲したりしていましたから、高田三郎先生に並んで、新垣先生は憧れの存在でした。

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直接には、こちらの2008年11月の司教の日記に記してありますが、当時わたしが教区司教を務めていた新潟教区で、秋田にある聖霊学園が100周年を祝うことになり、そのときに当時理事長を務めていたシスター平垣から、学園歌を作曲してほしいと依頼を受けました。とんでもありませんが素人にそんな大それたことはできないので、いろいろと思案した後に、理事長シスターに、新垣先生に依頼してはどうですかと進言しました。シスターは、秋田の学校のために歌を作ってくださるかと心配されておられましたが、新垣先生は喜んで引き受けてくださり、当時、「春 萌えあがる 聖なる息吹」と始まる学園歌を作詞作曲してくださいました。新垣先生には、その年の11月1日に秋田県民会館で開催された記念式典の際に直接お話しする機会をいただきました。それ以来、教皇様訪日の時も含め、様々にお話を聞かせていただく機会をいただきました。

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あらためて、そのお働きと日本の境界への御貢献に感謝申し上げたいと思います。

以下、当日のミサ説教の原稿です。

新垣壬敏先生追悼ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年2月24日

私たちの人生には、予想することのできない様々な驚きの出来事があります。人間の知恵と知識には限界がありますし、その知恵と知識とこれまでの経験をあわせたとしても、ほんの少しの先でさえ確実に知ることはできません。時として、緻密に計画を立て実行したとしても、必ずしも予想通りの結果になるとは限りません。私たちは、人生の様々な局面で想像もしなかった出来事に遭遇し、驚き、そしてそのたびごとに人間の限界を思い知らされます。

私たちは人生において、自ら考え、自らの意思で様々な行動を行います。わたしがそうしたいから、今の自分があると思い込んでいます。しかし実際には、神様の人類に対する救いの計画があり、その中でわたし達は生かされているに過ぎません。もちろんわたし達には自由意志が与えられています。旧約の時代にも、神はイスラエルの民に選択肢を与え、自由意志を行使することによって、人間が自らのことばと行いに責任を持つように求められてきました。わたし達は自由意志があるからこそ、すべてを自分たちで成し遂げているかのような錯覚に陥りますが、結局は神様の壮大な救いの計画がまずあり、その中で生かされているに過ぎないことを改めて自覚したいと思います。

神様はその救いの計画の中で、わたしたちに様々な役割を果たすようにと、多様なタレント、才能を与えてくださいます。その一つが、音楽における才能であろうかと思います。

新垣先生の人生は、与えられた音楽の才能を、ご自分の考えや計画や栄誉のためではなく、神様の計画の実現のために捧げられた、福音のあかしに生きる人生であったと思います。その与えられた才能を神様の計画の実現のために捧げるからこそ、その音楽は、多くの人の希望の源となりました。希望の源である神様の元へとわたしたちを導いてくださる音楽だからに他なりません。

あらためて繰り返すまでもなく、第二バチカン公会議の典礼憲章は、「普遍教会の音楽の伝統は、・・・特にことばと結びついた聖歌が、荘厳な典礼の必要ないし不可欠な部分」であると定め、信徒の行動的参加を促すためにも典礼に音楽は不可欠であると指摘します。

同時に教会音楽は、「祈りをより味わい深く表現したり心の一致を促進したりすることによって、・・・典礼行為と固く結びつけばつくほど、いっそう聖なるものとなる」と、典礼憲章は指摘します。教会の音楽は典礼から離れて存在することはあり得ず、常に祈りを深めることを念頭に、典礼を豊かに深めるように心しながら生み出されていきます。

その上で、作曲家は、「教会音楽を発展させ、その宝を豊かにするために召されているとの自覚を持たなければならない」と記しています。典礼音楽を作られる方々は、教会の宝を豊かに蓄えてくださる方々です。教会の宝を豊かに育んでくださる方々です。

その中でも多くの曲を教会に宝として与えてくださった新垣先生の働きは、その音楽家としての召命を忠実にそして十分に生きたものであったと思います。

葬儀や追悼のミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と、わたしたちの信仰における希望が記されています。わたし達の人生の歩みは、この世のいのちだけで終わるものではなく、永遠の中でわたし達は生かされています。わたし達はその希望を常に掲げて歩んでいます。

