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2025年3月16日 (日)

今井神学生、朗読奉仕者に@一粒会総会

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「一粒会(いちりゅうかい)」という組織の名前を聞いたことがありますでしょうか。

すべての教区に、何らかの形で存在しています。そして、東京教区の教会に所属しているのであれば、すべての信徒がその会員です。もしも、ご自分が会員であることをご存じなければ、是非今日から心に留めていただければと思います。教区のすべての方が会員です。教区のホームページに次のように書いてあります。

「東京教区ホームページより」

一粒会(いちりゅうかい)は神学生の養成を援助するための活動です。

1938年に東京大司教に任命された土井辰雄師の司教叙階式に参列した信徒たちの数人が、司祭召命と養成のために「何かをしなくては」と思い立ったのが一粒会発足のきっかけとなりました。その頃、軍国主義の高まりによって外国人宣教師たちに対する迫害や追放など、教会にもさまざまな圧迫があり司祭召命に危機感を抱く信徒が少なからずいたのでした。

当時の一粒会の規則は、司祭召命のために毎日「主祷文(主の祈り)」を一回唱え、祈りのあとに1銭(1円の百分の一)を献金するというものでした。一粒会という名称は「小さな粒を毎日一粒ずつ貯えていく実行、しかも行いを長続きさせるということを考慮に入れての命名」だったそうです。

戦中・戦後、途絶えていた一粒会の活動は1955年頃に復活し、現在に至っています。東京教区の「一粒会」の会員は教区民全員です。会長は菊地功大司教です。神学生養成のために皆さまの心のこもったお祈りと献金のご協力をお願いします。

「一粒会」への献金は各教会で行なっていますが、個人的でも行えます。
下記銀行口座をご利用ください。

※ 三菱東京UFJ銀行 江戸川橋支店 店番号060 普通4394587 「宗教法人カトリック東京大司教区 一粒会 」

教区司祭を養成する神学院は東京にあり、神学生はそこで共同生活を営みながら勉強と祈りの日々を過ごします。その運営には維持費や人件費などを含め、年間一億円を超える予算が必要です。それをまず神学生ひとりあたりの学費と、各教区の分担金でまかなっています。学費は一律ですが、分担金は教区の信徒数に応じて負担率を変更しますので、東京教区は信徒数は全国一ですから分担率も一番高く、毎年二千五百万円を超える額を負担しています。一粒会に毎年寄せていただくみなさまの献金は、そのうちの7割ほどとなっています。今後とも、司祭養成を資金的に支えるために、一粒会の活動にご理解をお願い致します。もちろん献金だけではなくて、司祭・修道者の召命のためにもお祈りください。今後、少子化が激しく進む社会にあっては、司祭だけではなく、社会の様々な分野で後継者が不足するのは明白ですが、その中にあっても神様は、必ずや声をかけ続けてくださっています。その声を的確に識別し、勇気を持って応える方がいるように、祈りましょう。司祭だけではなくて、男女の修道者への召命もあります。一粒会の、つまりわたし達東京教区を形作っているキリスト者全員の務めの一つです。お祈りをお願いします。

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さて去る3月9日、四旬節第一主日に、今年の一粒会の総会が行われましたが、それに先立ち、東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサを捧げ、そのミサの中で、東京教区の唯一の神学生であるアンセルムス今井克明さんが、朗読奉仕者の選任を受けました。昔の典礼では下級叙階と呼ばれていたのですが、現在は、哲学課程を修了した後に司祭志願者として認定され、その後、毎年、朗読奉仕者、祭壇奉仕者、助祭とすすんで司祭叙階へと至ります。今井神学生が司祭叙階を受けるまでまだ時間があります。どうか彼のためにお祈りください。

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以下、当日のミサの説教の原稿です。

アンセルムス今井克明 朗読奉仕者選任式ミサ
一粒会総会
2025年3月9日

3月5日の灰の水曜日から、今年の四旬節が始まりました。常日頃、わたし達は生活の中にあって、どうしても自分を中心に据えて世界を見つめ、判断し、行動してしまいます。四旬節はそういうわたし達にとって、神との関係を修復するためのチャンスであります。神からいのちを与えられたわたし達は、神に向かってまっすぐに歩んでいかなくてはなりません。そのためには、進むべき道を見いだす必要があります。そのためにこそ、教会は普段以上の祈りのうちに自分と神の関係を見つめ直し、心をとらわれから解放して神に委ねるために、節制の業に励み、愛そのものである神に近づくために、愛の業を行います。

