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2025年3月 5日 (水)

灰の水曜日@東京カテドラル

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今年は御復活祭が遅いので、3月に入っての灰の水曜日となりました。四旬節が始まります。

四旬節には、教皇様は毎年メッセージを発表されます。今年のメッセージもすでに発表されており、中央協議会のホームページに邦訳が掲載されています。希望の巡礼者の聖年ですので、今年の四旬節メッセージも、それに基づいた内容です。こちらのリンクから、ご一読ください

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四旬節には、愛の業の具体的な方法として、「四旬節愛の献金」が呼びかけられています。カリタスジャパンにその担当をお願いしていますが、それぞれの小教区では、カリタスジャパンからの資料を活用して、募金の呼びかけなどをお願いします。また四旬節献金の使途などについては、カリタスジャパンのホームページのこちらをご覧ください。また、今年の四旬節愛の献金についてのページも設けられています。

四旬節に勧められる節制の業について、特に断食(大斎・小斎)ついては、こちらのページをご覧ください

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寒い灰の水曜日でした。東京でも冷たい雨の一日でしたし、雪となった地域も多かったかと思います。週日の寒さの中でしたが、東京カテドラル午前10時のミサには、関口教会と韓人教会の両方を始め、多くの方が集まってくださいました。

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以下、本日のミサの説教原稿です。

灰の水曜日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年3月5日

希望の巡礼者としてともに歩んでいるわたし達に、四旬節は、それぞれの信仰の原点を見つめなおし、心をあらため、希望の源である御父のもとへと立ち返るために歩みを続けるようにと求めています。

わたしたちの共通の信仰の原点は、主イエスの復活です。死に打ち勝ったイエスにこそ、わたしたちの信仰の原点である希望があります。永遠のいのちへの約束にこそ、わたし達の救いへの希望があります。今日から始まるこの四旬節に、あらためてわたしたちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。

教会の伝統は、四旬節を過ごすにあたって「祈りと節制と愛の業」という三つの行動を常に心に留めながら、信仰を見つめ直す旅路を歩むようにと勧めています。とりわけ愛の業について教会は、四旬節の間に助けを必要としている隣人、中でも多くの人からその存在を忘れられているような方々に心を向け、特別な献金をするようにも呼びかけています。日本の教会ではこの四旬節献金をカリタスジャパンに委託しています。

四旬節愛の献金は、隣人のために自らを犠牲としてささげる心をもって行う、具体的な愛の業そのものです。またその犠牲の心を持ってわたしたちは、いのちの危機に直面し助けを必要としている多くの人たちに心を向け、具体的な意味でともに歩む者となります。互いに支えあう連帯の絆は、いのちを生きる希望のしるしです。

四旬節において、わたしたちは御父のいつくしみを自らの心に刻み、社会の現実の中でそれを多くの人に具体的に示すことによって、社会の中にあって神の希望をあかしする宣教者となります。すなわち、四旬節の信仰の振り返りの歩みは、単に自分の内なる反省の時ではなく、それを通じて自らの行動原理とも言うべき信仰の原点に立ち返り、あらためて福音をあかしする宣教者となるための歩みであります。

「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み」と、ヨエルの預言に記されています。しばしば道を踏み外し、時として背を向けて、まっすぐに歩むようにと招いておられる御父の目前から立ち去ろうとするわたしたちを、見捨てることなく忍耐強く待ってくださるのがわたし達の父である神様です。

自由意志を与えられた人類は、神の願いを裏切り、神の望まれる世界を実現するどころか、賜物であるいのちを暴力で奪い合い、神の似姿としての尊厳をおとしめるような言動を続けて、神様に背を向け続けています。しかしながら神のいつくしみは、パウロがコリントの教会への手紙に記すように、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。

度重なる裏切りにもかかわらず、わたしたちは神からの恵みと賜物に豊かに満たされ続けています。四旬節は、このあふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによってわたしたちが永遠の命へと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにするときです。そこにこそ、わたし達の信仰における希望があります。

教皇様は聖年の大勅書「希望は欺かない」に、今回の2025年聖年のロゴのイメージについてこう記しておられます。ロゴには船の錨と、それに捕まろうとする人たち、その足下には荒れる海の波が描かれています。

教皇様は、「錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身を委ねれば手にできる安定と安全です。嵐に飲まれることはありません。わたしたちは、キリストにおいて生きて、罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしているからです」と記しています。

わたしたちの共通の信仰の原点はそこにこそあります。死に打ち勝ったイエスにこそ、わたしたちの信仰の原点である希望があります。この四旬節に、あらためてわたしたちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。わたし達は一体どのような錨にすがろうと努めているのでしょうか。すがろうとして求めている錨は、本当に「罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしている」錨でしょうか。それともこの世の虚飾に満ちあふれた不安定な錨でしょうか。

この数年の間、わたしたちは、先行きの見えない闇を彷徨うことによる不安と、その不安が生み出す疑心暗鬼を体験してきました。世界はいま、不安と疑心暗鬼の中で、自分の身を守ろうとする自己中心の風潮に取り込まれてしまいました。自分さえ良ければという思いは、互いに対する思いやりの心や、支え合いの心を消し去ります。異質な存在への不安と、それによる排除の心は、余裕のない心に簡単に入り込みます。

社会の中で疎外感を感じ、差別を体感している人たちが声を上げると、その事実をすら否定しようとします。現実から目を背けて、教皇様が言われるように、きらきらと輝くむなしいシャボン玉の中に籠もって、他者の叫びに無関心な者となっています。

わたし達は希望を誰かに与えることはできません。希望は人と人との関わりの中で、初めて心の中から生まれてくるものです。希望を生み出すためには、関わりが必要です。だからこそ教皇様は、今年の聖年のテーマを希望の巡礼者とされました。わたし達は、心の内から希望を生み出すために、ともに助け合い支え合いながら歩み続けます。自分の心に希望が生まれるためではなく、隣人の心に希望が生まれるようにと、困難に直面する人たちに目を向け心を配ります。

教会は、義人の集まりではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。わたしたちは、すべての人を救いへと招こうとされている御父のいつくしみがその業を全うすることができるように、すべての人を包み込む教会として、ともに回心の道を歩みます。すべての人が、回心の道へと招かれています。罪における弱さの内にあるわたしたちは、神に向かってまっすぐに進むことができずにいます。だからこそ、神に背を向けたままでいることのないようにと、教会は常に回心を呼びかけています。

この後、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心で感じていただければと思います。

神の前にあって自らの小ささを謙遜に自覚するとき、私たちは自分の幸せばかりを願う利己主義や、孤立願望や自分中心主義から、やっと解放されるのではないでしょうか。そのとき、はじめて、キリストの使者として生きる道を、少しずつ見いだしていけるのではないでしょうか。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。すべての人が神に向かってまっすぐに歩むことができるように、キリストの使者として希望の福音を告げ、多くの人を回心へと招くことができるように、わたしたちの弟子としての覚悟を、この四旬節に新たにいたしましょう。

 

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