わたしたちの人生には時間という限りがあり、人類の歴史、全世界の歴史に比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間です。人生には順調に進むときもあれば、困難のうちに苦しむときもあります。よろこびの時もあれば、悲しみの時もあります。驚きに遭遇するときもあります。人生において与えられた時間が終わる前に、自らの努力の結果を味わうことができないこともあります。仮に私たちのいのちが、人類の歴史の中における一瞬ですべてが終わってしまうとしたら、それほどむなしいことはありません。

しかし私たちは、歴史におけるその一瞬の時間が、神の永遠の計画の一部であることを知っています。わたし達はこの人生が、神様の壮大な計画の中で生かされているものであることを知っています。わたし達は、その計画の一部として、わたし達にはそれぞれの賜物が与えられ、それを忠実に生きることを求められていることを知っています。主の忠実な僕でありたいと思います。

教会の典礼のために大きな貢献をしてくださった新垣先生に、御父は、永遠のいのちの中で豊かに報いてくださることでしょう。御父の元にあっても先生が賛美の歌を捧げ続けておられることを信じ、残された教会の宝をさらに豊かにするよう努めていきたいと思います。

 

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今井神学生、朗読奉仕者に@一粒会総会

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「一粒会(いちりゅうかい)」という組織の名前を聞いたことがありますでしょうか。

すべての教区に、何らかの形で存在しています。そして、東京教区の教会に所属しているのであれば、すべての信徒がその会員です。もしも、ご自分が会員であることをご存じなければ、是非今日から心に留めていただければと思います。教区のすべての方が会員です。教区のホームページに次のように書いてあります。

「東京教区ホームページより」

一粒会(いちりゅうかい)は神学生の養成を援助するための活動です。

1938年に東京大司教に任命された土井辰雄師の司教叙階式に参列した信徒たちの数人が、司祭召命と養成のために「何かをしなくては」と思い立ったのが一粒会発足のきっかけとなりました。その頃、軍国主義の高まりによって外国人宣教師たちに対する迫害や追放など、教会にもさまざまな圧迫があり司祭召命に危機感を抱く信徒が少なからずいたのでした。

当時の一粒会の規則は、司祭召命のために毎日「主祷文(主の祈り)」を一回唱え、祈りのあとに1銭(1円の百分の一)を献金するというものでした。一粒会という名称は「小さな粒を毎日一粒ずつ貯えていく実行、しかも行いを長続きさせるということを考慮に入れての命名」だったそうです。

戦中・戦後、途絶えていた一粒会の活動は1955年頃に復活し、現在に至っています。東京教区の「一粒会」の会員は教区民全員です。会長は菊地功大司教です。神学生養成のために皆さまの心のこもったお祈りと献金のご協力をお願いします。

「一粒会」への献金は各教会で行なっていますが、個人的でも行えます。
下記銀行口座をご利用ください。

※ 三菱東京UFJ銀行 江戸川橋支店 店番号060 普通4394587 「宗教法人カトリック東京大司教区 一粒会 」

教区司祭を養成する神学院は東京にあり、神学生はそこで共同生活を営みながら勉強と祈りの日々を過ごします。その運営には維持費や人件費などを含め、年間一億円を超える予算が必要です。それをまず神学生ひとりあたりの学費と、各教区の分担金でまかなっています。学費は一律ですが、分担金は教区の信徒数に応じて負担率を変更しますので、東京教区は信徒数は全国一ですから分担率も一番高く、毎年二千五百万円を超える額を負担しています。一粒会に毎年寄せていただくみなさまの献金は、そのうちの7割ほどとなっています。今後とも、司祭養成を資金的に支えるために、一粒会の活動にご理解をお願い致します。もちろん献金だけではなくて、司祭・修道者の召命のためにもお祈りください。今後、少子化が激しく進む社会にあっては、司祭だけではなく、社会の様々な分野で後継者が不足するのは明白ですが、その中にあっても神様は、必ずや声をかけ続けてくださっています。その声を的確に識別し、勇気を持って応える方がいるように、祈りましょう。司祭だけではなくて、男女の修道者への召命もあります。一粒会の、つまりわたし達東京教区を形作っているキリスト者全員の務めの一つです。お祈りをお願いします。