かつて教皇ベネディクト16世は、最初の回勅「神は愛」の冒頭において、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想」ではないと記されました。

それでは一体何が人をキリスト信者にするのか。教皇ベネディクト16世は、「ある出来事との出会い、ある人格との出会い」が人をキリスト信者にするのだと指摘されています。具体的なその出会いが、「人生に新しい展望と決定的な方向付けを与える」のだと教皇様は続けます。

2019年に東京を訪れた教皇フランシスコも、東日本大震災の被災者や支援者との集いで、こう言われています。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

バーチャルな世界が支配しつつあり、具体的な人間関係が希薄にありつつある現代社会にあって、わたし達の信仰には、目に見える形での具体的な関わりが必要だと繰り返します。それは主ご自身が、「困っている人は自分のことだと」言われ、具体的に「飢えている人、のどが渇いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人」に対して行動したことは、わたし自身にしてくれたことだと言われているからに他なりません。

だからこそ教会は信仰の根本を見つめ直すこの四旬節に、具体的な愛の行動をするようにと求めています。教皇ベネディクト16世は、そういった具体的な行動によって、「神への愛と隣人愛は一つになります」と記しています。

教皇ベネディクト十六世は、同じ回勅「神は愛」に、教会の本質について次のように記しています。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせることとあかし、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです」(神は愛25)

福音宣教と、典礼と、愛の奉仕が絶妙に併存している共同体。その共同体を通じて、わたし達は具体的に助けを必要としている隣人と出会い、主イエスと出会い、信仰を深めていきます。

ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、いのちを生きるには極限の状態である荒れ野で、人間の欲望に基づいたさまざまな誘惑を悪魔から受けます。福音に記された、空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することなどの誘惑は、この世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。本日の第一朗読である申命記には、モーセがイスラエルの民に原点に立ち返ることを説く様を記します。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神のいつくしみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。神に救われた民の原点に立ち返ろうとする、記憶の言葉です。

共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることにこそ、この世のさまざまな欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。現代社会の神の民であるわたしたちにとって、旧約の民のような、立ち返るべき共通の信仰の原点はなんでしょうか。それは冒頭に述べたように、主イエスとの出会いであります。

わたしたちの共通の信仰の原点には、シノドス性があります。ともに歩み、ともに耳を傾け、ともに支え合い、共に祈りながら、主イエスに繋がり続けようとする教会は、社会に対して具体的な希望を示す教会です。隣人への思いやり、愛の行動を通じて、主ご自身と出会い、隣人とともに、そして主とともに支え合いながら歩みを進めることで、わたし達は信仰を深めることができるようになります。

これから今井克明神学生が受けようとしている朗読奉仕者ですが、その選任の儀式書には、その務めとして次の三点が掲げられています。

まず第一に、典礼祭儀で神の言葉を朗読し、第二に教理を教えて秘跡に与る準備をさせ、そして第三にまだキリスト教に出会っていない人たちに救いの教えを知らせることであります。

すなわち朗読奉仕者とは典礼において上手に朗読をするだけの奉仕者ではなく、まさしく福音を告げ知らせ、教会の教えを伝えるために特に選任される重要な役割です。福音宣教の重要な担い手として選任されるのだという自覚を、深めていただきたいと思います。

福音宣教は、単に言葉で語るだけではなく、行いによるあかしを持って伝えられなければなりません。具体的な出会いをもたらす者でなくてはなりません。空虚なことばを語る者ではなく、行いによるあかしとして最も大切な愛の奉仕のわざに生きる者であってください。希望を生み出す出会いをもたらす者であってください。

この教会の愛の奉仕のわざ、行いによるあかし、福音宣教はもちろんキリスト者すべての使命ですが、とりわけそのために選任されたものは先頭に立ってそれに励まなくてはなりません。朗読奉仕者となることで、本日から他の奉仕者と共に共同体の先頭に立って、福音の証しに取り組んでいく使命が与えられるのです。信仰共同体の仲間たちが信仰を深めて行くにあたって、先頭に立ってそれを導く役割を果たしていってください。

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