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さて去る3月9日、四旬節第一主日に、今年の一粒会の総会が行われましたが、それに先立ち、東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサを捧げ、そのミサの中で、東京教区の唯一の神学生であるアンセルムス今井克明さんが、朗読奉仕者の選任を受けました。昔の典礼では下級叙階と呼ばれていたのですが、現在は、哲学課程を修了した後に司祭志願者として認定され、その後、毎年、朗読奉仕者、祭壇奉仕者、助祭とすすんで司祭叙階へと至ります。今井神学生が司祭叙階を受けるまでまだ時間があります。どうか彼のためにお祈りください。

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以下、当日のミサの説教の原稿です。

アンセルムス今井克明 朗読奉仕者選任式ミサ
一粒会総会
2025年3月9日

3月5日の灰の水曜日から、今年の四旬節が始まりました。常日頃、わたし達は生活の中にあって、どうしても自分を中心に据えて世界を見つめ、判断し、行動してしまいます。四旬節はそういうわたし達にとって、神との関係を修復するためのチャンスであります。神からいのちを与えられたわたし達は、神に向かってまっすぐに歩んでいかなくてはなりません。そのためには、進むべき道を見いだす必要があります。そのためにこそ、教会は普段以上の祈りのうちに自分と神の関係を見つめ直し、心をとらわれから解放して神に委ねるために、節制の業に励み、愛そのものである神に近づくために、愛の業を行います。

かつて教皇ベネディクト16世は、最初の回勅「神は愛」の冒頭において、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想」ではないと記されました。

それでは一体何が人をキリスト信者にするのか。教皇ベネディクト16世は、「ある出来事との出会い、ある人格との出会い」が人をキリスト信者にするのだと指摘されています。具体的なその出会いが、「人生に新しい展望と決定的な方向付けを与える」のだと教皇様は続けます。

2019年に東京を訪れた教皇フランシスコも、東日本大震災の被災者や支援者との集いで、こう言われています。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

バーチャルな世界が支配しつつあり、具体的な人間関係が希薄にありつつある現代社会にあって、わたし達の信仰には、目に見える形での具体的な関わりが必要だと繰り返します。それは主ご自身が、「困っている人は自分のことだと」言われ、具体的に「飢えている人、のどが渇いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人」に対して行動したことは、わたし自身にしてくれたことだと言われているからに他なりません。

だからこそ教会は信仰の根本を見つめ直すこの四旬節に、具体的な愛の行動をするようにと求めています。教皇ベネディクト16世は、そういった具体的な行動によって、「神への愛と隣人愛は一つになります」と記しています。

教皇ベネディクト十六世は、同じ回勅「神は愛」に、教会の本質について次のように記しています。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせることとあかし、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです」(神は愛25)

福音宣教と、典礼と、愛の奉仕が絶妙に併存している共同体。その共同体を通じて、わたし達は具体的に助けを必要としている隣人と出会い、主イエスと出会い、信仰を深めていきます。

ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、いのちを生きるには極限の状態である荒れ野で、人間の欲望に基づいたさまざまな誘惑を悪魔から受けます。福音に記された、空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することなどの誘惑は、この世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。本日の第一朗読である申命記には、モーセがイスラエルの民に原点に立ち返ることを説く様を記します。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神のいつくしみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。神に救われた民の原点に立ち返ろうとする、記憶の言葉です。

共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることにこそ、この世のさまざまな欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。現代社会の神の民であるわたしたちにとって、旧約の民のような、立ち返るべき共通の信仰の原点はなんでしょうか。それは冒頭に述べたように、主イエスとの出会いであります。

わたしたちの共通の信仰の原点には、シノドス性があります。ともに歩み、ともに耳を傾け、ともに支え合い、共に祈りながら、主イエスに繋がり続けようとする教会は、社会に対して具体的な希望を示す教会です。隣人への思いやり、愛の行動を通じて、主ご自身と出会い、隣人とともに、そして主とともに支え合いながら歩みを進めることで、わたし達は信仰を深めることができるようになります。

これから今井克明神学生が受けようとしている朗読奉仕者ですが、その選任の儀式書には、その務めとして次の三点が掲げられています。

まず第一に、典礼祭儀で神の言葉を朗読し、第二に教理を教えて秘跡に与る準備をさせ、そして第三にまだキリスト教に出会っていない人たちに救いの教えを知らせることであります。

すなわち朗読奉仕者とは典礼において上手に朗読をするだけの奉仕者ではなく、まさしく福音を告げ知らせ、教会の教えを伝えるために特に選任される重要な役割です。福音宣教の重要な担い手として選任されるのだという自覚を、深めていただきたいと思います。

福音宣教は、単に言葉で語るだけではなく、行いによるあかしを持って伝えられなければなりません。具体的な出会いをもたらす者でなくてはなりません。空虚なことばを語る者ではなく、行いによるあかしとして最も大切な愛の奉仕のわざに生きる者であってください。希望を生み出す出会いをもたらす者であってください。

この教会の愛の奉仕のわざ、行いによるあかし、福音宣教はもちろんキリスト者すべての使命ですが、とりわけそのために選任されたものは先頭に立ってそれに励まなくてはなりません。朗読奉仕者となることで、本日から他の奉仕者と共に共同体の先頭に立って、福音の証しに取り組んでいく使命が与えられるのです。信仰共同体の仲間たちが信仰を深めて行くにあたって、先頭に立ってそれを導く役割を果たしていってください。

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2025年3月15日 (土)

週刊大司教第201回:四旬節第二主日C

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この一週間、月曜日の夜に始まって金曜日の夕方まで、タイのバンコクを会場に、アジア司教協議会連盟(FABC)の中央委員会が開催されましたので,バンコクまで旅をしてきました。

中央委員会とは、FABCに加盟しているアジアの19司教協議会の会長と、司教協議会を構成していない香港、マカオ、ネパールの司教で構成されています。19の司教協議会の中には、マレーシア・シンガポール・ブルネイや中央アジアのように、いくつかの国で構成されているところと、インドのように三つの典礼(ラテン典礼と二つの東方典礼)とその全体で4司教協議会が存在するところなどがあり、19は国の数ではありません。日本の司教協議会はわたしが会長を務めていますので職責で参加しましたが、わたしは同時に現在二期目でFABCの事務局長も務めており、その立場でも参加しました。

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中央委員会は年に一度開催され、中央委員会がその時代の必要に応じて設置しているの諸部局からの報告を受けた後、中央委員会だけの会議を開き、その後、今回は木曜日と金曜日に、OHD(人間開発局)の主催で、ラウダート・シの10周年を記念したワークショップを行いました。日本から女子メリノール会のシスタージョイが参加し、日本の司教団のラウダート・シデスクの活動について報告してくださいました。

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今年の11月にブラジルで開催されるCOP30に向けて、アフリカや南米の司教協議会連盟と協力して、政策提言活動や啓発活動を行うことで一致しました。また、ラウダート・シの10周年を記念して、今回の中央委員会は、司牧書簡を採択し公表しています。

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また中央委員会では、シノドスを受けて,シノドス的な教会を育むための委員会を設置することになり、副会長と務めるフィリピンのパブロ・ダビド枢機卿が責任者となり,各国の司教協議会に働きかけていくことになり、それぞれの国でも、また教区でも、シノドス性を育むための何らかの部署を設置することを求める決議がなされました。(上の写真、向かって左から、ビル・ラルース事務局次長、わたし、会長のフィッポ・ネリ枢機卿、副会長のパブロ・ダビド枢機卿)なおこれについてのFABC事務局の公式発表は、英語ですが、こちらから読むことができます。

環境問題に関して素晴らしく先進的な取り組みをしている国もあれば、シノドス性を育むことに力を入れ始めた国もあり、日本の教会も、アジアの教会と歩みを共にして行くために、シノドスに対応する部門を設置したり、すでに活動している「ラウダート・シ」デスクを充実させるなど、必要な対応をして行かなければなりません。

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なお11月にはマレーシアのペナンでアジア宣教大会が開催されます。11月27日から30日までの予定です。

前回は2006年にタイのチェンマイで行われ,わたしも参加しました。そのときの模様はこちらの司教の日記に記してあります。(下の写真は、そのときの日本代表団の皆さん。司教は、野村司教、郡山司教、そしてわたしでした)

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今回の中央委員会において、いくつかの候補の中から、今回の宣教大会のロゴマークが決まり、プログラムの骨子も明らかになってきました。千人以上の参加が期待されており、日本からもFABC枠で参加するわたし以外に三名の司教様と、そのほか20名以上の参加が期待されています。前回も、わたしを含め司教三名と、総勢21名が参加しています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第201回め、四旬節第二主日のメッセージです。

四旬節第二主日C
週刊大司教第201回
2025年3月16日

四旬節は、わたしたちが信仰の原点に立ち返るときです。希望の巡礼者として歩んでいるわたしたちに、福音は、共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることの重要性を教えています。栄光に光り輝くイエスにこそ、わたしたちの信仰の原点である希望があることを、ルカ福音は伝えています。ペトロ、ヨハネ、ヤコブにとって、信仰の原点は、御変容の出来事の経験でありました。わたしたちの原点としての体験は何でしょうか。この四旬節に、あらためてわたしたちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。
その原点は、一体どこにあるのでしょうか。

創世記は、まだアブラムと呼ばれていたアブラハムを神が選び、契約を結ばれた出来事を記しています。暗闇の中で天を仰ぎ、「星を数えることができるなら、数えてみるが良い」と告げられたアブラハムの驚きを想像します。アブラハムの信仰の原点は、暗闇に満天の星を眺め、未来に向かって人間の想像を遙かに超えた約束を与えられた、その夜の驚きであったと思います。

ルカ福音は、御変容の出来事とそれを体験した弟子たちの驚きを記します。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を三つ建てることを提案したと福音は伝えます。きっとペトロはその輝く栄光の中にとどまりたかったのでしょう。

福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。この二人は律法と預言書の象徴、すなわち旧約における神とイスラエルの民との契約を象徴します。その中で神はイエスを名指しして、旧約ではなくイエスこそがそれを凌駕する存在であるとして、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と告げたと記されています。この日の神の栄光を目の当たりにした驚きと、その中でイエスこそが旧約を凌駕する新しい契約の主であると告げられた弟子たちの驚きは、教会の信仰の原点でもあります。わたしたちの希望の源はイエスにあることが明示されました。

教皇様は大勅書「希望は欺かない」にこう記しています。

「希望と忍耐が影響し合うことから、次のことが明らかになります。つまり、キリスト者の人生は目的地である主キリストとの出会いへと導いてくださるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会を必要とする旅路だということです(5)」

巡礼の旅路は忍耐を必要とする旅路です。わたしたちは主との出会いにこそ救いの希望があることを心に刻み、忍耐のうちに、しかし希望を持って歩みを続けます。この世の栄光にとどまることはしません。そこに希望はありません。イエスとの出会いは、この世の栄光をうち捨て、苦難の道を忍耐を持って歩み続けた先に存在します。わたしたちの信仰の原点は、イエスの言葉と行いとの出会いです。そこにこそ希望があります。その希望に導かれた、わたしたちはイエスとの出会いへと歩みを進める者でありたいと思います。

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2025年3月 8日 (土)

週刊大司教第200回:四旬節第一主日

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毎週土曜夕方にお送りしているビデオプログラム「週刊大司教」は、今回で節目の200回目となりました。

ご視聴いただき、一緒に祈ってくださる多くのみなさまにに感謝いたします。

ビデオでの配信は、教区本部の広報担当者が制作にあたっていますが、毎回の視聴数が千を下回ることが続いた場合、役目を終えたと判断して終わりにするようにと申し合わせてありました。ただありがたいことに、毎回千を越える方が視聴してくださっていますので、ここまで続いてきました。これからも可能な限り続けていきたいと思います。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。

また、こちらのブログ「司教の日記」には、毎回のテキストに加え、その時々の情報もいろいろと記しておりますので、できれば教区の皆様全員に目を通していただければと願っています。お近くのお知り合いにも、このブログの存在をお知らせいただければ幸いです。もちろんパソコンでもスマホでもご覧いただけます。

なお四旬節第一主日にあたる3月9日午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、教区の召命のために祈り献金する一粒会の総会にあわせてミサが行われ、その中で、アンセルムス今井克明神学生の朗読奉仕者選任式を執り行います。このミサには、一粒会の総会関係者以外のどなたでも参加いただけます。お時間のゆるす方はどうぞご一緒にミサにご参加くださり、司祭召命のために、また今井神学生のために、ミサの中でお祈りください。

以下、四旬節第一主日、週刊大司教第200回目のメッセージ原稿です。

四旬節第一主日C
週刊大司教第200回
2025年3月9日

3月5日の灰の水曜日から、今年の四旬節が始まりました。今日は四旬節第一主日です。

教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行動をもって、信仰を見つめ直すようにわたしたちに呼びかけています。また教会は四旬節に特別な献金をするようにも呼びかけ、日本の教会ではこれをカリタスジャパンに委託しています。四旬節愛の献金は、隣人のために自らを犠牲としてささげる心をもって行う、具体的な愛の業そのものです。またその犠牲の心を持ってわたしたちは、いのちの危機に直面し助けを必要としている多くの人たちに心を向け、具体的な意味でともに歩む者となります。互いに支えあう連帯の絆は、いのちを生きる希望のしるしです。

四旬節において、わたしたちは信仰を見つめ直し、自らの信仰の原点に立ち返ります。また御父のいつくしみを自らの心に刻み、社会の現実の中でそれを多くの人に具体的に示し、希望をあかしする者となります。

ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、いのちを生きるには極限の状態である荒れ野で、人間の欲望に基づいたさまざまな誘惑を悪魔から受けます。福音に記された、空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することなどの誘惑は、この世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。本日の第一朗読である申命記には、モーセがイスラエルの民に原点に立ち返ることを説く様を記します。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神のいつくしみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。神に救われた民の原点に立ち返ろうとする、記憶の言葉です。

共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることにこそ、この世のさまざまな欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。現代社会の神の民であるわたしたちにとって、旧約の民のような、立ち返るべき共通の信仰の原点はなんでしょうか。

教皇様は聖年の大勅書「希望は欺かない」に、聖年のロゴのイメージについてこう記しておられます。

「錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身を委ねれば手にできる安定と安全です。嵐に飲まれることはありません。わたしたちは、キリストにおいて生きて、罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしているからです」

わたしたちの共通の信仰の原点はそこにこそあります。死に打ち勝ったイエスにこそ、わたしたちの信仰の原点である希望があります。この四旬節に、あらためてわたしたちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。

四旬節第一主日には今年の復活祭に洗礼を受けるために準備をされている方々の洗礼志願式が多くの教会で行われます。復活に向けて心を整えるこの時期こそ、キリストの死と復活に与る洗礼への準備に最も適しています。洗礼志願者の皆さんのためにも祈りましょう。

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2025年3月 5日 (水)

灰の水曜日@東京カテドラル

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今年は御復活祭が遅いので、3月に入っての灰の水曜日となりました。四旬節が始まります。

四旬節には、教皇様は毎年メッセージを発表されます。今年のメッセージもすでに発表されており、中央協議会のホームページに邦訳が掲載されています。希望の巡礼者の聖年ですので、今年の四旬節メッセージも、それに基づいた内容です。こちらのリンクから、ご一読ください

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四旬節には、愛の業の具体的な方法として、「四旬節愛の献金」が呼びかけられています。カリタスジャパンにその担当をお願いしていますが、それぞれの小教区では、カリタスジャパンからの資料を活用して、募金の呼びかけなどをお願いします。また四旬節献金の使途などについては、カリタスジャパンのホームページのこちらをご覧ください。また、今年の四旬節愛の献金についてのページも設けられています。

四旬節に勧められる節制の業について、特に断食(大斎・小斎)ついては、こちらのページをご覧ください

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寒い灰の水曜日でした。東京でも冷たい雨の一日でしたし、雪となった地域も多かったかと思います。週日の寒さの中でしたが、東京カテドラル午前10時のミサには、関口教会と韓人教会の両方を始め、多くの方が集まってくださいました。

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以下、本日のミサの説教原稿です。

灰の水曜日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年3月5日

希望の巡礼者としてともに歩んでいるわたし達に、四旬節は、それぞれの信仰の原点を見つめなおし、心をあらため、希望の源である御父のもとへと立ち返るために歩みを続けるようにと求めています。

わたしたちの共通の信仰の原点は、主イエスの復活です。死に打ち勝ったイエスにこそ、わたしたちの信仰の原点である希望があります。永遠のいのちへの約束にこそ、わたし達の救いへの希望があります。今日から始まるこの四旬節に、あらためてわたしたちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。

教会の伝統は、四旬節を過ごすにあたって「祈りと節制と愛の業」という三つの行動を常に心に留めながら、信仰を見つめ直す旅路を歩むようにと勧めています。とりわけ愛の業について教会は、四旬節の間に助けを必要としている隣人、中でも多くの人からその存在を忘れられているような方々に心を向け、特別な献金をするようにも呼びかけています。日本の教会ではこの四旬節献金をカリタスジャパンに委託しています。

四旬節愛の献金は、隣人のために自らを犠牲としてささげる心をもって行う、具体的な愛の業そのものです。またその犠牲の心を持ってわたしたちは、いのちの危機に直面し助けを必要としている多くの人たちに心を向け、具体的な意味でともに歩む者となります。互いに支えあう連帯の絆は、いのちを生きる希望のしるしです。

四旬節において、わたしたちは御父のいつくしみを自らの心に刻み、社会の現実の中でそれを多くの人に具体的に示すことによって、社会の中にあって神の希望をあかしする宣教者となります。すなわち、四旬節の信仰の振り返りの歩みは、単に自分の内なる反省の時ではなく、それを通じて自らの行動原理とも言うべき信仰の原点に立ち返り、あらためて福音をあかしする宣教者となるための歩みであります。

「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み」と、ヨエルの預言に記されています。しばしば道を踏み外し、時として背を向けて、まっすぐに歩むようにと招いておられる御父の目前から立ち去ろうとするわたしたちを、見捨てることなく忍耐強く待ってくださるのがわたし達の父である神様です。

自由意志を与えられた人類は、神の願いを裏切り、神の望まれる世界を実現するどころか、賜物であるいのちを暴力で奪い合い、神の似姿としての尊厳をおとしめるような言動を続けて、神様に背を向け続けています。しかしながら神のいつくしみは、パウロがコリントの教会への手紙に記すように、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。

度重なる裏切りにもかかわらず、わたしたちは神からの恵みと賜物に豊かに満たされ続けています。四旬節は、このあふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによってわたしたちが永遠の命へと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにするときです。そこにこそ、わたし達の信仰における希望があります。

教皇様は聖年の大勅書「希望は欺かない」に、今回の2025年聖年のロゴのイメージについてこう記しておられます。ロゴには船の錨と、それに捕まろうとする人たち、その足下には荒れる海の波が描かれています。

教皇様は、「錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身を委ねれば手にできる安定と安全です。嵐に飲まれることはありません。わたしたちは、キリストにおいて生きて、罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしているからです」と記しています。

わたしたちの共通の信仰の原点はそこにこそあります。死に打ち勝ったイエスにこそ、わたしたちの信仰の原点である希望があります。この四旬節に、あらためてわたしたちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。わたし達は一体どのような錨にすがろうと努めているのでしょうか。すがろうとして求めている錨は、本当に「罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしている」錨でしょうか。それともこの世の虚飾に満ちあふれた不安定な錨でしょうか。

この数年の間、わたしたちは、先行きの見えない闇を彷徨うことによる不安と、その不安が生み出す疑心暗鬼を体験してきました。世界はいま、不安と疑心暗鬼の中で、自分の身を守ろうとする自己中心の風潮に取り込まれてしまいました。自分さえ良ければという思いは、互いに対する思いやりの心や、支え合いの心を消し去ります。異質な存在への不安と、それによる排除の心は、余裕のない心に簡単に入り込みます。

社会の中で疎外感を感じ、差別を体感している人たちが声を上げると、その事実をすら否定しようとします。現実から目を背けて、教皇様が言われるように、きらきらと輝くむなしいシャボン玉の中に籠もって、他者の叫びに無関心な者となっています。

わたし達は希望を誰かに与えることはできません。希望は人と人との関わりの中で、初めて心の中から生まれてくるものです。希望を生み出すためには、関わりが必要です。だからこそ教皇様は、今年の聖年のテーマを希望の巡礼者とされました。わたし達は、心の内から希望を生み出すために、ともに助け合い支え合いながら歩み続けます。自分の心に希望が生まれるためではなく、隣人の心に希望が生まれるようにと、困難に直面する人たちに目を向け心を配ります。

教会は、義人の集まりではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。わたしたちは、すべての人を救いへと招こうとされている御父のいつくしみがその業を全うすることができるように、すべての人を包み込む教会として、ともに回心の道を歩みます。すべての人が、回心の道へと招かれています。罪における弱さの内にあるわたしたちは、神に向かってまっすぐに進むことができずにいます。だからこそ、神に背を向けたままでいることのないようにと、教会は常に回心を呼びかけています。

この後、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心で感じていただければと思います。

神の前にあって自らの小ささを謙遜に自覚するとき、私たちは自分の幸せばかりを願う利己主義や、孤立願望や自分中心主義から、やっと解放されるのではないでしょうか。そのとき、はじめて、キリストの使者として生きる道を、少しずつ見いだしていけるのではないでしょうか。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。すべての人が神に向かってまっすぐに歩むことができるように、キリストの使者として希望の福音を告げ、多くの人を回心へと招くことができるように、わたしたちの弟子としての覚悟を、この四旬節に新たにいたしましょう。

 

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2025年3月 1日 (土)

週刊大司教第199回:年間第8主日

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今年は復活祭が遅く、4月20日ですので、3月に入ってもまだ、典礼では年間の主日が続きます。今年の四旬節は、3月5日の灰の水曜日から始まります。

教皇様の容態は、徐々にではありますが回復に向かっていると伝えられていますが、まだ危険な状況であることに変わりはない模様です。入院が続いています。どうぞ教皇様のために、全世界の兄弟姉妹とともに続けてお祈りください。

なお先日、皆様に教皇様へのお祈りを呼びかけました司教の日記の記事が、一時、消失しておりました。大変申し訳ありません。このブログを置いているNiftyのココログさんでサーバーを更新した際に、最新のデータが移動しなかった模様で、その後に回復いたしました。ご迷惑をおかけしました。

また教皇様が入院したことを受けて、インターネット上では様々な偽物の情報が飛び交っています。すでに帰天されたと主張する偽情報もありました。わたしたちの生命は神様の御手の中にあります。それを忘れた不遜な言動は慎みたいと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第199回、年間第8主日メッセージです。

年間第8主日C
週刊大司教第199回
2025年3月2日

希望の巡礼者として聖年を歩んでいるわたしたちに、ルカ福音は、「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」と語りかけます。

わたしたちは、現代社会にあってどのような実を結んでいるのでしょうか。希望の巡礼者であるわたしたちは、まさしく希望そのものを具体的に表すしるしとなることが求められています。

教皇様は大勅書「希望は欺かない」において、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」と呼びかけておられます。良い木としてわたしたちが結ぶ実は、希望のしるしです。

先般教皇様は合衆国の司教たちに書簡を送られ、その中で、「出エジプト記に記されているイスラエルの民の奴隷から自由への旅路は、現代社会において移住という現象によってはっきりと示される現実を、常にわたしたちの身近におられ、受肉され、移住者であり、難民である神への信仰においてだけではなく、すべての人間の犯すことのできない神秘的な尊厳を再確認するための歴史的決定的な瞬間として見つめるよう招いている」と指摘して、その立場にかかわらず人間の尊厳を守ることの重要性を強調されています。

その上で教皇様は、それぞれの国家が自らの治安を守る責務の重要性を認めながらも、「促進されなければならない真の愛の秩序は、「善きサマリア人」のたとえ話を絶えず黙想することによって、例外なくすべての人に開かれた兄弟愛を築く愛について黙想することによって発見されるものだ」と呼びかけます。

不寛容さが支配し、利己主義の蔓延する社会にあって、教会は排除することのない愛の証しとして、また徹底的に人間の尊厳を守る存在として、希望のしるしとなることが求められてます。

わたしたちが語る言葉は、わたしたちの心の反映です。わたしたちの行動は、わたしたちの心の鏡です。福音は、「人の口は,心からあふれ出ることを語るのである」と記します。それはすなわち「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という言葉に集約されます。わたしたちはどのような実を結ぶ木なのでしょうか。

同時にルカ福音は、「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と語るイエスの言葉を記します。どれほどわたしたちは、自らの身を振り返ることなく,他者を裁いていることでしょうか。他者を裁き断罪するとき、わたしたちは時に大きな思い違いをしてはいないでしょうか。自分も同じように、過ちを犯す人間である。弱さを抱えた人間であるということを、忘れてはいないでしょうか。
社会の現実の中にあって、希望のしるしとして歩みを続けていきましょう。

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